◎講話「洗礼の秘跡」②洗礼志願者の名を尋ねるのは、神が私たちを名で呼び、愛されるから

 ◎講話「洗礼の秘跡」②洗礼志願者の名を尋ねるのは、神が私たちを名で呼び、愛されるから

教皇フランシスコ、4月18日、バチカンでの一般謁見 – REUTERS

(2018.4.18 バチカン放送)

 教皇フランシスコは18日、バチカンで水曜恒例の一般謁見を行われ、謁見中、「洗礼の秘跡」をテーマとしたカテケーシス(教会の教えの解説)を続けられた。

 まず、「洗礼」の持つ意味は「洗礼式」の中ではっきりと表わされる、と強調。「洗礼の儀式における動作や言葉の中に、私たちはこの秘跡の恵みと洗礼を受けた者の義務を見出すことができます」とし、「キリスト教生活の源泉に立ち返ることは、私たちが洗礼の日に受けた恵みを理解させ、今日、自分が置かれた場所でキリスト者の務めを新たにするのを促します」と述べられた。

 儀式の始まりに、洗礼志願者を迎え入れ、名前が尋ねられるが、教皇はこれについて「名前はその人のアイデンティティーを表わします。神は私たち一人ひとりを名前で呼ばれ、一人ひとりをその人特有の人生において愛されるから、です」と説明された。

 また、洗礼は「それぞれにキリスト者として生きるための一生続く召命を与え、それは受洗者に借り物ではない、自分の答えをもってそれに答えるように招くもの」とされ、「キリスト者の人生は、いくつもの呼びかけと答えで織り成され、神は、私たちが御子イエスと一致するようにあらゆる方法で招きながら、私たちの名をその人生の過程で呼び続けられるのです」と話された。

 そして、キリスト者になる恵みは「天から与えられる恵みであり、信仰を買うことはできませんが、それを求め、恵みとして受け取ることはできます」と述べ、洗礼とは「聖霊の恵みに照らされ、キリストの福音に答えた人々の信仰の秘跡」と説かれた。成人の洗礼志願者が、教会を通してその恵みを受ける意志を自ら表明するのに対し、幼児洗礼の場合は、両親と代父母が代わりとなってそれを行い、問答において、子どもに洗礼を受けさせる意志と、教会側の洗礼式を行う意志が表わされる。

 十字架のしるしについては「私たちのキリストへの所属と、キリストが十字架を通して獲得した贖いの恵みを表わす、キリストの封印」と説明。「十字架は、私たちが何者であるのかを示す目印であり、私たちの話すこと、見ること、行なうことは、すべて十字架のしるしのもと、イエスの究極の愛のしるしのもとにある」と語られた。

 さらに、この十字架のしるしは、幼児の場合は額に、成人の洗礼志願者の場合は、「十字架のしるしを耳に受けなさい、主の声を聞くために」などの言葉とともに、耳や、神の御顔の輝きを見るための目、神の言葉に答えるための口、キリストが心に住まわれるための胸、キリストの「負いやすいくびき」を支える肩にもしるされる、と指摘された。

 キリスト者は、十字架が私たちにしるす「復活」の刻印にしたがって、自らを形成し、それはその人の生き方にも外的に表される。私たちは、起床・就寝時、食事前に、また危険を前にした時や、悪から身を守りたい時に、十字架のしるしをするが、それは自分自身と、他の人に、自分が誰に属する者であるか、誰になりたいかを言っている、と話された。また、教会に入る時、出る時に、聖水盤に指を浸して、その聖水と共に十字架のしるしをするのは、私たちの洗礼を思い起こすためである、と教えられた。

 

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