☩連続講話「十戒」④「『自分にとっての偶像は何か』を知ることは愛の道の始まり」

(2018.8.1 バチカン放送)教皇フランシスコが1日、7月中中止していた水曜の一般謁見をパウロ6世ホールで再開、カテケーシス(教会の教えの解説)で「十戒」をめぐる考察も再開された。

 教皇は「十戒」の最初の掟、「あなたには、私をおいてほかに神があってはならない」(出エジプト記20章3節)を、テーマに取り上げられ、「この掟は、偶像や、偶像として扱われる可能性のある、あらゆる種類の像(イメージ)を禁じています」としたうえで、「偶像崇拝は、信仰を持っているか、いないかに関わりなく、一つの人間的傾向として、誰でもが陥りやすいもの」と注意された。

 「偶像崇拝とは、異教的問題に留まらず、どのような時でも信仰に対する誘惑となりうるものであり、それは、神ではないものを”神”とすること」(参照:「カトリック教会のカテキズム」n.2113)とされ、「”神”とは人生の中心にあって、自分の行動や考えを左右する存在」であり、「人間は何かを中心にしなければ生きることができないことから、(そうした人間に)世界は”偶像のスーパーマーケット”のように物や、像、アイデア、役割等を提供しているのです」と指摘された。

 偶像崇拝はどのように進むのだろうか。教皇はその展開を「あなたはいかなる像も造ってはならない…あなたはそれに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」(出エジプト記20章4-5節)という、十戒の続きの言葉に見出された。

 そして、「偶像」を意味するギリシャ語は、「見る」という動詞を語源に持つ、としたうえで、「『偶像』は強迫観念に至らせる一つのビジョンであり、それは実際には、物や計画に注がれた自分自身の投影なのです」と説明された。さらに、「何かを所有したい、あるいは、ある計画を実現したい、ある地位に到達したい、という考えが、幸福のための素晴らしい道、天まで届く塔(参照:創世記11章1-9節)のように思われ、すべてはその目的のために費やされる過程」に言及。次いで「あなたはそれに向かってひれ伏してはならない」という言葉が警告するように、偶像が信心や儀式を要求し、すべてを犠牲に求めるようになる過程を教示された。

 偶像が要求する犠牲について「古代は人身御供というものが行われましたが、今日も、出世のためや、美しくあるため、有名になるため、お金儲けのために、人や生活が犠牲になっていることに変わりはありません」と語られ、偶像崇拝の最も悲劇的段階として、「『あなたはそれらに仕えたりしてはならない』とあるように、偶像の奴隷となることの恐ろしさ」に触れられた。

 さらに、「偶像は、幸福を約束しながらそれを与えず、命を約束しながらそれを取り上げる」が、「真の神は命を要求せず、むしろそれを与え、私たちに成功の幻想を抱かせず、その代わりに愛することを教えてくれます」と強調され、「『自分にとっての偶像は何か』を知ることは、一つの恵み、愛の道の始まりとなります」と述べて、「真に愛するために、すべての偶像から解放される必要」を説かれた。

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2018年8月2日 | カテゴリー :