☩「イエスの傷の中に入り、限りない愛を深く想う」-神の慈しみの主日に

(2018.4.9 バチカン発表・「カトリック・あい」翻訳)教皇フランシスコは復活節第二主日(神のいつくしみの主日)8日の聖ペトロ大聖堂でのミサ中の説教で、以下のようにお話しになった。

 「今日朗読されたヨハネの福音書には、『見る』と言う言葉が繰り返し出てきます。弟子たちは、主を『見て』、喜びました(ヨハネ福音書20章20節)。彼らは仲間の弟子のトマスに『私たちは主を見た』(25節)と言います。しかし、福音書は、彼らがどのようにイエスを見たか、述べていません。復活したイエスについても述べていません。こう述べているだけです。『手とわき腹をお見せになった』(20節)と。あたかも、福音書は、私たちに『それ-イエスの傷によること-が、弟子たちにイエスだと分からせるやり方だ』と語ろうとしているようです。そして同じことが、トマスに対しても起きました。彼も、『あの方の手に釘の跡』を見たい、と希望し(25節)、それを見て、信じたのです。(27節)。

 トマスに信仰が欠けていたにもかかわらず、私たちは彼に感謝すべきでしょう。なぜなら、イエスが生きておられる、と仲間から聞いても、あるいは、生きておられる方を見るだけでは満足しなかった。主の傷-愛のしるし-に自分の手で触れ、”内側を見る”ことを望みました。福音書はトマスをディディモと呼びます(24節)。それは双子を意味します。彼はまさに、私たちの双子の兄弟なのです。なぜなら、私たちにとっても、神が存在されることを知るために十分ではないからです。復活したが遠くにとどまっておられる神は、私たちの命を満たしません。離れておられる神はどれほど公正で聖なる方であっても、私たちを惹きつけません。私たちも『神を見る』、手で触れ、復活された、私たちのために復活されたことを知る必要があるのです。

 では、私たちはどのようにしてイエスを『見る』ことができるのでしょうか-弟子たちのように、イエスの傷を通してです。傷を見つめて、弟子たちはイエスの愛の深さを理解しました。イエスを否定し、見捨てさえした自分たちを、赦してくださったことを理解しました。イエスの傷の中に入るということは、イエスの心から流れ出る限りのない愛を深く想うことです。これがその方法です。それが、イエスの心臓が私たちのために、あなた方のために、私たち一人一人のために、脈打っていることを、知る方法です。

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん、私たちは、自分たちがキリスト教徒であると考え、自分たちをキリスト教徒と呼び、信仰が持つたくさんの素晴らしい価値について語ることができますが、それだけでは足りません。弟子たちのように、イエスの愛に触れることでイエスを『見る』必要があります。そうすることだけが、全ての疑いを越えて、信仰の真髄に進み、平和と喜びを見出す(19∼20節参照)道なのです。

 トマスは、主の傷を見て、『私の主、私の神よ』(28節)と叫びました。ここで、トマスが繰り返した『私の』に注目したいと思います。これは所有形容詞です。所有形容詞は、神につなげて使うのは不適当なように思われます。どうやれば、神が『私のもの』になるのでしょうか?どうやれば、全知全能の存在が『私のもの』になるのでしょうか。本当のところ、『私の』は神を侮辱する言い方ではなく、神のあわれみを称えているのです。なぜなら、神は『私たちのものになる』ことを希望されているから。愛の物語の中でのように、私たちは主に語ります-『あなたは、私たちのために人となられ、亡くなられ、そして私たちのために蘇られました。ですから、あなたは、ただの神ではありません。私の神、私の命です。あなたの中に、私は、求めていた愛を見つけました。それは、これまで思っていたよりも、ずっと大きなものです』-と。

 『私たちの』と言われて、神が気分を害されることはありません。なぜなら、愛は確信を求め、いつくしみは信頼を求めるからです。十の掟の最初に、神は語られます。『私はお前の主、神である』(出エジプト記20章2節)。そして繰り返されました。『お前の神、主である私は妬みの神である』(同5節)と。ここで私たちは、神がご自分を『お前の神』と呼ばれる妬みをを持つ愛するものとして、紹介されているのを知ります。トマスの心の底から出た返事は『私の主、私の神!』でした。今日、私たちはキリストの傷を通して、神の神秘に入っていくとき、いつくしみが、単なる神の特質の一つではなく、神の心臓の鼓動そのものであることを知ります。そして、トマスのように、私たちはもはや、確信が持てず、信仰深いけれど、心が揺らぐ弟子たちのように生きることはなくなるのです。私たちは主を愛しています!私たちは次のような言葉を恐れてはなりません-『主を愛すること』。

 ではどのようにして、私たちはこの愛を味わうことができるのでしょうか?どのようにして、イエスのいつくしみに、自分の手で触れることができるのでしょうか?ここでまた、福音書が手掛かりを提供してくれます。週の初めの日の夕方(ヨハネ福音書20章19節)、イエスが死から蘇られた直後、人々への罪の赦しのために聖霊を弟子たちに授けられました。愛を経験するために、私たちは、自分自身が赦されるようにすることから始める必要があります。自分自身が赦されるようにする。私は自分自身に、そしてあなた方一人一人にこう尋ねます-自分自身が赦されるのを認めますか?愛を体験するために、私たちはそこから始める必要があります。私は自分自身が赦されるのを認めるか?『しかし、神父さま、告解に行くのはむつかしいように見えるかもしれません・・』。

 神の前で、私たちは、福音書に書かれた弟子たちの行為にならう誘惑にかられます-閉じられた扉の後ろに隠れていよう、と。彼らは恐怖心からそうしたのですが、私たちもまた、心を開き、罪を告白することを恐れ、恥だと感じるかもしれません。主が私たちに恥を理解し、恥を閉じた扉ではなく、出会いへの第一歩だと見る雅量をくださいますように。私たちが恥ずかしいと感じる時、有難い、と思うべきです-これは、私たちが悪を受け入れない、善いことを意味するのです。恥は、悪に打ち勝つために主を求める魂の密かな招きなのです。悲劇は、私たちがもはや何ものも恥と思わない時に置きます。恥を経験するのを恐れないようにしましょう!恥から赦しに移りましょう!恥と思うことを恐れないように。恐れてはなりません。

 それでも、主の赦しの前に閉じたままになっているもう一つの扉があります-あきらめの扉です。あきらめは、いつも閉じられた扉です。弟子たちはそれを、主の復活の日に、どうやって全ての事が起きる前に戻るのかを、失望をもって認めた時に経験しました。彼らはまだエルサレムにいました。落胆して-彼らの人生の『イエスの章』は終わったように思われ、あれだけ長くイエスと一緒に過ごしたのに、何も変わらなかった-希望を捨てました。私たちも、こう考えることがあるかもしれません-『私はずっとキリスト教徒として生きてきたが、何も私の中で変わらなかった。同じ罪を犯し続けている』と。そうして失望し、いつくしみを見限ります。でも、主は私たちにこう詰問されます-『私のいつくしみがあなたのいつくしみよりも大きいことを、信じないのですか?信じる以前に戻ってしまったのですか?それなら、いつくしみを願う者になりなさい。そうすれば、先頭に立つのが誰が分るでしょう』と。

 どのようなことが起きても-そして、赦しの秘跡によく与っている人は誰でもこのことを知っています-全ての事が以前と同じまま、というのは真実ではない、と。毎回、私たちは赦され、自信を持ち直し、励ましを受けます。なぜなら、毎回、私たちはさらなる愛を経験し、父に抱かれることを経験するからです。そして、私たちがまた挫折する時、まさに愛されているゆえに、もっと大きな悲しみを経験します。それは、ゆっくりと罪がとりのぞかれていく、有難い悲しみです。そうして、神の赦しを受け、赦しから赦しへと前に進む命の力を得るのです。これが、生き方です-恥から恥へ、赦しから赦しへ―これがキリスト教徒の人生なのです。

 恥とあきらめの後に、もう一つの閉じた扉があります。それはしばしば、鉄板で覆われている-私たちの罪、同じ罪です。重い罪を犯した時、正直なところ、自分自身を赦したくないと思ったら、どうして神はあなたを赦すべきなのでしょうか?この扉は、しかし、一方の側-私たち自身-からだけ閉じられているのです-神にとって、完全に閉じられた扉というものはありません。

 福音書が語っているように、どの入り口も閉鎖されている時に、神はまさに『閉じられた扉を通って』入って来るのを好まれるのです。神は驚きの業をなさいます。私たちを見捨てるような選択を決してなさいません-私たちは神を締め出しているのに。しかし、私たちが罪を告白する時、耳に聞こえない何かが起きます-私たちを神から引き離す罪が、私たちが神と出会う場になるのが、分かります。そこに、愛で傷ついた神が、傷ついた私たちに会いに来られるのです。神は私たちのみじめな傷を、ご自身の栄光に満ちた傷のようにしてくださいます。そこに、変容がある-私のみじめな傷が、まるで神の栄光に満ちた傷のようになるのです。神はいつくしみ深く、みじめな姿の私たちに、驚きの業をなさいます。今日、トマスのように私たちの神を認める恩恵を願いしましょう-神の赦しの中に喜びを、いつくしみの中に希望を見出すことができますように。

 

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

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2018年4月9日