☩ウクライナ、ガザの戦闘の関わる指導者たちに、「主よ、和平のための交渉に踏み切る力を与えてください」7日正午のRegina Coeliの祈りで

FILE PHOTO: Scenes of destruction in Gaza amid the ongoing conflict between Israel and HamasFILE PHOTO: Scenes of destruction in Gaza amid the ongoing conflict between Israel and Hamas 

(2024.4.7 Vatican News   Linda Bordoni)

 教皇フランシスコは7日正午の Regina Coeliで、ウクライナ、そしてレスチナ、イスラエルで進行中の戦争に対して、関係国の政治指導者に対し、戦闘を一時停止し、和平のための交渉を開始するよう、改めて呼びかけられた。

 教皇は聖ペトロ広場に集まった信徒たちに、平和を、特に「苦悩するウクライナとパレスチナ、イスラエル」に公正で永続的な平和が実現するように祈り続けるよう促された。

 そして、これらの国、地域でなお進んでいる戦闘を止めるために可能な限りの努力をするように、政治指導者たちに繰り返し求め、「政治的解決策を交渉する努力を重ねている人を支えてくださるように」と復活の主に願われた。

 さらに教皇は、「復活された主が、緊張を和らげようと努力するすべての人々を励まし、支え、交渉を可能にする行動を促されますように」、また、「主が、関係国の政治指導者たちに、歩みを止め、調停し、交渉する力を与えてくださいますように」と祈られた。

 教皇はこれまで、あらゆる機会をとらえて、関係国指導者たちに戦いの継続へ自制を求め、和平の実現を求めるとともに、世界の人々に、世界中で起きている紛争に巻き込まれた何百万もの罪のない人々のために祈るよう、繰り返し訴えてこられた。

 特に、2022年2月のロシアによるウクライナへの全面侵攻以来、そしてハマスによる殺害に端を発したイスラエルとハマスの戦争開始以来、毎日のように、世界の人々に和平の実現を人々に呼びかけ、指導者たちにそのための交渉を促してこられた。 2023年10月7日に1300人以上のイスラエルの人々が殺害され、250人が拉致されたのをきっかけに始まったイスラエルによるガザ地区への容赦ない爆撃で、これまでに3万3000人以上のパレスチナ人が殺害されている。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2024年4月7日

☩「宗教間の対話は平和と多様性の尊重を促進する」バチカンと世界伝統宗教代表の第一回コロキアムで

Pope Francis speaks to participants in the First ColloquiumPope Francis speaks to participants in the First Colloquium  (VATICAN MEDIA Divisione Foto)

(2024.4.4 Vatican News   Devin Watkins)

 教皇フランシスコは4日、「バチカンと世界の伝統的宗教の代表たちとの第1回コロキアム」の参加者と会見され、あらゆる宗教の人々の間で多様性、平和、被造物への配慮を促進するよう、強く希望された。

 参加者たちへのあいさつで教皇は、宗教間対話の促進に努めているカザフスタン共和国に感謝を述べるとともに、「今回のコロキウムは、バチカンの諸宗教対話省とナザルバエフ・センターが署名した覚書の『最初の重要な成果』」と称えられ、また、2022年9月に同国を訪問され、アスタナで開かれた第7回世界宗教指導者会議と伝統宗教指導者会議に参加されたことを思い起こされた。

 そして、このコロキウムの活動について、「多様性の尊重」「私たちの『共通の家』への取り組み」、そして「平和の促進」の三つの側面があることを指摘。

 まず、「多様性を尊重」について、「多様性は、人々が調和して暮らすのに役立つ民主主義にとって不可欠な要素です」と強調され、「カザフスタン共和国では、宗教と政治を混同せず、社会の共通利益に奉仕する上で宗教が果たす役割を認識する『健全な世俗主義』を実現している」と語られた。

 そして、「平和と社会の調和」は、雇用、公共サービスへのアクセス、国家の政治的・社会的生活への参加に関して、さまざまな民族、宗教、文化的要素を公正かつ公平に扱うことで、促進される。 そうすることで、誰もが自分の特定のアイデンティティを理由に差別されたり優遇されたりしている感じることがなくなります」と述べられた。さらに、被造物を維持し守る必要性を強調され、「それは私たちの隣人、そして将来の世代にとって、創造主への愛の不可欠な結果となるもの」と説かれた。

 続けて教皇は、「悲しいことに、世界では好戦的なレトリックが再び流行していますが、そうした時代には、宗教間の対話こそ、平和の促進に役立ちます」とされ、「憎しみの言葉は、戦争で人々を死に至らしめる。そうした言葉の代わりに、私たちは平和について語り、平和を夢見、平和への希望に創造性と実質を与える必要があります。そうすることが、個人と人々の本当の希望だからです。すべての人が対話し、あらゆる努力が払われるべきす」と訴えられた。

 最後に、教皇はコロキアムの取り組みが今後も進むように、コロキアムが他の宗教の人々を「互いに成長するための価値あるパートナー」として見る方法のモデルとなるように、期待を表明され、「皆さんが友愛に満ちたこの機会を最大限に生かし、友情と有望な将来の計画を立てて、自分の仕事の成果を実りあるものとして分かち合うことを、願っています」とあいさつを締めくくられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2024年4月5日

☩教皇、ガザ地区で援助活動中の7人の殺害を悼み、改めて即時停戦を訴え

Palestinian children suffering from malnutrition receive treatment at al-Awda health centre, in Rafah, southern Gaza StripPalestinian children suffering from malnutrition receive treatment at al-Awda health centre, in Rafah, southern Gaza Strip 

 

 ガザ地区では2日、イスラエル軍の空爆により、米国に拠点を置く慈善団体「World Central Kitchen」と共にパレスチナ人に食料を届けていた7名が死亡した。 殺害された人の中には英国人3人、オーストラリア人、ポーランド人、アメリカとカナダの二重国籍、パレスチナ人が含まれていた。

 教皇は、「残念ながら中東から悲しいニュースが届き続けています」とし、新たな犠牲者が出たことに「深い遺憾の意」を表明し、彼らとその家族のために祈りを捧げるよう、人々に促された。励まされた。そして、このような悲劇が繰り返さている現状を断つために、「即時停戦、疲れ果てて苦しんでいる人々への人道援助へのアクセス許可、人質の即時解放を改めて訴えます」と強調された。

 さらに、「この地域の紛争を激化させようとする無責任な試みを避けましょう。世界の多くの地域に死と苦しみをもたらし続けている戦争を終わらせるために努力を続けるように」と訴えられ、信徒たちに「武器の沈黙と平和の回復」のために祈りに加わるよう呼びかけられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2024年4月4日

☩「ロシアの侵略戦争で殺された若いウクライナ兵士がロザリオと聖書を残した…」水曜恒例一般謁見で

Pope Francis holding rosary and Gospel of young fallen Ukrainian soldier, Oleksandr, during his Wednesday General AudiencePope Francis holding rosary and Gospel of young fallen Ukrainian soldier, Oleksandr, during his Wednesday General Audience  (VATICAN MEDIA Divisione Foto)

 教皇が手にしたロザリオと聖書は、この防衛戦で亡くなったウクライナ兵が携帯していたもの。

*彼は、詩篇『主よ、深い淵の底からあなたに叫びます。わが主よ、私の声を聞いてください』に下線を引いていた

 教皇は、「私の手には、戦争で亡くなった兵士が残したロザリオと新約聖書があります。この若者はオレクサンドル、アレキサンダーという名前で、23歳でした」と語られ、「オレクサンドル。彼は新約聖書と詩篇を読み、詩篇の130章の『主よ、深い淵の底からあなたに叫びます。わが主よ、私の声を聞いてください』に下線を引いていました。その23歳の若者が、アウディーウカの戦いで命を落としたのです 」と深く悲しまれた。

 そして、手にされたロザリオと聖書を示し、「これが彼のロザリオ、彼が読み、祈った聖書です」とされ、聖ペトロ広場に集まった信徒たちに、「この若者と、この狂気の戦争で亡くなった彼と同じように多くの人たちのことを思い、黙祷を捧げるように。戦争は常に破壊をもたらす。犠牲となった彼らを思い起こし、祈りましょう」と促された

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2024年4月4日

◎教皇連続講話「悪徳と美徳」⑭ 「正義は私たちを神に導き、社会の平和共存の基礎」

Pope Francis at Wednesday General Audience (3 April 2024)Pope Francis at Wednesday General Audience (3 April 2024)  (AFP or licensors)

(2024.4.3 Vatican News  Deborah Castellano Lubov)

 教皇フランシスコは3日、水曜日の一般謁見で「悪徳と美徳」をテーマとする連続講話を続けられ、今回は四つの基本的徳目のうち二つ目の「正義」を取り上げ、「正義は私たちを神に導くもの、社会の平和的共存の基礎をなすもの」と語られた。

  教皇は「悪徳と美徳」の連続講話を、まず「悪徳」から始められ、最近は「美徳」にテーマを移されているが、今回は「正義」についてまず、「カトリック教会のカテキズム」では「神と隣人とに帰すべきものを帰す、という一貫した堅固な意志によって成り立つ倫理徳」(1807項)と述べられている、と指摘。

 「この美徳は個人が実践すべきものであるだけでなく、何よりも社会的な美徳… なぜなら、この美徳は、各人がその生来の尊厳に従って扱われる共同体の創造に向けられているからです」と述べられた。

   そして、「正義は社会の平和的共存の基礎」であることを再確認され、「人の権利を尊重する法律のない世界は、人が生きていけない世界、”ジャングル”に似たものになる… 正義がなければ平和はなく、正義が尊重されないところには紛争が生じます。正義がなければ、強者が弱者に優る、という法則が根強く残ることになります」と現代の世界的な風潮を警告された。

 また教皇は、正義は「大規模でも小規模でも適用できる美徳」とされ、「法廷だけでなく、私たちの日常生活を特徴づける倫理。他者との誠実な関係を築くもの… 正義の人は、真っすぐ、純朴で、率直で、”マスク”を着けません。ありのままの自分を表に出し、真実を語ります」、さらに「感謝の態度を持ち、自分たちは、最初に神に愛されただけで価値のない人間であることを認識し、『負い目を感じる』ことで、隣人に愛を示す人です」と説かれた。

 さらに、正義の人のその他の特徴について、「法律が権力者の圧制から無防備な人々を守る防護壁であることを理解しつつ、法律を尊重する人」「自分の幸福だけを考えるのではなく、社会全体としての人々の利益を望む人」、そして、「いかに正当なものであっても、『まるでそれが世界に存在する唯一のものであるかのように自分のことだけを考える誘惑』に負けない人」を挙げられた。 

   そして、「正義の美徳」を持つ人は、「全ての人の利益がなければ、自分自身にとって真の利益はあり得ない」ということを明確にし、その必要性を心に留める、と指摘。「皆、自分が他人に害を及ぼさないように行動を見守っている」ことを認識しており、「間違いを犯した場合、謝罪し、場合によっては、個人的な利益を犠牲にすることさえする」とし、「責任を重んじ、合法性を促進する模範的な人」と語られた。

 教皇は正義を「汚職に対する解毒剤」と呼び、汚職や違法行為を防ぐために「人々、特に若者に、合法性の文化を教育することが、極めて重要」と強調され、さらに、「正義の人は、中傷、偽証、詐欺、高利貸、嘲笑、不正などの有害な行為を避け、約束を守る」と指摘された。

 最後に教皇は、自分自身と自分たちの住む世界の両方に恵みと祝福をもたらす人々を称賛し、「『狡猾で洞察力のある』人々に負けてはいない」とされ、聖書にあるように、「義に飢え渇く人々は、幸い」(マタイ福音書5章6節)。「『正義』を追い求める男性と女性がこれまで以上に必要とされています… 『正義』であることが、私たちを幸せにするのです」と締めくくられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2024年4月3日

☩「召命を受けた人々の忠実でしばしば目立たぬ献身を、主への感謝をもって思い起こそう」-4月21日の「第61回世界召命祈願の日」教皇メッセージ

 教皇フランシスコが4月21日の「第61回世界召命祈願の日」に向けたメッセージを発表され、その日本語訳が2日、カトリック中央協議会から出された。全文以下の通り。

2024年「第61回世界召命祈願の日」教皇メッセージ 2024年4月21日

 

希望の種を蒔き、平和を築くよう呼ばれて

 

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 世界召命祈願の日には毎年、主が旅を続ける忠実な民一人ひとりにあてた、召し出しという尊いたまものについて考えるよう招かれます。私たちが主の愛の計画に加わり、福音のすばらしさを、さまざまなあり方の中で具現化するためにです。神の呼びかけに耳を傾けることは、宗教的理想の名のもとであったとしても、外部から課される義務とはまったくの別物で、むしろ私たちの内にある幸福への望みをかき立てる最も確かな方法です。私たちの人生に輪郭が与えられ、それが十全なものとなるのは、自分は何者なのか、どんな資質があるのか、どのような分野でそれを生かせるのか、どのような道を進めば、置かれた場にあって、愛、受容、美、平和のしるしとなり、道具となれるのかに、気づけたときです。

 そのためこの世界祈願日は毎回、全生涯に及ぶ召し出しを受け止めた人々の、忠実で、日常的で、そして、しばしば目立たぬ献身を、主への感謝をもって思い起こす絶好の機会です。心に浮かぶのは、自分のことは顧みずに後回しで、うわべだけのことに流されず、人と人との関わりを大切にして生き、愛と無償の心をもって、いのちのたまものへと自らを開き、子とその成長のために尽くす母親、父親です。献身的に協力の精神で仕事を果たす人々、さまざまな分野で、いろいろなやり方で、より公正な世界、より連帯ある経済、より平等な政治、より人間らしい社会を築くために専心する人々、共通善のために懸命に働く、善意あるすべての人のことを思い起こします。

 使徒的行為としての祈りの沈黙を通して、時には辺境の地で労力を惜しまずに、創造性をもって自分のカリスマを生かし、出会う人々のために用いることで、自身を主にささげる奉献生活者のことを思います。叙階される祭司職への召命を受け入れて、福音を宣べ伝えることに自らをささげ、兄弟姉妹のためにエウカリスチアのパンとともに自らを裂き、希望の種を蒔(ま)き、神の国のすばらしさをすべての人に示す人のことを思います。

 若者たち、とりわけ教会に距離を感じたり不信感を抱いている若者たちに申し上げたいと思います。イエスに心を掴まれるがままになってください。福音書を開き、あなたがたにとって大事な問いをイエスに投げかけてください。いつも私たちのためを思って危機に立たせるイエスの存在に、心を揺さぶられてください。イエスは誰よりも私たちの自由を尊重し、押しつけることはなさらずに、ご自分を示しておられます。イエスに場を空けてください。そうすれば、イエスに従うことで、そして主に求められるなら、主に完全に自身をささげることで、幸福を得るでしょう。

旅する民

 キリスト教が認識し伴奏する、さまざまなカリスマとさまざまな召命によるポリフォニー(多声音楽)は、キリスト者としてのアイデンティティを十全に理解する助けとなります。世の道を歩む神の民として、聖霊に駆り立てられ、生きた石としてキリストの体に組み込まれながら、私たち一人ひとりは、自分たちが大きな家族の一員であり、御父の子どもであり、同じ神の似姿である兄弟姉妹だ、ということに気づかされます。私たちは、自分という存在の中に閉ざされている孤島ではなく、全体の一部です。だから世界召命祈願の日は、シノダリティ(共働性)の音色を帯びています。カリスマは多様です。そのカリスマに気づき、すべての人の益のために何をなすことを聖霊が求めておられるのかを識別するように、互いに耳を傾け、共に歩むよう、私たちは求められています。

 さて現在、共同の道は、2025年の聖年へと私たちを導いています。自分に固有の召命を再発見しつつ、聖霊の多様なたまものを結び合わせ、世にあって、イエスの夢の運び手となり、証人となるために、聖年に向かって「希望の巡礼者」として歩みましょう。そうして私たちは、神の愛に結ばれ、そして慈しみと分かち合いと兄弟愛の絆で結ばれた、一つの家族を形づくるのです。

 この世界祈願日にはとくに、み国を建設するための尊い召命のたまものを、御父に切願する祈りをささげます。「収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」(ルカ福音書10章2節)。そして祈りとは、ご承知のとおり、神に語る言葉よりも、耳を傾けることによって、なされるものです。主は私たちの心に語りかけ、心が開かれ、誠実で、寛大であるよう願っておられます。み言葉は、イエス・キリストにおいて受肉し人となった、み言葉は、御父のみ心を余すところなく私たちに啓示し、知らせてくださいます。

 今年2024年はまさに聖年の準備として、祈りに充てられる年です。私たちは、主と心と心をもって対話できるという、計り知れないほど尊い賜物を再確認し、希望の巡礼者となるよう求められています。なぜなら、「祈りは、希望の最初の力です。祈れば希望は膨らみ、どんどん増幅していきます。祈りは希望への扉を開く、ともいえるでしょう。希望はあるものですが、祈りによってその扉を開くのです」(教皇フランシスコ「キリスト者の祈りについての連続講話―創造の神秘」2020年5月20日)。

希望の巡礼者、平和の建設者

 では、巡礼者であるとはどういう意味でしょう。巡礼を始める人は、まず目的地をはっきりと設定し、それを心と頭につねに置いています。ですが同時に、その目的地に達するには、目の前の一歩に集中することが必要で、足取りが重くならないよう無駄な荷を下ろし、必要な物だけを持ち、疲れ、恐れ、不安、暗闇が、歩み始めた道の妨げにならないよう、日々頑張らなければなりません。このように巡礼者であるとは、毎日新たに出発すること、再出発を続けること、旅路にあるさまざまな道を進むための熱意と意欲を新たにし続けるということです。疲労や困難はあっても、それによって常に新たな地平と、見たことのない光景とが広がるのです。

 キリスト者にとっての巡礼の意義は、まさに次のとおりです。私たちが旅に出るのは神の愛を発見するためであり、と同時に、内なる旅によって自分自身を見い出すためでもあります。内なる旅とはいえ、それは多様な関わりに刺激され続けるものです。つまり、呼ばれているから巡礼者なのです。神を愛し、互いに愛し合うよう呼ばれています。ですから、この地上における私たちの旅が徒労に、あるいは無意味な放浪に終わることは決してありません。その逆で、日々、呼びかけに応えつつ、平和と正義と愛を生きる新たな世界に向かうはずの一歩を踏み出そうとしているのです。私たちは希望の巡礼者です。よりよい未来に向かおうとし、その道すがら、よりよい未来を築くことに全力を尽くすからです。

 結局のところ、あらゆる召命が目指すのは、希望の人となることです。個人として、また共同体として、多様なカリスマと奉仕職をもって、私たちは皆、新たな時代の課題を負った世界にあって、福音の希望に「体も心もささげる」よう呼ばれています。新時代の課題とは、散発的な第三次世界大戦の脅威の拡大、よりよい未来を求め故郷を逃れる移住者の大群、増加の一途をたどる貧困層、この地球の安定を不可逆的に損ねる危険などです。こうした全てに加え、日常でぶつかる困難もあり、それらは私たちを、時に諦めや悲観に陥らせかねないのです。

 それゆえ、この時代において、私たちキリスト者こそ希望に満ちたまなざしを養わなければならないのです。神の国のため、愛と正義と平和の国のために、私たちに託された召命に応えることで、実り豊かな働きがなせるようにです。聖パウロが確約するように、この希望は「私たちを欺くことがありません」(ローマの信徒への手紙5章5節)。主イエスが、いつも私たちと共におられ、あがないの業に私たちを加える、と言われた約束だからです。

 イエスはあがないを、一人ひとりの心、被造物の「心」において、成し遂げたいと願っておられます。この希望の原動力は、キリストの復活にあります。キリストの復活は、「世界を貫いた命の力を帯びています。すべてが死んだかのように思われるところには、どこにでも、復活は再び芽生えるのです。この力を止めることはできません。しばしば、神はいないかのように思われることが確かにあります。不正も悪意も無関心も、残酷な行為も減ることはなく、私たちはそれを目にしています。

 しかし、闇のただ中にあっても、新しい何かが必ず芽生え始め、ついには実りをもたらすこともまた確かなことです」(教皇フランシスコ使徒的勧告『福音の喜び』276項)。使徒パウロも「私たちは、このような希望によって救われているのです」(ローマの信徒への手紙8章24節)と断言しています。復活において果たされたあがないが、希望をもたらします。それは、現在の試練に立ち向かうための、確固たる、信頼すべき希望です。

 ですから、希望の巡礼者であり平和の建設者である、ということは、キリストの復活という岩の上に自己を確立することであり、応えて生き続ける召命を通して行うすべての取り組みが水泡に帰すことはない、と心得ることです。失敗や挫折があっても、私たちが蒔いた善は静かに成長し、何ものも、私たちに究極の目的地を見失わせはしません。

 そこは、キリストとの出会いがあり、皆が友愛のうちに永遠に生きる喜びがある場です。この究極の招きを、私たちは日々待っていなければなりません。神との愛ある関係、また兄弟姉妹との愛に満ちた関係によって、神の夢、すなわち一致、平和、友愛の夢が実現し始めるからです。自分はこの呼びかけの対象外だと感じる人がだれもいませんように。私たちは一人ひとり、それぞれの、ささやかなやり方で、置かれた場にあって、聖霊の助けを受けて、希望と平和の種を蒔く人になることができるのです。

賭けてみる勇気を

 ワールドユースデーリスボン大会でも申し上げたことを、もう一度、今度は皆さんに繰り返します―「起き上がりなさい」。眠りから覚めましょう、無関心から抜け出しましょう、閉じこもりがちな”牢獄の鉄格子”を開けましょう。そうすることで、私一人ひとりが、教会で、世界の中で、自分の召命を発見し、希望の巡礼者、平和の建設者となれますように。

 熱意をもって生きましょう。周囲の人々と、わたしたちが暮らす環境とを、愛をもってケアすることに力を尽くしましょう。繰り返します。賭けてみる勇気をもちなさい。慈しみの不屈の使徒、オレステ・ベンツィ神父は常に、底辺にいる人、誰にも守ってもらえない人の味方で、貧しい人からも与えられるものがあり、裕福な人にも受け取るべきものがある、と語っておられました。

 ですから、起き上がって、希望の巡礼者として旅立ちましょう。そうして聖エリサベトに対するマリアのように、私たちも喜びを告げ知らせ、新しい命を生み出し、友愛と平和を作る職人となりましょう。

 ローマ、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂にて 2024年4月21日、復活節第4主日 フランシスコ

(編集「カトリック・あい」=カタカナを多用することをよしとする”教会用語”を、原則として当用漢字表記に読みやすく修正しました)

2024年4月3日

☩復活の月曜日「主の復活は、計り知れない喜びをもたらし、私たちの人生を変える」-Regina coeliの祈り

(2024.4.1 Vatican News  Deborah Castellano Lubov)

 教皇フランシスコは1日「復活の月曜日」の正午の祈りで聖母賛歌Regina coeli(天の元后よ,お喜びください)の祈りを捧げられ、説教で、「イエスの復活は、単なる素晴らしいニュースや物語のハッピーエンドではなく、私たちの人生を完全かつ永遠に変えるものです…」と強調された。Pope Francis gives Regina Caeli address on Easter Monday in the Vatican

 説教で教皇は、1日のミサで読まれた、空の墓でイエスに出会った女性たちの描写を記したマタイ福音書の箇所を取り上げ、「復活した方との生きた出会いから生まれるこの喜びは、強い感情であり、それが彼女たちに自分が見たことを広め、伝えようと駆り立てるものでした」とされた。

 教皇は続けて、「喜びを分かち合うことは素晴らしい経験。私たちは幼い頃からそれを学んでいます… 学校で良い成績をとり、両親に見せるのが待ちきれない子供や、スポーツで初めて成功を収めた若者、あるいは、子供が生まれた家庭のことを考えてみてください」と語られ、信徒たちにそれぞれが経験した「言葉に言い表せないほど、あまりにも幸せな瞬間、すぐに皆に打ち明けたかった瞬間」を思い起すよう勧められた。

 そして、「これは、主の復活の朝、女性たちも経験したことでしたが、私たちの経験したことよりも、はるかに大きな意味をもっていました。なぜでしょうか」と問いかけられ、「それは、イエスの復活が、単なる素晴らしいニュースや物語のハッピーエンドではなく、私たちの人生を完全に、そして永遠に変えるものだからです。主の復活は、私たちの人生を完全に、そして永遠に変えます!」と強調された。

 さらに教皇は、「それは『死』に対する『生』の勝利であり、『落胆』に対する『希望』の勝利。主の臨在は、どのようなものでも、光で満たすことができる」とされ、「彼と共にいれば、毎日が永遠の旅の一歩となり、すべての『今日』が『明日』への希望になり、すべての『終わり』が新たな『始まり』となり、すべての『瞬間』が『時の限界』を超え、永遠に向かって投影されるのです」と指摘。

 「復活の喜びは、私たちにとって、遠いものではなく、身近なものであり、洗礼の日に私たちに与えられたものです… それ以来、私たちも、空の墓でイエスに出会った女性たちと同じように、復活された方にお会いできるようになりました」、そして「主は、彼女に言われたのと同じように、私たちにも『恐れるな!』と言われます… 罪と恐怖と死の征服者であるイエスが、私たちに『恐れるな』と言われるのですから、私たちは恐れず、絶望的な人生に落ち落ち込むことなく、主の復活を喜ぶことを諦めないようにしましょう! それどころか、命の原動力であるイエスの喜びに、私たちは”燃料を注ぐ”必要があります」と訴えられた。

 そして、それは、女性たちがしたように、「復活された方に出会うこと」によって可能になる、「なぜなら、主は、決して終わることのない喜びの源だからです」と説かれた教皇は、「聖体、神の赦し、祈り、そして生きた善行によって、急いで神を求めましょう! 女性たちがその振る舞いで私たちに示したように、イエスの喜びを人々と分かち合い、イエスを宣べ伝え、イエスを証ししましょう。喜びは分かち合うことで、さらに大きなものとなります」と説かれた。

 最後に教皇は「御子イエスの復活を喜ばれた聖母マリアが、私たちも、その喜びを証しする者となることができるよう、助けてくださいますように」と、マリアの取次ぎを願いながら、復活節中に伝統的に唱えられる「Regina coeli」の祈りを、聖ペトロ広場に集まった司祭、聖職者、信徒と共に唱えられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」代表・南條俊二)

2024年4月1日

☩「キリストは復活された!すべてが新たに始まる」ー教皇が全世界に向けた祝福とメッセージ

Pope Francis at Urbi et Orbi (31 March 2024)Pope Francis at Urbi et Orbi (31 March 2024)  (VATICAN MEDIA Divisione Foto)

 教皇フランシスコは31日、復活祭の主日ミサに続いて、復活祭のメッセージと祝福”Urbi et Orbi(ローマと世界へ)”を世界の人々に送られた。その中で、特に聖地、ウクライナ、ミャンマー、シリア、レバノン、アフリカ、そして人身売買の犠牲者と生まれてくることのなかった子供たち、そして過酷な時を経験しているすべての人のために祈られた。

 以下、バチカンニュースによるUrbi et Orbiの日本語訳は以下の通り。

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん、主のご復活おめでとうございます。

 2千年前、エルサレムから発せられた福音が、今日、全世界に響きます。「十字架につけられたナザレのイエスは、復活されました!」( マルコ福音書16章6節)。

*復活されたイエスだけが命の扉を開くことができる

 週の初めの日の明け方早く墓に行った婦人たちの驚きを、教会は再び体験します。イエスの墓は大きな石で塞がれていました。今日もまた、重い岩が、あまりにも重い岩が、人類の希望を塞いでいます。それは、戦争の岩、人道危機の岩、人権侵害の岩、人身取引の岩、そしてその他多くの岩です。私たちも、イエスの弟子であった婦人たちのように尋ねます―「誰が墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」(マルコ16章3節)と。

  婦人たちが実際に復活の朝に目にしたのは、大きな石がすでにわきへ転がしてある光景でした。彼女たちの驚きは、私たちの驚きです。イエスの墓は開き、空になっていたのです!ここからすべてが始まります。空の墓を通して、新しい道が開けます。それは、神以外の誰も開くことのできない道、死の中の命の道、戦争の中の平和の道、憎しみの中の和解の道、対立の中の兄弟愛の道です。

 兄弟姉妹の皆さん、イエス・キリストは復活されました。そして、イエスだけが、命に向かう歩みを閉ざす石を転がすことができるのです。と言うよりも、生ける主ご自身が、命、平和、和解、兄弟愛の道なのです。主は人間では不可能な道を開かれます。なぜなら、主だけが世の罪を除き、私たちの罪を赦されるからです。神の赦し無しでは、あの石を動かすことはできません。罪の赦し無しでは、閉鎖や、偏見、疑い合い、自分の罪を常に認めず他者を非難する横暴から脱することはできません。復活されたキリストだけが、私たちに罪の赦しを与え、新たにされた世界への道を開くことができるのです。

 復活されたキリストだけが、命の扉を開くことができます。私たちはその扉を、世界に広がる戦争のために、閉じ続けています。今日、私たちの眼差しは、特にイエスの受難と死と復活の神秘を証しする聖都エルサレムと、聖地のすべてのキリスト教共同体に向かいます。

*イスラエル、パレスチナ、ウクライナ…世界各地の戦争の犠牲者に

 

 私の思いは、イスラエルとパレスチナ、ウクライナをはじめ、世界各地の紛争の犠牲者に向けられています。復活されたキリストが、これらの地域で苦しむ人々のために平和の道を開いてくださいますように。国際法の原則の尊重を呼びかけるとともに、ロシアとウクライナ間のすべての捕虜の交換を両国の指導者に求めます。

 また、ガザへの人道支援のアクセスの可能性を保証するよう、改めてアピールすると同時に、昨年10月7日に拉致された人々の即時解放と、同地域での即時停戦を訴えたいと思います。

 子どもたちをはじめ、すでに疲弊した民間人に深刻な影響を与える敵対行為をこれ以上、続けることは認められません。彼らの眼差しにどれだけの苦しみを見ることでしょうか。それを見て、私たちは尋ねます―どうして?どうして、これほど多くの死者、破壊が必要なのですか、と。

 戦争は常に非道であり、敗北です。ますます強まる戦争の風を、ヨーロッパや地中海に吹かせてはなりません。武装や武装強化の論理に陥ってはいけません。平和は決して、武器では築けません。手を差し伸べ、心を開くことで、築けるのです。

 長く破壊的な戦争の影響を14年間も被っているシリアを忘れないようにしましょう。無数の死者・行方不明者、多くの貧困と破壊は、国際共同体はもとより、全ての方面からの回答を待っています。

 私の眼差しは今日特にレバノンに向けられます。レバノンは長期間、政治機能の不全と深刻な経済・社会危機に置かれているうえに、今、国境でイスラエルとの対立にさらされています。復活の主が、愛するレバノン国民を慰め、出会いと共存と多極主義の地としての召命において国全体を支えてくださいますように。

*西バルカン地域、アルメニアとアゼルバイジャン…最終的な和平へ

 

 私は、ヨーロッパ構想において統合への意味ある歩みを進めている西バルカン地域を思います。民族、文化、宗教の違いが、分裂の原因となることなく、ヨーロッパ全域と全世界を豊かにするための源となりますように。

 同様に、アルメニアとアゼルバイジャン間の対話を励ましたいと思います。国際社会の支援のもと、対話と、避難民の援助、諸宗教の信仰の場の尊重を推進し、最終的な和平に一刻も早く到達することができますように。

 復活されたキリストが、世界の様々な地域で、暴力や、紛争、食糧危機、気候変動の影響などを受け苦しむ人々に、希望の道を開いてくださいますように。あらゆる形のテロリズムの犠牲者に慰めをお与えください。命を奪われた人々のために祈り、これらの犯罪の犯人たちの悔い改めと回心を求めましょう。

*ハイチ、ミャンマー、そしてアフリカの苦しむ人々に平和を

 

 復活の主が、ハイチの人々を見守ってくださいますように。同国が、国内を引き裂き、血で染める暴力をすぐにくい止め、民主主義と兄弟愛の歩みのうちに成長することができますように。

 重大な人道危機に苦しむロヒンギャの人々に神の慰めがありますように。内戦に引き裂かれたミャンマーに和解の道を開き、あらゆる暴力の論理を手放させてください。

 アフリカ大陸、特にスーダンとサヘル全域、アフリカの角地方、コンゴ民主共和国・キブ州、モザンビーク・カボデルガド州の苦しむ住民に、平和の道を開いてください。そして、広い地域を覆い、食糧不足と飢えをもたらす、長い旱魃状態を止めてください。

 復活の主がその光を移民や、経済的困難の中にある人々の上に輝かせ、助けを必要とする彼らに慰めと希望をもたらしてくださいますように。キリストがすべての善意の人々を連帯における一致へと導き、より良い生活と幸福を求める最も貧しい家族たちを脅かす多くの問題に、一緒に立ち向かわせてください。

*多くの命が失われ続けている…

 御子の復活において私たちに与えられた命を祝うこの日、私たち一人ひとりへの神の限りない愛を思い出しましょう。その愛はあらゆる限界、弱さをも超えるものです。それにもかかわらず、尊い命の賜物が、どれほどしばしば軽んじられていることでしょうか。どれほど多くの子どもたちが、生まれて光を見ることすらできないでいるでしょうか。どれほど多くの人が飢え死に、基本的なケアも受けられず、搾取と暴力の犠牲となっているでしょうか。どれほど多くの命が売買の対象となり、人身取引を拡大させているでしょうか。

 キリストが私たちを死の隷属から解放してくださったこの日、政治的責任を負う人々に呼びかけたいと思います。人身取引の災いと戦う努力を惜しまず、搾取の構造を解体するために絶えず働き、被害者らに自由をもたらしてください。主が彼らの家族をいたわり、特に愛する人たちの消息を不安のうちに待つ家族に、慰めと希望を与えてくださいますように。

 復活の光が、私たちの精神を照らし、回心させ、受け入れ、守り、愛するべき、すべての人の命の価値を認めさせてくださいますように。

 皆様に、主のご復活のお喜びを申し上げます。

(編集「カトリック・あい」)

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(全文公式英語訳以下の通り)
Dear brothers and sisters, Happy Easter!

Today throughout the world there resounds the message proclaimed two thousand years ago from Jerusalem: “Jesus of Nazareth, who was crucified, has been raised!” (Mk 16:6).

The Church relives the amazement of the women who went to the tomb at dawn on the first day of the week. The tomb of Jesus had been sealed with a great stone. Today too, great stones, heavy stones, block the hopes of humanity: the stone of war, the stone of humanitarian crises, the stone of human rights violations, the stone of human trafficking, and other stones as well. Like the women disciples of Jesus, we ask one another: “Who will roll away the stone for us from the entrance to the tomb?” (cf. Mk 16:3).

This is the amazing discovery of that Easter morning: the stone, the immense stone, was rolled away. The astonishment of the women is our astonishment as well: the tomb of Jesus is open and it is empty! From this, everything begins anew! A new path leads through that empty tomb: the path that none of us, but God alone, could open: the path of life in the midst of death, the path of peace in the midst of war, the path of reconciliation in the midst of hatred, the path of fraternity in the midst of hostility.

Brothers and sisters, Jesus Christ is risen! He alone has the power to roll away the stones that block the path to life. He, the living One, is himself that path. He is the Way: the way that leads to life, the way of peace, reconciliation and fraternity. He opens that path, humanly impossible, because he alone takes away the sin of the world and forgives us our sins. For without God’s forgiveness, that stone cannot be removed. Without the forgiveness of sins, there is no overcoming the barriers of prejudice, mutual recrimination, the presumption that we are always right and others wrong. Only the risen Christ, by granting us the forgiveness of our sins, opens the way for a renewed world.

Jesus alone opens up before us the doors of life, those doors that continually we shut with the wars spreading throughout the world. Today we want, first and foremost, to turn our eyes to the Holy City of Jerusalem, that witnessed the mystery of the Passion, Death and Resurrection of Jesus, and to all the Christian communities of the Holy Land.

My thoughts go especially to the victims of the many conflicts worldwide, beginning with those in Israel and Palestine, and in Ukraine. May the risen Christ open a path of peace for the war-torn peoples of those regions.  In calling for respect for the principles of international law, I express my hope for a general exchange of all prisoners between Russia and Ukraine: all for the sake of all!

I appeal once again that access to humanitarian aid be ensured to Gaza, and call once more for the prompt release of the hostages seized on 7 October last and for an immediate cease-fire in the Strip.

Let us not allow the current hostilities to continue to have grave repercussions on the civil population, by now at the limit of its endurance, and above all on the children. How much suffering we see in the eyes of the children: the children in those lands at war have forgotten how to smile! With those eyes, they ask us: Why? Why all this death? Why all this destruction?  War is always an absurdity, war is always a defeat! Let us not allow the strengthening winds of war to blow on Europe and the Mediterranean. Let us not yield to the logic of weapons and rearming. Peace is never made with arms, but with outstretched hands and open hearts.

Brothers and sisters, let us not forget Syria, which for thirteen years has suffered from the effects of a long and devastating war. So many deaths and disappearances, so much poverty and destruction, call for a response on the part of everyone, and of the international community.

My thoughts turn today in a special way to Lebanon, which has for some time experienced institutional impasse and a deepening economic and social crisis, now aggravated by the hostilities on its border with Israel. May the Risen Lord console the beloved Lebanese people and sustain the entire country in its vocation to be a land of encounter, coexistence and pluralism.

I also think in particular of the region of the Western Balkans, where significant steps are being taken towards integration in the European project. May ethnic, cultural and confessional differences not be a cause of division, but rather a source of enrichment for all of Europe and for the world as a whole.

I likewise encourage the discussions taking place between Armenia and Azerbaijan, so that, with the support of the international community, they can pursue dialogue, assist the displaced, respect the places of worship of the various religious confessions, and arrive as soon as possible at a definitive peace agreement.

May the risen Christ open a path of hope to all those who in other parts of the world are suffering from violence, conflict, food insecurity and the effects of climate change. May the Lord grant consolation to the victims of terrorism in all its forms. Let us pray for all those who have lost their lives and implore the repentance and conversion of the perpetrators of those crimes.

May the risen Lord assist the Haitian people, so that there can soon can be an end to the acts of violence, devastation and bloodshed in that country, and that it can advance on the path to democracy and fraternity.

May Christ grant consolation and strength to the Rohingya, beset by a grave humanitarian crisis, and open a path to reconciliation in Myanmar, torn for years now by internal conflicts, so that every logic of violence may be definitively abandoned.

May the Lord open paths of peace on the African continent, especially for the suffering peoples in Sudan and in the entire region of the Sahel, in the Horn of Africa, in the region of Kivu in the Democratic Republic of the Congo and in the province of Capo Delgado in Mozambique, and bring an end to the prolonged situation of drought which affects vast areas and provokes famine and hunger.

May the Risen One make the light of his face shine upon migrants and on all those who are passing through a period of economic difficulty, and offer them consolation and hope in their moment of need. May Christ guide all persons of good will to unite themselves in solidarity, in order to address together the many challenges which loom over the poorest families in their search for a better life and happiness.

On this day when we celebrate the life given us in the resurrection of the Son, let us remember the infinite love of God for each of us: a love that overcomes every limit and every weakness. And yet how much the precious gift of life is despised! How many children cannot even be born? How many die of hunger and are deprived of essential care or are victims of abuse and violence?  How many lives are made objects of trafficking for the increasing commerce in human beings?

Brothers and sisters, on the day when Christ has set us free from the slavery of death, I appeal to all who have political responsibilities to spare no efforts in combatting the scourge of human trafficking, by working tirelessly to dismantle the networks of exploitation and to bring freedom to those who are their victims. May the Lord comfort their families, above all those who anxiously await news of their loved ones, and ensure them comfort and hope.

May the light of the resurrection illumine our minds and convert our hearts, and make us aware of the value of every human life, which must be welcomed, protected and loved.

A happy Easter to all!

2024年3月31日

☩復活徹夜祭ミサ「復活の主であるイエスに目を上げよう。主は復活された!」

(2024.3.30 VaticanNews  Lisa Zengarini)

 教皇フランシスコは30日の復活の聖なる徹夜祭ミサを聖ペトロ大聖堂で捧げられ、「命の神」であるイエスを仰ぎ見、喜んで迎えることによって、「いかなる失敗に遭っても、私たちは絶望に追い込まれない」と強調された。

 復活徹夜祭のミサは大聖堂の入り口での火の祭儀で始まり、「キリストの光」が歌われ、復活ろうそくを先頭に光の行列が続いた。ミサの中でイタリア人4人、韓国人2人、日本人とアルバニア人それぞれ一人の洗礼式と堅信式が行われた。

 教皇はミサ中の説教で、マルコ福音書に書かれた、空になったイエスの墓を訪れた女性たちに振る舞いに注目された。

教皇は、「悲しみの中でイエスが埋葬された墓に向かう途中で女性たちは、『誰が墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか』と不安を覚えながら話し合っていました… 『あの石』-(墓の中に入ろうとする者に)圧倒的な障害となる石-は、女性たちが心の中で思っていたことを象徴していました。 それは彼女たちの希望の終わりを表し、彼女たちの夢は打ち砕かれていました」と語られた。

 

 

2024年3月31日

【聖木曜日】☩「赦しを倦むことなく求める恵みを、主に願うように」ローマ市内の刑務所で主の晩餐・夕べのミサ

(2024.3.28 バチカン放送)

 28日の「聖木曜日」午後、教皇フランシスコは、ローマ郊外のレビッビア刑務所の女子部で「主の晩餐の夕べのミサ」を捧げられた。教皇の同刑務所でのミサは、2015年の聖木曜日に続き、今回で2度目。刑のレベルが中程度の人々の施設、マフィアなどの組織犯罪に関連する人々の施設、病棟など、いくつかのセクションに分けられており、ミサには、約300人の受刑者のうち、病気や高齢などで参加が困難な人を除いて、約200人が参列した。

 カトリック教会の典礼は一年間の頂点であり、主の受難と死と復活を記念する「過ぎ越しの聖なる三日間」に入った。この三日間は、復活祭を目前にした「聖週間」中の木曜日、「聖木曜日」午後の「主の晩さんの夕べのミサ」から、「復活の主日」の「晩の祈り」までを指し、 その始まりとなる「主の晩さんのミサ」は、受難が近づく中、イエス・キリストが弟子たちと共にした最後の晩さんで、聖体とミサ聖祭、司祭職を制定されたことを思い起こす。ミサの中で、イエスが最後の晩さんの前に、自ら弟子たちの足を洗われ、愛と奉仕の模範を示されたことに倣い、「洗足式」が行われる。

 教皇ミサは、刑務所女子部の運動場を会場とし、テント内に祭壇が設けられた。刑務官や奉仕ボランティアや修道女たちの協力で会場の飾り付けや、ミサの式次第の冊子の配布、椅子を並べる作業などが行われ、受刑者らが参加するコーラスがミサをいっそう豊かなものとした。

 ミサの説教で教皇は、「イエスは、最後の晩さんで弟子たちの足を洗われましたが、この謙遜な行為を通して、『私は仕えさせるためではなく、仕えるために来た」というご自分の言葉を、私たちに理解させ、奉仕の道を示されたのです」と説かれた。

 さらに、ユダの裏切りに触れ、「ユダは愛し続けることができず、お金やエゴイズムが裏切りに導くことになりました」とされ、「イエスは常にすべてを赦されるが、イエスが私たちに唯一、望まれるのは、私たちが赦しを願うこと」と強調。「イエスは赦すことに倦むことはありませんが、自分は赦しを乞うことに疲れてしまいます」と嘆いたある高齢の女性の言葉を思い起こしながら、「赦しを倦むことなく求める恵みを、主に願うように」と受刑者らを促された。

 続いて行われた洗足式では、教皇は国籍・宗教の異なる12人の受刑者の足を洗われた。

 ミサ後、教皇と受刑者たちとの出会いがもたれ、同刑務所のナディア・フォンターナ所長は、挨拶の中で、「今日の教皇の訪問は陽の光のように一人ひとりの心を温めてくださいました」と語った。受刑者たちから、刑務所内の菜園で作った野菜や、手作りのロザリオ、ストラなどが教皇に贈られ、教皇からは、聖母子画や、復活祭のお菓子である卵形のチョコレートなどが贈られた。

 続いて教皇は、病舎の受刑者たちを訪ね、励ましと祝福を与えられ、責任者が語る刑務所内での様々な困難、成長や希望などについて耳を傾けられた後、教皇はバチカンに戻られた。

(編集「カトリック・あい」)

2024年3月29日

【聖木曜日】「私たち司祭の良心の究明や祈りの中に、どれだけの悔恨と涙があるのか」聖香油のミサで

(2024.3.28 バチカン放送)

  28日、「聖木曜日」午前中の伝統の儀式「聖香油のミサ」が聖ペトロ大聖堂で、教皇フランシスコとローマ教区の司祭たちによって捧げられた。

  復活祭を直前に控えた一週間、「聖週間」の木曜日の午前中に、世界の教区の司教座聖堂で、司教と司祭の共同司式による「聖香油のミサ」が捧げられることになっており、その中で行われる「司祭叙階時の約束の更新」と「聖油の祝別」を特徴としている。

 28日朝、バチカンの聖ペトロ大聖堂の中央祭壇を囲み、ローマ司教である教皇と共に1500人の司祭たちが共同でミサを司式。前半の「ことばの典礼」は教皇が、後半の「感謝の典礼」はローマ教区の教皇代理司教アンジェロ・デ・ドナーティス枢機卿が主司式者となった。

 教皇はミサ中の説教で、朗読されたルカ福音書の、イエスが故郷ナザレの会堂で朗読・説教する場面(4章16-21節)を取り上げ、「会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた」(同4章20節)ことに注目。沈黙のうちにイエスに向けられる、驚きといぶかしさの入り混じった人々の眼差しを思い起こされた。

 一方で、最後の晩餐の席で、「あなたは… 三度、私のことを知らないと言うだろう」(マルコ福音書14章30節)とペトロの離反を見抜くイエスの眼差し、またイエスが逮捕されてから「私はあの人を知らない」と三度否定するペトロを振り向いて見つめるイエスの眼差しも観想された。

 (イエスのその眼差しを見たペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度、私を知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出し、外に出て、激しく泣いた= ルカ福音書22章61-62節)。

 教皇は、「ペトロの癒し、使徒の癒しは、彼らが傷つき、後悔し、イエスに赦していただいた時に、苦い涙と悲しみを通してもたらされ、その涙は、彼らに愛を再び見出させるものとなる」とされ、さらに、「私たちの内的な再生は、自分たちの惨めさと、主の慈しみが出会った場所から、私たちの精神の貧しさに対し、聖霊がそれを豊かにしてくださるところから生まれるのです… 私たち司祭は、『自分の良心の究明や祈りの中に、どれだけの悔恨と涙があるのか』と、自身に問いたださねばなりません」と強調された。

 説教に続いて、司祭叙階の日の約束の更新が行われた。

 「主キリストが使徒とわたしたちにご自分の司祭職を告げたこの記念の日に、あなたがたが叙階の日に司教と聖なる神の民の前で行った約束を新たにすることを望みますか」と教皇が問うと、司祭らは「はい」と答え、その約束を更新した。

 また、教皇は会衆に向けて、司祭たちのために祈るよう求められた。

 この後、聖油の祝別が教皇によって行われ、助祭たちが「病者用聖油」、「洗礼志願者用聖油」、入信、堅信、叙階等に用いられる「聖香油」の三種の聖油の壺を教皇の前に運んだ。教皇はそれぞれの香油を、祈りと共に祝別された。特に最後の「聖香油」の壺には香料が注がれ、教皇は祈りに続き、その壺に息を吹き込まれた。再び続く教皇の祈りと一致し、司祭らも壺に向けて手をかざし、沈黙のうちに祈った。

 この「聖木曜日」の午後より、教会の典礼は一年間の頂点をなす「聖なる過ぎ越しの三日間」に入った。教皇は午前中の「聖香油のミサ」に続き、午後「主の晩餐の夕べのミサ」を捧げるために、ローマのレビッビア刑務所に向かわれた。

(編集「カトリック・あい」)

2024年3月29日

◎教皇連続講話「悪徳と美徳」⑬「『忍耐』はキリストの愛の説得力ある証しとなる」

(2024.3.27  バチカン放送) 教皇フランシスコは27日の水曜恒例一般謁見で「悪徳と美徳」をテーマとする連続講話を続けられ、今回は「忍耐」の徳を考察された。

講話の要旨は以下の通り。

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先の日曜日、私たちは主の受難の朗読に耳を傾けました。イエスはご自身が受ける苦しみに、ある徳をもって応えられます。それは伝統的な徳(枢要徳、対神徳)の中にはありませんが、非常に重要な徳、すなわち「忍耐」の徳です。

「忍耐」の徳は、自らが受ける苦しみに耐えることを意味します。「忍耐(pazienza)」が「受難(passione)」と同じ源を持っているのは、偶然ではありません。受難から浮かび上がるのはイエスの「忍耐」。イエスは、捕えられ、平手で打たれ、不当な判決を下されるのを、従順さと穏やかさをもって受け入れられます。ピラトの前で、怒りをもって答えることをなさらず、兵士のあびせる侮辱や唾や鞭打ちに耐えられ、十字架の重みを背負われ、ご自分を十字架につける者たちを赦され、挑発に応えず、慈しみを与えられました。これらのことから、イエスの「忍耐」とは、苦しみに対する禁欲的な抵抗ではなく、「より偉大な愛」の結実であったことがわかります。

使徒聖パウロは、「愛の賛歌」(コリントの信徒への手紙1・13章4-7節)の中で、愛と忍耐を緊密に結びつけています。これは聖書の中で何度も語られる「忍耐強い神」( 出エジプト記34章6節、民数記14章18節)の、驚くべき姿も表しています。神は私たちの不誠実を前にされても、人間の悪や罪に対する不快に憤慨することなく、限りない忍耐をもって、毎回、最初から始めることのできる、偉大な姿を見せられます。

イエスの愛の最も優れた証しとは、「忍耐強いキリスト教信者と出会うこと」と言えるかもしれません。また、どれほど多くの親や、働く人々、医師や看護師、病者たちが、隠れた、聖なる忍耐をもって、日々、世界を美しくしているか、考えてみましょう。それは、「怒りを遅くする人は勇士にまさる」(箴言16章32節)と聖書が明言するとおりです。

しかし、私たちは正直にいって、しばしば忍耐を失い、悪に対して悪で返すことがよくあります。冷静を保ち、衝動やひどい返答を抑え、争いを回避するのは容易ではありません。

ここで、忍耐とは一つの「必要」ではなく、「召命」であることを思い起しましょう。キリストが忍耐強いなら、キリスト者もまた、忍耐強くあるように求められているのです。

「性急さ」と「短気」は、霊的生活の敵であることを忘れてはなりません。なぜなら、神は愛であり、愛する者は疲れを知らず、怒るに遅く、最後通牒を突きつけず、待つことを知っているからです。たとえば、「放蕩息子」のたとえ話(ルカ福音書15章11-32節)の「帰ってきた息子を見つけて走り寄る父親」や、「毒麦」のたとえ話(マタイ福音書13章24-30節)で、「何も失われることがないように、時が来るまで毒麦を抜かないでいる主人」のことを考えてみましょう。

では、どうしたら「忍耐」を育てることができるのか。聖パウロが教えるように、忍耐が「霊の結ぶ実」であるからには、まさにキリストの霊に願わねばなりません。「キリスト者の徳は、善を行うだけでなく、悪に耐えるのを知ることである」(聖アウグスティヌス「共観福音書説教」46章13節)。キリストは私たちに忍耐強い柔和な力を与えてくださいます。特に今、私たちが過ごしている聖週間の日々、十字架上のキリストを観想し、その忍耐に倣うこと、迷惑な人々を我慢強く耐え忍ぶ恵みを願うことは、私たちのためになるでしょう。

「忍耐」を育てるのに、眼差しを広げることも大切です。たとえば、自分が出会う災難を前にして、世界を見る目を狭めてはなりません。私たちが試練の苦しみを感じる時、ヨブが教えるように、神は私たちの願いを裏切らない、という確固とした信頼のうちに、神が新たにされることへに希望をもって心を開きましょう。

2024年3月27日

☩「苦しみの中でまかれた種から希望が生まれますように!」教皇、聖地のカトリック教徒たちに書簡

The Church of the Holy Family in GazaThe Church of the Holy Family in Gaza 

 また教皇は、「主が生き、死に、復活された場所、聖地で暮らしておられる皆さんにとって、復活祭を祝うことは、特別な意味を持っています」とされ、「何世紀にもわたって住んできた土地に残りたい」と願う現地のキリスト教徒の心情を理解し、その信仰、慈善、希望を讃えられた。

そして、2014年のご自身の聖地巡礼を振り返り、平和と安全を願い、中東における人類の価値観に対する「絶え間ない、恐るべき脅威」、緊張の連続について警告した聖パウロ6世の言葉を繰り返され、「私たちの救いの場所」を守る中東のキリスト教徒の役割、「苦難を通して主の受難の神秘を永続的に証し」する役割の重要性を強調され、 「新たに立ち上がって前進する皆さんの力によって、十字架につけられた主が死者の中からよみがえられたことを宣言し、そして宣言し続けているのです」と励まされた。

 

教皇は続けて、聖地のキリスト教徒のために、また聖地のキリスト教徒たちに、次のような祈りを捧げられた。

「主よ、あなたは私たちの平和です(エフェソの信徒への手紙2章14-22節参照)。 平和を実現する者たちへの祝福を宣言された主よ(マタイ福音書 5章9 節参照)。人の心を、憎しみ、暴力、復讐の精神から解放してください。 私たちはあなたの模範に目を向け、憐れみ深く、柔和で、心の謙虚なあなたに従います(同11章29節参照)。 あなたと共に新たに立ち上がる希望を、誰も私たちの心から奪わないようにしてください。 私たちが宗教、民族、国籍の区別なく、女性、高齢者、子供、貧しい人々など最も弱い立場にある人々はもとより、すべての男性、女性、子供の尊厳を守る気力をなくすことがありませんように」。

 

教皇は、聖地の人々が決して一人ではないことを改めて確認され、世界の教会が「祈りと実践的な慈善活動」を通じて連帯を示すことを約束され、「近いうちに私たちは巡礼者としてあなた方のもとに戻り、あなた方に近づき、あなた方を抱きしめ、あなた方と共に友愛のパンを裂くこと、あなた方が苦しみながら蒔き、忍耐強く育てている種から希望の柔らかい芽が出ることを願っています」 と呼びかけられた。

そして、現地の司教、司祭、修道者の働きに感謝された後、カトリック教徒や他のキリスト教徒の間で「苦しみのるつぼの中で…一致という貴重な黄金が浄化され、輝き出すように」と祈られるとともに、「霊的な親密さと励まし」を表明され、これからも彼らのために祈り続けることを約束された。

書簡の結びで、教皇は、聖地のカトリック教徒に対し、「あなたの国の娘」である聖母マリアが守ってくださるように願うよう勧められ、さらに世界のキリスト教徒に対して、「聖地の人々への具体的な支援を約束し、そのすべての人々が愛する土地に平和のうちに住むことができるように、絶えずお祈りください」と呼びかけられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

You can read the full text of the Pope’s Letter to the Catholics of the Holy Land here.

2024年3月27日

☩「あなた方は、前進する教会の生きた希望だ」教皇、使徒的勧告Christus vivit公布5周年に若者たちへメッセージ

Pope Francis at the first World Youth Day of his pontificate, in Rio de Janeiro in 2013Pope Francis at the first World Youth Day of his pontificate, in Rio de Janeiro in 2013 

 教皇フランシスコは25日、使徒的勧告「Christus vivit(キリストは生きておられる)」の公布5周年にあたってのメッセージを発表され、その中で、世界の若者たちに「キリストとの友情から生まれた喜びを皆の前で証しする」ために「自分たちの声」を届けるよう呼びかけられた。

 メッセージで教皇は、「若者たち、とりわけ、多くの紛争と多くの苦しみが特徴の世界の中で落胆しているかもしれない若者たちに、私の言葉が新たな希望の源となってほしい、と願っています」と語られた。

 そして、「キリストは、生きておられ、無限の愛で皆さんを愛しておられます」とされたうえで、「友人として神と共に歩み、皆さんの人生に神を迎え入れ、人生のこの時期のすべての喜びと希望、問題と葛藤を、神に分かち合っていただきなさい・・・そして『キリストとの友情から生まれる喜びを、人々の前で証しする』という、皆さんが受けた『偉大な使命』を人々に思い起こさせ、皆さんの声を届けるようにしましょう」と促された。

 また教皇は若者たちに対し、イエスの臨在の中で生きることで「過去の記憶」が実を結び、「現在に勇気を見出し」、「希望を持って未来に向かう」ことができると語られ、使徒的勧告「Christus vivit(キリストは生きておられる)」は、「人々の声に耳を傾け、対話し、主の御心を絶えず識別することによって共に前進しようとする教会の成果」であり、2018年の青少年問題シノドスが現在進められているシノダリティ(共働性)をテーマにしたシノドス(全世界代表司教会議)を準備する力となった、と指摘。

 そして、「私たちの教会の旅の新たな段階を迎えている今、常にルーツに忠実であるとともに、新しい道を探求するための創造性をこれまで以上に発揮することが求められています・・・皆さんは、『前進する教会の生きた希望』です」と若者たちを励まされた。

 メッセージの最後に、「『混乱を引き起こす』ことをせずに、私たちを置いてきぼりにしないように。 清浄でよく調整されたエンジン、 そしてあなた自身の特別な生き方をもって、復活されたイエスを喜びをもって宣言しつつ、車を前に進めてください!」と強く希望された。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2024年3月26日

☩「神を冒涜する非道な行為だ」教皇、モスクワのテロを批判、犠牲者のために祈る

(2024.3.24バチカン放送)

 教皇フランシスコは24日、「受難の主日」のミサに続く正午の祈りで、22日にモスクワ近郊で起きたテロについて「卑劣なテロ攻撃」として非難されるとともに、犠牲者を主の平安の中に委ね、遺族に神の慰めがあるように祈られた。

 「これらの非道な行為は、『殺してはならない』(出エジプト記20章13節)と命じられた神を冒涜するもの」と強く非難したうえで、「こうした行為を計画・実行した者たちを、主が回心させてくださいますように」と祈られ、「イエスはエルサレムに、謙遜で温和な王として入城されました… そのイエスに、私たちの心を開きましょう。イエスだけが、敵意や憎しみ、暴力から私たちを解放してくださいます。なぜならイエスは『慈しみ』と『罪の赦し』だからです」と説かれた。

 そして教皇は、「戦争のために苦しむすべての兄弟姉妹たちのために祈りましょう」と正午の祈りの参加者たちに呼びかけられ、ロシアによる攻撃、破壊で人々が苦しみ続けているウクライナに思いを向けられて、「ウクライナ、そして同じように苦しんでいるガザ地区、その他の多くの紛争地域を忘れないでください」と強調された。

(編集「カトリック・あい」)

2024年3月25日