◎連続講話:[十戒]⑯最後の掟が示すのは「心の解放」だ

(2018.11.21 バチカン放送)

 教皇フランシスコは21日、水曜恒例の一般謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、モーセの「十戒」の最後の部分、「隣人の妻を欲してはならない」「隣人の財産を欲してはならない」を取り上げられた。

 まず教皇は「十戒のすべての掟は『これ以上進めば、自分自身はもとより、隣人、神との関係を破壊してしまう』という人生における境界線、限界を示すもの」とされたうえで、十戒の最後の部分は「すべての背きは『よこしまな欲望』という共通の根から生まれる、ということを思い出させます」と話された。

 そして、マルコ福音書のイエスの言葉、「『中』から、つまり『人間の心』から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪は、みな中から出て来て、人を汚すのである」(7章21-23節)を引用し、「こうしたことから、『十戒』をめぐるすべての教えは、『人間の心』のレベルに触れない限り、何の意味も持たないことになる」と語られた。

 さらに、「『十戒』を巡る旅で、この最後の掟が示す終着点は『心』。もし『心』が解放されていなければ、残りは無用のもの」「『心』が解放されていなければ、神の掟は、単に『生活のうわべを飾るもの』となり、その人生は隷属状態のまま、神の子にふさわしくありません」とされ、そうならないために、「私たちは自分の貧しさを見つめ、聖なる謙遜に達するために、自分のよこしまな欲望の正体を暴かねばならないのです」と訴えられた。

 「人間には、この祝福された謙遜が必要」とする教皇は「人は自分の力だけでは解放されません。救われるためには、神に叫びをあげなくてはなりません」「聖霊の力なしで自分を正そうとすること、自分の努力だけで心を浄化しようと試みることも、虚しい」と述べられたうえで、「神との関係に心を開くことによってのみ、私たちの努力は実りをもたらします」と話された。

 また、聖書の掟の役割は「掟に文字通り従えさえすれば、人為的な救いにたどり着ける、という、思い違いを抱かせることではない。人間をその真理、その貧しさに気付かせ、それを通して、私たちを変容し、新たにする神のいつくしみとの真の出会いに、自分を開かせることにあります」と教皇は強調された。

 そして、「十戒」の最後の部分は、「すべての人は『救いを乞う者』だ、ということに気付かせるもの」、「自分の心の乱れを見つめ、自己中心的に生きることをやめ、『心の貧しい者』となるためのもの」、「御父の御前に正しい者となり、御子に贖われ、聖霊から教化されるためのもの」と締めくくられた。

(編集「カトリック・あい」)

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2018年11月22日