◎教皇連続講話【主の祈り】①「主よ、私たちにも祈りを教えてください」

(2018.12.5 バチカン放送)

 教皇フランシスコは、バチカンで5日、水曜恒例の一般謁見を行われ、謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、「主の祈り」をめぐる考察を開始された。

 まず冒頭で、ルカ福音書から、弟子たちが、イエスに「祈りを教えてください」と頼む場面が以下のように朗読された。

 「イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子のひとりがイエスに、『主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください』と言った」(11章 1節)

 福音書は「祈りの人」としてのイエスの姿を生き生きと伝えている。教皇は「イエスはその宣教の急務と、ご自分を必要とする人々の切迫にもかかわらず、ひとり退き、祈る必要を感じていました」とされ、「マルコ福音書では、イエスの公生活の最初から、祈るイエスの姿が浮かび上がってきます」と語られたうえで、イエスのカファルナウムでの行動を、次のように振り返られた。

 カファルナウムで、多くの病人を癒したイエスは、いわば凱旋的にその一日を終えようとしていた。そこでは、イエスは人々の注目の的であり、人々の待ち望んでいた存在、イスラエルの希望の実りだった。しかし、イエスはご自分を指導者と見なす人々の期待に縛られず、こうした圧力から、ご自分を解くすべを知っておられた。実際、「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」(マルコ福音書1章35節)。

 弟子たちはイエスを捜すが、見つけることができなかった。シモンたちがイエスを見つけた時、イエスは完全に祈りに徹しておられた。「皆が探しています」という、シモンがイエスにかけた言葉は、イエスの宣教の成功を裏付けるものだった。だが、イエスは「近くの他の町や村に行こう。そこでも、私は宣教する。そのために私は出てきたのである」(マルコ福音書1章38-39節)と、他の場所に行こうとし、「人々がイエスを捜す」のではなく、「先にイエスご自身が人々を捜す」という態度を示された。

 カファルナウムでの出来事を振り返えられた教皇は「聖書は、イエスの祈りと御父との親しい交わりに満ちています」と話され、その例として、イエスのゲツセマネでの祈りを挙げ、「絶えず御父に耳を傾けようとするイエス」の姿勢を示され、「この祈りは、決して容易なものではなく、むしろ死の苦悶であったにもかかわらず、この時のイエスの祈りは、十字架の道行きを支える力となったのです」と強調された。

 「イエスは祈っておられた」。これを本質的な点として示された教皇は、「公生活の中で祈るイエス」「世の喧騒から離れて祈るイエス」の姿を見つめるよう招かれた。「主よ、私たちにも祈りを教えてください」という弟子たちの願いを拒まず、ご自身と御父との親密さを独り占めにせず、イエスは私たちを、まさに御父との絆に導かれようとした。「こうして、イエスはご自分の弟子たちの、そして、私たちの『祈りの師』となられました」と話された。

 さらに教皇は、「主の祈り」をめぐるカテケーシスの初めに「主よ、私たちにも祈りを教えてください」という弟子たちの願いを繰り返すことは「最も素晴らしく、ふさわしいこと」とし、「イエスは私たちのこの懇願を必ず聞き入れてくださるでしょう」と話された。

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2018年12月6日