「宗教的・福音的な愛に駆り立てられて、教会はすべての迫害を非難する」 

(2018.1.28 バチカン発表)教皇フランシスコが28日、バチカン内で、反ユダヤ主義に結びついた犯罪対策に関する政府、機関、個人による国際会議の参加者たちと謁見し、以下のように語られた。

 以下、イタリア語公式発表原文の試訳(翻訳者「カトリック・あい」Sr.岡立子)
愛する友人のみなさん、ようこそいらっしゃいました。あなた方が来てくださったことに感謝します。わたしはまた、あなた方を集めた、優れた目的のために感謝します-反ユダヤ主義や、反ユダヤ主義的憎悪に結びついた犯罪との闘いにおける、国家、諸機関、個人の責任に関して、さまざまな観点から、共に考察すること-。

 わたしは、一つの言葉を強調したいと思います: 責任 。責任があるということは、応える能力があるということです。問題は、暴力や邪悪なロジック(論理)の原因を分析するだけではなく、それに応えるために、準備が出来ていること、活動(行動)する、ということです。

 それゆえ、闘う相手は、単に、あらゆる形で現れる憎しみだけでなく、より根源にあるもの、 無関心 です。なぜなら、無関心は、たとえそれが正しいと分かっているときでも、正しいことを行うことを麻痺させ、妨げるからです。

 わたしは疲れることなく繰り返します。無関心は、わたしたちの時代を危うく感染させて(悪影響を与えて)いるウイルスです 他の人々とより接続されて(繋がって)いるけれど、他の人々への関心がより少なっている時代において-。グローバル化されたコンテクスト(文脈)は、わたしたちに、わたしたちの中の誰も孤島ではなく、すべての人々のためのふさわしい将来性無しに、誰も平和な未来をもつことは出来ない、ということを理解するのを助けるべきであるにも関わらず。

 創世記は、わたしたちの理解を助けます。無関心が、つねに人間の戸口で待ち構えている、人を欺く悪であるということを(参考・創世記4章7節)。無関心は、歴史の原初における、被造物と造り主との間の論争の対象でした。創造主がカインに次の質問をしたときに:「お前の弟はどこにいるのか?」。直前に弟を殺したカインは、質問に答えず、この「どこに」を説明しません。彼は、自分の自主性を主張します:「わたしは弟の番人なのでしょうか?」(9節)。

 彼には、弟は大切ではなかった。これが、邪悪な根源、絶望と沈黙をもたらす死の根源です。わたしは、この、耳を聞こえなくする沈黙を覚えています。わたしはそれを、アウシュヴィッツ・ビルケナウ訪問の中で感知しました ただ、涙、祈り、ゆるしの要望だけに場を残す、不穏な沈黙。

 無関心のウイルスを前にして、わたしたちはどのワクチンを処方することが出来るでしょうか? 申命記がわたしたちを助けてくれます。長い荒野の旅の後、モーセは、選ばれた民に、土台となる勧告を向けます:「荒れ野の全行程を思い起こしなさい…」(申命記8章29節)

 約束された未来を熱望していた民に、知恵は勧めます:過去を見つめること、完了した歩みにまなざしを向けること。そして モーセは単に、「歩みについて考えなさい」とは言わず、「思い起こしなさい」、または、過去を生き生きとさせなさい、過去を死なせないでください、と言います。「思い起こしなさい」、つまり、「心で、後ろに戻りなさい」:ただ頭でだけでなく、心の奥深くから、自分自身のすべてをもって。そして、好きなことだけを記憶するのではなく、「全行程」を記憶すること。

 記憶の日が祝われたばかりです。わたしたちの人間性を回復するために、現実に関する人間の理解を回復するために、そして、隣人に対する、たくさんの責められるべき(悲しむべき)形の無関心(無気力)を乗り越えるために。記憶は、未来へのアクセスの鍵であり、若い世代に、ふさわしくそれを託すのは、わたしたちの責任です。これに関して「ユダヤ人との宗教関係委員会」の文書 今年はその公布20周年です―:「わたしは記憶にとどめます-ショア-を反省して」“Noi ricordiamo: una Riflessione sulla Shoah” 1988年3月16日)を思い起こしたいと思います。

 聖ヨハネ・パウロ二世は「記憶が、ショアの言語同断な邪悪(不正)が、決して再び可能とならない未来を築くプロセスにおいて、必要な役割を果たすこと」が出来るようにと切望しました(導入的書簡 1998年3月12日)。文書は、わたしたちがキリスト者として、わたしたちの年長の兄弟であるユダヤ人たちと一緒に守るよう呼ばれている、この記憶について語っています:「それは、過去に戻ることだけの問題ではありません。ユダヤ人とキリスト者たちの共通の未来は、わたしたちが思い起こすことを求めます。なぜなら、『記憶を台無しに、未来はない』からです。歴史自身が、未来の記憶です。

 わたしたちの歴史を築くためには-わたしたちの歴史は、共に築くならあるでしょうし、そうでなければないでしょう-、生き生きとした、信頼に満ちた共通の記憶が必要です-恨みの中に閉じ込もっているのではなく、苦痛の夜を通ったにも関わらず、新しい夜明けの希望に開かれた記憶。

 教会は、手を差し伸べることを切望しています。思い起こし、共に歩くことを切望しています。この行程において、「教会は、誰に対するものであれ、すべての迫害を非難するが、ユダヤ人に向けられる憎悪や迫害や反ユダヤ主義的表現についても、いつ、誰によってなされるものであれ、これを糾弾するものである。それは、ユダヤ人との共通の遺産[記憶]を心に留めてのことであり、また、政治的な理由からではなく、宗教的・福音的な愛に駆り立てられてのことなのです」(第二バチカン公会議、『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言』Nostra aetate 4項)。

 愛する友人のみなさん、共に助け合いましょう。責任、記憶、近しさ(近接bn)prossimitàの文化を発酵させるため、無関心、あらゆる無関心に対抗する協定を制定するために。

 確かに、情報の可能性(潜在性)は助けになるでしょう。けれど、さらに大切なのは、養成でしょう。若い世代を 憎悪や差別に対抗する戦いの中に、また過去の対立を乗り越えることの中に 積極的に巻き込まれるよう(加わるよう 教育し、また、疲れることなく他者を探し求めるよう教育することは緊急課題です

 実際、本当に人間的な未来を準備するためには、悪を拒否するだけでは十分ではありません。一緒に善いものを築く必要がありますInfatti, per preparare un futuroこのことすべてにおいての、あなた方の努力に感謝します。平和の主があなた方に寄り添い、あなた方のあらゆる良い意図を祝福してくださいますように。

ありがとうございました。

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2018年1月30日