◎教皇連続講話「山上の説教」②「霊における貧しさ」は真の自由に奉仕するもの

 教皇フランシスコは5日の一般謁見で、先週から始められた「山上の説教」(真福八端=マタイ福音書5章1-11節)についての講話を続けられた。この日は、最初のイエスの言葉「霊において貧しい人(Blessed are the poor in spirit)は、幸いである。天の国はその人たちのものである」を取り上げられ、「私たちが受け入れねばならない貧しさがあります。それは私たち自身に関してです。そして、私たちが求めねばならない、この世のものから貧しさです」と語られた。

 この日の講話の初めに教皇は「イエスが幸福への道を告げるにあたって、『霊において貧しい人は幸い(Blessed are the poor in spirit)』という、一見矛盾に満ちた道を最初に説いているのは、驚くべきこと」とされ、この教えの説く「貧しさ」とは何なのか、福音記者マタイがただ「貧しい人」という言葉を使っていたなら、それは経済的な意味に過ぎないかもしれないが、「ここでは『霊において貧しい人』とされています」と指摘された。

 では、「spirit」とは何か。教皇は、聖書によれば「神がアダムに吹き込んだ命の息吹、私たちを人間たらしめる、存在の深い核心となるもの」と述べ、「霊において貧しい人」を「幸い」と宣言するイエスは、その理由を「天の国はその人たちのものである」からだ、という。これに対し、「この世で、人は常に何者かにならねばならない、有名にならねばならない、と言われ続け、極度の競争や不安から、孤独感や満たされない気持ちを抱くことになるのです」とされた。

 また、「もしも、自分の貧しさを受け入れることができないならば、自身の弱さや欠点を思い出させるすべてのものを憎むことになります」。さらに、「誰もが自分を見つめる時、足りなさや弱さを自覚しますが、自己の限界を認めない人は、より良く生きることができません。プライドの高い人は助けを求めることも、自分の過ちを認め、赦しを乞うこともできないのです」と指摘された。

 教皇は、イエス・キリストは「貧しいことは恵みの機会である」と私たちに告げ、「自分の偽善や欠陥を隠そうとする苦労からの解放の道を示しています」と話され、「『貧しさは天国への道である』と、イエスは私たちに貧しくあることの権利を与えてくれましたが… 注意したいのは、私たちは心を貧しくするために、わざわざ自分を変える必要はない、ということ。なぜなら、私たちは本来、貧しいからです。私たちは皆、心の貧しい者、神の救いを必要とする者だからです」と説かれた。

 そして、「神の御国は心の貧しい人たちのものですが、この世において王国を築く人たちもいます。だが、その王国はいつかは終わり、人の権力も過ぎ去る」とされ、「真に統治する者は、本当の善を、自分自身よりも愛します… キリストは、地上の王たちがしないこと、すなわち自分の命を人々のために与えることができました。これこそ、真の権力なのです」と強調、ここに「真の自由」を見つめられた。

 教皇は、「山上の説教」が称える貧しさは、「この真の自由に奉仕するもの… なぜなら、貧しさには、『受け入れるべき自分自身の本来の貧し』と、『自由でいること、愛することができるために必要な、もう一つの追求すべき貧しさ』があるからです」と語られた。

(日本語版の聖書では一般に「心の貧しい人」と訳されていますが、通常の日本語では「心の貧しい」は、「度量小さい」「しみったれている」「裕福そうに見えても心は貧乏人のそれ」というようなニュアンスで使われることが多く、ここでのこうした訳は必ずしもしっくりきません。元の言葉に近い、バチカン公式発表の教皇のイタリア語の講話の英語訳「Blessed are the poor in spirit」を忠実に訳す方が、本当の意味に近いと判断し、そのようにしてあります。なお、フランシスコ会聖書研究所訳では「自分の貧しさを知る人」となっています=「カトリック・あい」)

 

 

(英文のVaticanNewsの内容は次の通り)

In his catechesis on the first Beatitude — “, for theirs is the kingdom of heaven” — Pope Francis said “there is a poverty that we must accept, that of our own being; and a poverty that we must seek instead, from the things of this world”.

A paradoxical proclamation

Jesus’ “way to happiness”, the Pope said, begins with a “paradoxical proclamation… a strange object of bliss”. So we must ask ourselves, What is meant by the word “poor”? Matthew’s use of the expression “poor in spirit” shows us that Jesus is not talking simply about economic poverty, but of a spiritual understanding of our poverty. “Those who are ‘poor in spirit’”, the Pope said, “are those who are and who feel themselves to be poor, beggars, in the depths of their being”.

We are already poor

Pope Francis said, though, that we must remember that we “don’t have to transform ourselves to become poor in spirit, because we are already poor! We are all poor in spirit, beggars”.

The kingdoms of the world, possessed by those who have wealth and comfort, are kingdoms that end. “The power of human beings, even the greatest empires, pass and disappear”, the Pope said. On the contrary, it is the one “who knows how to love the true good more than himself” who truly reigns. This, he said, “is the power of God”; and this is how Christ shows Himself to be powerful: “He knew how to do what the kings of the earth do not: to give His life for human beings. And this is true power: the power of fraternity, the power of charity, the power of love, the power of humility. This is what Christ did”.

And, the Pope continued, “true freedom lies in this: the one who has this power of humility, of service, of fraternity is free. The poverty praised by the Beatitudes lies at the service of this freedom”. He concluded his catechesis by saying “we must always seek this freedom of the heart, which has its roots in the poverty of ourselves”.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

VaticanNews)

(2020.2.5 VaticanNews  Christopher Wells)

 

 

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2020年2月5日