◎教皇・連続講話「主の祈り」⑤「苦難の時も『アッバ』で始めれば祈りの力を得る」

(2019.1.16 バチカン放送)

 教皇フランシスコは16日の水曜恒例の一般謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、先週に続いて「主の祈り」をテーマに話され、「子の信頼をもって『アッバ、父よ』と祈ることの大切さ」を説かれた。

 この講話で、新約聖書で「祈り」とは究極のところ「アッバ、父よ」という言葉に集約されているかのように思わる、とされたうえで、「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、子としてくださる霊を受けたのです。この霊によって私たちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」(ローマの信徒への手紙8章15節)、「あなたがたが子であるゆえに、神は『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、私たちの心に送ってくださったのです」(ガラテヤの信徒への手紙4章6節)という聖パウロの言葉を示された。

 そして、「イエスを知り、イエスの言葉を聞いたキリスト者は、もう神を『恐るべき暴君』のようには考えることはありません」「『父』と呼びかけながら創造主と対話できることで、むしろ神に対する信頼が花開くのを感じるでしょう」と語られた。

 「『父』という言葉は、キリスト者にとって、それほどに大切であるために、『アッバ』という原語をそのままに残すことになりました」「新約聖書の中で、このアラム語の表現がギリシャ語に訳されていることはまれですが、アラム語の言葉は、いわばイエスの声を『録音』したかのように残されているのです」と話された。

 「アッバ」という呼び方は、神を単に「父」と呼ぶよりも、より親しみ深く、感動的なもの、と教皇は指摘され、「アッバ」を「お父さん」と訳すことを試みる人がいるように、「この言葉には、愛情や温かみを呼び起こし、私たちを子どもに返らせる何かがあります」と語られ、「父親の腕に無限の優しさをもって包まれた子ども」を想像するように、より良く祈るためには、「この子どものような心を、持たなければなりません」と説かれた。

 さらに、「主の祈り」を生き生きと理解するために、たとえば「放蕩息子」に対するいつしみ深い父のたとえ話を読み、「この祈りが、その放蕩息子の声であると想像すれば、『主の祈り』の言葉は、いっそう命と力を帯びてくることになるでしょう」と話された。

 「『アッバ』の一言から、キリスト者の祈りは始まります…。あなたが神を捜さない時も、神はあなたを捜し、あなたが神を忘れている時も、神はあなたを愛しています…。苦難の時も、『アッバ』という言葉から始めれば、私たちは再び祈る力を得ます。神はその御顔を隠されることはありません」。

 そして、教皇は次のように締めくくられた。「私たちの人生で最も困難な時を迎えても、信頼と確信をもって父に顔を向けるのを、恐れることがないように… イエスが私たちに教えてくださった言葉で祈りましょう…『アッバ』『私たちの父よ』と」。

(編集「カトリック・あい」・・聖書の日本語訳は「聖書 聖書協会共同訳」を使用しました)

このエントリーをはてなブックマークに追加
2019年1月17日