◎教皇の長期連続講話「ミサを味わう」⑩説教後の沈黙、「信仰宣言」「共同祈願」の深い意味

教皇フランシスコ、2月14日、バチカンでの一般謁見

(2018.2.14 バチカン放送)

 まず、先週の”復習”として、「福音朗読」と、それをふさわしい形で説明する「説教」に耳を傾けることは、「神の民の霊的な権利に応え、神のみことばの宝を豊かに受け取ることです」と語り、「主はミサの参加者、司牧者、信者、あらゆる年齢、状況の人に語りかけ、それぞれの心を叩き、慰め、呼びかけ、新しい命と和解を芽吹かせます」と話された。

  それゆえ、「説教の後の『沈黙』は、受け取ったみことばの種が心の中に落ちるのを待ち、一人ひとりがそれを考えることを可能にする時間なのです」と続けられた。

 この沈黙の後の、参加者一人ひとりの信仰の応えが「クレド」の形において「信仰宣言」される。「信仰宣言」は、会衆全員で唱えられるが、「それは、共に耳を傾けたみことばに対する共通の応えを象徴しています」としたうえで、「みことばを聞くことと、信仰の間には、生き生きとした結びつきがある。信仰とは人間の頭から生まれるのではなく、聖パウロが言うように『信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる』(ローマの信徒への手紙10章17節)ものなのです」と強調された。また、「信仰は、みことばを聞くことによって養われ、それによって秘跡へと導かれます」とも説かれた。

 神のみことばに対する信者らの応えは、次に、教会と世界に必要なことを祈り求める「共同祈願」となって表現される。助祭か朗読者によって一つずつ意向が読まれ、会衆は声を合わせ「主よ、わたしたちの祈りを聞き入れてください」と願う。

 教皇は「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」(ヨハネ福音書15章7節)というイエスの言葉を引用され、「信仰の薄いわたしたちは、それを信じられるように、主に自分の弱い信仰を助けてもらう必要があります」と話された。

 そして、祈りの意向について、「世俗的な論理による要求や、自分のことだけを願うものは、その祈りが天まで上がっていくことはありません」、「神の民の祈りの意向は、教会共同体と世界が具体的に求めるものを代弁すべきで、ただの形式的な祈りや、近視眼的な祈りであってはなりません」と注意を促され、「言葉の典礼」を締めくくる「共同祈願」は、「ご自分のすべての子らをいつくしまれる神の眼差しを、わたしたちも持つように、と招いておられるのに応えるものなのです」とお話しになった。

(バチカン放送日本語版を「カトリック・あい」が編集しました)

このエントリーをはてなブックマークに追加