◎教皇の長期連続講話「ミサを味わう」⑬交わりの儀ー「主の祈り」と「平和の賛歌」の意味は

教皇フランシスコ、3月14日、バチカンでの一般謁見 – AP

(2018.3.14 バチカン放送)

 教皇フランシスコは14日、水曜恒例の一般謁見を行われ、「ミサ聖祭」をテーマとしたカテケーシス(教会の教えの解説)を続けられた。この日は「感謝の典礼」に続く「交わりの儀」を考察された。

 ミサでは、「感謝の典礼」の「エウカリスチアの祈り」の後、「交わりの儀」に入ると共に、「主の祈り」が皆で唱えられる。教皇は「主の祈り」について、単にキリスト教の多くの祈りの中の一つではなく、「イエスがわたしたちに教えられた偉大な祈り、『神の子らの祈り』です」と語られ、次のようにお話しになった。

 「キリスト者にとって『主の祈り』は、洗礼を受けたその日から、イエスの御父に対する気持ちを自分たちのものとして心に響かせるようになる祈りです。『主の祈り』で、私たちはまず、神に向かって『父よ』と呼びかけますが、それは私たちが水と聖霊によって神の子として生まれ変わったからなのです。神の子とする霊を受けずに、誰も神を『アッバ、父よ』と親しみを込めて呼ぶことはできません(ローマの信徒への手紙8章15節参照)」

 「『主の祈り』で、私たちは『日ごとの糧』を与えてくださるように願いますが、ここには神の子として生きるために必要な『聖体』への特別な言及があります。続けて『私たちの罪のゆるし』を願いますが、神のゆるしを受けるために『私たちも人をゆるす』ことが必要なのです。このように『主の祈り』は、私たちの心を神に開かせながら、私たちに兄弟愛を持つよう教えています。そして、悪から救ってくださるように祈ります」

 「主の祈り」に続いて、司祭は、いつくしみ深い父が、すべての悪から私たちを救い、現代に平和を与えてくださるように祈ります。そして、神の御旨に従い、教会に平和と一致が与えられるように祈った後、「平和のあいさつ」がされる。ここでは、聖体拝領の前に、教会の一致と、互いの愛を表現するために、具体的な態度をもって、平和のあいさつが交換される。この箇所について、教皇は「兄弟愛を生きることのできない心、兄弟愛を傷つけられても、それを修復できない心には、キリストの平和は根付くことができません」と話された。

 平和を態度で示した後、「パンを裂くこと」が行なわれる。初代教会の信者たちは、自分たちのエウカリスチアの集いをこの表現をもって呼ぶようになった(カトリック教会のカテキズム1329項)。イエスが最後の晩餐で行なったパンを裂く行為は、「パンを裂いてくださったときにイエスだとわかった」(参照:ルカ福音書24章30-31節.35節)とエマオでの出来事に記される通り、復活後のイエスと出会った弟子たちを、それがイエスであると気付かせることになった。

 聖体拝領の前には「平和の賛歌(アニュス・デイ)」が歌われる。ここには、「世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ福音書1章29節)と、洗礼者聖ヨハネが呼んだイエスの姿がある。教皇は、子羊が聖書の中で「贖い」と結び付けられてきたことを説明された(参照・出エジプト記 12章1-14節; イザヤ書53章7節; ペトロの手紙1・1章19節; ヨハネの黙示録7章14節)。祈りの中にある会衆は、世にいのちを与えるために裂かれたエウカリスチアのパンのもとに、真の神の子羊、すなわち贖い主キリストを認め、「われらをあわれみたまえ」。「われらに平安を与えたまえ」と祈る。教皇は「イエスご自身が教えてくださった『主の祈り』と共に、神にあわれみと平安を願う『平和の賛歌』は、神と兄弟たちとの交わりの源である聖体の祝宴に参加する準備をわたしたちのために整えてくれるものなのです」と説明された。

(バチカン放送日本語版をもとに「カトリック・あい」が編集しました)

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