◎連続講話「十戒」⑪「殺してはならない」は「愛への招き」

(2018.10.17 バチカン放送)

 教皇フランシスコは17日、水曜恒例の一般謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、先週に続き、モーセの「十戒」の第5戒「殺してはならない」をめぐる考察を続けられた。

*兄弟への怒りに対する、イエスの教え

カテケーシスの冒頭、マタイ福音書の数節(5,21-24)が朗読されたーこの箇所で、イエスは、「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、私は言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」(マタイ5章21-22節)と教えている。さらに、「兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を捧げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を捧げなさい」(同23-24節)と、兄弟を決して罵らず、和解するように、と説いている。

*「十戒」に、より深い意味を与えるイエス

教皇は「イエスはこの教えを通して、『十戒』中の『殺してはならない』という掟に、より深い意味を与えられました」とされ、「兄弟に対する怒りも、人を殺すことの一つの形であると明言し、それは『兄弟を憎む者は皆、人殺しです』(ヨハネの手紙1-3章15節)と使徒聖ヨハネも記すとおりです」と話された。

また、イエスはそれだけにとどまらず、同じ論理をもって、兄弟を罵ることや軽蔑することも、人を殺すことと同様にみなしていることを指摘され、「人間のどのような法律も、裁きにおいて、これほど異なるものを同列にみなしているものはありません」と話された。

「殺すな」とは、愛することへの第一歩

イエスは「祭壇に供え物を捧げる前に、まず行って兄弟と仲直りをし、それから、供え物を捧げるように」と教えているが、教皇は「イエスが『十戒』の第5戒『殺してはならない』の領域をここまで拡大したのは、なぜでしょうか」と問いかけた。

そして、人間は気高く繊細な命を持ち、体と同様に大切な「私」を隠し持っている。無垢な子どもを傷つけるには、不用意な言葉一つで十分。一人の人を破滅させるには、彼を無視するだけで足りるーだから、「『愛さない』ことは、『殺すことへの最初の一歩』であり、それに対し、『殺すな』ということは、『愛することへの第一歩』なのです」と答えを出された。

*人間の命には、愛が必要

 教皇はさらに、「お前の弟アベルは、どこにいるのか」という神の問いに「知りません。私は弟の番人でしょうか」(創世記4章9節)と答えた聖書における最初の殺人者、カインの言葉を引用され、「『お前の兄弟は、どこにいるのか』という神の問いに、殺人者たちは『知らない。私には関係ない』と答えますが、私たちは『知っています』『私たちは互いに守り合う関係にあります』と答えられるようでなければなりません」と話された。

 そして、教皇は「人間の命には愛が必要です。真の愛とは『キリストが私たちに示されたいつくしみ』『自分を傷つけた者を、赦し、受け入れる愛』なのです」と説かれ、「誰もがいつくしみや赦しなしでは生きることができません。『殺す』ことが誰かを破壊する、排除することであるなら、『殺さない』とは、その人を大切にし、価値を与え、受け入れ、赦すことなのです」と強調された。

 最後に教皇は、「十戒」の「殺してはならない」という掟は、最も重要で本質的な呼びかけ、すなわち「愛への招き」だ、とされた。

(編集「カトリック・あい」)

2018年10月18日 | カテゴリー :

◎連続講話「十戒」⑩「殺してはならない」は命の価値を守る掟

(2018.10.10 バチカン放送)

 教皇フランシスコは10日、水曜恒例の一般謁見でのカテケーシス(教会の教えの解説)で、モーセの「十戒」の第5戒「殺してはならない」(出エジプト記20章13節、申命記5章17節)を考察された。

 講話の前に「命を愛される主よ、すべてはあなたのもの、あなたはすべてをいとおしまれる」という「知恵の書」(11章 24-26節) の言葉が朗読された。そのうえで教皇は、第5の戒めで、「十戒」が「神との関係」をめぐる前半から「隣人との関係」をめぐる後半に入ったことを指摘され、この「殺してはならない」という簡潔で絶対的な掟は「『人間関係における基本価値』、 『すなわち命の価値』を守る『城壁』としてそびえています」と話された。

*すべての悪は「命に対する侮べつ」

 この世で行われるすべての悪は「『命に対する侮べつ』という言葉に要約できます」とし、「戦争や、人を搾取する組織、投機目的の自然破壊、切り捨ての文化、利益のために人を服従させるシステム、人間の尊厳にふさわしくない生活をする数多くの人々の存在」など、命の軽視の結果である様々な状況を挙げられた。

 また、教皇は「母親の胎内における人命に対し、別の権利の名のもとに、その中絶を認めることは、矛盾したアプローチ」と強調。「花開こうとしている、つぼみのような無垢で無防備な命を殺す行為が、どうして臨床上、『社会的・人間的行為』と言えるのでしょうか」「一つの問題の解決のために一人の人間を亡き者にすることが、正義にかなっているのでしょうか」「それはまるで、問題をなくすために、刺客を雇うのと同じではありませんか」と問いかけられた。

*恐れから来る命の拒絶

 そして、命に対するこのような拒絶は、どこから発するのか、何を原因としているのか。教皇は「それは『恐れ』から生まれます」と話され、「実際、他の存在を受け入れることは、『個人主義に対する挑戦』です」として、例として、生まれてくる子どもが重い障害を背負っている場合を挙げられた。

 このような場合、「両親の苦しみは大変なものです」と理解を示され、「彼らは、恐れを乗り越え、現実に立ち向かうために、真の寄り添いと、真の連帯を必要としている」。だが、それにもかかわわらず、「多くの場合、妊娠を中絶するように、という性急なアドバイスを受けることになるのです」と話された。

*人生の真の物差しは「愛」の中に

 病気の子どもは「お年寄りや貧しい人のような、社会で助けを必要とするすべての人々と同様に、一つの『問題』」として提起されるが、それは実際には「私たちを自己中心主義から外に引きずり出し、愛の中に成長させる、神の『恵み』」と説かれ、「人を命の拒絶に至らせるもの、それはお金や、権力、成功といった『この世の偶像』、人生を測るための『間違った物差し』です」と話され、「人生の『真の物差し』は、すべての命を愛される神と同じ『愛』の中にあります」と強調された。

 そして、「殺してはならない」という戒めに、「知恵の書」に示された「神はすべてをいとおしまれる方」だ、という前向きな意味を示された。

*私たちを愛の喜びに開くキリスト

 さらに教皇は「人となられた神の御子は、人間の拒絶された状態や、弱さ、貧しさ、苦しみを、ご自分の十字架の上に引き寄せられ、病気の子どもや、体力の衰えたお年寄り、絶望した移民、すべてのはかない脅かされた命の中で、キリストは私たちを探し、私たちの心を愛の喜びに開こうとしてくださいます」と説かれ、「すべての命を受け入れることには価値がある。なぜなら、すべての人はキリストの尊い血に値する(ペトロの手紙①1章18-19節)からです」「神がこれほどまで愛された命を、侮べつすることはできません」と訴えられた。

 最後に教皇は、「殺してはならない」という掟は、自分たちの命にもあてはまることを指摘。「私たちは、若い人たちに『自分の命を軽んじてはいけない。神の業を拒んではならない。あなたは神の作品なのだ』と伝えなくてはなりません」と呼びかけられた。

(編集「カトリック・あい」)

2018年10月11日 | カテゴリー :

◎連続講話「十戒」⑨「人生の疑問は神を見出した時に晴らされ、建設的なものとなる」

(2018.9.19 バチカン放送)

 教皇フランシスコは、バチカンで19日、水曜恒例の一般謁見を行われ、謁見中の「十戒」をめぐるカテケーシス(教会の教えの解説)で、第4戒「あなたの父母を敬え」(出エジプト記20章12節、申命記5章16節)を考察された。

 教皇は、聖書の「神を敬う」が「神をありのままに受け入れ、その存在を尊重し、典礼で表わすだけでなく、人生において神に重きを置くこと」を意味するように、「父母を敬う」とは「献身や、愛情、孝行などを表わす具体的な行いをも含めて、父母の存在の重要さを認めること」と話された。

 また、「十戒」の第4戒の特徴は、「あなたの父母を敬え、あなたの神、主が命じられたとおりに」という指示に続いて、「そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生き、幸いを得る」(申命記5章16節)と、この戒めを守ることでもたらされる「結果」が示されていること、とし、第4戒は「父母を敬うことは、長く幸せな人生をもたらす」としているが、「十戒」の中で「幸せ」と言う言葉が見られるのは、両親との関係をめぐるこの戒めだけ、と指摘された。

 幼児期の体験はその人の一生に影響することは、一般に知られているが、この戒めは「必ずしも両親に優しさや、完璧さを求めているのではありません」「両親の価値の如何にかかわらず、子の側の態度を言っています」と注意したうえで、「たとえ親が良い親でなくても、幼少期が平穏でなくても、すべての子たちは、『誰が、この世に自分をもたらしてくれたのか』を正しく知ることで、満たされた、幸せな人生に到達することができるのです」と強調された。

 そして、教皇は、来月列聖式が行われる福者ヌンツィオ・スルプリツィオや、聖カミロ・レリス、聖ジュゼッピーナ・バキータ、福者カルロ・ニョッキ、また聖ヨハネ・パウロ2世のように、「早くに親を失ったり、苦難に満ちた幼少期を経験しつつも、イエス・キリストにおいて人生と和解し、光に満ちた人生を歩んだ人々」を思い起こされ、「人は誰でも、その人生のストーリーに関わらず、キリストに導くものとして、この戒めを受け取ることができます」とし、「なぜなら、キリストにおいて、私たちに新たな生をくださる真の御父を見出すことができるからです」と話された。

 「私たちの人生の疑問は、神を見出した時に晴らされます」「神は、私たちにいつも、神の子としての人生を準備してくださり、そこですべての行いは、神からいただいた使命となります。そして、人生はすべて貴重で、建設的なものとなるのです」と説かれ、「そうして、私たちは、成熟した子として、慈しみをもって、親たちの限界を受け入れながらも、自分の父母を敬うことができるでしょう」と話された。

(「カトリック・あい」が編集しました)

2018年9月20日 | カテゴリー :

◎連続講話「十戒」⑦「日曜は『現実からの逃避』でなく『現実を祝福する』日」

(2018.9.5 バチカン放送)

 教皇フランシスコが5日、バチカンで水曜恒例の一般謁見を行われ、日曜日のあり方について、現実からの逃避ではなく、「現実を祝福する日」であるように、と願われた。

 謁見中、教皇は「十戒」をテーマとするカテケーシス(教会の教えの解説)で、「安息日」をめぐる掟を取り上げ、「安息日を心に留め、これを聖別せよ。…六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」(出エジプト記20章8-11節)と「休み」について命じるこの掟について、「これは簡単な掟に思われますが、それは誤った印象にすぎません」とされ、「休息には、本当のものと、偽のものがある。『休む』ということは単純ではないのです」と話された。

 そして、現在の社会の状況について「人々は娯楽とバカンスに飢えている。気晴らしを与える産業が繁盛し、広告は『理想の社会を皆が楽しむ巨大な遊園地』のように描き出しています」。そうした現代の風潮の中で「『生活』という概念は、『活動したり、専念したり』することにではなく、『逃避』に重心が置かれています。人は『楽しみ、欲望を満たすためだけ」に働いているのです」と指摘。これでは「人は真の休息を得られず、現実逃避の娯楽で麻痺させられ、決して満足することのない人生に陥ってしまうだけです」と警告された。

 教皇は、十戒の掟は「この問題の核心に迫り、休息とは何であるかについて、異なる光を当ててくれます」としたうえで、「主の名による休日が特別な意味を持っているのは、天地創造を完成された主が『七日目に休まれ、安息日を祝福して聖別された」からです」と語られ、創世記に「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」(1章31節)とあるように、ここから始まった安息の日は「創造されたものに対する『神の喜びを表す日』であり、『観想と祝福の日』なのです」と強調された。

 さらに、「主の日は、観想と賛美の時であり、逃避の機会ではありません。現実を見つめ、『人生とは何と素晴らしいものだろう!』と言う日です」「現実逃避の休息に対し、十戒の掟は、現実を祝福する休息のあり方を示しています」「キリスト者にとって、主日(日曜日)の中心には、エウカリスチアがあります。エウカリスチアは『感謝』という意味。それは、『命といつくしみ、そして主が与えてくださったすべての恵み』を主に感謝する日なのです」と重ねて強調され、最後に、主日を「人生と和解する日」、「たとえ困難で苦しいことがあっても、『人生とは素晴らしい』と言う日」として示された。

(「カトリック・あい」が編集しました)

2018年9月6日 | カテゴリー :

◎連続講話「十戒」⑥「キリストが私たちの名を負われたように、神の御名を負うことに価値がある」

 (2018.8.22 バチカン放送)教皇フランシスコは22日、バチカンでの水曜恒例の一般謁見のカテケーシス(教会の教えの解説)で、「十戒」の掟の一つ、「あなたの神、主の御名をみだりに唱えてはならない」(出エジプト記20章7節)について考察された。

 まず教皇は、この掟が「神の御名を冒涜せず、不適当にその御名を用いてはならない」という勧告、と説明され、「『みだりに』とは、『無用に、やたらに』という意味で、その空虚さは、偽善や、形式主義、虚言に通じるものです」と語られた。

 また「唱える」とは、ヘブライ語とギリシャ語では「自分に負わせる、引き受ける」という表現が使われているとし、「神の御名を自分に負わせる」とは、「神の存在を受け入れ、神との強い結びつきの中に入るということ」とされた。

 そして「神の御名を自分が負う際に、偽善的であったり、形式的であったりしてよいのでしょうか」と問いかけられ、「この掟は、神との関係が偽物ではなく、自分のすべてを委ねる完全な信頼関係であるように促されているのです」と強調された。

 教皇はさらに、神との緊密な信頼関係を生きた人々として、聖人たちの存在を示し、彼らの真摯な、信仰に根付いた生き方を思い起こされ、「偽善を交えずに神の御名を背負い、『主の祈り』にある『御名が聖とされますように』という祈りを、心から唱えるキリスト者が増えれば、教会の告げる言葉はもっと受け入れられ、もっと信頼に足るものになるでしょう」と述べ、「私たちが具体的な生活を通して、神の御名を表すことができるなら、洗礼の素晴らしさ、聖体の偉大な恵みを目に見えるものとすることができます」と話された。

 続けて、「キリストの十字架以来、誰一人、自分自身をさげすむ必要はありません。それは、私たち一人ひとりの名前をキリストが背負ってくださるからです」とし、「神の御名を自らに負うことには価値があります。神は私たちの罪にも関わらず、私たちの名を最後まで引き受け、私たちの心にご自身の愛を置いてくださるからなのです」と力を込めて語られた。

(「カトリック・あい」編集)

2018年8月23日 | カテゴリー :

◎連続講話「十戒」⑤「『金の子牛』ではわずかな安心感しか得られない」

(2018.8.8 バチカン放送)教皇フランシスコは8日、水曜恒例の一般謁見のカテケーシス(教会の教えの解説)で、先週再開された「十戒」をテーマに、最初の掟「あなたには、私をおいてほかに神があってはならない」(出エジプト記20章3節)の考察を続けられた。

 今回は、まず、「出エジプト記」の「金の子牛」のエピソード(同32章1‐8節)に触れて、偶像崇拝の背景や様相を見つめられた。民が「金の子牛」の鋳像を造った背景として「モーセが神から掟を授かるために山に登って行ったまま、なかなか降りて来ず、人々は荒れ野で長く待たされていたこと」を挙げ、「荒れ野」とは不安定と不確かさに支配された場所、つまり、「不安で一切の保証がない状態に置かれた人間の生活のイメージです」と話された。

 そして、信頼する指導者、モーセの下山が遅れていたことが、「荒れ野に置かれた人々の偶像崇拝につながった」とされ、モーセの消息が分からない人々は、目に見える神を望み、「私たちに先立って進む神々を造ってください」とモーセの兄アロンに言ったが、民のこのような態度について、「不安定な状態から逃れるために、自作の宗教を求め、神が目に見えないなら、自分たちで思い通りの神を創作しようとする人間の本性を表すもの」、「偶像は、自ら作り出したものを崇拝しながら、現実の中心に自分自身を置こうとするための一つの口実です」と指摘された。

 アロンは人々の願いに抗することができず、「金の子牛」の鋳像を造ったが、教皇は「金の子牛」は、古代オリエントの影響下で、豊穣や豊かさ、活力や強さを意味するだけでなく、何よりも金であることから「繁栄や、成功、権力、富などを象徴するもの」、すなわち、「自由の幻想を与えるすべての欲望のシンボルであり、実際には自由の代わりに、人を隷属させるものだったのです」と述べられた。

 だが、人々が「金の子牛」を造らせた一番の原因は「神に信頼し、神の中に安全を求め、神に心の奥底にある真の願いを託すことができなかったことにあります」と強調され、「神を第一にしないなら、人は簡単に偶像崇拝に陥り、そこでにわずかな安心感を得るだけです」と話された。

 さらに、「豊かであったのに、私たちのために貧しくなられた」(コリントの信徒への手紙2・8章9節参照)を引用して、「イエス・キリストの神を受け入れる時、人は自分の弱さは人生の不幸ではなく、真に強いお方に自分を開くための条件であることを理解するのです」とされ、「真の神を唯一の主として受け入れることで、人は自由になり、自分の弱さを認め、心の中の偶像を拒否できる」と語られた。

 最後に、「私たちキリスト者は、十字架につけられたキリストを見つめ、その中に真の神の御顔と、愛の栄光の啓示を見出します」「キリストにおいて、私たちの弱さは災いではなく、御父との出会いの場所、天から与えられる新しい力の源となるのです」と説かれた。

(編集「カトリック・あい」)

2018年8月9日 | カテゴリー :

☩連続講話「十戒」④「『自分にとっての偶像は何か』を知ることは愛の道の始まり」

(2018.8.1 バチカン放送)教皇フランシスコが1日、7月中中止していた水曜の一般謁見をパウロ6世ホールで再開、カテケーシス(教会の教えの解説)で「十戒」をめぐる考察も再開された。

 教皇は「十戒」の最初の掟、「あなたには、私をおいてほかに神があってはならない」(出エジプト記20章3節)を、テーマに取り上げられ、「この掟は、偶像や、偶像として扱われる可能性のある、あらゆる種類の像(イメージ)を禁じています」としたうえで、「偶像崇拝は、信仰を持っているか、いないかに関わりなく、一つの人間的傾向として、誰でもが陥りやすいもの」と注意された。

 「偶像崇拝とは、異教的問題に留まらず、どのような時でも信仰に対する誘惑となりうるものであり、それは、神ではないものを”神”とすること」(参照:「カトリック教会のカテキズム」n.2113)とされ、「”神”とは人生の中心にあって、自分の行動や考えを左右する存在」であり、「人間は何かを中心にしなければ生きることができないことから、(そうした人間に)世界は”偶像のスーパーマーケット”のように物や、像、アイデア、役割等を提供しているのです」と指摘された。

 偶像崇拝はどのように進むのだろうか。教皇はその展開を「あなたはいかなる像も造ってはならない…あなたはそれに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」(出エジプト記20章4-5節)という、十戒の続きの言葉に見出された。

 そして、「偶像」を意味するギリシャ語は、「見る」という動詞を語源に持つ、としたうえで、「『偶像』は強迫観念に至らせる一つのビジョンであり、それは実際には、物や計画に注がれた自分自身の投影なのです」と説明された。さらに、「何かを所有したい、あるいは、ある計画を実現したい、ある地位に到達したい、という考えが、幸福のための素晴らしい道、天まで届く塔(参照:創世記11章1-9節)のように思われ、すべてはその目的のために費やされる過程」に言及。次いで「あなたはそれに向かってひれ伏してはならない」という言葉が警告するように、偶像が信心や儀式を要求し、すべてを犠牲に求めるようになる過程を教示された。

 偶像が要求する犠牲について「古代は人身御供というものが行われましたが、今日も、出世のためや、美しくあるため、有名になるため、お金儲けのために、人や生活が犠牲になっていることに変わりはありません」と語られ、偶像崇拝の最も悲劇的段階として、「『あなたはそれらに仕えたりしてはならない』とあるように、偶像の奴隷となることの恐ろしさ」に触れられた。

 さらに、「偶像は、幸福を約束しながらそれを与えず、命を約束しながらそれを取り上げる」が、「真の神は命を要求せず、むしろそれを与え、私たちに成功の幻想を抱かせず、その代わりに愛することを教えてくれます」と強調され、「『自分にとっての偶像は何か』を知ることは、一つの恵み、愛の道の始まりとなります」と述べて、「真に愛するために、すべての偶像から解放される必要」を説かれた。

2018年8月2日 | カテゴリー :

◎連続講話「十戒」③「自分から出発する人は、自分自身にしかたどり着けない」

教皇フランシスコ、6月27日、バチカンでの一般謁見

(2018.6.27 バチカン放送)

 教皇フランシスコは27日の水曜恒例の一般謁見で、前週に続いて「十戒」をテーマにしたカテケーシス(教会の教えの解説)をなさった。

 この中でまず、十戒冒頭の「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(出エジプト記20章2節)を取り上げ、神がまずご自身について宣言し、その救いの業を明らかにしてから、「十戒」の具体的な内容を示していることに注目され、「これは、神が最初に救いの業を行うことで、民の信頼を求められるため。『十戒』は神がその寛大さを示すことから始まります」と説明された。

 そして「私は主、あなたの神」という宣言について、「神はよそよそしい他人のような存在ではなく、まさに『あなたの神』であり、その愛は『十戒』全体を照らすもの」と語られ、イエスの「父が私を愛されたように、私もあなたがたを愛してきた」(ヨハネ福音書15章9節)という言葉にあるように、「キリストは御父から愛され、その同じ愛をもって、私たちを愛される。キリストはご自分からではなく、御父から出発されているのです」と述べられた。

 また「私たちの行いがしばしば失敗するのは、その行いが自分自身から出て、感謝から出ていないから」と指摘され、「自分から出発する人は、自分自身にしかたどり着けません」と話された。

 さらに、キリスト教的生活は、何よりも、「寛大な御父に対する感謝の答えであり、『あれをしなくては』『これをしなくては』と、義務だけにとらわれているキリスト者は、その義務の基礎にある『神なる御父の愛の体験』が欠けていることを表しています」と注意された。

 「関係の始めから、ただ掟だけを押し付けることは、信仰の歩みの助けにはならない。救いではなく、義務や課題から出発するならば、どうして若い人はキリスト教徒になることを望むでしょう」と問われ、「キリスト者として成長するには、意志の力だけでは足りない。救いを受け入れ、神に愛される体験が必要」と強調された。

 さらに、「神に従うには、神が私たちのためにしてくださったことを思い出すことが大切」とし、「自分に対する神の素晴らしい業と救いについて、各自が思いを巡らせるように」と勧められた。

 また、「義務感だけに縛られ、神の解放の真の体験を知らない人々」に対し、「イスラエルの人々のうめきと叫びを聞いた神が、人々を顧み、御心に留められた(出エジプト記2章23-25節参照)ように、「自分から、』神に救いを求める叫びを上げるように」と説かれ、「神は私たちの鎖を断ち切るために、助けを求める叫びを待っておられます。神は、私たちが虐げられることなく、自由と感謝のうちに生きるようにと、私たちを召されたのです」と、神がわたしたちに与える限りない恵みを示された。

 

2018年6月28日 | カテゴリー :

◎連続講話「十戒」②「世が求めるのは『戒律主義者』ではない、『子の心を持ったキリスト者』だ」

教皇フランシスコ、6月20日、バチカンでの一般謁見

(2018.6.20 バチカン放送)教皇フランシスコが20日、バチカンで水曜恒例の一般謁見を行われ、謁見中、先週から始められた「十戒」をテーマとするカテケーシス(教会の教えの解説)で、掟を与える神と、掟を受け取る人間との関係を考察された。

 まず、「聖書では、掟は独立した存在ではなく、一つの関わりにおいて存在するもの。その関わりとは、神と神の民との契約の関係です」とされたうえで、出エジプト記の「神はすべての言葉を告げられた」(20章1節)という箇所を取り上げ、「ここでなぜ『すべての掟』ではなく、『すべての言葉』と記されているのでしょうか」と問いかけられた。

 そして「ユダヤ教の伝統では、『十戒』は『十の言葉』と呼ばれています」として、「掟・命令」と「言葉」との違いを問い、「前者が『対話を必要としない』のに対し、後者は『対話的な関係に不可欠なもの』なのです」と述べられた。

 また、「言葉」の重要性を示す上で、父なる神は「言葉を通して創造の業」を行われたこと、御子イエスは「人となられた御言葉」であること、などを挙げられた。

 さらに、「創世記」で、男と女が誘惑にそそのかされて、「神から食べてはいけない」と言われた木の果実を食べてしまったエピソードを思い起こされ、「『それを食べるな』と神が言われたのは、神が人間に与えた最初の規則だった、と言えます」と指摘「神のように善悪を知るものになる」という木の実を食べることを神が禁じたのは、「独裁者の押しつけではなく、人間を自己破壊から守るための、父親が小さな子に接するような、神の配慮でした。それにもかかわらず、蛇にだまされた男女は、神の愛の言葉を、『神の嫉妬と独占欲による命令』 と解釈し、その実を食べることになってしまったのです」と説明された。

 そして、「神は、『私に何かを押し付けようとされている』のか、それとも『私を大切に心にかけてくださっているのか』-人はこの分かれ道に立たされています」とされ、それは「戒律は『単なる掟』なのか『私をいたわる言葉』なのか。神は『主人』なのか『父』なのか-という問いでもあるのです」と話された。

 最後に、「聖霊は子たちの霊であり、イエスの霊です。奴隷たちの霊であるなら、掟を抑圧としてしか受け取らざるを得ないでしょう。それがもたらす結果は、義務と権利だけで出来た生活、あるいは激しい拒絶反応となります」と説かれ、「キリスト教のすべては、『文字で書かれた掟』から、『命を与える霊』への移行(参照:コリントの信徒への手紙Ⅱ・3章6-17節)です。イエスは父の御言葉であり、父の裁きではありません。十戒は私たちを解放する御父の言葉、解放に向けての歩みです。世が求めているのは、戒律主義者ではありません。子の心を持ったキリスト者たちなのです」と訴えられた。

(「カトリック・あい」編集)

2018年6月21日 | カテゴリー :

◎教皇連続講話「十戒」①「私たち、特に若者の人生における最大の危険は『平凡』と『小心』」

(2018.6.13 バチカン放送)

 教皇フランシスコは13日、バチカンでの水曜恒例の一般謁見を行われた。謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、先週までの「堅信の秘跡」に続いて、新たに「十戒」をテーマにした考察を始められた。

 まず、教皇はマルコ福音書の「金持ちの男」のエピソード(10章17-21節)を取り上げられた。―ある金持ちの青年がイエスに走り寄り、ひざまずき、「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と尋ねる。イエスが「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」という掟を示されると、彼は「そういうことは子供の時から守ってきました」と答えた。イエスは「あなたに欠けているものが一つある」と言われ、「行って、持っているものを売り払い、貧しい人に施す」ように勧められると、多くの財産をもつこの男は悲しみながら去っていった―。

 教皇は、この青年が発した「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいのか」という問いは「満ち満ちた永遠の命を望む全ての人にとっての挑戦」とされたうえで、「どれほど多くの若者たちが『真に生きる』ことを求めながらも、はかないことにとらわれ、道を誤ってしまうことでしょう」と問いかけ、「私たち、特に若者たちにとって、人生における最大の危険は、(様々な課題に)適応しようとする心の乏しさにあります-『柔和』と『謙遜』ではなく、『mediocrity(平凡)』と『 pusillanimity(小心)』にあるのです」と強調された。

 そして、福者ピエール・ジョルジョ・フラッサーティの「適当に生きるのではなく、生きなくてはならない」という言葉を思い起こしつつ、「今日の若者たちには、健全な意味での『安定を求めない心』『真の人生に飢えた心』が必要」と述べられた。

 また、イエスは出会ったこの若者に「あなたは掟を知っているはずだ」として、十戒の一部を示されたが、そうした基本的な掟を示しながら、「この若者に欠けているものに、たどり着こうとされました」と指摘され、「実際、『持っているものを売り払い、貧しい人に施し、自分に従うように』とのイエスの言葉は、『貧しさへの招き』ではなく、むしろ『真の豊かさへの招き』だったのです」と説明された。

 さらに、「ある人が『本物とコピー品のどちらかを選びなさい』と言われたら、偽物の方を選ぶでしょうか」と問われ、「イエスは代用品を決してお与えにはなりません。お与えになるのは、真のいのち、真の愛です」と話された。そして、イエスは、ご自分が来たのは「律法や預言者を廃止するためでなく、完成するためである」(マタイ福音書5章17節)と言っておられるように、「私たちもまた『自分に欠けているもの』から出発し、『普通の人生を特別なもの』とするために、揺さぶりをかけなくてはなりません」と強調された。

 最後に教皇は、このカテケーシスを通して、「私たちはイエスと手を取り合いながら、モーセの石版をキリスト者として受け取り、古く叡智に満ちた一つ一つの掟を再発見したい」と話された。

(バチカン公式発表文をもとに「カトリック・あい」が編集)

2018年6月14日 | カテゴリー :