☩「『自分のパンと魚を差し出す若者』の勇気を支えよう」

 (2018.7.30 バチカン放送)教皇フランシスコは29日の日曜正午の祈りの説教で、この日の福音朗読箇所、「バンと魚の奇跡」(ヨハネ福音書6章1-15節)を考察された。

 ティベリアス湖(ガリラヤ湖)の向こう岸に渡ったイエスが、自分を追ってきた大勢の人々に、バンと魚の奇跡をなさった場面が描かれている。

 山に登られたイエスは、ご自分の方に来る大勢の人々を見て、弟子のフィリポに「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」(6章5節)と言われた。フィリポが「めいめいが少しづつ食べるためにも、200デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えているうちに、もう一人の弟子アンデレが、パン5つと魚2匹を持った少年を連れてきた。アンデレも、この少年が持っているわずかなものでは「大勢の人に食べさせるには、何の役にも立たないでしょう」と否定的な態度を示したが、イエスはそれには答えず、弟子たちに人々を座らせるよう命じ、これらのパンと魚を取り、御父への感謝の祈りを唱え、人々に分け与えられた。すべての人は、それを食べて満腹した。

 教皇は、この場面で、まず、自分が持っていたパンと魚を差し出そうとした少年の勇気を称賛され、「必要ならば使って欲しい、というこの少年のような若者たちの勇気を、今の私たちも支えなければなりません」と強調した。

 また、「(イエスは)大勢の群集を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れまれた」(参照:マルコ福音書6章34節)という先週の日曜22日の福音朗読箇所を思い起こし、「人々がその時に一番必要としていることに関心を持つイエスの憐みに満ちた眼差し」を感じ取られ、29日の朗読箇所でも、「その時、人々は飢えており、イエスが彼らの飢えを満たそうと弟子たちに働きかけたのは、具体的な事実」と指摘。

 人々に言葉と、慰め、救い、最後にはご自身の命までをも与えられたイエスは、「それだけでなく、人々が物質的に生きるための食べ物にも配慮されているのです」と言われ、イエスの弟子である私たちも、現実を見て見ぬふりをせず、人々のありのままの姿の求めに関心を持ち、人々が置かれた「それぞれの具体的な状況に寄り添ってこそ、より高い精神的な価値について説く時にも、彼らは耳を傾けてくれるでしょう」と話された。

 さらに、「パンと自由、正義と平和、そして特に、神の恵みに飢えた人類に対する神の愛は、決して欠けることがありません」「今日もイエスは、私たちを通して、こうした人々の飢えに応え、生き生きとした慰めに満ちた存在として、人々のそばに留まり続けておられるのです」と説かれた。

 教皇は、今日のヨハネ福音書の朗読箇所の後半、すべての人が満腹した時、イエスが弟子たちに「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」(6章12節)と言われたことについても取り上げ、「食べ物が捨てられるのを見ると、飢えた人たちのことを思う」としたうえで、「食べ物が余ると捨ててしまう、という人は、おじいさん、おばあさんから体験を学んでほしい。余った物を再利用したり、必要とする人が飢えないように活用するなど、決して無駄にしないように」と求められた。

(「カトリック・あい」が編集)

 

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2018年7月31日