♰「『切り捨て文化』『不平等を生む文化』を克服しよう」-国際障害者デーに(全文付き)

(2019.12.3 バチカン放送)

 教皇フランシスコは3日、「国際障害者デー」のためにメッセージを発表された。

 このメッセージで教皇は、国際障害者デーを機会に、「この最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」(マタイ福音書12章40節)とお考えになるイエスご自身の現存を「すべての兄弟姉妹の中に、信仰の眼差しをもって見つめる」ように、改めて促された。

 教皇は「障害をもつ人々に対し医療や支援の分野で大きな進歩がある一方で、『切り捨ての文化』とともに、多くの障害者が社会への所属や参加を実感できないでいます」と指摘。「障害をもつ人々とその家族の保護だけでなく、障害者の市民の権利を阻むあらゆるものや差別を完全に排除し、様々な場所へのアクセス、生活の質を向上させることで、世界をより人間的なものとする必要」を呼びかけられた。

 また、教皇は、家庭や社会の中で「隠れた亡命者」となっている多くの人々、特にお年寄りをはじめ、障害を理由に、しばしば重荷と認識され、疎外される恐れのある人々、自分の未来を構築するための仕事のビジョンを拒まれた人々を思い起こされ、「法整備、物理的なバリアフリーを進めることは重要ですが、それだけでは十分ではない。日常生活への障害者の活発な参加を阻む『不平等を生み出す文化』を克服し、メンタリティーを改革することが必要です」と強調。

 さらに、「障害者のためのこれらの重要な奉仕と取り組みが、国の社会的レベルを決めるのです」とされたうえで、障害者と共に働くすべての人々を励まされた。

(編集「カトリック・あい」)

 

【教皇フランシスコ「国際障がい者デー」へのメッセージ】全文

  「世界障がい者デー」にあたって、兄弟姉妹一人一人の中に、キリストご自身の存在を見る、わたしたちの信仰のまなざしを新たにしましょう。キリストは、最も小さな兄弟たちの一人に対する、あらゆる愛のジェスチャー(行為)が、ご自分に対してなされたものと考えます(マタイ福音書25章40節参照)。この機会に、わたしは、今日、参加する権利の促進が、差別に反対し、出会いの文化と、質のよい生活の文化を促進するための、中心的役割をもつことを思い起こしたいと望みます。

 医学と介護の分野で、障がいをもっている人たちに対して大きな進歩がなされましたが、今日でも、排斥の文化の存在が認められ、彼らの多くは、所属も参加もなく存在していると感じています。このことすべては、障がいをもっている人と、その家族の権利を擁護するだけでなく、わたしたちに、この世をより人間的にするよう勧めています―彼らに完全な市民権を妨げるものすべて、偏見の妨害を取り除きながら、また、さまざまな場所へのアクセスのしやすさと、人間のあらゆる側面を考慮する、生活の質を推進しながら―。

 次のことが必要です:障がいをもっている人を、あらゆる生活状況の中でケアし、寄り添うこと―現代のテクノロジーをも利用しながら、しかしそれらを絶対視することなく―;強さとやさしさをもって、隅に追いやられている状態を共に担うこと;彼らとともに道を開き、市民、また教会のコミュニティー(共同体)への、積極的参与のために、彼らを尊厳で「塗油する」こと。それは、ますます、一人一人を、唯一の(ユニークで)かけがえのない人間として認めることが出来る意識を形づくることに、貢献する、厳しい歩み、また骨の折れる歩みでもあります。

 そして、わたしたちの家の中に、家族の中に、社会の中に住んでいる、たくさんの「隠された追放者たち」のことを忘れないようにしましょう(お告げの祈り:2013年12月29日、外交団への講話:2015年1月12日参照)。あらゆる年代の人、特に高齢者のことを思います。彼らは、障がいのためもあって、時に、自分が重荷であり、「やっかいな存在」だと感じていて、排斥されたり、自分の将来の建設に参与するための、具体的な仕事の見通しを否定される危険があります。

 わたしたちは、障がいをもっているあらゆる人の中に、複雑で重度の障がいをもっていても、自分独自の伝記を通しての、共通善へのユニークな貢献を認めるよう招かれています。一人一人の尊厳を認めること―それは、五感の機能性によるのではないことを良く知りながら―(障がいについての、CEIの会議参加者との対話、2016年6月11日参照)。

 福音はわたしたちに、この回心を教えています。いくつかのいのちがAリーグで、その他はBリーグであると考える文化に対抗する、抗体を発展させるべきです:これは社会的罪です!障がいの状態のために差別されている人々に、声を与える勇気をもってください。なぜなら、残念ながら、いくつかの国において、今日もまだ、彼らを、同じ尊厳をもった人間、人類における兄弟姉妹として認めることが困難なのです。

 実際、良い法律を作り、物理的な障壁を打ち倒すことは大切ですが、十分ではありません―もし、メンタリティーを変えないなら、もし、障がいをもった人に、普通の生活における積極的参加を阻止しながら不平等を生み続ける、蔓延する文化を克服しないなら―。

 近年、包括的なプロセスが実施され、進められていますが、まだ十分ではありません。なぜなら、偏見が、物理的バリアのほかに、すべての人のための教育、仕事、参加へのアクセスに制限を生み出すからです。障がいをもった人は、自分自身を築くために、存在するだけでなく、コミュニティー(共同体)に属する必要があります。

 わたしは、障がいをもった人と働いている全ての人が、国の文明(文化)の水準を決定する、この大切な奉仕と任務を継続するよう奨励します。そして祈ります。あらゆる人が、自分自身の上に、その人の完全な尊厳、その人のいのちの無条件の価値を肯定する、神の父のまなざしを感じることが出来るように。

 バチカンから、2019年12月3日 フランシスコ

(イタリア語の原文からSr.岡が試訳)

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2019年12月4日