♰「アルペ神父に倣い、社会的使徒職を果たせ」-イエズス会の社会正義とエコロジー国際会議で

 

教皇フランシスコ、イエズス会の国際ミーティング参加者と 2019年11月7日教皇フランシスコ、イエズス会の国際ミーティング参加者と 2019年11月7日  (Vatican Media)

(2019.11.7 バチカン放送)

  教皇フランシスコは、11月7日、社会正義とエコロジーをテーマにしたイエズス会の国際会議の参加者とお会いになり、会議を主宰した同会社会正義とエコロジー事務局が当時総長だった故ペドロ・アルペ神父によって開設されて50周年を迎えたことを祝うとともに、社会に対するいっそうの関心と貢献を求められた。

  あいさつの中で教皇は「イエズス会は貧しい人々への奉仕に招かれており、聖イグナチオが基本精神要綱に記したように、それは同会の一つの召命です…この伝統は、会の創立期から今日まで続いています」とされたうえで、教皇のイエズス会の大先輩、アルペ神父(スペイン出身でイエズス会の初代日本管区長 を務めた後、第28代総長 (1965年 – 1983年) となった)に言及。

 「 アルペ神父はその伝統の強化を望まれましたが、彼の召命の根底にあったものは、人々の苦しみに触れた経験でした… 彼は『信仰の奉仕と正義の促進は切り離すことができない。根本的に一致したものだ』と信じておられました」と振り返られた。

 また、「私たちは毎年降誕祭に神を生まれたばかりの幼子の中に観想しますが、その幼子は『自分の民のところへ来たが、民から受け入れられなかった』(ヨハネ福音書1章11節)-疎外された存在でした」と語り、「(注:イエズス会の創立者である)聖イグナチオによれば、聖家族には奉仕する一人の侍女がおり、彼は自分もその侍女と一緒にその場にいるようにし、小さな、値しないしもべとなって、聖家族を見つめ、観想し、聖家族の必要において奉仕するよう招いていたこと」を思い起こされ、「疎外された神」に対するこの動的観想は「見捨てられた人々の一人ひとりが持つ美しさを発見するための助けになります」と話された。

 そして、「今日の世界は、脅かされている命を保護し、弱い立場の人々を守るように変わっていく必要があります」とされたうえで、「では、社会的使徒職は、問題解決のために存在しているのでしょうか」と問いかけられ、「存在します。特に問題解決のプロセスを促進し、希望を促すために存在します。そのプロセスは人や共同体の成長を助け、彼らの権利を自覚させ、能力を伸ばし、自分たちの未来を作ることを助けるのです」と強調された。

 教皇は最後に、アルペ神父の遺言といえるメッセージが記された一枚のカードを示され、「アルペ神父は、タイの難民キャンプで見捨てられた人々と共にいて、彼らと共に苦しむことを望み、タイからの帰路で発作に襲われました。彼がタイで残したメッセージは『祈りを忘れてはならない』という言葉でした… このカードとともに、アルペ神父のメッセージを忘れないでいただきたい」と希望された。

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*(ウィキペディアより)ペドロ・アルペ神父の生涯

:裕福なバスク人の家庭に生まれ、ビルバオのサンティアゴ使徒学院に学び、マドリード大学医学部に進んだ。そこで彼は後にノーベル生理学・医学賞を受賞するセベロ・オチョアや生理学のパイオニアでスペイン内戦時代の首相となるフアン・ネグリンに出会った。1927年にイエズス会に入会し、1936年に司祭に叙階された。修練期には米カンザス州の聖マリア学院 で学んだ。

 修練期を終えると1940年に日本に派遣され、山口カトリック教会で主任司祭となったが、真珠湾攻撃の1941年12月8日、ミサ後に投獄された。彼の非攻撃的な態度と振舞いに獄吏と裁判官は敬意を示し、約1か月で釈放された。1942年3月から広島のイエズス会長束修練院の院長を務めた。1945年8月6日の広島への原爆投下では、修練院を臨時の病院として200人の被爆者を手当した。
 1958年からイエズス会の初代日本管区長を務めた後、1965年に第28代総長に選ばれた。彼は総長として、「我らの今日の使命: 信仰への奉仕と正義の促進」では信仰と並んで社会正義の促進を掲げたが、社会正義の促進を掲げることに対し「政治と信仰の混合だ」との批判が起り、議論が行われたが、最終的に圧倒的多数に受入れられた。この主張をめぐっては世界の教会関係者の間で賛否が続き、第2バチカン公会議の教令の実施について各地の司教会議で議論となった。
 ヨーロッパでは専門主義と科学的・物資主義的無神論の脅威、アジアでは宗教間の対話、ラテン・アメリカでは貧富の格差と社会正義が重要課題とされた。(1980年代に当時の教理省長官、ヨーゼフ・ラッツィンガー枢機卿(後の教皇ベネディクト16世)は「解放の神学において来るべき王国と現在の世界における平等についての根本的な混乱がある」という批判的な見解を表明、教皇として2008年に出した回勅『希望による救い』(“Spe salvi“) でも同様の見解が表明されていた。)
 ラテン・アメリカでは革命闘争に身を投じる者も現れた。中南米の司祭たちは「教会が受入れ、維持しようとさえしている不平等がこの問題の最前線だ」と気付いた。彼らの実践は解放の神学と呼ばれた。イエズス会士としてはヨン・ソブリノオスカル・ロメロ、エルサルバドルの殉教者などがいる。エルサルバドルで1977年、米国の支援を受けた白人戦士連合などの”死の部隊”により47人のイエズス会士が死の脅迫を受け、同国から逃れる者もあったが、アルペ総長は彼らと相談した上で「彼らが殉教者となろうとも、私の司祭たちはこの国を離れないだろう。人々と共にあるからだ」と言明。その後も、1980年にはロメロ司教が、1989年にはエルサルバドルのホセ・シメオン・カニャス中米大学で6人の会士らが殺害されて殉教した。
 こうした事態と前後する形で、1981年にアルペ神父は突然、発作に襲われ、半身不随、言葉も不自由となり、1983年に総長退任を余儀なくされた。退任が承認されたイエズス会総会の開会式で、彼は自ら書いた文書を読み上げ、「私は何時にもまして神のみ手のうちにある。これは私が若い頃から望んでいたことだ。しかし今ここに違いがある。主導権は全て神にある。これは実際にこれまで私が全て神のみ手の内にあると霊的に経験してきたことだ」との言葉を残した。そして長い療養生活の後、1991年に84歳で帰天した。

 (編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

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2019年11月8日