「『イエスとの出会い』だけが、生活に完全な意味を与える」


(バチカン広報)教皇フランシスコは14日正午の祈りで、次のように語られた。

愛する兄弟姉妹たち、おはようございます!

 Epifania(主の公現)の祝日とイエスの洗礼の祝日でのように、今日の福音箇所(ヨハネ福音書1章 35~42節)として示し、このようにして彼に従うよう、彼らを招きます。そして、わたしたちにとってもそうです:わたしたちが降誕の神秘の中で観想した方に、今、わたしたちは、日常生活の中で従うよう招かれています。ですから、今日の福音はわたしたちを、年間の典礼の中に、完全に導き入れます。年間は、普段生活の中で、わたしたちの信仰の歩みを活気づけ、実証するための期間です。(主の)顕現epifania と主に従うことsequelaの間、(主の)現れmanifestazione と召命vocazioneとの間を動く、ダイナミズムにおいて。

 福音の叙述は、信仰の行程の、本質的特徴を示しています。信仰の行程があります。そしてそれは、あらゆる時代の―わたしたちの時代も―弟子たちの行程です。洗礼者ヨハネによって刺激され、イエスに従って来た二人に、イエスが向けた質問から出発して:「何を求めているのか」«Che cosa cercate?» 38節)。それは、復活の朝、復活した主がマグダラのマリアに向けるだろう、同じ質問です:「婦人よ、誰を捜しているのか」«Donna, chi cerchi?»(ヨハネ福音書20章 15節)。わたしたち一人ひとり、人間であるかぎり、探し求めています:幸福の探求、愛の探求、善い、満たされた生活の探求。父である神は、わたしたちに、これらすべてを与えました―ご自分の御子イエスにおいて―。

 この探求において根本的なのは、真の証人-先ず、歩みを行い、主と出会った人-の役割です。福音において、洗礼者ヨハネは、この証人です。そのため、彼は弟子たちをイエスに方向づけることが出来ました。そしてイエスは彼らを、新しい経験に巻き込みます。こう言いながら:「来なさい。そうすれば分かる」«Venite e vedrete» 39節)。そしてこの人たちは、もはや、あの出会いの素晴らしさを忘れることは出来ないでしょう。福音作者が、その正確な時間を記すまでに:「時は午後四時ごろであった」(同)。ただ、イエスとの個人的(パーソナルな)出会いだけが、信仰の歩み、弟子としての歩みを生み出します。わたしたちは、たくさんの経験をし、たくさんのことを実現し、たくさんの人と関係を築くことが出来るでしょう。でも、イエスとの出会いl’appuntamento―神がご存じの、その時に―だけが、わたしたちの生活(いのち)に完全な意味senso pienoを与え、わたしたちの計画やイニシアティブを実りあるものとすることが出来ます。

 誰かから聞いたことを土台にして、神のイメージを形づくるのでは十分ではありません。神である「先生」を探しに出かけて、その方が住んでいるところに行く必要があります。二人の弟子たちのイエスへの質問:「どこにお泊りですか(どこにお住まいですか)」«Dove dimori?» 38節)は、強い霊的意味をもっています:それは、「先生」がどこに住んでいるかを知りたい―彼と共にいるstare con Luiことが出来るように―という切望を表現しています。信仰の生活は、主と共にいたいという切望の中に、ゆえに、主が住んでいる場所の絶え間ない探求の中にあります。これは、わたしたちが、慣習的な(習慣を変えない)、当たり前な宗教性una religiosità abitudinaria e scontataを乗り越えるよう呼ばれることを意味します。祈りの中で、神のみことばの黙想、諸秘跡への参与の中で、イエスとの出会いをよみがえらせながら 。イエスと共にいるために、そして、イエスのおかげで、イエスの助けで、イエスの恵みで、実を結ぶために。

 イエスを探し求めること、イエスと出会うこと、イエスに従うこと:これが歩みです。。

 おとめマリアが、わたしたちを支えてくださるように。この、イエスに従うこと、出かけて行って、イエスが住んでいるところにいる決意―いのちのみことばを聞くために、世の罪を除くイエスに参入するために、イエスの中に、希望と霊的弾みを再び見出すために―において。

(試訳「カトリック/アイ」Sr.岡立子)

 

このエントリーをはてなブックマークに追加
2018年1月15日