+「『私の父の家を”商売の家”としてはならない』は私たちへの言葉でもある」


(2018.3.4 「カトリック・あい」)教皇フランシスコは4日正午のお告げの祈りで次のようにお話になった。(バチカン広報の公式発表の全文)

 兄弟姉妹の皆さん、おはようございます!

 今日読まれるヨハネ福音書では、イエスが、商売人たちをエルサレムの神殿から追い出したエピソードが語られます。彼は自分で縄で鞭を作り、台をひっくり返して、言いました。「私の父の家を”商売の家”としてはならない!」(2章16節)。復活祭まじかになされたこの断固として振る舞いは群衆に強い印象を与え、ユダヤ教の権威ある者たちと経済上の理由から恐れを感じた者たちに敵意を抱かせました。

 では、私たちはこのことをどのように解釈すべきでしょうか?明確に、これは暴力行為ではなく、神殿の衛視たちが介入するほどのことではありませんでした。いいえ!これは、預言者たちの典型的な振る舞いを意図したものです。彼らはしばしば、神の名において、乱用や行き過ぎた行為を糾弾しました。提示された問題は、権威についてのものです。実際に、ユダヤ人たちはイエスに「こんなことをするからには、どんなしるしを我々に見せるつもりなのか」と尋ねます。つまり、どういう権威をもって、こんなことをするのか?と聞いたのです。神の名において実際にふるまうところを見せろ、と求めるかのように。

 神の家を清めるためにイエスがされた振る舞いを解釈するために、弟子たちは聖書に「あなたの家を思う熱意が私を食い尽くす」(詩編69章10節)と書いてあるのを思い出し(ヨハネ福音書2章17節)ました。「あなたの家を思う熱意が私を食い尽くす」-詩編のこの個所は、敵が抱いた嫌悪ゆえの極め付きの危険-イエスが苦難に遭遇するであろう-状況にあって、助けを求める祈りなのです。父とその家を求める熱情が彼を十字架へと導きます。彼の熱情は、自己犠牲に至る愛の熱情であり、暴力によって神に仕えようとする誤ったものではありません。事実、イエスが見せることになる権威の証しとしての”しるし”は、まさにご自分の死と復活なのです。「この神殿を壊してみよ」とイエスは言います。そして「三日で立て直して見せる」(2章19節)と。そうして、福音史家はこう書きます。「イエスの言われる神殿とは、ご自分の体のことだった」(21節)。新たな信仰、新たな神殿において、愛の信仰、そして「新たな神殿」とはイエスご自身なのです。

 今日の福音書で語られたイエスのこのような振る舞いは、自己の有利さや興味を求めて生きるのではなく、愛である神の栄光を求めて生きるように、私たちを強く誘います。私たちは、イエスの力強い言葉を常に心に抱くように求められています-「私の父の家を”商売の場”にしてはならない」。教会が神の家を商売の家に安易にしてしまうとすれば、とてもひどいことです。このイエスの言葉は、私たちの魂が危険に遭うのを拒絶する助けになります。私たちの魂は、神の住まい、寛大で助けを得られる愛の中に私たちが帰っていくことを絶えず求める場所なのです。イエスのこの教えは、常に生きています。教会共同体のためだけではなく、一人ひとりのために、地域共同体、そして社会全体のために。

 実際に、良いこと、時として必要なこと、不法ではないが個人的な利益を培うための行動を利用しよう、という誘惑は普通にあります。そうした誘惑が、神そのもの、神への信仰、あるいは人、神の偶像を食い物にする時、深刻な危険が起きます。ですから、イエスは、そうした時に、私たちから致命的な危険を取り払うために”強い方法”を用いされたのです。

 この四旬節を、私たちの人生の唯一の主としての神を改めて知る機会とするように、私たちの心と働きからどのような偶像崇拝の形も取り除くように、無原罪のマリアが私たちを助けてくださいますように。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

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2018年3月5日