(2019.8.7 バチカン放送)
教皇フランシスコは8月に入って、バチカンでの水曜恒例の一般謁見を再開された。
7日のパウロ6世ホールでの謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)も、「使徒言行録」をテーマとした考察を再開され、まず、2章43節の、使徒たちが行った「不思議な業としるし」を採り上げられ、使徒たちが明確な言葉と共に人々に示したこれらの業やしるしは、キリストの名によって行われたものであり、キリストが使徒たちを介して、「彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった」(マルコ福音書16章20節)もの、と説明された。
続く使徒言行録の3章では、使徒たちの最初の癒しが神殿の門で行われたことが書かれている。ペトロとヨハネが神殿に上って行くと、生まれつき足の不自由な男が運ばれて来た。足の不自由なこの人は、神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」と呼ばれる神殿の門のところに置いてもらっていたのだ。
教皇は「モーセの律法が、体に障害のある人が神に捧げ物をすることを禁じていた」が、神殿への立ち入りをも禁じられたこの足の不自由な人は「社会で疎外された多くの人たちを代表する存在」だった、とし、足の不自由な人は、境内に入ろうとするペトロとヨハネを見て施しを乞うたのに対し、二人は彼をじっと見て、「私たちを見なさい」と言ったが、その時、「ペトロはこの人に対し、別の賜物を受けるために、異なる見方で彼らを見るように促したのです」と説かれた。
足の不自由な人が何かもらえるのか期待して、彼らに注目していると、ペトロは「私には銀や金はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(3章6節)と言い、右手を取ってこの人を立ち上がらせた。
この箇所で、教皇は、使徒たちが足の不自由な人との「関係」を築いたことを指摘。「神は常に「『関係』の中に『現実の出会い』を通して、ご自身を表わされるのです」と語られた。そして、物乞いをしていたこの人は、使徒たちと出会うことで、「お金ではなく、救いの名、すなわち、ナザレの人イエス・キリストの名」を見出した。
ペトロがイエスの名によってこの人を立ち上がらせる様子は「困難にある人から目をそむけず、その人を見つめることで、意味ある関係を作り、壁ではなく、友情と連帯の橋を築く、教会のあるべき姿を示しています」と教皇は語られた。
さらに、ペトロとヨハネは「真の豊かさとは復活の主との絆であること」を教えている、とされた教皇は「貧しいようでいて、多くの人を富ませ、何も持たないようでいて、全てのものを所有しています」という聖パウロの言葉(コリントの信徒への手紙2・6章10節)を引用され、「福音、それが私たちの全てなのです」と強調された。
また教皇は、カテケーシスに続き、巡礼者に対する挨拶で、9日に記念される「十字架の聖テレサ・ベネディクタ、(エディット・シュタイン、おとめ殉教者、ヨーロッパの保護聖人)」を思い起こされ、「キリストへの真の回心において表わされたこの聖女の勇気ある選択、あらゆる形の不寛容とイデオロギー的な邪悪との対極を生きたその恵みを見つめるように」と会衆に勧められた。
(編集「カトリック・あい」=文中の新約聖書の言葉は『聖書協会・共同訳』を使用しています)