◎教皇の長期連続講話「ミサを味わう」最終回⑭閉祭と同時に、キリスト者として「証し」する務めが始まる

◎教皇の長期連続講話「ミサを味わう」最終回⑭閉祭と同時に、キリスト者として「証し」する務めが始まる

教皇フランシスコ、4月4日、バチカンでの一般謁見 – REUTERS

(2018.4.4 バチカン放送)

 教皇フランシスコが4日、バチカンで復活祭後最初となる水曜恒例の一般謁見を行われ、謁見中のミサ聖祭のカテケーシスの締めくくりとなる「閉祭の儀」の部分を解説された。

 ミサは、司祭による「派遣の祝福」と会衆との「閉祭のあいさつ」によって閉祭するが、十字のしるしとともに、父と子と聖霊のみ名によって、ミサが始まったように、閉祭においても「三位一体の名において、十字のしるしをし、そうして典礼行為が締めくくられます」とされた。

 そのうえで、「ミサ閉祭と同時に『キリスト者として、証しする務め』が始まります」と強調され、「『行きましょう、主の平和のうちに』という言葉で教会を出たキリスト者は、家や、職場、日常生活の中に、神の祝福をもたらし、その生活を通して主の栄光を賛美する務めがあります」と述べられた。

 さらに「教会を出る時は、教会に入った時よりも、命と力にあふれ、キリスト教的な証しへの、より一層の熱意に満ちていなければなりません」と語られ、「聖体を通してイエスを受けた私たちは、『秘跡によって得たものを生活の中で表す』ように招かれており、『キリストの神秘に積極的に参与する』ことを選ぶことでミサは完成するのです」と説かれた。

 そして、「エウカリスチアを記念する」とは、「『エウカリスチア的な人となる』ことであり、それは私たちの中でキリストが働くままにし、キリストの考え、思い、選択を、自分自身のものとしていくことです」と強調された。

 教皇はまた、「エウカリスチアの働きと実り」について、「カトリック教会のカテキズム」を引用して、次のような点を指摘された。

 「聖別されたパンにおけるキリストの現実の現存(参照:「カトリック教会のカテキズム」1374項)は、ミサで終わらず、聖体は、ミサに出席できなかった病人に持参するため、またパンの形態のもとに現存するキリストを沈黙のうちに礼拝するために、聖櫃に保存される。実際、ミサ外に、個人または共同体で行なわれる聖体礼拝は、キリストのうちに私たちが留まることを助ける(参照:同1378-1380項)。

 ミサの実りは、毎日の生活の中で熟していく。エウカリスチアは、わたしたちのキリストとの一致を強めながら、わたしたちのキリスト者としての証しが信頼できるものとなるよう、洗礼と堅信において聖霊が与えた恵みを新たにする(参照:同1391-1392項)。

 また、エウカリスチアは、キリスト者が大罪を犯さないように守ってくれる。わたしたちが「キリストのいのちにあずかり、キリストとの友愛を深めれば深めるほど、キリストとの交わりを断ち切る大罪から守られる」(同1395項)。

 エウカリスチアは教会をつくるゆえに、私たちが規則正しくエウカリスチアにあずかることは、キリスト教共同体との絆を新たにし、強め、深めることになる(参照:同1396項)。

 エウカリスチアは、他の人々、特に貧しい人々に奉仕させる。エウカリスチアは、キリストから兄弟たちへと向かうようにわたしたちを教え、キリストはその人々の中で、わたしたちから認められ、奉仕され、尊まれ、愛されることを待っておられる。(参照:同1397)。

 このように教皇はエウカリスチアがもたらすものを説明されるとともに、ミサ聖祭を再発見するこのカテケーシスを皆と一緒に歩むことができたことを神に感謝された。

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