☩「『魂に死を抱えて生きる』ことはなくなる」ー聖なる三日間の意味

教皇フランシスコ、3月28日、バチカンでの一般謁見 – AP

(2018.3.28 バチカン放送)

 教皇フランシスコは28日、バチカンで水曜恒例の一般謁見を行われ、謁見中のカテケーシスで教皇は29日から始まる、教会の典礼暦の中で最も重要な「過ぎ越しの聖なる三日間」の意味を説かれた。

 主イエス・キリストの死と復活の唯一偉大な神秘を記念する「過ぎ越しの聖なる三日間」は、聖木曜日の「主の晩餐の夕べのミサ」から始まり、復活の主日の夕べの祈りで閉じる。教皇はこの聖なる三日間を「キリスト者の信仰とこの世における召命の基礎をなすもの」とし、ユダヤ教の兄弟たちにとっての「出エジプト」の出来事のように、「すべてのキリスト者はこの三日間を自分自身と教会共同体の存在の基盤と認識して過ごす」ように促された。

 そして、復活の主日のミサの続唱(セクエンツィア)で響く「私の希望、キリストは復活し、ガリレアに行き待っておられる」という言葉に「過ぎ越しの聖なる三日間」の歓喜の極まりを見出しつつ、「喜びと希望を告げるこの言葉が含む、キリスト者の責任と使命への呼びかけ」を指摘し、「この知らせこそが私たちの信仰と希望の核心であり、教会はこのケリュグマ(福音の告知とその内容)に福音化されながら、自らも福音宣教へと派遣されていくのです」と語られた。

続いて教皇は「キリストが、わたしたちの過ぎ越しの子羊として屠られた」( コリントの信徒への手紙1 5章7節)「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」( コリントの信徒への手紙2 5章17節)「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです」(ローマの信徒への手紙4章25節)と、キリストの死と復活の神秘を説く使徒聖パウロの言葉を引用したうえで、「聖なる三日間は、キリスト教信仰の基礎となるこの出来事を記憶し、大きな感謝と共にそれを祝い、同時に自分たちの受けた洗礼の意味を新たにする時でもあります」と話された。

 さらに、「キリスト者が、キリストに真に洗われ、新しい命を生きるために、キリストによって古い人間を脱ぎ捨てるなら、私たち皆がそうであるように、罪びとであり続けながらも、『魂に死を抱えて生きる』ことはもうありません」と説かれ、「イエスが自分たちに与えてくださった愛を『隣人たち、特に最も小さく苦しむ人々に与える』ことを知り、私たちの復活した新しい命が生きる場所に、世界はなるのです」と強調された。

 最後に教皇は「イエスの受難においてその十字架の下まで従った聖母マリアとともに、この聖なる三日間の霊的過程をたどり、私たちのために亡くなられ、復活されたキリストの神秘に深く思いをはせるように」と信者たちに希望された。

(バチカン放送日本語版をもとに「カトリック・あい」が編集しました)

このエントリーをはてなブックマークに追加
2018年3月29日