☩「『空の墓』から命のメッセージを受け取るか、黙って立ち尽くすか」

教皇フランシスコによる、復活の聖なる徹夜祭、バチカン・聖ペトロ大聖堂 – AP

(2018.4.1 バチカン放送)

 教皇フランシスコが1日、バチカンの聖ペトロ大聖堂で、2018年度の「復活の聖なる徹夜祭」を行われた。「復活の聖なる徹夜祭」は、復活祭前日の「聖土曜日」から「復活の主日」の夜明けまでの間に、主キリストの復活を待ちながら祈り、その過ぎ越しを祝うもので、「すべての聖なる徹夜祭の母」と呼ばれるこの荘厳な儀式は、「光の祭儀」「ことばの祭儀」「洗礼式」「感謝の祭儀」の4部から構成される。

 復活徹夜祭は、キリストの復活を象徴する「光の祭儀」をもって幕を開けた。教皇は大聖堂の扉の外で、火と復活の大ろうそくを祝別。助祭の掲げる大ろうそくと共に、明かりを落とした大聖堂に行列が入場した。「キリストの光」と3度歌われる中、大ろうそくから、教皇のろうそくへ、そして次々と人々のろうそくへと、ともし火が移され、光の道を浮かび上がらせながら、行列は祭壇へと進み、最後に大聖堂の照明が灯された。続いて、助祭によって復活賛歌がラテン語で朗唱された。人々はろうそくを手に、復活の主の勝利を知らせ、世の闇に打ち勝った永遠の王の光の輝きを称える賛歌に耳を傾けた。

 次に行われた「ことばの祭儀」では、旧約聖書から「創世記」(1章1節、26-31節、22章1-2節、9章 10節-13章15-18節)、「出エジプト記」(14章15節-15章1節)、使徒聖パウロの書簡から「ローマの信徒への手紙」(6章3-11節)、そして福音書からは「マルコによる福音」(16章1-7節)が朗読された。

 第3部の復活徹夜祭の伝統である「成人の洗礼式」では、教皇はイタリア、アルバニア、ペルー、ナイジェリア、アメリカの各国出身の8人に洗礼を授けられ、続く「感謝の祭儀」によって復活徹夜祭は終了。会衆は最後に「レジナ・チェリ」を歌い、御子キリストの復活の喜びを聖母と共にした。

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 教皇フランシスコは、「復活の聖なる徹夜祭」の説教で次のように話された。

 「大聖堂の外で始まったこの儀式は、夜の闇と、寒さに覆われていました。私たちは主の死を前に、沈黙の重さを感じていました。十字架を前に言葉を失った弟子たちの心の裂け目に降りていったその沈黙を、私たち一人ひとりも感じていたのです。

 それは、イエスの死による苦しみに押し黙った弟子たちの時間でした。この現実を前にして、一体何が言えたでしょうか。沈黙した弟子は、主の受難のさなかに自分がとっていた言動を省み始めていました。師に死刑を宣告した不正義の前で、弟子たちは黙っていました。師が受けた中傷と偽りの証言を前に、弟子たちは口を閉ざしました。主の受難の試練と苦悩の時に、弟子たちは師のために証言するという危険を冒せない自分の無能さを、悲劇的なまでに味わっていました。それだけではありません。弟子たちは師と共にいたことを否定し、身を隠し、逃亡し、沈黙していたのです(参照:ヨハネ福音書18章25-27節)。

 それは、自分を取り巻く多くの痛ましい情況を前に、行き場を失い、硬直し、麻痺した弟子たちの沈黙の夜でした。今日の弟子たちもまた、私たちの多くの兄弟たちの身の上に降りかかる不正義に対し『どうすることもできない』と思いこみ、現実を前に沈黙しています。

 それは、記憶を奪う繰り返しに押しつぶされ、希望を失い、『どうせいつもこうなのだ』という考えに慣らされて、疲れた弟子たちです。それは『一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だ、とは考えないのか』(ヨハネ福音書 11章50節)という、カイアファの言葉に慣れ、それが当然と思い、最後には何も言えなくなり、ぼんやりしてしまった弟子たちです。

 そうした沈黙が、私たちの間でこれほどにも重苦しくなった時、『石が叫び出し』ます(参照:ルカ福音書19章40節)。そして、歴史が今まで知ることのなかった偉大な知らせが、告げ知らされるのです。『あの方は、ここにはおられない・・・復活なさったのだ』(マタイ福音書 28章6節)。墓の石は叫び、その叫びをもってすべての人に新しい命を告げたのです。その石は、福音の喜びの知らせを妨げていたすべての現実に対する命の勝利を、こだまさせた最初の被造物でした。最初に躍り上がったのはその石でした。その石は、賛美と感激、喜びと希望の歌に声を合わせながら、私たちもその歌に加わるようにと招くのです。

 昨日、私たちは婦人たちと『彼らは、自分たちの突き刺した者を見る』(ヨハネ 福音書19章37節; 参照: 旧約聖書・ゼカリヤ書12章10節)という言葉を観想し、今日は、彼女たちと『空の墓』を見つめ、『恐れることはない…復活なさったのだ』(マタイ福音書28章5-6節)という天使の言葉を聞きます。その言葉は、私たちが持っている最も深い確信、日常の様々な出来事への判断や対応、特に他者との関係のあり方に影響を与えます。

 『空の墓』は、私たちに挑み、揺さぶり、問いかけ、何よりも、神に信頼するように、私たちを励まします。神はどのような状況、どのような人にも訪れ、その光は最も思いがけない場所、隠れた存在をも照らすのです。

 キリストは死から復活しました。誰も何も期待していなかった場所から復活し、ご自身の救いの御業に参与するように、と私たちを待っておられます。これが私たちがキリスト者として尊厳の道を探求、構築する中で、命、エネルギー、知性、愛情、意志を賭けるための基礎と力です。

 『あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ!』。それは、私たちの希望を支え、それを具体的な愛徳の業に変容させる知らせです。私たちは自分のもろさに対し、どれだけこの体験から汲み取る必要があることでしょうか。私たちの信仰を新たにし、私たちの近視眼的な見方を、この知らせによって刷新する必要が、どれだけあることでしょうか。キリストは復活され、キリストと共に、私たちはもう一人ぼっちではない、と知ることで、今日の問題に立ち向かうための私したちの希望と創造力がよみがえるのです。

 復活祭を祝うことは、「神はあふれ、私たちの歴史を満たし続ける」「硬直して、単調で、決まりきった振る舞いに慣れた私たちを揺さぶりに来られる」と改めて信じることです。主の復活を記念することは、私たちを包囲し、あらゆる希望を埋没させる臆病な態度を、イエスによって打ち砕くことです。

 墓の石は自分の役を果たし、婦人たちは自分の役を果たしました。今、その招きは、改めて、皆さんに、そして私に向けられています。繰り返しの惰性から抜け出し、私たちの生活、選択、人生を新たにするように、招かれています。それは、私たちが置かれた場所で、私たちのすることで、私たちのあり方で、それぞれ与えられた力をもって参与するよう招いています。私たちは、この命のメッセージを分かち合いたいと思いますか?それとも、この出来事を前に、ただ黙って立ち尽くすことを望みますか?

 あの方は、ここにはおられません。復活なさったのです!そして、あなたをガリラヤで待っておられます。イエスは最初の愛の時間、場所に戻るようにと招き、あなたにこう言うのです。『恐れないで。ついて来なさい』と」

(バチカン放送日本語版とCruxの記事をもとに「カトリック・あい」が編集しました)

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2018年4月1日