◎教皇の長期連続講話「ミサを味わう」⑥「弱さを認め、心を開き、慈しみを求める、それが『回心を求める祈り』」

 

教皇フランシスコ、1月3日、バチカン・パウロ6世ホールでの一般謁見 – AFP

(2018.1.3 バチカン放送)

 教皇フランシスコが3日、バチカンで2018年初の水曜一般謁見を行われ、ミサ聖祭をめぐるカテケーシス(教会の教えの解説)で、ミサの導入部での「回心の祈り」について考察された。

 まず、回心の祈りは「神と兄弟たちの前で自分の罪を認めることで、ミサ聖祭に、よりふさわしい態度で臨めるように助けるもの」と前置したうえで、「私たちは皆、罪びとであるがゆえに、司祭による回心への招きは、祈りの中にある共同体全体に向けられてます」と話された。

 続いて、「自分のことや、自分の成功だけでいっぱいの心で、何を神に捧げることができるのでしょうか」と参加者に問いかけ、「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ」(ルカ福音書8章9-14節)を引用して、「尊大な者は『自分は正しい人間だ』と自惚れているために、赦しを受けることができず、義とされて家に帰ったのは、自分の惨めさを知り、謙遜に憐れみを請う徴税人でした」とし、「沈黙のうちに良心の声を聴くことで、私たちの思いが神の思いとかけ離れ、私たちの言葉や行いが福音の教えと反対の世俗的なものだということに気づかせられます」と説明された。

 そして、ミサの始めに行われる回心の祈りについて、共同体として参加者が共に告白するが、祈りの言葉は「私」(一人称単数)であり、この罪の総告解の式文を通して「一人ひとりが、思い、言葉、行い、怠りによってたびたび罪を犯したことを、神と兄弟に対して告白するのです」としたうえ、「自分が行えたはずの善を行なわなかったという意味で、『怠り』も告白すべき罪の一つ」とし、「隣人に対して悪いことを行なわない、というだけでは十分ではない。善を行う機会を逃してはなりません」と説かれた。

 また、神と兄弟の両方に自分の罪を告白することで、「罪が、私たちを神から引き離すだけでなく、兄弟たちからも引き離すものだ、ということを、私たちに理解させます」と語られ、さらに、「回心の祈りを声を出して唱える時、胸を手で打つ動作をしますが、これは罪がまさしく自分のものであると誠実に認め、他に転嫁するものではないことを表しています」と解説された。

 回心の祈りでは、罪を告白した後、「聖母マリア、すべての天使と聖人、そして兄弟たちに、罪深い私のために神にお祈りください」と願うが、教皇はここに、神との完全な一致へ向かって歩む私たちを支える、諸聖人たちとの貴重な交わりを見出された。そして、「聖書は、罪の後に心を新たにする恵みに自分自身を開いた『回心者たち』の輝かしい模範を示してくれます」と述べ、「神よ、私を憐れんでください、御いつくしみをもって。深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください」(詩編51章3節)と祈ったダビデ王や、父親のもとに戻ってきた放蕩息子、「神さま、罪びとの私を憐れんでください」(ルカ福音書18章13節)と祈った徴税人、また、聖ペトロや、ザアカイ、サマリアの女などの言葉や姿勢を思い起こすように言われた。

 そして、「自分の弱さを認めると当時に、心を開き、私たちを変容させ、回心させる神のいつくしみを祈り求める。これがミサの始めに行なう回心の祈りの意味なのです」と締めくくられた。

 

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