+「自分の弱さや限界を知っても失望しないで。主はそばにおられる」

(2018.3.12 「カトリック・あい」)

 教皇フランシスコは11日正午のお告げの祈りで以下のようにお話しになった。(バチカン広報の公式発表文英語訳より「カトリック・あい」が翻訳)

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん、おはようございます。

 四旬節第四の日曜はlaetare、つまり「喜び」の日曜と呼ばれます。それは私たちを喜びに招くミサの導入部の交唱だからです。「喜べ、エルサレムよ・・喜びへの招き、歓喜し、祝え、悲しみにある者たちよ」。こうして、ミサをはじめます。この喜びの理由は何でしょうか?その理由は、人への神の大いなる愛、です。今日の福音書が私たちに語ります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を際された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ福音書2章16節)と。この言葉は、イエスがニコデモと話をされたときにおっしゃった言葉、キリスト教徒の信仰宣言の中心にあるテーマを凝縮したものです。絶望的な状況においてさえも、神は介在され、人に救いと喜びを与えてくださるのです。神は脇に立っておられません。その恩寵をもって人類の歴史の中に入り、私たちの人生に介在され、励まされ、そしてお救いになります。

  私たちはこの告知-神なしに物事をなそうとし、神自身と神の言葉から完全に自由になろうとする誘惑を退ける、という―を聴くように求められています。自分自身が何者かを知る勇気を持つとき、私たちは、自分の弱さと限界を受け入れる者たちだということが分かるのです。そうすることで、明日への苦しみと不安、病と死の恐怖に悩まされることもあるでしょう。このことは、どうしてたくさんの人が、出口を求め、トンネルを掘るような危険な近道をし、迷信や破滅的な魔法の儀式に頼ろうとするのか、を説明します。

 自分の限界や弱さを知ることはいいことです。私たちはそれを知らねばなりません。でも失望しないように。限界や弱さを主にゆだねなさい。そうすれば、主は癒しの中で私たちを助け、私たちの手を取り、私たちを放っておくことは、絶対に、なさいません。神は私たちとともにおられ、そのために、私は”喜ぶ”のです。「喜べ。エルサレムよ」と神は言われます。それは神が、私たちとともに居てくださるからです。

 そして、私たちは神なる父に、慈しみにあふれた、まことの、大いなる希望を抱きます。神は、私たちを救うために、ご自分の息子を私たちにお与えになりました。それは私たちの喜びです。私たちはまた、とても多くの悲しみに出会いますが、真のキリスト教徒であるなら、成長して安全を保障するわずかな喜びの希望があります。自分に限界、罪、弱さがあることを知って失望してはなりません。

 神はそばにおられます。イエスは私たちを癒してくださるために十字架に架かられました。これは神の愛です。十字架に架けられたキリストの受難を見つめ、私たちの内に「神はあなたを愛しておられる」と語るために。それは事実です-限界があり、弱さがあり、罪があることは。しかし、神は限界、弱さ、そして罪よりも大きな方です。このことを忘れないように-神は私たちの弱さ、私たちの不信仰、私たちの罪よりも大きな方だということを。そうして、神を手に取らせてもらいましょう。十字架上のキリストの受難を見つめ、前に進みましょう。

 慈しみの御母、マリアは、私たちが神に愛されているという確信を心から抱くようにしてくださいます。私たちが孤独を感じる時、人生の困難に屈する誘惑を受ける時、そばに居てくださいます。この四旬節に私たちが周りの人を赦し、喜びをもって受け入れ、慈善を積むことができるよう、御子イエスのお気持ちを私たちにお伝えくださいますように。

(翻訳「カトリック・アイ」南條俊二)

 

 

このエントリーをはてなブックマークに追加
2018年3月12日