☩「盲人に盲人の手が引けますか」ー司牧者を含めた指導者たちに自覚を促す

(2019.3.3 VATICANNEWS  Linda Bordoni)

 教皇フランシスコは3日、日曜の正午の祈りの説教で、教育を受けた、指導者としての責任をもつ人たちに「自分たちの役割を自覚し、賢明で、優れた識別力と慈しみの心をもつように」と強く呼びかけられた。

 教皇はこの日のミサで朗読されたルカ福音書の箇所「盲人に盲人の手引きができようか?」(6章39節)とのイエスの弟子たちへの問いかけを取り上げ、イエスがおっしゃろうとしているのは、「案内人-指導者-は、目が見えない人であることはできない、目がよく見えなければならない-つまり、賢明でなければならない。さもなければ、自分を信じて付いて来る人々を損なってしまうこと」と説明された。

 特に、「イエスは、教育を受けた、指導者としての責任をもつ人たちに、注意を促されたのです。『魂の牧者、行政官、議会議員、教師、両親たちは、細心の注意を要する自分たちの役割を自覚し、自分について来る人々を導く正しい道を常に見分けていくように』と」と語られた。

 続いて、「弟子は師を超えるものではない。しかし、誰でも、十分に訓練を受ければ、その師のようになれる」(同40節)というイエスの言葉に移り、ご自身を教師、案内人の模範として示されたことを強調され、これは「善良で賢明な案内人となるために、ご自身の模範と教えに倣うように、との勧め」とされ、この教えは、先週の日曜日まで3回の日曜の福音書朗読で私たちに示された「山上の説教」に含まれている、と指摘された。

 また教皇は、誠実で、謙虚で、公正な人とであるために、素直で慈しみ深い態度をとることが必要、と述べ、朗読されたルカ福音書のもう一つの重要な箇所、「きょうだいの目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目にある梁に気づかないのか?」(同41節)を取り上げて、でしゃばったり、偽善的になることのないように、強く求められた。

 そして、「他人の欠点と罪を見、非難するのは、自分自身を見るよりも、容易でたやすいことがよくあります。誘惑は、自己本位に陥り、誤ったことさえも正当化しようとする振る舞いとなり、一方で、他人を裁く時に、彼らの気持ちを推し量ることをせず、辛辣になることがよくあります」と指摘。「賢明な助言で隣人を助けるのは、良いことで、有益なことですが、彼らの欠点を観察して、直そうとする時には、自分にも落ち度がないように注意する必要があります」と注意を与えられ、「こうして、私たちは信頼のおける者となり、謙遜で、慈しみを証しするように振る舞うことになるのです」とされた。

 さらに、次のルカ福音の箇所をもとに、「自分の目がよく見えなかったら、梁が視界を遮ったら、どうやって(注:相手の目におが屑がついているのが)分かるのでしょうか?」(同42節参照)と問いかけられ、「イエスは私たちにこう言われるのです-『悪い実のなる良い木はなく、良い実のなる悪い木もない。木はそれぞれ、その実で分かる』(同43,44節)と」。「振る舞いは『実』だが、『言葉』でもある。言葉は木の質を表します。良い人はその心から、口から良さを引き出し、悪い人は悪を作り出すのです」と改めて注意を与えられた。

 最後に、教皇は、今日の福音朗読の箇所は、私たちの信仰の旅路に有益な示唆を与え、私たちが「いつも選択し、行動するの前」に識別をするように勧めている、とされ、「識別する力は主の賜物であり、絶えることの無い祈りで願わねばなりません」とし、識別力とともに、謙遜、忍耐、そして、他の人の話を聴き、理解する能力の必要性を強調された。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二・聖書の引用は「聖書 聖書協会共同訳」を使用しています)

 

 

 

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2019年3月4日