◎教皇の連続講話「山上の説教」⑧「”平和を造る人”は常に和解を求める」 (2020.4.15 カトリック・あい) 教皇フランシスコは15日、水曜恒例の一般謁見を、新型コロナ対策のためバチカン宮殿図書室からの動画配信の形でなさった。その中で、新約聖書のイエスの「山上の説教」の「八つの幸い」をテーマにカテキーシスを続けられ、今回は7番目の幸い(マタイ福音書5章9節「平和を造る人は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」)を取り上げられた。 バチカン広報局発表の公式英語訳の教皇講話の翻訳以下の通り。 親愛なる兄弟姉妹の皆さん 今日のカテケーシスでは、「山上の説教の八つの幸い」の七番目、「神の子」とされた「平和を造る人」について考えたいと思います。復活祭の直後に、このテーマに順番が回ってきたことをうれしく思います。聖パウロの書簡の朗読で聞いたように、「主の平和」は、キリストご自身の受難と死の成果だからです。この教えを理解するために、「平和」という言葉の意味について説明が必要です。誤解されたり、時として無意味だとされる可能性があるからです。 私たちは「平和」の二つ意味に目を向ける必要があります。一つは、聖書にある意味です。聖書には、豊かさ、繁栄、幸福を表す「シャーローム」という非常に美しい言葉が出てきます。ヘブライ語で誰かについて「シャーローム」と言う時、それは素晴らしい、充実し、栄えある人生だけでなく、平和の主であるメシアによって完成される真理と正義と一致したものであることを願うのです。(イザヤ書9章6節、ミカ書5章4-5節参照)。 また、「平和」には、「心の静穏」という、もっと一般的な意味があります-「私は心静かだ」「平和だ」というように。これは近代的、心理的で、もっと主観的な捉え方です。一般に、「平和」とは、静かで、調和がとれていて、内的な均衡が保たれている、と言う意味と理解されています。この意味での平和は、不完全で、絶対化できないものですー人生において、不安は重要な成長の時であるかもしれません。 頻繁に起きるのは、主ご自身が私たちの中に不穏の種を撒かれ、私たちが主に向かい、主を見出すようにされようとすることです。その意味で、それは成長のための重要な時なのですが、心の静穏が、本当の霊的な救いにつながるというよりも、無気力をもたらすことになるかも知れません。「反対を受けるしるし」(ルカ福音書2章34-35節参照)である主は、私たちを救いに導くために、私たちのいつわりの安心を揺さぶることが、多くあります。その時は、私たちに平和がないように見えても、主は、ご自身が私たちにくださる平和に至る道に、導いてくださるのです。 ここで、「私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。私はこれを、世が与えるように与えるのではない」(ヨハネ福音書14章27節)と主が言われる時、「ご自分の平和」を、この世や人々が考えるものと違うものとして意図しておられることを、思い起こさねばなりせん。イエスの平和は、世が与える平和とは別なのです。 考えてみましょう-世はどのように平和を与えるのでしょうか?武力紛争や戦争による場合、通常、平和を実現するために二つの方法があります。いずれか一方が負けるか、和平を結ぶか、です。私たちは常に、後者の道が選択されるように、と願い、祈る以外に道はありません。しかし、世界の歴史を振り返れば、和平合意が戦争によって裏切られた例、あるいは形や、場所が変わっただけで戦いが続けられた例が、数限りなくあります。今日でも、”断片化”し「キリストの平和」ではありません。 では、主イエスはどのように平和をお与えになるのでしょうか?私たちは先ほど聖パウロの言葉を聞きました。キリストの平和は「二つのものを一つにする」(エフェソの信徒への手紙2章14節)もの、敵意をなくし、和解させるものです。この平和の業を完成させるための道は、ご自身の体です。使徒パウロが別の書簡で言うとおり、キリストはその十字架上の血によって、すべてのものを和解させ、平和を打ち立てられました(コロサイの信徒への手紙1章20節)。 ここで問いたいと思います。「平和を実現する人々」とは、誰なのでしょうか?「山上の説教」の七番目の教えは、最も行動的です。明らかに活動的です。その表現は、聖書の創世記の第一節と同様、創意と熱心な働きを示しています。愛は本来、創造的なものです。愛は常に創造的です。そして、いかなる犠牲を払っても、和解を探し求めます。平和の築き方を学び、それを実行する神の子らは召されています。 彼らは、自分の人生を捧げることなしに和解はない、そして平和をいつ、いかなる場合でも追求すべき、と知っている人たちです。これは自分の能力の結果として得られる業ではありません。それは、私たちを神の子らとしてくださった方、私の平和であるキリストから受け取った恵みの現れ、なのです。 本物の「シャーローム」は、キリストの平和からわき出る真の心の均衡です。キリストの平和は、その十字架に由来し、無数の聖人たちの群れに表される、新しい人類を生み出します。聖人たちは愛するために、常に新しい道を思いつきました。聖人たちは平和を築く人たちです。キリストの御血のために、自分の兄弟たちを求め見出す、神の子らとしてのこの生き方こそが、真の幸せなのです。この道を行く者は幸いです。 皆さん、改めて主のご復活おめでとうーキリストの平和のうちに! (翻訳「カトリック・あい」南條俊二=聖書の日本語訳は「聖書協会共同訳」を使用) ツイート
教皇フランシスコは15日、水曜恒例の一般謁見を、新型コロナ対策のためバチカン宮殿図書室からの動画配信の形でなさった。その中で、新約聖書のイエスの「山上の説教」の「八つの幸い」をテーマにカテキーシスを続けられ、今回は7番目の幸い(マタイ福音書5章9節「平和を造る人は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」)を取り上げられた。 バチカン広報局発表の公式英語訳の教皇講話の翻訳以下の通り。 親愛なる兄弟姉妹の皆さん 今日のカテケーシスでは、「山上の説教の八つの幸い」の七番目、「神の子」とされた「平和を造る人」について考えたいと思います。復活祭の直後に、このテーマに順番が回ってきたことをうれしく思います。聖パウロの書簡の朗読で聞いたように、「主の平和」は、キリストご自身の受難と死の成果だからです。この教えを理解するために、「平和」という言葉の意味について説明が必要です。誤解されたり、時として無意味だとされる可能性があるからです。 私たちは「平和」の二つ意味に目を向ける必要があります。一つは、聖書にある意味です。聖書には、豊かさ、繁栄、幸福を表す「シャーローム」という非常に美しい言葉が出てきます。ヘブライ語で誰かについて「シャーローム」と言う時、それは素晴らしい、充実し、栄えある人生だけでなく、平和の主であるメシアによって完成される真理と正義と一致したものであることを願うのです。(イザヤ書9章6節、ミカ書5章4-5節参照)。 また、「平和」には、「心の静穏」という、もっと一般的な意味があります-「私は心静かだ」「平和だ」というように。これは近代的、心理的で、もっと主観的な捉え方です。一般に、「平和」とは、静かで、調和がとれていて、内的な均衡が保たれている、と言う意味と理解されています。この意味での平和は、不完全で、絶対化できないものですー人生において、不安は重要な成長の時であるかもしれません。 頻繁に起きるのは、主ご自身が私たちの中に不穏の種を撒かれ、私たちが主に向かい、主を見出すようにされようとすることです。その意味で、それは成長のための重要な時なのですが、心の静穏が、本当の霊的な救いにつながるというよりも、無気力をもたらすことになるかも知れません。「反対を受けるしるし」(ルカ福音書2章34-35節参照)である主は、私たちを救いに導くために、私たちのいつわりの安心を揺さぶることが、多くあります。その時は、私たちに平和がないように見えても、主は、ご自身が私たちにくださる平和に至る道に、導いてくださるのです。 ここで、「私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。私はこれを、世が与えるように与えるのではない」(ヨハネ福音書14章27節)と主が言われる時、「ご自分の平和」を、この世や人々が考えるものと違うものとして意図しておられることを、思い起こさねばなりせん。イエスの平和は、世が与える平和とは別なのです。 考えてみましょう-世はどのように平和を与えるのでしょうか?武力紛争や戦争による場合、通常、平和を実現するために二つの方法があります。いずれか一方が負けるか、和平を結ぶか、です。私たちは常に、後者の道が選択されるように、と願い、祈る以外に道はありません。しかし、世界の歴史を振り返れば、和平合意が戦争によって裏切られた例、あるいは形や、場所が変わっただけで戦いが続けられた例が、数限りなくあります。今日でも、”断片化”し「キリストの平和」ではありません。 では、主イエスはどのように平和をお与えになるのでしょうか?私たちは先ほど聖パウロの言葉を聞きました。キリストの平和は「二つのものを一つにする」(エフェソの信徒への手紙2章14節)もの、敵意をなくし、和解させるものです。この平和の業を完成させるための道は、ご自身の体です。使徒パウロが別の書簡で言うとおり、キリストはその十字架上の血によって、すべてのものを和解させ、平和を打ち立てられました(コロサイの信徒への手紙1章20節)。 ここで問いたいと思います。「平和を実現する人々」とは、誰なのでしょうか?「山上の説教」の七番目の教えは、最も行動的です。明らかに活動的です。その表現は、聖書の創世記の第一節と同様、創意と熱心な働きを示しています。愛は本来、創造的なものです。愛は常に創造的です。そして、いかなる犠牲を払っても、和解を探し求めます。平和の築き方を学び、それを実行する神の子らは召されています。 彼らは、自分の人生を捧げることなしに和解はない、そして平和をいつ、いかなる場合でも追求すべき、と知っている人たちです。これは自分の能力の結果として得られる業ではありません。それは、私たちを神の子らとしてくださった方、私の平和であるキリストから受け取った恵みの現れ、なのです。 本物の「シャーローム」は、キリストの平和からわき出る真の心の均衡です。キリストの平和は、その十字架に由来し、無数の聖人たちの群れに表される、新しい人類を生み出します。聖人たちは愛するために、常に新しい道を思いつきました。聖人たちは平和を築く人たちです。キリストの御血のために、自分の兄弟たちを求め見出す、神の子らとしてのこの生き方こそが、真の幸せなのです。この道を行く者は幸いです。 皆さん、改めて主のご復活おめでとうーキリストの平和のうちに! (翻訳「カトリック・あい」南條俊二=聖書の日本語訳は「聖書協会共同訳」を使用)