◎教皇連続講話「主の祈り」⑮”主が誘惑に陥らせるのではない”-訳文変更の必要を改めて指摘

(2019.5.2 カトリック・あい)

 教皇フランシスコは、バチカンで5月1日、水曜恒例の一般謁見を行われ、謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、先週に続いて「主の祈り」を考察。今回は「lead us not into temptation(英語公式訳=現在の日本語訳は『わたしたちを誘惑におちいらせず』となっている)の箇所を取り上げられた。

 この個所について、教皇は、現在の世界各国の訳は(注:日本語訳も含めて)と言えず、あたかも神が人間の歩みを脅かす誘惑の主役であるような誤解を与えている、とされ、主への嘆願の表現を、例えば「abandon us not when in temptation(誘惑に遭った時、私たちを見捨てないでください)」というように改める必要を改めて示された。

 教皇はこれまでも、主の祈りのこの箇所の多くの国語での翻訳が適切でないとして、見直しを提起されており(注)、そのお考えを改めて示されたものだ。すでにフランスの司教団は改定に踏み切っているが、日本の司教団は現在、典礼文などの見直しを進めているというが、教皇のこうした指摘を受けて、早急に改定を急ぐ必要がある。

 そのうえで、御父は、子が魚を求めているのに蛇を与えるような悪を仕組む方ではなく、「人の人生が悪による危機にさらされた時、人がその悪から解放されるよう、共に戦う方」とされ、「試練と誘惑は、イエスご自身の人生にも、神秘として存在します。神の御子はその体験を通して、完全に私たちの兄弟となられたのです」と説かれ、イエスが罪人たちの群れに交じり、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたた後、荒れ野に行き、悪魔からの誘惑を受け、イエスがすべての誘惑を退けると、悪魔は離れ去り、天使たちが来てイエスに仕えたエピソードを思い起こされた。

 さらに、イエスの最も大きな試練として、ゲツセマネの祈りを指摘。「私たちが最大の試練にある時、神は私たちを一人にしません。しかし、イエスがゲツセマネで苦悶され、弟子たちに『私は死ぬほど苦しい。ここを離れず、私と共に目を覚ましていなさい』(マタイ福音書26章38節)と言われたにもかかわらず、彼らは眠りこけいました」と語られ、イエスが体験した孤独と苦悩との闘いを「人となられた神の神秘の最後の封印」として観想された。

 また、「私たちが試練にある時、その苦悩の谷をイエスも通られ、神の御子の存在によって、その谷が祝福されたものになったことを、慰めとするように」と勧められ、「神は決し、決して私たちを見捨てられません」と強調された。

*1日は労働者の守護の聖人、聖ヨゼフの日、職の無い人々のために祈る

 カテキーシスを終えて謁見の最後に、教皇は、この日が労働者の守護の聖人である聖ヨゼフの祝日であることから、「職を失い、あるいは職を見つけることのできない人たち」に言及し、労働者の守護の聖人である聖ヨゼフに「彼らのために主にとりなしてくださるように」と祈りを捧げられた。

(バチカン放送日本語版、同英語版のVaticanNewsをもとに編集、聖書の日本語訳は「聖書協会 共同訳」を使用「カトリック・あい」)

 

注・「カトリック・あい」

 *2017年12月8日付けのイエズス会ロンドンのインターネット・ニュースTabletでは、教皇フランシスコがイタリアのテレビ放送TV2000のインタビューに答え、カトリック教会の祈りの中で最も重要な「主の祈り」にある「non ci indurre in tentazione」 (英語公式訳はこの直訳の『lead us not into temptation』 、日本語公式訳は『わたしたちを誘惑におちいらせず」)は、より正確に神学的な見方に従って、「don’t let me fall into temptation」あるいは「Do not let us into temptation」などとするのが適当、との考えを明らかにされた、と伝えていた。

 教皇はこの中で「この翻訳の言葉はよくありません」と指摘し、その理由を「人々を誘惑に❝lead”(導く、おちいらせる)のは神ではなく、サタンであるからです」とし、「この表現は変えるべきです」と語った。そして「(誘惑に)陥るのは私。私を誘惑に陥らせるのは彼(神)ではありません。父親は自分の子供にそのようなことをしない。すぐさま立ち直るように助けてくれます」と述べ、さらに「私たちを誘惑に導くのはサタン。それがサタンの役回りなのです」と改めて強調した。

 この箇所をどのように改めるべきかについて教皇は、より正確にこうした神学的な見方に従って、「don’t let me fall into temptation」とするのが適当、とし、フランスの司教団がこのほど主の祈りを見直し、英訳した場合、「Do not submit us to temptation」としていたのを「Do not let us into temptation」と改めたのを「妥当」とされた。

 Tabletによれば、現在の主の祈りの言葉は、ギリシャ語訳をラテン語に翻訳したものを元にしており、そのギリシャ訳の元になっているのは イエスが実際に語られていたアラム語(ヘブライ語の古語)だ。教皇庁立グレゴリアン大学のマッシモ・グリリ教授は「ギリシャ語のこの箇所は『eisenenkês』で、文字通り訳すと『don’t take us inside』であり、そのように訳し直すべきだ、としている。

 教皇フランシスコはこのほど、教会法の部分改正を実施、各国語の典礼文の表現について、バチカンから現地の司教団に権限の比重を移す決定をしたが、従来のようなラテン語訳からの文字通りの翻訳を続けるか、それともギリシャ語やアラム語の原本を重視すべきかの議論は続いている。

 教皇フランシスコの先輩のイエズス会員、ミラノ大司教で高名な聖書学者でもあったカルロ・マリア・マルティーニ枢機卿(2012年没)は著書「イエスの教えてくれた祈り―『主の祈り』を現代的視点から」(教友社刊・篠崎栄訳)の中で、この部分を「私たちが誘惑に負けることのないようにしてください」としている。まさに教皇の指摘された線に沿っている、というよりは先取りしていた、と言えるだろう。現在の日本語訳は表現があいまいで、しかも、神に「誘惑しないで」と求めているように読めてしまう。日本の司教団は現在、典礼文などの見直しを進めているというが、主の祈りもこのマルティーニ枢機卿の表現を参考に見直す必要がある。(南條俊二)

このエントリーをはてなブックマークに追加
2019年5月1日