記憶の日が祝われたばかりです。わたしたちの人間性を回復するために、現実に関する人間の理解を回復するために、そして、隣人に対する、たくさんの責められるべき(悲しむべき)形の無関心(無気力)を乗り越えるために。記憶は、未来へのアクセスの鍵であり、若い世代に、ふさわしくそれを託すのは、わたしたちの責任です。これに関して「ユダヤ人との宗教関係委員会」の文書 今年はその公布20周年です―:「わたしは記憶にとどめます-ショア-を反省して」“Noi ricordiamo: una Riflessione sulla Shoah” 1988年3月16日)を思い起こしたいと思います。
教会は、手を差し伸べることを切望しています。思い起こし、共に歩くことを切望しています。この行程において、「教会は、誰に対するものであれ、すべての迫害を非難するが、ユダヤ人に向けられる憎悪や迫害や反ユダヤ主義的表現についても、いつ、誰によってなされるものであれ、これを糾弾するものである。それは、ユダヤ人との共通の遺産[記憶]を心に留めてのことであり、また、政治的な理由からではなく、宗教的・福音的な愛に駆り立てられてのことなのです」(第二バチカン公会議、『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言』Nostra aetate 4項)。
実際、本当に人間的な未来を準備するためには、悪を拒否するだけでは十分ではありません。一緒に善いものを築く必要がありますInfatti, per preparare un futuroこのことすべてにおいての、あなた方の努力に感謝します。平和の主があなた方に寄り添い、あなた方のあらゆる良い意図を祝福してくださいますように。