☩「キリストに倣って。社会の片隅の人々に尽くすことを恐れるな」-リトアニアでの日曜ミサで

(2018.9.23 バチカン放送)

 バルト3国訪問中の教皇フランシスコは23日、リトアニア第二の都市カウナスのサンタコス公園で、約10万人参加のミサを捧げられた。

 ミサ中の説教で教皇はこの日朗読されたマルコ福音書(9章30-37節)の「イエスが弟子たちに、再び、ご自分の死と復活を予告する場面」を取り上げ、「マルコ福音書で、イエスは3度、ご自分の受難を予告しましたが、3度とも弟子たちは理解せず、繰り返し、弟子たちを諭しています」と指摘したうえで、本日の朗読箇所は、イエスが2度目に受難を予告した時のエピソードです」と説明された。

 そして、キリスト者の人生には「常に十字架の時があり、その苦しみには終わりがないように見える時もあります」と語り、「占領や強制連行、密告や裏切りのただ中に置かれた不安と苦悩、シベリアやゲットー送り、という言葉に触れる時の戦慄」を体験したリトアニアの人々の歴史を重ねられた。

 本日の朗読箇所で、イエスの弟子たちは、イエスが苦しみや十字架について話すことを望まず、彼らはまったく別のこと、すなわち、誰が一番偉いかを議論し合っていたが、教皇は「権力や栄光へのこだわりは、過去の記憶を癒せない人々によく見られる態度です」とされ、「こうした人々は、今日取り組むべき課題にさえ、向き合うことができないのです」と注意を促された。

 また、イエスは、弟子たちの権力闘争や、犠牲の拒否に対し、子供を彼らの真ん中に立たせ、「私の名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、私を受け入れる」(マルコ9章37節)と言われたことを取り上げて、教皇は「イエスは今日、誰を、私たちの真ん中に立たせるでしょうか。誰が私たちの間で最も小さき者、最も貧しい人たちでしょうか。独立宣言100年において、私たちが受け入れるべき人々は誰でしょうか」と問いかけ、「地域における少数民族や、職を求め移民せざるを得なかった人々、孤立したお年寄り、人生の意味を見いだせない若者たち」などの存在を示された。

 そのうえで、教皇は「外に向かう教会」を強調され、「自分の何かを失うように感じて、社会の片隅の人々に尽くすことを恐れてはなりません」と人々に警告された。

(「カトリック・あい」が編集)

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2018年9月24日