☩「マザー・テレサに倣い、神の愛を形で示そう」11日の「世界病者の日」へ教皇メッセージ

11日の「世界病者の日」を前に、教皇フランシスコが以下のメッセージを送られた。「世界病者の日」は聖ヨハネ・パウロ二世によって1993年から始められたもので、「ルルドの聖母の記念日」にもあたる。以下のメッセージを私たちも共有し、病に苦しむ人たちを祈りと働きで、寄り添い、支えることができるよう決意を新たにする機会としたい。(「カトリック・あい」)

第27回「世界病者の日」教皇メッセージ 「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(マタイ福音書10章8節)

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(マタイ福音書10章8節)。これは、イエスが、福音を述べ伝えるために使徒たちを派遣する際に、無償の愛のわざを通してみ国を広めるよう述べたことばです。

 第27回「世界病者の日」が、インドのコルカタで2019年2月11日に厳かに祝われるにあたり、病者を始めとする全ての子らの母である教会は、よいサマリア人のように無償で与えることが福音宣教の最も確かな方法であることを、私たちに思い起こさせます。病者に対するケアには、専門的な技能と愛情、さらには優しく触れる行為のような、「愛されている」と相手に感じさせる無償で直接的で飾らない行いが求められます。

 いのちは神から与えられた「恩恵」(たまもの)です。「あなたの持っているもので、受けなかったものがあるでしょうか」(コリントの信徒への手紙1・4章7節)と聖パウロが指摘しているとおりです。神から与えられた恩恵であるからこそ、単なる所有物や私有財産と見なすことはできません。医学とバイオテクノロジーの進歩により、「いのちの木」(創世記3章24節参照)の操作への誘惑に人々がさらされている状況においてはなおさらです。

 その「恩恵を互いにささげ合うこと」(たまもの)は、新たなきずなと多種多様な協力関係を諸民族、諸文化の間に結ぶために、利己主義や現代社会の分断化に挑戦することを可能にする枠組みとして位置づけられるべきであることを、私は、使い捨てと無関心の文化に直面する中で強調したいと思います。

 対話は、恩恵をささげ合うことの前提となるものであり、人類を成長、発展させ、社会における権力の行使という既成の構図を打破することのできる、人間関係の幅を広げます。ささげ合うことは、単に贈り物をすることと同じではありません。自分自身を差し出してはじめてそう言えるのであって、単なる財産や物の受け渡しではありません。

 そこには自らをささげることが含まれており、絆を結びたいという願いが伴っているからこそ、贈り物をすることとは異なるのです。このように、ささげ合うことは、何よりもまず互いに認め合うことであり、社会的な絆にとって不可欠な行いです。そこには、御子イエスの受肉と聖霊の注ぎのうちに頂点に達する神の愛が映し出されているのです。

 人は、誰もが貧しく、助けを求めており、必要なものに事欠いています。生まれた時には、両親に世話してもらわなければ生きていけません。それと同様に、人生のあらゆる段階や局面で、私たちは皆、他者を必要とし、助けを求めずにはいられません。また、ある人や物の前で自分の無力さを実感するという限界から逃れることもできません。

 これは、私たちが「被造物」であることを表す特徴でもあります。その事実を率直に認めることにより、私たちは謙虚さを保ち、生きるうえで欠かせない徳である連帯を、勇気をもって実践するよう促されます。

 このような認識は、個人のものであり共同体のものでもある善を見据えながら、責任をもって行動し、他の人にも責任を負わせるよう、私たちを導きます。人が自分自身のことを、孤立した世界ではなく、その本性上、他の全ての人と結ばれたものとして捉え、本来は互いに「兄弟姉妹」だと感じるときにはじめて、共通善に基づく社会的連帯は可能になります。自分は助けを必要とし、必要なもの全てを自分で得られないからといって、気に病むことはありません。自分独りでは、自分の力だけでは、どんな限界も克服できないからです。

 恐れずにそのことを認めましょう。神はキリストのうちに自らへりくだり(フィリピの信徒への手紙2章8節参照)、私たちを助け、私たちの力では決して得られない善を与えるために、私たちとその貧しさの上に身をかがめてくださったのですから。

 インドで厳かに式典が行われるにあたり、私は貧しい人と病者への神の愛を目に見える形で示した、愛のわざの模範であるコルカタの聖マザー・テレサの姿を、喜びと称賛のうちに思い起こしたいと思います。

 彼女の列聖式で述べたように、「マザー・テレサは全生涯にわたり、生まれる前の命、世間から見放され見捨てられた命といった人間の命を受け入れ、守ることを通して、全ての人が神の慈しみを手にできるよう惜しみなく分け与えました。……衰弱しきって死にかけている人の前にかがみ、道の端に連れて行って死を迎えさせてあげました。神がその人たちにお与えになった尊厳を認めていたからです。彼女は、この世の権力者の前で声を上げ、権力者自身が生み出す貧困という犯罪……に対する彼らの責任を自覚させようとしました。マザー・テレサにとって慈しみは、彼女の働きの全てに味をつける『塩』であり、貧困と苦しみのために涙も枯れ果てた人の闇を照らす『光』でもありました。都市の周辺部と、実存的辺境に対して彼女が行った宣教は、神が極限の貧困にあえぐ人々に寄り添っておられることを雄弁に物語る証しとして、今の時代にも生き続けています」(「列聖式ミサ説教」2016年9月4日)

 聖マザー・テレサは、言語や文化、民族、宗教の違いに関わりなく、全ての人に無償の愛を示すことこそが、活動の唯一のよりどころであることを教えてくれます。彼女の模範は、理解と優しさを求めている人々、とりわけ苦しんでいる人々のために、喜びと希望の展望を切り開くよう、私たちを導き続けます。

 医療活動にとって極めて重要であり、よきサマリア人の精神をあらゆる形で体現しているボランティアの人々にとっては、無償であることこそが活動の原動力です。患者の搬送や救護に従事しているボランティア団体、さらには血液、組織、臓器提供のために尽力しているボランティア団体に、私は感謝と励ましの意を表します。

 人々の間の意識を高め、予防を充実させることも忘れてはなりませんが、教会がとりわけ注目しているのは、病者の権利、中でも特別な治療を要する患者の権利を擁護する活動です。また、医療機関や在宅ケアでの皆さんのボランティア活動は根本的に重要なものであり、保健衛生から精神的サポートまで多岐にわたっています。その活動は病者、孤立した人、高齢者、心や体が衰弱している人など、大勢の人々のために役立っています。私は皆さんが、この世俗化した世界において教会のしるしであり続けるよう願っています。

 ボランティアは、思いや感情を打ち明けることのできる公平無私な友です。傾聴することを通して彼らは、治療される受動的な存在である病者を、相互の関係における能動的な主体へと変えることができます。それにより病者は希望を取り戻し、治療を受ける心構えを持てるようになるのです。ボランティア活動は、「ささげる」というパン種を核心とする価値観、姿勢、生き方を伝えています。それは、治療をより人間味あふれるものにする活動でもあります。

 特に、カトリック系の医療機関は、無償であるという側面によって推進されるべきです。その働きは世界中、先進地域においても極貧地域においても、福音の論理のもとに行われているからです。利益最優先の論理、見返りを求める論理、人間を無視した搾取の論理に対して、カトリック諸機関はささげること、無償であること、連帯することの意味を明らかにするよう求められています。

 利益優先の使い捨て文化を克服するために欠かせない無償で与える文化を、あらゆる分野に広めるよう、私は皆さんに強く求めます。カトリック系の医療機関は、利益優先主義に陥ることなく、収益よりも人々への配慮を重んじるべきです。健康状態は他者との関係に左右される相関的なものであり、信頼関係と友情、連帯を必要とすることは言うまでもありません。それは、分かち合ってはじめて「十分」に味わうことのできる恵みです。無償で与える喜びは、キリスト者の健康状態を示す指標なのです。

 私は「病者の回復」であるマリアに、皆さんを委ねます。私たちが対話と相互受容の精神のもとに受けた、たまものを分かち合い、他者の必要に心を配りながら、兄弟姉妹として生き、寛大な心で与えるすべを身につけ、私欲にとらわれずに奉仕する喜びを知ることができるよう、マリアが助けてくださいますように。私は祈りのうちに皆さんに寄り添うことを約束し、心から使徒的祝福を送ります。

バチカンより 2018年11月25日 王であるキリストの祭日 フランシスコ

(カトリック中央協議会訳)

(「カトリック・あい」注:聖書の直接の引用については「聖書協会共同訳』を使用。また、ひらがなの多用は、読みにくさ、分かりにくさの原因になることから、原則として常用漢字表をもとに「カトリック・あい」が改めました。また原文のパラグラフが長すぎて意味のとり難い箇所は、行替えをしました)

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2019年2月8日