♰「キリストに付き従うことは、機敏で、決断力に富み、活動的であること」

(2019.6.30 VaticanNews  Christopher Wells)

 イエスに付き従うことは「後ろを振り返らないこと」ー教皇フランシスコは30日の正午の祈りの説話で、主の弟子である、ということは機敏で、決断力に富み、常に活動的であることを意味する、と強調された。

 説話で教皇は、この日のミサで朗読された福音書の中から、キリストがエルサレムに向かう途中で3人に出会われた箇所(ルカ9章57節~62節)を取り上げ、「イエスに付き従いたいと熱望する人に、何が求められているかを、はっきりと示しています」とされた。

 最初の人は物惜しみしない人で、イエスが行かれる所なら、どこにでも付いていく、と約束する。これに対して、イエスは、人の子は「頭を休める場所」を持たない、いつも動いている、と答えられた。この人と同じように、「教会は、常に活動的であるように、求められています… 私たちの使命は『静止』ではなく、『遍歴』です… 教会は、人間の、そして実存の周辺部に達するために、世界のすべての道を進むように求められているのです」と教皇は語られた。

 弟子を志願したもう一人は、「まず、父を葬りに行かせてください」と願うが、キリストは「故意に挑発的な言葉」を使い、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」と返事をされる。「このように言うことで、イエスは『主に付き従う際に、福音を宣言する際に、最も重要なのは何か』を強調しようとされます… 機敏さと完全な用意を求めているのです」と説明された。

 そして、三人目の志願者が主に付き従う前に家族に別れの挨拶をするのを望んだのに対して、イエスの返事は「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」だった。この言葉で「イエスは、家族との別れを惜しみ、後ろを振り返ることのないように、決断力を発揮するように、と彼に求めたのです」と言われた。

 このようにイエスが示された弟子の条件は「ノー」を連発することを意味せず、「最重要の目的-キリストの弟子となること」を強調する意味をもっていた、とされた教皇は「これは自由な、熟慮の上の選択、愛をもとになされる、計り知れない神の賜物に応えるためのもの。自分自身を売り込む方法として作られたものではありません」、そして、「イエスは、ご自身に、そして福音に、情熱を傾けることを、私たちに望んでおられます。そして、一番助けを求めている兄弟姉妹たちに対する愛の具体的な行為につながるやり方で情熱を傾けることを」と強調されて締めくくられた。

 

*「米朝首脳会談が、半島と世界の平和へのさらなる一歩となるように」

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

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2019年7月1日