♰「貧しい人々は、私たちに福音の生き方を教えてくれる」ー「世界貧しい人々の日」に

(2019.11.17 Vatican News Linda Bordoni)

 「世界貧しい人々の日」の17日、教皇フランシスコは、サンピエトロ大聖堂でこの日のためのミサを捧げ、説教の中で、「貧しい人々が私たちに福音の生き方を思い起こさせてくれます… 施しを願う人々が主に手を差し出すように。彼らは教会の宝物です」と語り始められた。「世界貧しい人々の日」は、教皇フランシスコが、2017年の「慈しみの特別聖年」の締めくくりの日、年間第33主日を記念して設けられたもの。

 以下はバチカン広報発表の説教の全文。

 「このミサで朗読された主日の福音(ルカ21章5-19節)で、イエスは同時代の人々と私たちの両方を驚かせています。他の皆がエルサレムの壮大な神殿を賛美している間、イエスは彼らに『一つの石』も崩されずに『他の石の上に』残ることのない日が来る、と告げられました。では、なぜ彼はこのような神聖な施設について語るのでしょうか… それは単なる建物ではなく、宗教的シンボルであり、神と信者のための家だからです。では『神の民の確固たる信念が崩れる』と預言するのはなぜでしょうか。私たちの世界がますます少なくなっている時に、なぜ、主は私たちの確信を崩されるのでしょうか?。

 イエスの言葉の中に答えを探しましょう。彼は私たちに、『ほとんどすべてのものが無くなる』と言います。『ほとんどすべて』ですが、『すべて』ではありません。王国と人間の出来事であり、人類そのものではありません。『最後から2番目』のものは、多くの場合最終的なもののように見えますが、そうではありません。それらは私たちの寺院のような荘厳な現実であり、地震のような恐ろしい現実です。それらは天国の兆候であり、地球上の戦争です(21章10-11節参照)。私たちにとって、これらは新聞の一面に載るニュースですが、主は2ページ目に掲載しています。決して死ぬことのないものは、私たちが彼のために建てたどの神殿よりも無限に大きい生きている神、世界のすべてのニュース報道よりも価値がある私たちの隣人、です。

 人生で本当に大切なことを理解するために、イエスは私たちに二つの誘惑について警告しています。

 1つ目は、『たった今』を急ぐ誘惑です。私たちは『終わりがすぐに来ている』、『時が近づいている』(8節)と言っている人たちに従うべきではありません。私たちは、他人や未来への恐怖を助長する警戒心に従うべきではありません。恐怖が心と心を麻痺させるからです。

 私たちはどれだけの頻度で、『今、すべてを知りたい』という強い欲求、好奇心にかられ、最新のセンセーショナルなニュースまたはスキャンダラスなニュース、愚かな話、大声で怒り叫ぶ人々の叫び声に誘惑されるでしょうか? この性急さは、神から来たのではありません。私たちは、『今』に躍起になると、残っているものを永久に忘れてしまいます。私たちは『過ぎ去る雲』を追いかけ、『空』を見失います。今起こっている騒々しさに気を取られ、神のために、隣に住む兄弟姉妹のために時間をかけることが出来なくなります。これが今日の現実です!走り回って、すべてを今すぐ達成しようと狂乱する中で、取り残された人は『迷惑な存在』と見なされます。そして『使い捨て』の対象、と見なされます。『役に立たない』と見なされる高齢者、胎児、障害者、貧しい人がどれほどいるでしょう。私たちは、格差が拡大すること、わずかな人の貪欲さが多くの人の貧困を増すことを心配することもなく、我が道を行きます。

 性急さに対する解毒剤として、イエスは今日、私たち一人一人に忍耐を提案しています。『忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい』(19節)と。忍耐とは、死ぬことのないもの、すなわち主と隣人に目を留めて日々前進することです。これが、忍耐が神の贈り物である理由です(聖アウグスチヌス”De Dono Perseverantiae”2.4を参照)。私たち一人一人、そして教会としての私たち全員が、善を持ち続け、本当に大切なことを見失うことのないように、願います。

 イエスが私たちをなしで済ませたいと思われている、という思い違いがあります。彼は言い​​ます-惑わされないように気をつけなさい。私の名を名乗る者が大勢現れ、『私がそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない(8節)と。それが、二つ目の誘惑、自己中心の誘惑です。キリスト教徒は、『たった今』を求めず、『永遠』を求めます。『私』ではなく『あなた』に関心があります。キリスト教徒は、興味をそそるが危険な誘惑に従うのではなく、愛の呼びかけ、イエスの声に従います。

 どのようにしてイエスの声を見分けますか? 『私の名を名乗る者が大勢現れる』と主は言われますが、そのような者に従うべきではありません。『キリスト教徒』あるいは『カトリック教徒』というラベルを身に着けているだけでは、イエスに属するのに十分ではありません。私たちはイエスと同じ言葉、つまり愛の言葉、『あなた』の言葉を話す必要があります。イエスの言葉を話す人は、『私』と言う人ではなく、自分自身から抜け出る人です。それでも、どれほどの頻度で、たとえ私たちが善を行ったとしても、『偽善』に打ち負かされていることでしょう?

 私は、善行だと思われるように善を行います。私は順番に従います。大切な人との友情を勝ち取るために助けを出します。それが『自分の言葉』の話し方です。しかし、神の言葉は私たちに『偽りのない愛』(ローマの信徒への手紙12章9節)に拍車をかけ、借りを返すことのできない人々に与えます(ルカ福音書14章14節、6章35節参照)。ルカ6:35)。ですから、自分自身に問いかけましょう。『見返りをもらえない人を助けますか?キリスト教徒である私は、少なくとも一人の貧しい人が友人としていますか?』と。

 貧しい人々は、神の目に価値ある存在です。それは、彼らが『自分の言葉』を話さないからです-彼らは自分で、自分の力で自分自身を支えません。誰かの助けを必要としています。貧しい人々は、私たちがどのように福音を生きるべきかを思い起こさせてくれます。神に手を差し出す物乞いをする人のように。貧しい人々の存在は、『心の貧しい人々』が祝福されている福音の新鮮な空気を、私たちに吸い込ませてくれます(マタイ福音書 5章3節を参照)。彼らが私たちの扉をたたく時、うるさがらずに、自分自身から表に出ていくようにとの招きと受け止め、助けを求める彼らの叫びを喜びをもって受け入れ、神の愛ある視線で彼らを歓迎しましょう。貧しい人々が私たちの心の中で、神の心の中に彼らが持っている場を占めることができたら、なんと素晴らしいことでしょう!貧しい人々と共に立ち、貧しい人々に仕え、私たちはイエスがご覧になるように物事を見、何が生き残り、何が過ぎ去るもいつもお世話になっております。なのかを知ります。

 最初の問いに戻りましょう。最後から二番目の、そして過ぎ去る現実の中で、主は今日、究極のもの、永遠に残るものを私たちに思い起こさせたい、と願っておられます。それは愛、 『神は愛』(ヨハネ手紙1・4章8節)だからです。私の愛を求める貧しい人は、私を直接、神に導きます。貧しい人々が、私たちの天国への歩みを容易にします。これが、神の民の信仰が、彼らを天国の『門番』とみなす理由です。今でも、彼らは私たちの宝、教会の宝です。それは、貧しい人々が、決して古くなることのない豊かさ、天と地を結びつける豊かさ、人生が本当に生きる価値のある豊かさ、愛の豊かさを、私たちに明らかにするからです」

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

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2019年11月18日