聖金曜日現地時間30日夜(日本時間31日早朝)にローマ市内のコロッセオ(キリスト教徒が迫害・虐殺された円形競技場の遺跡)で、教皇フランシスコがなさった十字架の道行きでの祈りを、Sr.岡の翻訳で掲載します。
主イエスよ、わたしたちの眼差しは、恥ずかしさ、痛悔、希望に満たされて、あなたに向けられています。
+恥ずかしさ(羞恥心)
あなたの最高の愛の前で、恥ずかしさがわたしたちを満たします-わたしたちは、あなたを一人きりに見捨てて、わたしたちの罪のために苦しませました-。
試練を前に逃げ出した恥ずかしさ-「すべての人があなたを見捨てても、わたしは決してあなたを見捨てません」と、何千回もあなたに言ったにもかかわらず-。
あなたではなくバラバを選んだ恥ずかしさ-あなたではなく権力を、あなたではなく見せかけを、あなたではなくお金という神を、永遠ではなく世俗的なものを選んだ恥ずかしさ。
あなたを、口と心で試した恥ずかしさ-わたしたちが試練の前に置かれるたびに、あなたに言いながら:「もしあなたがメシアなら、自分自身を救ってみる。そうすれば信じてやろう」
恥ずかしさ- なぜなら、たくさんの人々が、あなたの司祭たちの幾人かまでが、彼らの尊厳、初めの愛を失いながら、出世、空しい栄光に欺かれるにまかせたから。
恥ずかしさ- なぜなら、わたしたちの世代が、若者たちに、分裂と戦争によってひび割れた世界を残そうとしているから。エゴイズム(利己主義)によってむしばまれた世界-その中で、若者、小さい者たち、病人、高齢者たちは疎外される-。
恥(羞恥心)を失った恥ずかしさ-主イエスよ!わたしたちにいつも、聖なる恥(羞恥心)をください。
+ 痛悔
わたしたちの眼差しは、また、痛悔にも満たされ、あなたの雄弁な沈黙の前にして、あなたのいつくしみ(あわれみ)を嘆願します。
あなただけが、わたしたちを悪から救うことが出来るという確信から生じる痛悔、
あなただけが、憎しみ、エゴイズム、傲慢、貪欲、復讐、強欲、偶像崇拝の口を癒すことが出来るという確信から生じる痛悔、
あなただけが、わたしたちを再び抱きしめることが出来る-わたしたちに、子としての尊厳を戻しながら-、わたしたちが家に、いのちに帰ってきたことを喜ぶことが出来るという確信から生じる痛悔。
わたしたちの小ささ、わたしたちの無(つまらなさ)、わたしたちの虚栄心を感じることからあふれ出る痛悔。回心への、あなたの柔和で(優しい)強力な招きによって触れられるに委ねる痛悔。
ダビデ-自分のみじめな淵から、あなたの中に唯一の力を再び見出した―の痛悔。
わたしたちの恥ずかしさから生まれる痛悔、わたしたちの心は、あなたを見出すまでは、あなたの中に、その充満と静寂の唯一の源を見出すまでは、落ち着かないだろうという確信から生まれる痛悔。
ペトロ-あなたの眼差しと出会い、人々の前であなたを否定したことを激しく泣いた-の痛悔。
主イエスよ、わたしたちに、いつも、聖なる痛悔の恵みをください!
+ 希望
あなたの最高の威厳を前に、わたしたちの絶望の暗闇の中に、小さな希望の光がともされます。なぜなら、わたしたちは知っているからです。あなたの、わたしたちへの愛の唯一の限界は、わたしたちを限界なく愛するということだと。
希望-なぜなら、あなたのメッセージは、今日もまた、たくさんの人々、たくさんの国民にインスピレーションを与え続けているから。善だけが、悪や悪意を打ち負かすことが出来ること、ゆるしだけが、恨みと復讐を打倒すことが出来ること、兄弟的抱擁だけが、敵意と他者への恐れを追い払うことが出来ることを。
希望-なぜなら、あなたのいけにえ(犠牲)は、今日もまた、神の愛の香りを浸透させ続けているから。それは、たくさんの若者たちの心に触れます-彼らは、あなたに自分たちのいのち(生活)を聖別し続けています。利益や、楽な稼ぎの理論によってむしばまれた、わたしたちの世において、愛と無償性の、生きた模範となりながら。
希望-なぜなら、たくさんの男女の宣教者たちが、今日もまた、人類の眠った(無感覚な)良心に挑戦し続けているから。貧しい人々、排斥された人々、移住者たち、目に見えない(忘れ去られた)人々、搾取された人々、飢えた人々、牢獄にいる人々の中にいるあなたに仕えるために、自分たちのいのちを危険にさらしながら。