♰「苦難は栄光に至る通り道、それ自体に意味はない」ー四旬節第二主日に

(2019.3.17 バチカン放送)

 教皇フランシスコは四旬節第二の主日の17日、正午の祈りで、この日のミサの福音朗読箇所から、主のご変容の神秘について解説された。

 朗読されたルカ福音書で、ご受難を前にしたキリストは3人の愛弟子、ペトロ、ヤコブ、その兄弟ヨハネを連れて、高い山に登られれ、そこで変容された。想像を絶する栄光の中で、弟子たちに神の子としての輝きを垣間見せる。

 教皇フランシスコはこの神秘を次のように語った。

 「キリストに従うことなしに、この地上の生活で自分自身の十字架を担うことなしに、誰も永遠の生命に至ることはできません。試練や苦しみ、困難は、それ自体に意味があるのではなく、イエスのご変容の際に、弟子たちが垣間見ることのできたキリストの光り輝く御顔、それに現されたように『より大きな栄光に到るための通り道』のようなものです。

 ご変容を目の当たりにして、弟子たちは驚愕します。彼らにはまだ、キリストの救いの神秘、過ぎ越しの神秘が完全には理解できません。救いの完成、復活に至るための、受難と十字架の死を受け入れる準備が十分には出来ていませんでした。

 イエスはそのことをよくご存知でした。それで実際のご受難に入る前に、彼らが受難と死の躓きを受け入れられるように、前もって復活の栄光を垣間見させ、彼らに心の準備をさせようとなさったのです。なぜなら、この道こそ、御子キリストが受難と十字架の死を通して復活の栄光に達するようにと、天の御父が備えた救いの道だったからです。

 そして、この道はまた、キリストに従うすべてのキリスト者たちが、救いに至る為に たどるべき道でもあります。それは、自分自身の十字架を担いキリストに従うことです。キリストは私たちに『この道を通ってたどり着く先が、栄光に輝く復活』だということを、自ら十字架を担いながら示してくださるのです」。

(編集「カトリック・あい」)

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2019年3月18日