「大事なのは、助けが必要な人に出会いに行くこと」チリ・サンティアゴでのミサで

教皇フランシスコ、チリ訪問、サンティアゴのミサ会場で – AP

(2018.1.16 バチカン放送)南米訪問を開始した教皇フランシスコは16日、首都サンティアゴで大統領官邸で各界要人らと会見された後、バチェレ大統領と個人会談を行われた。続いて、市内のオイギンズ公園で、今回のチリ訪問で最初となるミサをとり行われた。

 このミサのために、サンティアゴ周辺はもとより、チリ全土から約40万人の信者たちが訪れ、1987年に聖ヨハネ・パウロ2世がミサを司式したのと同じ公園は、南米出身の教皇を迎えて、新たな熱気に包まれた。

 ミサの説教で、イエスの山上の説教を取り上げられた教皇は「この教えは安易な幸福を約束する人々から出たものではなく、苦しむ人々、再びやり直そうとする人々の心と出会ったイエスの、憐れみに満ちた心から生まれたものです」と強調。「多くの困難を乗り越え、立ち上がり、再興と新しい始まりに向かうことができるチリの人々の心にイエスが訴える教え、それが真福八端の教えなのです」と話された。

 そして、この教えは「物事は変らないと思い込み、神の変容の力を信じない人を停滞と麻痺から引っ張り出し、諦めに意気消沈した人を揺さぶる力を持っています」とされ、「イエスは、他の人たちが平和に生きられるように、自ら進んで努力する人たちを『幸いである』と呼んでおられます」と述べ、「平和を望みますか?それならば、平和のために働くことです」と訴えられた。

 教皇はまた、「悪を行なわないことは大変よいことです。しかし、善を行わないことは非常に悪いことです」という聖アルベルト・ウルタド神父の言葉を引用して、助けが必要な人々に自分から出会いに行くことの大切さを説かれた。

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・・説教の全文以下の通り(Sr.岡立子・試訳)・・

 「人々の群れを見て」(マタイ福音書5 章1節)。私たちが今聞いた、福音のこの最初の言葉の中に、イエスの態度―それをもってわたしたちに会いに来ることを望んでいる態度―を見出します。それは、神が、それをもってご自分の民を驚かすのと、同じ態度です(cf.出エジプト記3章 7 節)。イエスの最初の態度は、見ること、ご自分の民の顔(表情)を見つめることです。

 これらの顔(表情)は、神の内奥の(はらわたを、かきむしられるような)愛を動かします。イエスをかき立てるのは、概念や観念ではありません。それは、顔(表情)、人々です。それは、御父がわたしたちに伝達することを望んでいる「いのち」に向かって叫ぶいのちです。人々の群れを見て、イエスは、彼に従っていた人々の顔(表情)と出会います。そして、最も美しいことは、人々が―彼らの側からは―、イエスのまなざしの中に、彼らの探求、渇望の反響を見る、ということです。

 そのような出会いから、この「幸い(真福八端)」のリスト それに向かって歩くようにと、私たちが招かれ、挑戦を受けている視野(将来の展望)l’orizzonte が生まれます。「幸い(真福八端)」は、現実を前にした受身的態度からは生まれません。ましてや、傍観者―その人は、起こったことについての憂鬱な統計(分析)学者となる―からは生まれるはずもありません。

 「幸い」は、失望をまき散らすことで満足する災いの預言者たちからは生まれません。また、「クリック」して、瞬きする間に、幸福を約束する蜃気楼(幻覚)からは生まれません。そうではなく、「幸い(真福八端)」は、イエスのいつくしみ深い心cuorecompassionevoleから生まれます。イエスは、幸いな生活(いのち)を望み、熱望する男女の、いつくしみ深い心、いつくしみを求める心と出会います。

 イエスは、苦しみを知っている男女の心と出会います:「足元の地が揺れ動く」ときに、または「夢が消され(覆い隠され)」、人生の仕事が粉々に砕かれたときに引き起こされる、混乱(喪失感)と悲しみを知っている人々;しかし、それよりさらに、前に進むための硬い意志と戦いを知っている人々;再建し、再出発することを知っている人々の心と出会います。

 何と、チリの人々の心は、再建と新しい出発に熟練しているでしょうか!何と、あなた方は、たくさんの崩壊の後、再び立ち上がることに熟練しているでしょうか!この心に、イエスは訴えます:この心が「幸い(真福八端)」を受けるように!

 「真福八端」は、安易な批判からも、「安価な長談義」“sproloqui a buon mercato”-何でも知っていると確信していても、何も、誰とも関わり合いたくない人々、そして、このようにして、結局は、私たちの共同体、わたしたちの生活における変化と再建のプロセスを生み出すあらゆる可能性をブロックしてしまう人々の-からも生まれません。

 「主は仰せになった、『私はエジプトにいる私の民の苦しみを確かに見、酷使する者の故の彼らの叫びを聞いた。私は彼らの痛みを知っている…』」。

 「真福八端」は、倦むことなく(あきらめることなく)希望する、いつくしみ深い心から生まれます。希望は「新しい日、停滞(沈滞)を根こそぎにすること、否定的な落胆を揺り動かすことだ」と経験する心(«è il nuovo giorno, lo sradicamento dell’immobilità, lo scuotersi da una prostrazionenegativa » Pablo Neruda, El habitante y su esperanza, 5。

 イエスは、貧しい人、泣く人、苦悩する人、苦しむ人、ゆるした人…は幸いと言いながら、ものごとは変えることは出来ないと思っている人、父である神の変容する力を信じることを止めてしまった人、兄弟たち、特にもっとも弱い兄弟たち、見捨てられた兄弟たちを信じることを止めてしまった人々の、麻痺をもたらす「沈滞」を根こそぎにしようとしますviene a sradicarel’immobilità paralizzante。

 イエスは「真福八端」を宣言しながら、「あきらめ」と呼ばれる否定的落胆を揺り動かそうとします。「あきらめ」は私たちに、「もし問題を避けるなら、もし他の人々から逃れるなら、もし隠れてしまえば、あるいは、私たちの快適さの中に閉じこもるなら、もし安心をもたらす消費主義の中にだらだらするなら、もっとましな生活が出来る」と信じ込ませます(使徒的勧告『福音の喜び』2項参照)。それは、私たちを、すべてから孤立し、自分だけ楽しみ、引きこもらせ、他の人々の生活や苦しみを前にして目が見えなくしていきます。

 「真福八端」は、将来に賭け続け、夢をもち続け、神の霊に触れられ、導かれるに委ねる人々すべてにとって、あの「新しい日」です。イエスが、セロ・レンカCerro Rencaから、またはPuntillaから私たちに、「幸いである…」と言いに来ると考えてみてください。

 そうです、あなた、あなた、私たち一人ひとりは幸いです。神の霊によって影響されるにまかせ、この「新しい日」のために、この新しいチリのために戦い、働くあなた方は幸いです。なぜなら、神の国はあなた方のものだからです。「平和をもたらす人は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ福音書5 章9節)。

 そして、あきらめ-それは、荒っぽいざわめきのように、私たちの生き生きした(いのちの)絆を衰弱させ、私たちを分裂させます-を前にして、イエスは私たちに言われます:和解のために身を入れる人々は幸いです。他の人々が平和に生きるために、自分の手を汚し、働くことの出来る人は幸いです。分裂をまきちらさないように精一杯努力する人々は幸いです。このようにして、真福八端は私たちを平和を造り出す者にし、私たちに身を入れるよう招きます。和解の精神が私たちの間に広まるように。

 喜びを望みますか?幸いを望みますか?他の人々が、喜びの生活を送れるように働く人々は幸いです。平和を望みますか?平和のために働いてください。

 サンチアゴがもった、あの偉大な牧者を思い起こさずにはいられません。彼は、あるTeDeumの祈りの中で言いました:「『もし平和を望むなら、正義のために働きなさい』[…]そしてもし、誰かが私たちに、『正義とはなんですか』と問いかけるなら、または、それが単に『盗まない』ことだけにあると考えるなら、私たちはその人に、もう一つの正義が存在すると言おう:あらゆる人間が、人間として扱われることを求める正義」(Card. Raúl Silva Henríquez, Omelia nel Te Deum Ecumenico, 18 settembre1977)。

 平和を蒔くこと-親しさの力で、近しさの力で!家から出て、顔を見、会いに行くことの力で-困難の中にいる人に、人間として、この地に値する子として扱われていない人に-。これが、私たちが平和な未来を織りなすための、糸がほどけてしまった現実を、再び織りなすための、唯一の方法です。

 平和のために働く人は、非常にしばしば、大きな、または微妙な、さもしい(けちくさい)行為や野心に打ち勝たなければならないことを知っています。それらは、大きくなりたい、「名を上げたい」、他の人々を犠牲にして名声を獲得したい、といううぬぼれから生まれます。平和のために働く人は、「私は誰にも悪を行っていない」と言うだけでは十分でないことを知っています。

 なぜなら、聖アルベルト・ウルタド神父が言っているように「悪を行わないことは、とても良いことです、でも、善を行なわないことは、ひじょうに悪いこと」(Meditación radial, abril 1944)です。平和を築くことは、私たちを結び合わせ、私たちの創造性を刺激するプロセスです。私の近くにいる人の中に、よそ者、見知らぬ人ではなく、この地の子un figlio di questa terraを見ることのできる関係を創り出します。

 サンクリストバルの丘(聖クリストフォロス₌3世紀のローマ皇帝デキウスの時代に殉教したというキリスト教の伝説的な聖人にちなんで名付けられ、マリア像のある丘)から、この町(サンティアゴ)を守り、寄り添ってくださる穢れなき乙女マリアに委ねましょう。マリアが私たちを、真福八端の精神で生き、それを望むよう、助けてくださるように。この町の隅々まで、ささやきのように聞かれるように:「平和をもたらす人は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ福音書5 章9節)。

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2018年1月17日