◎教皇連続講話「主の祈り」⑯「”主の祈り“はあらゆる悪に立ち向かう祈り」

(2019.5.15 VaticanNews Devin Watkins)

 教皇フランシスコは15日の一般謁見中の「主の祈り」についてのカテキーシスで、祈りの最後の箇所(注:「悪からお救いください」)を取り上げ、「イエスは、私たちをあらゆる形の悪からお救いになる、私たちの味方なのです」と語られた。

(2019.5.15 バチカン放送)

 教皇は、「主の祈り」は、私たちが誘惑に陥らないことだけでなく、悪からの解放を願い求めているが、特に「(注:evil=日本語では『悪』と訳されている言葉は)ギリシャ語では、『私たちにつかみかかり、牙をたてようとする悪魔の存在』を感じさせ、それからの解放を願う、強い表現が用いられています」と説明され、その様子を「あなた方の敵である悪魔が、吠えたける獅子のように、誰かを食い尽くそうと歩き回っています」(ペトロの手紙1・5章8節)と重ね合わされた。

 そして、「イエスは、すべての状況において、特に、悪魔の脅威を前に、御父に祈ることを教えられました。キリスト教の祈りは、人生に目を閉じず、その歩みが困難に満ちたものであることを忘れません」と語り、「もし、『主の祈り』の最後の2つの祈りがなかったら、罪人や、迫害される人、希望を無くした人、死に瀕した人は、どのように祈ったらいいのでしょう」と問いかけられた。

 教皇は「悪は紛れもなく存在し、歴史をたどれば、この世における人類の冒険が、失敗に満ちていることが分かります」とされ、「そこに、謎に包まれた悪の存在があり、それは神の業でないことは確かですが、その悪は静かに、歴史の隙間に入り込んできます。時には、悪の方が優位に立ち、その存在は神の慈しみよりも目立って見えることがあります」、さらに、「悪の裾は広く、その影響を、人々を悲嘆させる出来事、無実の人の苦しみ、隷属、他人の搾取、無垢な子どもたちの涙といった様々な形を通して見ることができます」が、「主の祈り」の最後の叫びは、「この悪に向けられているのです」と話された。

 さらに、イエスの受難の場面で、『主の祈り』のいくつかの箇所がご自身の祈り、主への叫びとなっていることを指摘され、ゲツセマネで「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯を私から取りのけてください。しかし、私の望みではなく、御心のままに」(マルコ福音書14章36節=聖書協会共同訳)とイエスが祈られたように、「ご自身のすべてをもって悪と対峙し、単なる死ではなく『十字架上の死』、孤独だけでなく『侮べつ』、敵意だけでなく『残酷さ』をも体験することになったのです」と述べられた。

 教皇は「キリスト者は、悪の力がいかに横暴かを知ると同時に、悪の誘惑に決して屈することのなかったイエスが、私たちの味方となり、助けに来てくださることを知っています」とされたうえで、「イエスの祈りは私たちに、最も貴重な恵みを遺してくださいました… それは、私たちを悪から救ってくださる神の御子の存在です」と強調された。

 そして、「イエスは、”最後の戦い”で、ペトロに剣をさやに納めさせ、回心した泥棒に天国を約束し、目の前で起きている神の御子の受難を理解していない人々に『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです』(ルカ福音書23章34節)と平和の言葉を与えられました」「十字架上のイエスの赦しから、平和が湧き出ます。十字架から生まれる真の平和、それは復活の主の恵みなのです」と締めくくられた。

(編集「カトリック・あい」)

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2019年5月15日