◎教皇連続講話「使徒言行録」⑨「『神の子としてのキリスト者』に必要なのは、自らの命を神の手に委ねること」

教皇フランシスコ、バチカンでの一般謁見 2019年9月25日教皇フランシスコ、バチカンでの一般謁見 2019年9月25日  (ANSA)

(2019.9.25 バチカン放送)

 教皇フランシスコは、バチカンで25日、水曜恒例の一般謁見を行われ、その中で、先週に続いて、「使徒言行録」をテキストにしたカテケーシスをされ、6章に記される「ステファノたちの選出」と「ステファノの殉教」を取り上げられた。

 この箇所ではまず、初期のキリスト教共同体に弟子が増える中で、ヘブライ語を話すユダヤ人に対しギリシャ語を話すユダヤ人から「仲間のやもめたちに対する配慮が足りない」と苦情が出される場面が出てくる。これについて教皇は「文化や感受性の異なる人々が共存する中で、共同体の未熟さや脆さが明確になったことを示しています」と説明された。

 このような苦情を受けて、使徒たちは皆を集め、共に問題の解決を考えた。その結果、使徒たち自身の召命は「祈りと御言葉の奉仕に専念すること」だということを確認する一方、「霊と知恵に満ちた評判の良い人」を7人選び、祈って彼らの上に手を置き、食事の世話を任せることになった。

 この場面を教皇は「助祭の誕生」を示すもの、とされる一方、7人の中でも特にステファノは、「恵みと力に満ちて」宣教をし、その素晴らしい言葉のために、議論する者たちから激しい反発を受け、讒言によって捕えられ、最高法院に引いていかれた、という経過を語られた。

 ステファノは最高法院で、キリストを中心に聖なる歴史を再読し、預言者たちとキリストに対する彼らの扱いとその偽善を、勇気をもって訴えた。それを聞いて怒った人々は、ステファノに襲いかかり、石打の刑にしたが、殉教の際のステファノの「主イエスよ、私の霊をお受けください」「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」との言葉の中に、教皇は、聖人ステファノの「キリストの真の弟子としての本質」を見つめられた。

 このステファノの言葉は、「『神の子としてのキリスト者であること』を示すために必要なのは『多くの言葉ではなく、自らの命を神の手に委ね、自分を迫害する者を赦す態度だ』ということを、私たちに教えています」と強調された。

 「初期の教会の時代よりも現在は、さらに多くの殉教者が世界中にいます」と指摘された教皇は、「過去と現代の殉教者から、私たちが、日常的な福音への忠実と、キリストに似た者となる生き方を学ぶことができるように」と祈られた。identity

(編集「カトリック・あい」)

 

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2019年9月26日