ザアカイは徴税人で、そのために罪人と見なされていた。イエスがエリコを通られていると聞いて、彼は「イエスがどんな人か見ようとした」-イエスに会うことは期待していなかった。
「しかし」と教皇は言われた。「彼は関心を持っていました。イエスについて素晴らしいことを聴いていたので、その人を見ようとしたのです」。
ザアカイは背が低かったので、主を見るために木に登った。
イエスはザアカイが木に登った場所に来ると、上を見上げて、彼を見た。教皇は「これは重要な点です。最初に相手を見たのはザアカイではなく、イエスです… 主の慈しみに満ちた眼差しは、私たちが、救われる必要があると分かる前に、私たちに注がれるのです」と指摘。
そして、主の眼差しがザアカイに注がれることで、彼の奇跡的な回心が始まる、とされ、「イエスは、彼を詰問したり、説教したりしませんでした… 彼に、『私は、あなたの家に泊まらねばならない』と言われたのです… それが父のご意思だから、『ねばならない』のです」と説明された。
ルカ福音書のこの箇所で、イエスを見ていた人々は、「あの人は、罪深い男の所に行って宿をとった」と口々につぶやいた。教皇は「私たちもまた、このようなイエスの振る舞いに憤慨するかもしれません」とされた。人々のザアカイに対する蔑視は彼を孤立させ、さらに罪深いものとさせたが、「神は、罪をとがめるが、罪人を救おうとされます… 神が自分を助けようとしてくださっていると感じたことのない人にとって、イエスがザアカイに対して見せた振る舞いと言葉の特別の素晴らしさを理解するのは難しい」と語られた。
「ザアカイを回心に導いたのは、イエスが彼に向けた歓迎と注意です… その瞬間に、ザアカイは、金銭によって消費されている暮らしのつまさなさを知ったのでした」。イエスが彼の所に来られた時、「ザアカイは、これまでとは違った目で、そしてイエスが自分をご覧になった優しさを少しばかり持って、全てを見ることができたのです」と教皇は説かれた。
強欲だったザアカイは今や、気前が良くなり、もっと手に入れようとしていたザアカイは今や、人にあげることに幸せを感じた。「愛と出会うこと… 自分の罪にもかかわらず愛されいることを知り、他の人々を愛することができるようになった」-罪の元となっていた金銭を「連帯と交わりのしるし」に変えたのだった。