♰「”山”に”登り”、”すべて”の人に証しし、喜びを分かち合おう」-「世界宣教の日」に

2019.10.20 Santa Messa per la Giornata Mondiale MissionariaPope Francis during the Mass for World Mission Sunday 

 教皇フランシスコは20日、「世界宣教の日」のミサの説教で、私たちの福音宣教の意味を改めて熟慮するよう強く求められた。

  1926年に、教皇ピオ十一世は教会が宣教師のために祈り、宣教への献身を新たにする特別な日を定められた。10月の最後から2番目の日曜の今日、「世界宣教の日」が、全世界で活動する宣教団と宣教師たちへの支援と連帯のしるしとして、世界中で祝われる。

*名詞、動詞、そして形容詞ー「山」「登る」「すべて」

 教皇は説教で、この日曜日の聖書朗読から「名詞、動詞、形容詞」の3つの単語を取り上げられた。

*「山」

 まず「名詞」は「山」-第一朗読の旧約聖書・イザヤ書(2章2節「主の家の山は、山々の頭として堅く立ち…」)と福音朗読のマタイ福音書に登場するーイエスが復活した後、天使がガリラヤの山でイエスに会うように弟子たちに告げ…(マタイ福音書28章7節)(注:十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスの指示された山に登った(同16節)。

 教皇は「山は、人と会うための神のお気に入りの場所のようです」とされ、聖書に出てくるこの他の山々、シナイ山とカルメル山、山でのイエスの説教、タボール山での彼の変容、カルワリオの丘での十字架刑、オリーブ山からの天への昇天を思い起こされた。そして、「山はまた、イエスが何時間も祈り続けられた場所です-天と地を結びつけるために、そして、私たち、イエスの兄弟姉妹を父と結びつけるために」と語られた。

 「山は、神と他の人に近づくように呼ばれている、と私たちに語ります…沈黙と祈りの中で、私たちを貶めるような噂やゴシップを避けます」とされ、私たちは山からいつもと異なる視点で物事を見ることができ、「山は、神と私たちの兄弟姉妹を祈りの抱擁の中で一つにします… それは私たちを一過性のものから引き離し、欠かすことのできない、永続的なものを再発見するように私たちを招きます-神と私たちの兄弟姉妹です。

 「福音宣教は山で始まります… 私たちはそこで、本当に重要なものを発見します…そして、問いかけます。『私の人生で本当に何が重要なのでしょうか?』と」。そしてさらに教皇は「私は、どの山に登りたいのでしょうか?」と自問された。

 

*「登る」

 続いて、教皇は、「山」に欠かせない「登る」という動詞を取り上げ、「私たちは、平地にずっといるために生まれたのではなく、神と私たちの兄弟姉妹と出会うために、高地に行くために生まれたのです」とされ、「これは、私たちが、自分本位の重力に逆らって『登らねばならない』ことを意味します… 登ることは努力が要りますが、登山家なら誰でも知っているように、全てにより良い視界を得るための唯一の方法です」と強調された。

 さらに、山登りを比喩に使い、「私たちは重い荷物を背負うリスクを冒せない。ですから、人生で役に立たないものを取り除く必要があります」と言われ、また、「これは福音宣教の秘訣でもあります-宣教に出かける時には、まず何かを残していかねばなりません。信仰を宣言する時には、まず、(注:例えば名誉や財産などを)放棄することを公けにせねばなりません」と説かれた。

 また、「信頼されるような信仰宣言には、模範的な人生が伴います…その人生とは、心を委縮させ、無関心にさせ、内向きにさせるような全ての“モノ”を拒否できる奉仕の人生です」と言われ、再び問いかけられたー「私たちは『登る』ためにどのような努力をしていますか?主の山に登るために役に立たない世俗の荷物を背負わないようにすることができますか?」。

*「すべての」

 「山は、私たちに重要なことを思い出させます…『登る』という動詞は、そこに到達する方法を教えてくれますが、さらに重要な3番目の言葉があります」とされた教皇は、「すべての」という形容詞を取り上げられた。

 「今日のミサ中の聖書朗読には『すべて』が頻繁に出てきます。イザヤ書は、2章2節で、詩編で繰り返されている『すべての人々』について語っています。『神は、すべてが救われて、真理を認識するようになることを望んでおられます』と、聖パウロはテモテへの手紙1・2章4節で書いています。『あなた方は行って、すべての民を弟子にしなさい』とイエスは、マタイ福音書28章19節で命じられています」。

  さらに教皇は、「主は、私たちが、いつも『私の』『私たちの』という言葉を使っていることをご存じですが、主は『すべて』という言葉をお使いになります。なぜなら、誰もが主の心から除かれることはないから、誰もが貴重な宝物であり、人生の意味はこの宝物を他人に与えることだけにあるからです」と説かれ、「これが私たちの宣教。皆のために祈るために山に登り、すべての人への贈り物となるために山から降りるのです」と強調。

 また、「キリスト教徒はいつも動いています… いつも外に向かって」とされ、 「誰もが他の人から与えられることを期待していますが、キリスト教徒は他の人の所に行きます… イエスを証しする人はすべての人の所に出かけて行くのです…自分の知り合いや小さなグループだけでなく、全ての人の所に」と語られた。

*福音宣教のあり方は

 教皇は、「他の人の所に出かけて行く」ために主が私たちに与えられる指示を、私たちに思い思い起こさせ、こう話された。「それはたった一つのこと。とても簡単なことです。『弟子を作りなさい』-自分自身の弟子ではなく『主の弟子』です。弟子は日々、主に付き従い、他の人々と弟子であることの喜びを分かち合います。名声を得たり、権能をふるったり、改宗させたりすることによってではなく、証しすることによってです」。

 最後に教皇は、私たちの福音宣教は「私たちの世界の汚染に浸されている人々に、純粋で新鮮な空気を提供すること」であり、「証し、祝福し、慰め、育て、そしてイエスの素晴らしさを広く輝かせること」とし、「あなたの人生は、価値ある福音宣教…それは負うべき重荷ではなく、提供すべき贈り物です。ですから、勇気をもって!全ての人の所に、恐れることなく、出かけましょう」と励まされた。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

Watch the Mass for World Mission Day

(2019.10.21 バチカン放送)

 教皇フランシスコは20日の正午の祈りに先立つ説教で、同日の聖書朗読箇所、「テモテへの手紙二」(3章14節,4章2節)から、「御言葉を宣べ伝えなさい。折りが良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです」という使徒聖パウロの言葉を取り上げ、この日、「世界宣教の日」にあたって「すべての信者に、新たな努力をもって、神の御国を告げるために力を合わせるように」と自覚を呼びかけられた。

 教皇は、今年その発表から100年を迎えた、ベネディクト15世の使徒的書簡「マキシムム・イッルド」に言及。全教会の宣教的責任を促す同文書の中で、ベネディクト15世は、あらゆる植民地主義の影響から清められ、政治的制約から解放された宣教のあり方を、福音に照らして再考する必要を説いていることを紹介され、「今日もベネディクト15世のメッセージは、自己本位な閉鎖性や司牧上の悲観主義の誘惑を超え、福音の喜びに自らを開くよう求めています」と話された。

 グローバル化が著しい現代、民族間の連帯や互いの違いの尊重が育つべきであるにもかかわらず、今もそれを得られず、権力闘争が戦争を引き起こし、地球を破壊している、と述べた教皇は「イエスにおいて慈しみが罪に勝利し、希望が恐れに打ち勝つという、良き知らせをあらゆる場所にもたらすように」と信者たちに促された。

 また、「充実した宣教を生きるためには、一つの条件、すなわち熱心で絶えることのない祈りが必要」と強調され、最後に「すべての人々の母、マリアが、福音の宣教者たちを毎日見守ってくださるように」と祈られた。

 また、この集いで教皇は、前日の19日、イタリア北部クレーマで、ミラノ外国宣教会のアルフレド・クレモネージ神父の列福式が行われたことを報告。1953年、ビルマで殉教した同神父の、平和の使徒、福音の証し人としての生涯を思い起こされ、「福者クレモネージ神父の模範によって、わたしたちもあらゆる状況下で、兄弟愛のために働く者、勇気ある宣教者となれるように」と祈られた。

(編集「カトリック・あい」)

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2019年10月21日