☩「恐れねばならないのは『ミイラ化した心』になること」

 (2018.7.2「カトリック・あい」が1日・日曜正午の祈りの説教を翻訳・編集)

 教皇フランシスコが1日、日曜正午の祈りの説教で次のように語られた。

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、おはよう!

 今日の主日の福音(マルコ福音書5章21 ~43節参照)はイエスのなさった素晴らしい二つの業を告げています。命への勝利の行進とでも言えるものです。

 この福音書記者はまず、シナゴーグの指導者の1人であるヤイロについて語ります。彼はイエスのところに来て、自分の12歳の娘が死にかけているとして、家に来てくれるように願います。イエスは承知され、一緒に出掛けますが、途中で、その娘が亡くなった、という知らせが入ります。その時の、父親の態度を想像できるでしょう。

 しかし、イエスは彼に言いました-「恐れることはない。ただ信じなさい!」(36節)と。ヤイロの家に着いて、イエスは、涙を流している人たち-大声で泣きわめいている女性たちもいましたが-をなだめ、両親と三人の弟子を連れて部屋に入り、こう話しかけました-「少女よ、私はあなたに言う。起きなさい!」(41節)。そうすると、娘は、深い眠りから覚めたかのように、すぐに起き上がります(42節)。

 この奇跡の話の中に、マルコはもうひとつの話を挟み込んでいます-長い間出血が止まらなかった女性をイエスが癒された話です。彼女はイエスの外套に触れることたちまち出血がとまり、癒されました(27節)。この話では、この女性の信仰が、イエスの中にある神の救いの力を引き寄せる-「盗む」と言えばいいでしょう-という事実を強調しています。

 イエスは、その時、「ご自分の内から力が出て行った」ことに気づかれ、誰が外套に触れたのか知ろうとされます。そして、その女性が、大いに恥じながら、イエスの前に進み出て、すべてを告白すると、イエスは彼女に言われます-「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」(34節)と。

 この二つの話は一つの核心-信仰-で繋がっています。そして、イエスが命の源、彼を完全に信じる人々に命を返してくださる方であることを示しています。2人の主役―娘の父と病んだ女性-はイエスの弟子ではありませんが、信仰に満たされていました。この人を信じています。ここから、私たちは、誰もが主の道を歩むことを認められていることを知るのです-誰も、自分を、侵入者や虐待者、何の権利もない者だと思ってはなりません。

 彼の心、イエスの心に近づくために、求められることがあります-それは、癒しの必要を感じ、自分自身をイエスにゆだねることです。あなた方にお聞きします-皆さんはご自分に癒しが必要だと感じていますか?何か、何かの罪、何かの問題で?そして、このような問いかけを聞いたとしたら、イエスを信じますか?癒しを受け、イエスの心に近づくために、二つの事が必要です-癒しの必要を感じ、自分自身をイエスにゆだねることです。

 イエスは群衆の中にそのような人々を探しに出かけられ、特定し、生きることと大胆に振る舞うことへの恐れを取り除かれます。苦しみと蔑みを味わった人々に主の道を歩ませる眼差しと言葉で、それを行われます。私たちもまた、苦しみ蔑まれる人々に対する、生への強い願いを解き放つ言葉、報われる眼差しを学び、倣うように、招かれています。

 この福音の箇所で、信仰と新たな命というテーマは、イエスが一人ひとりにお示しになろうとした、互いに関連したものです。亡くなった少女が置かれている部屋にお入りになる時、大声で嘆き悲しんでいる人たちを外に出され(40節参照)、「この子は死んだのではない。眠っているのだ」(39節)と言われます。イエスは主であり、彼の前では死は眠りのようなもの-失望する必要はありません。

 恐れねばならない死は、悪によって固くされた心のことです!私たちはそれを恐れねばなりません!心が固くされたと感じる時、固くされた心-私は「ミイラ化した心」と言いたいのですが-を私たちは恐れねばならないのです。これは、心の死です。しかし、「罪」も、「ミイラ化した心」さえも、イエスにとっては、「取り返しのつかない言葉」ではありません。なぜなら、イエスは私たちに、「父の限りない慈しみ」をもたらしてくださるからです。

 そして、私たちがたとえ倒れても、イエスのやわらかで、力強い言葉が私たちに耳に届きます-「私はあなたに言う。立ち上がりなさい!」。私たち一人ひとりに話かけられるイエスのこの言葉を聞くのは、素晴らしいことです-「私はあなたに言う。立ち上がりなさい!。行きなさい。立ち上がりなさい、勇気をもって、立ち上がりなさい!」。そして、イエスは少女を生き返らせ、癒された女性に命を取り戻させます-命と信仰はともにあるのです。

 聖母マリアに願います。私たちの信仰と堅固な愛-とくに救いを必要としている人々に対する-愛の旅を、共にしてくださいますように。そして、身体的、精神的な苦しみを受けている兄弟たちのために、あなたの取り次ぎをいただけますように。

(翻訳「カトリック・あい」)

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2018年7月2日