♰「『私は役に立たない僕』という言葉は、教会におけるあるべき奉仕の姿を示す」

(2019.10.6 VaticanNews )

 教皇フランシスコは6日正午の祈りでの説教で、この日のミサで朗読されたルカ福音書17章5節から10節で出てくる「からし種」と「主人に奉仕する僕」について取り上げられた。

この箇所ではまず、主が「からし種一粒ほどの信仰があれば、桑の木を引き抜いて、海に植え付けることができる」と語られているが、教皇は「イエスは私たちに、『信仰を持つ人にとって不可能なことは何もない。なぜなら、自分の力に頼らず、神により頼むので、何でもできるだからだ』ということを分かってもらいたいのです… 信仰を小さなからし種と比べることで、イエスは『信仰は誇ったり、自信を示すものではなく、謙遜の心で、神が必要だと強く感じること、自らを小さくして、全幅の信頼をもって、神にそれを捧げることだ』ということを教えておられるのです」と説かれた。

そのうえで、「では、私たちはどのようにしたら、自分が本当に信仰を持っていると知ることができるのでしょうか」と教皇は会衆に問いかけられ、7節からの「役に立たない僕」のたとえ話を使って、「イエスは、信仰の尺度は奉仕にある、ということを私たちに語っておられます」と答えを出された。

そして、「この箇所の主人の僕に対する振る舞いを聴くと、ちょっとまごつくでしょう-畑での仕事から帰って来た僕に、今すぐ食事の用意をするように命じています」。しかし、「この主人の振る舞いは、このたとえ話の核心をついています-つまり、この僕がそれに応じる姿勢-信仰を持った人が神とのかかわりにおいて、どのようにあるべきかということ-(注:自分に都合のいいことを)主張することも、期待することもせず、ひたすら神の意志に身を任せることーを示そうとしているのです」と説明された。

このような僕の姿勢はまた、「私たちが他の人々に対してどのように振る舞うかに反映されていますー自分が認められたり、感謝されたりすることを期待せずに奉仕することに、喜びを感じることに」とされ、「福音書でキリストが勧められた『私は役に立たない僕です』という言い方は、教会にとって極めて好ましい謙遜と意欲の表現であり、教会における仕事の正しい姿勢-謙遜な奉仕-を私たちに思い起こさせます」と語られた。

最後に教皇は、聖母マリアー信仰の方-への次の祈りで説教を締めくくられた-「ロザリオの聖母の祝日(7日)の徹夜祭を前に聖母マリアに祈りましょう。ポンペイのロザリオの聖母の巡礼聖堂で Supplicaの祈りを捧げる信徒たちと心を合わせて」

[Please see accompanying article for the full text of the “Supplica”, or “Petition”, to the Virgin of the Rosary of Pompeii.]

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

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2019年10月7日