☩「『死の文化』に”ノー”では不十分、『善』を行いなさい」‐日曜正午の祈り

(2018.8.13 カトリック・あい)

 教皇フランシスコは12日、日曜正午の祈りの中の説教で、次のようにお話しになりました。バチカン公式発表の英語版から翻訳してお届けします。(カトリック・あい)

 親愛なる兄弟姉妹、そして親愛なる若いイタリア人の皆さん、おはよう!

 今日の日曜日のミサの第二朗読で、聖パウロは私たちに強く勧めています。「神の聖霊を悲しませてはなりません。あなた方は、聖霊によって、贖いの日に対して保証されているのです」(エフェソの信徒への手紙4章30節)と。

 でも、私は自問します。「聖霊を悲しませるとはどいういうことですか?」と。私たちは洗礼と堅信で聖霊をすべて受け入れました。ですから、聖霊を悲しませないために、洗礼で約束し、堅信で確認したことを、固く守って生きる必要があります。首尾一貫し、偽善的でないやり方で-それを忘れないように。キリスト教徒は偽善的にふるまってはならない-首尾一貫して生きねばなりません。洗礼の約束には二つの側面があります-悪を捨てることと、善に執着することです。

 悪を捨てるということは、誘惑に、罪に、サタンに、「ノー」と言うことを意味します。もっと具体的に言えば、「死の文化」に対して、「ノー」と言うことを意味するのです。「死の文化」は、誤った幸せへの現実からの逃避の中で、虚偽、欺瞞、不正、侮辱などの形をとって現れます。これらすべてに「ノー」です。

 洗礼によって私たちに与えられ、その源に聖霊を持つ新たな人生は、分裂と不一致の感情に支配された行為を拒絶します。それが、使徒パウロが「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい」(同31節)と強く勧めた理由です。これがパウロの言っていることです。聖霊の喜びを妨げる、これらの悪の要素、そして悪行は、心を毒し、神と隣人を呪うようにさせます。

 しかし、善いキリスト教徒になるためには、悪行をしないだけでは足りません-善に執着し、善をなす必要があります。聖パウロは勧めます-「互いに親切にし、憐みの心で接し、神がキリストによってあなた方を赦してくださったように、赦し合いなさい」(同32節)。人がこのように言うのをよく聞きます-「私は誰も傷つけていません」と。そして、それで聖人になると信じられています。いいでしょう。でも、あなたは善人ですか?なんと多くの人々が悪を行わず、善も行わないことでしょう-このような人々の人生は無関心、空虚、熱意の喪失に引き込まれていくのです。

 このような姿勢は、福音に反します。そしてまた、あなた方若い人たちの特権にも反します。若さの特権は、躍動的で、情熱的、そして勇敢なことです。このことを覚えてください-覚えたら、皆で一緒に繰り返しましょう-「悪を行わないのは良いことだ。だが、善を行わないのは悪いことだ」。これは、聖アルベルト・ウルタ-ド(1952年に膵臓癌で51歳で亡くなったチリのイエズス会士、労働・社会運動に尽くした)の言葉です。

 今日、私は、皆さんに、善において主役を演じるよう、強くお勧めします。主役を演じるのは、善において、です。悪を行わない時に、それでいい、と思わないように-善を行えたのにしなかった人は誰もが有罪です。嫌うだけでは不十分です-赦す必要があります。分け与えるのを惜しまないだけでは不十分です-敵のために祈らねばなりません。分裂の原因とならないだけでは不十分です-平和のないところに平和をもたらさねばなりません。他人のことを悪く言わないだけでは不十分です-誰かがひどいことを言っているのを聞いたら止めねばなりません。つまらないことを喋りまくるのを止めましょう。それが善をなすことです。

 悪に反対しないと、私たちは暗黙のうちにそれを育てることになります。悪が広がるところには割って入る必要があります。なぜなら、聖パウロが警告しているように、善をもって反抗する-「愛によって歩む」(同5章2節)-大胆なキリスト教徒のいない所に、悪が広がるからです。

 (ここに集まった)親愛なる若い皆さん。あなた方は、この数日、たくさん歩かれ、鍛えられました。ですから、私はあなた方に、こう言うことができます-「愛の中を歩みなさい、愛の中を歩みなさい!」と。そして。10月の(若者をテーマにした)シノドス(全世界代表司教会議)に向けて、一緒に歩きましょう。聖母マリアが、その取り次ぎによって、私たち一人ひとりが、日々、行いをもって、悪に対して「ノー」、善に対して「イエス」と言うことができるように、支えてくださいますように。

(翻訳・南條俊二)

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2018年8月13日