◎教皇連続講話【十戒】⑰最終回「『十戒』とは心を開き、キリストを観想すること」

(2018.11.28 バチカン放送)

 教皇フランシスコは、バチカンで28日、水曜恒例の一般謁見を行われ、この中でモーセの「十戒」をめぐるカテケーシス(教会の教えの解説)を締めくくられた。

 教皇は、キリストにおける啓示の光のもとに、「十戒」を人間の「願望」というテーマを鍵に再読しつつ、これまでの考察を振り返られ、まず、「『何かを私たちにお求める前に、まず、ご自分から非常に多くを与えてくださる神』への感謝-信頼と従順の関係の基礎にあるその感謝-から、「十戒」の考察は始まります」と述べられた。

 続いて「神は、私たちに力を及ぼす偶像崇拝の欺瞞から、私たちを解放するために、ご自分への従順を呼びかけられます」とし、この世の偶像の中に人生の実現を追い求めることが「私たちを虚しくさせ、偶像に隷属させる」のに対して、神との関係は「キリストにおいて、私たちを神の子としてくれます」と説かれた。

 さらに、「神によって解放された人は、人生の様々な出来事を受け入れ、自分自身と和解することができ、イエス・キリストによって表わされた神の愛から出立して、隣人との関係に入ることができます。それは忠実、寛大、正真に生きることの素晴らしさへの招き」とされたうえで、「このように生きるためには『新しい心』が必要」とされ、「その『新しい心』はどのように植え付けることができるのでしょうか」と問いかけられた。

 その答えとして教皇は「神によって私たちの心に蒔かれた『新たな願望』の芽生えによって、それが可能となるのです」と話された。

 また教皇は、「『十戒』はイエスによって完成させられます」と強調。「十戒」に表わされる人生、すなわち、『感謝に満ちた、自由で、偽りのない、祝福され、成熟し、命を愛する、忠実で、寛大な人生』を観想するうちに、私たちは気づかないうちに、キリストの御前に立っています」、そして、「『十戒』は、いわば『キリストのX線写真』であり、聖骸布のようにキリストの御顔を映し出すもの」「キリストを見つめることで、私たちは真・善・美を見ることになります」と話された。

 「キリストは律法を廃するためでなく、完成するために来られた、という意味がここにあります」とされ、「肉による律法が一連の規定や禁止であるのに対し、霊による掟は命となる」「なぜなら、それはすでに『掟』ではなく、私たちを愛し、探し、赦し、慰める『キリストご自身の肉』であり、キリストの体において、罪によって失われた御父との交わりが、再び取り戻されるからです」と説明された。

 こうして「十戒」の「殺してはならない」「盗んではならない」など、「…してはならない」という否定の言葉は、「愛する」「隣人のために心を割く」といった前向きな態度、願望へと変容することになる、とされ、「キリストにおいてのみ、『十戒』は罪への定め(参照:ローマの信徒への手紙8章1節)となることをやめ、人間の命の正真の真理、すなわち、愛すること、喜び、平和、高潔、寛容、優しさ、誠実、温和、自制への願望となります」「よこしまな欲望が人を破壊するのに対し、聖霊は私たちの心に聖なる願望を置き、それは新しい命の芽となるのです」と強調された。

 最後に教皇は「キリスト者にとっての『十戒』とは何でしょう。それは、私たちの心を開き、キリストの心、御旨、聖霊を受けるために、キリストを観想すること」と締めくくられた。

(編集「カトリック・あい」)

このエントリーをはてなブックマークに追加
2018年11月29日 | カテゴリー :