◎連続講話「十戒」⑦「日曜は『現実からの逃避』でなく『現実を祝福する』日」

(2018.9.5 バチカン放送)

 教皇フランシスコが5日、バチカンで水曜恒例の一般謁見を行われ、日曜日のあり方について、現実からの逃避ではなく、「現実を祝福する日」であるように、と願われた。

 謁見中、教皇は「十戒」をテーマとするカテケーシス(教会の教えの解説)で、「安息日」をめぐる掟を取り上げ、「安息日を心に留め、これを聖別せよ。…六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」(出エジプト記20章8-11節)と「休み」について命じるこの掟について、「これは簡単な掟に思われますが、それは誤った印象にすぎません」とされ、「休息には、本当のものと、偽のものがある。『休む』ということは単純ではないのです」と話された。

 そして、現在の社会の状況について「人々は娯楽とバカンスに飢えている。気晴らしを与える産業が繁盛し、広告は『理想の社会を皆が楽しむ巨大な遊園地』のように描き出しています」。そうした現代の風潮の中で「『生活』という概念は、『活動したり、専念したり』することにではなく、『逃避』に重心が置かれています。人は『楽しみ、欲望を満たすためだけ」に働いているのです」と指摘。これでは「人は真の休息を得られず、現実逃避の娯楽で麻痺させられ、決して満足することのない人生に陥ってしまうだけです」と警告された。

 教皇は、十戒の掟は「この問題の核心に迫り、休息とは何であるかについて、異なる光を当ててくれます」としたうえで、「主の名による休日が特別な意味を持っているのは、天地創造を完成された主が『七日目に休まれ、安息日を祝福して聖別された」からです」と語られ、創世記に「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」(1章31節)とあるように、ここから始まった安息の日は「創造されたものに対する『神の喜びを表す日』であり、『観想と祝福の日』なのです」と強調された。

 さらに、「主の日は、観想と賛美の時であり、逃避の機会ではありません。現実を見つめ、『人生とは何と素晴らしいものだろう!』と言う日です」「現実逃避の休息に対し、十戒の掟は、現実を祝福する休息のあり方を示しています」「キリスト者にとって、主日(日曜日)の中心には、エウカリスチアがあります。エウカリスチアは『感謝』という意味。それは、『命といつくしみ、そして主が与えてくださったすべての恵み』を主に感謝する日なのです」と重ねて強調され、最後に、主日を「人生と和解する日」、「たとえ困難で苦しいことがあっても、『人生とは素晴らしい』と言う日」として示された。

(「カトリック・あい」が編集しました)

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2018年9月6日 | カテゴリー :