♰「教会一致は、聖霊が私たちの”旅”の過程で実現してくださる」-回勅「キリスト者の一致」25周年に

2018.06.21- Papa Francesco -Incontro-ecumenico-nel-Centro-Ecumenico-WCC a GinevraPope Francis with other Christian leaders at an encounter in the WCC Ecumenical Centre in Geneva in 2018 

*聖霊の賜物との一致

 さらに教皇は、回勅を繰り返す形で、私たちに対して、キリスト教徒の一致に向けて「すでに達成された進展を念頭」に置き、「地平を見通し、この回勅をもって『Quanta est nobis via?’』、すなわち『さらにどこまで、私たちは旅を必要があるのか​​』と問いかけるように勧められた。

 また、私たちに、キリスト教の教会一致は「私たちの活動の結果というよりも、むしろ聖霊の賜物」と受け止めるように求め、その一致は、旅の「終わり起こる奇跡」ではなく、旅そのものの中に実現するー「一致は旅をする中でもたらされるもの。旅で、聖霊がそうしてくださるのです」と説かれた。」

 書簡の締めくくりに、教皇は「私たちの歩みを導き、すべての人が新たな活力を持って教会一致のための働くようにとの呼びかけを、全ての人が理解するようにい、と聖霊に願われた。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

2020年5月26日

♰「普遍教会は、人生の試練に遭う皆さんを支える」-中国の守護・聖母マリアの日に+解説

教皇フランシスコ、2020年5月24日(日)正午の祈り教皇フランシスコ、2020年5月24日(日)正午の祈り  (ANSA)

(2020.5.25 カトリック・あい)

 教皇フランシスコは24日、バチカン宮殿からビデオを通して行われた日曜正午の祈りの後で、中国のカトリック信者たちを「扶助者聖母マリア」に託して祈られた。

 カトリック教会暦では、5月24日を「主の昇天」の祝日であるとともに、教皇フランシスコの環境回勅「ラウダート・シ」発出5周年の記念の日、さらに「扶助者聖母マリア」を記念する日でもある。

 バチカン広報局発表によると、教皇は、正午の祈りの後の言葉の冒頭で、「『キリスト教徒の助け、中国の守護者、上海の佘山(シェシャン)聖堂で崇敬されている聖母マリア』の祭りを祝う中国の信徒たちと、心を合わせましょう」と呼び掛けられた。

 そして、中国のカトリック教会の司牧者と信徒を、我々の天の母の導きと守りに委ね、彼らが「信仰に強められ、兄弟として固く一致し、喜びにあふれた証人、慈しみと友愛に溢れた希望の推進者、そして良き市民」であるように祈られた。

 さらに、中国の信者たち向けて、次のような励ましと祝福をおくられた。

 「中国の親愛なる兄弟姉妹の皆さん。あなた方が一員である普遍の教会は、皆さんの希望を共有し、人生の試練に遭う皆さんを支援します。教会は、聖霊があらたに湧き出すようにとの祈りをもって、あなた方と共に歩みます。福音の光と美しさが、神を信じるすべての人の救いのために神の力が、あなた方に輝くことができますように。改めて、皆さんすべてに対して、私の心からの愛を表明し、特別な教皇祝福を皆さんにお授けします。聖母が皆さんを、いつもお守りくださいますように!」

 最後に、こう祈られた。「主のすべての弟子と、この困難な時期に、平和のために、国家間の対話のために、貧しい人々への奉仕のために、被造物の保護のために、そして、身体と心、魂のあらゆる病に人類が打ち勝つために、情熱と献身をもって、世界のあらゆる所で働いている、すべての方々を、聖母マリアの取り次ぎに委ねます」 (翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

【「カトリック・あい」解説】

 中国(香港を除く)には現在、推定で1000万人のカトリック教徒がいるといわれているが、その6割を、中国共産党統一戦線工作部の管理・統制下にある「中国天主愛国協会」に加わった教会の信徒が占める一方、4割は、その管理・統制を拒み、教皇に忠誠を誓う、いわゆる”地下教会”に属しているとされる。

 国内の宗教を統制下に置き、習近平・主席が推進する「中国化」を進めようとする中国政府・共産党の”地下教会”への締め付けは、カトリック教会に限らず、プロテスタント教会などにおいても、一昨年9月のバチカンとの司教任命を巡る暫定合意のあと、むしろ加速している。

 新型コロナウイルスの感染拡大中も、統制を拒む教会の閉鎖、司祭や信徒への”転向”圧力などが強まる一方、と伝えられており、中国の現状をよく知り、”地下教会”を守ろうと努める香港の陳日君枢機卿などは、教皇に対し、こうした信教の自由、基本的人権を侵す行為を放置したまま、中国政府・共産党に妥協することのないよう、繰り返し訴えている。

 今回の教皇の中国の信徒に対するメッセージは、こうした問題に触れておらず、”地下教会”の信徒も含む中国の全信徒への共感と励ましの言葉を送っているもの、とも受け止めることもできるだろう。

 だが、中国政府・共産党はこのところ、中国本土における諸宗教の取り締まり強化だけでなく、香港における民主化運動リーダーの相次ぐ検挙、民主化デモなどに対する国家安全制度の適用準備の動きなど、信教の自由や基本的人権への規制を強めている。

 そうした中での今回の教皇の中国の信徒へのメッセージは、中国政府・共産党に”青信号”を出したような我田引水的な政治的解釈をもたらす恐れなしとしない。ましてバチカン内部には、中国を”宣教の最後のフロンティア”と捉え、宣教本格化のために、先のような問題に目をつぶっても中国政府⊡共産党との融和を急ごうとする勢力もある。

 今後の教皇の中国国内の信教の自由、基本的人権に絡む動きや、国際情勢を見据えた、慎重かつ賢明な対応を期待するとともに、バチカンの対中政策の動きを、そうした懸念を持ちつつ、注視していきたい。

 

2020年5月25日

♰「落胆するな、主はいつも共におられる」教皇、主の昇天の祝日に

Pope Francis prays the Regina Coeli on SundayPope Francis prays the Regina Coeli on Sunday  (Vatican Media)

(2020.5.24 Vatican News  Devin Watkins)

 教皇フランシスコは24日正午、主の昇天の祈りを唱え、説教で「イエスが強さと喜びの源として私たちの間に留まってくださっている」ことを強調された。

 まず、教皇は、この日のミサで読まれたマタイ福音書の箇所(28章16-20節)で、イエスが天に昇られる前の弟子たちのとの最後の出会いで、彼らに課した宣教の使命について取り上げられた。そして、「イエスはご自分に付き従うすべての者に、全ての人々に対する宣教の使命を授けます」とされ、その使命とは「福音を宣べ伝え、洗礼を授け、主が描かれた道の歩み方を教えること」と語られた。

*勇気ある証人

 また教皇は、「救いのメッセージは、キリスト教徒たちに、証人となることを求めます。それは、『私たちが、なぜ信じるのか』を説明することです」とし、「そのような難しい仕事に直面した時、弟子たちが疑いもなく、そう感じたように、私たちも確かに、『不十分だ』と感じるでしょう… しかし、落胆してはいけません。イエスが天に昇られる前に、弟子たちに話された言葉を思い出しましょうー『私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる』のです」。

*絶えず、慰めてくださる聖霊

 「このように、イエスは、いつも私たちと共にいてくださる、と約束されました-絶えず、慰めてくださる聖霊の臨在です… 聖霊は、キリストと父によって私たちの所に送られ、罪を赦し、悔い改めて主の賜物に信頼をもって心を開く全ての人を聖別してくださいます」と説かれた。

 また、復活された方として私たちの間にイエスがおられることは、「御言葉、秘跡、そして聖霊の絶え間ない内的な働き」において明らかにされている、とされ、「『主の昇天の祝い』は、父の右の座に栄光に輝いてお就きになるために天に昇られたにもかかわらず、イエスが今のなお、そしていつも、私たちの間におられることを、私たちに語ります。これが、私たちの強さ、忍耐、そして喜びなのです」と強調された。

*優しさと勇気

 説教の最後に、教皇は聖母マリアに、母なる守りをもって、私たちと共に旅してくださるように願われた。「復活された主の世界で私たちが証人となる優しさと勇気を、あなたから学びますように」。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

2020年5月24日

◎教皇連続講話「祈りの神秘」③「生きていることを単純に喜ぶ-『ありがとう』こそ素晴らしい祈り」

教皇フランシスコ、2020年5月20日の一般謁見教皇フランシスコ、2020年5月20日の一般謁見  (ANSA)

(2020.5.20 バチカン放送)

 教皇フランシスコは20日)、水曜恒例の一般謁見をバチカンからビデオを通して行われた。教皇ご自身の環境回勅「ラウダート・シ」発表5周年を記念する特別週間(16日-24日)に行われたこの謁見で、「祈りの神秘」をテーマとするカテケーシス(教会の教えの解説)を続けられ、今回は祈りを生む「創造の神秘」について、以下のように講話された。

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 親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 「祈り」をめぐるカテケーシスを続けながら、「創造の神秘」について観想しましょう。命-生きている-ということは、人間の心を祈りに開きます。

 聖書の最初のページは、いわば、感謝の壮大な賛歌に似ています。創造の物語は、繰り返しによってリズムをつけながら、存在するすべてのものの良さと美しさを強調し続けます。神はその御言葉をもって、すべてのものを命に召され、あらゆるものを存在させます。御言葉によって、光と闇を分け、昼と夜を区別し、四季を入れ替わらせ、色々な種類の動物、植物によって豊かな色彩を広げました。

 このあふれるばかりの森の中で混沌は速やかに淘汰され、最後に人間が現われました。人間の出現により高まった歓喜は、満足と喜びを増大させます。

 「神は、造ったすべてのものを御覧になった。それは極めてよかった」(創世記1章31節)。

 それは良いだけでなく、美しいものでもありました。すべての被造物には美しさがあります。創造の美しさとその神秘は、人間の心の中に祈りを生む最初の衝動を与えます(「カトリック教会のカテキズム」2566項参照)。

 私たちが先に耳を傾けた詩編8はこのように歌います。

 「あなたの指の業である天を あなたが据えた月と星を仰ぎ見て、思う。人とは何者なのか、あなたが心に留めるとは」(詩編8章 4-5節)。

 詩編作者は、自分の周りの命の神秘を観想し、今日、天文学がその広大さを示す、星でいっぱいの天を仰ぎ見、これほど力強い御業の背景には、どのような愛の計画があるのだろうか、と問います。この果てしない広さを前に、人間とは何ほどの者でしょうか。

 それはほとんど「むなしいもの」である、と、ある詩編(89章48節参照)は言います。それは生まれて、死にゆく、はかない被造物です。それにもかかわらず、天地において、人間は唯一、神が創造されたものの、あふれる美しさを自覚する被造物です。人間は生まれ、死ぬ、小さな存在ですが、唯一、この美しさを自覚しているのです。

 人間の祈りは、この驚きの感情と密接に結びついています。人間の大きさは、宇宙の広さに比べたら、極めて小さなものです。人間が成し遂げた最も偉大な物事も、その前では微々たるものです。しかし、人間はまったくの無ではありません。

 祈りの中で、人間は、神のあふれる憐みを確信することができます。何一つ偶然に存在するものはありません。宇宙の神秘は、私たちと目を交わす、あるお方の善良なまなざしの中にあります。詩編は、私たちは「神に僅かに劣るもの」として造られ、「栄光と誉の冠を授け」(詩編8章6節)られたもの、と述べています。神との絆が、人間の偉大さです。私たちは本来、無に等しい、小さな存在ですが、召命によって、偉大な王の子たち、となりました。

 これは私たちの多くが得た体験です。人生のつらい出来事が、時に、私たちの祈りの恵みを押しつぶすことがあっても、星空や夕日や花を見つめるだけで、感謝の火花が再びきらめくのです。この体験は、おそらく、聖書の最初のページの根底にあるものです。

 創造の偉大な物語が記された時、イスラエルの民は決して安穏な状態にはありませんでした。敵の勢力に土地を占領され、多くは流刑の身となり、メソポタミアで捕囚状態にありました。そこには、もう祖国も、神殿も、社会生活、宗教生活もありませんでした。

 それにもかかわらず、まさに創造の偉大な物語から始めることで、人々は感謝の動機、命のために神を賛美する動機を再び見出したのです。祈りは、希望の最初の力です。祈ることで、希望が育ち、前進できます。祈りは「希望の扉を開く」と言っていいでしょう。なぜなら、祈る人々は土台となる真理を保っています。それは、この人生は、その苦労と困難、試練の日々にもかかわらず、驚くべき恵みに満ちている、ということです。彼らはその真理を、何より自分自身に、そして他の人々に繰り返します。この真理は常に守られるべきです。

 祈る人々は、「希望が失望よりも強い」ことを知っています。「愛は死より強い」ことを信じています。それがいつ、どのようにか、は知らなくても、「愛がいつか勝利する」と信じています。祈る人は、顔に光の輝きを帯びています。なぜなら、最も暗い日も、陽が彼らを照らし続けるからです。祈りは、どんなに暗く、つらい時でも、あなたを、あなたの魂、心、顔を照らします。

 すべての人は喜びを持っています。そう考えたことはありますか?あなたは喜びを持っていますか?それとも悲しいニュースの方を好みますか?

 誰もが喜びを持つことができます。この命は、神が私たちに与えてくださった恵みです。悲しみや、幻滅のうちに費やしてしまうには、命は短すぎます。神を賛美し、生きていることを単純に喜びましょう。

 天地の美しさを見つめ、そして自分の十字架を見つめて言いましょう。「あなたは生きている。あなたは、あなたのために、このように作られたのだ」。

 心の不安が、神に感謝し、神を賛美することに向かわせます。私たちは偉大な王、創造主の子たちです。神の御手のあとをすべての被造物に見ることができます。今日、私たちは被造物を大切にしようとしません。しかし、その被造物は神が愛のために造られたのです。

 主がいつも、私たちにこのことをより深く理解させてくださいますように。そして、そのために私たちが「ありがとう」と言えますように。この「ありがとう」こそ、素晴らしい祈りなのです。

(編集「カトリック・あい」=聖書の日本語訳は「聖書協会 共同訳」を使用、漢字の表記は当用漢字表に倣いました)

2020年5月21日

♰「聖ヨハネ・パウロ2世は祈り、親密、正義の人」ー生誕100年の記念ミサで

 聖ヨハネ・パウロ2世の生誕100年を迎えた18日、教皇フランシスコは午前7時(日本時間同日午後2時)から、聖ペトロ大聖堂内の、聖ヨハネ・パウロ2世の棺を安置した祭壇でミサを捧げられた。

 新型コロナウイルスの世界的大感染の中で、約2か月ぶりの公開ミサとなったが、感染防止への配慮から、少人数の司祭、信徒に参加が限定され、インターネットなどで全世界に動画配信された。

*主は民を訪れた

 このミサの説教で、教皇はまず、会衆に神が民を愛しておられることを思い起こされ、「神は、困難の時に、聖なる人あるいは預言者を送ることで、民のところに遣わされます」とされたうえで、教皇ヨハネ・パウロ2世の人生の中に、「私たちは『神が遣わされ、準備され、そして神の教会を導く司教、そして教皇にされた人』を見ることができます… 今日、私たちは、主が民を訪れた、ということが出来るのです」と語られた。

*祈りの人

 続いて、教皇は、教皇ヨハネ・パウロ2世の人生を特徴づける3つの特質-祈り、親密、慈しみ-に焦点を当て、まず「祈り」について、「教皇として果たすべき多くの務めがあるにもかかわらず、彼はいつも祈る時間を見つけました… 司教の第一の務めが祈ることだということを、よくご存じでした」とし、使徒言行録には、聖ペテロが「司教の第一の務めは祈ること」と教えられた、と書かれており、ヨハネ・パウロは「それを知っておられ、なさったのです」と強調された。

 

*民と親密な人

 聖ヨハネ・パウロ2世は人々と親密に接され、離れたり離されたりせず、人々を探し出すために世界中を旅された。旧約聖書に書かれているように、神がご自身の民とどれほど密接だったかを私たちは知ることができる。この親密さは、イエスが人となられ、人々の中に住まわれた時に、頂点に達した。「ヨハネ・パウロは、良き羊飼いであるイエスの模範に倣い、あらゆる階級の人、近くの人も遠くの人も、分け隔てなく、そばに行かれました」。

*慈しみ深い正義

 説教の最後に、教皇は、聖ヨハネ・パウロ2世が正義を愛したことは注目に値するが、彼の正義への愛は、慈しみによって完成された正義への強い熱意であり、そのことで「彼は慈しみの人でした… なぜなら、正義と慈しみは相伴うものだからです」と語られ、神の慈しみ深い献身を進めるためにとても多くのことをなさったヨハネ・パウロは、「神の正義が『慈しみの顔を、慈しみの思いを持っている』と確信しておられました」と語られた。

 そして、祈りと親密さの恵み、そして慈しみの正義の恵み、そして慈しみ深い正義を、私たちすべてに、とくに司牧者たちにくださいますように、と主に祈ることで、説教を締めくくられた。

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 カロル・ヴォイティワ、後の聖ヨハネ・パウロ2世は、1920年5月18日にポーランド南部のヴァドヴィツェにお生まれになり、1978年10月16日に教皇に就任、2005年4月2日に在職のまま亡くなられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

2020年5月18日

♰「聖霊は私たちの歩みを照らしてくださる」復活節第六主日、17日の正午の祈りで

Pope Francis during the Regina CaeliPope Francis during the Regina Caeli  (Vatican Media)

(2020.5.17 Vatican News)

 教皇フランシスコは復活祭第六主日の17日正午の祈りのカテキーシスで、神の無償の愛と聖霊の賜物について語られ、進むべき道を照らしてくださる聖霊によって支えられていることを知る喜びの中で、福音を生きるように、と世界の信徒たちを励まされた。

*「戒めを守る」と「聖霊の約束」

 教皇はまず、この日のミサで読まれたヨハネ福音書の箇所(14章15-21節)を取り上げ、ここで、「戒めを守る」「聖霊の約束」という二つの根本的なメッセージが示されている、とされた。

 そのうえで、「イエスは弟子たちへの言葉の中で、ご自分に対する彼らの愛を、戒めを守ることと結びつけておられますー最後の晩餐での説諭で、こう話されましたー『あなたがたが私を愛しているならば、私の戒めを守るはずである』(14章15節)。そしてさらに、こう言われますー『私の戒めを受け入れ、それを守る人は、私を愛する者である』(同21節)と話された。

 「このような言葉で、イエスは私たちに、ご自分を愛するように願われ、ご自分の道、つまり、御父の意思に進んで従うことを求められているのです」と教皇は説かれ、さらに、15章12節の言葉を取り上げて、こう指摘された。「イエスご自身が示された互いに愛し合うことの戒めは、この言葉に集約されていますー『私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の戒めである』」。

 

*イエスの愛は見返りを求めない

 また教皇は、「イエスは『私があなたがたを愛したように、私を愛しなさい』ではなく、『私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい』とおっしゃいました… 私たちに、ご自分に対し同じことをするように要求されず、ただ、私たちを愛してくださるのです。そして、イエスのこの見返りを求めない愛が、私たちの間で具体的な生きたものとなることを求めています-それが御父の意思なのです」と説かれた。

 次に教皇は、弟子たちがイエスの示された道を歩むのを助けるために、御父に「もうひとりのパラクレートス」を遣わしてくれるように、と願うことを約束された箇所(14章16節参照)に触れ、パラクレートスとは、弟子たちと共に歩み、「御言葉を聴く知性と守る勇気」を与えてくださる慰め主、弁護者である、とされた。

*聖霊は神の賜物

 「この方が聖霊です… キリスト教徒たちの心に降り注ぐ、神の愛の賜物なのです」と語られた教皇は、「イエスが亡くなり、復活された後で、ご自分を信じ、『父と子と聖霊の名」において洗礼を受ける人々に、ご自分の愛をお与えになるのです」とされ、また、私たちを教え導き、力づけ、人生で「逆境と困難、喜びと悲しみを体験してもなお、イエスの道にとどまり、前に進む」ようにしてくださるのが、聖霊である、聖霊に従順であり続ければ、私たちの中に働かれるその存在を通して、私たちの心を慰め、変容させ、真実と愛に心を開かせてくださるでしょう、と語られた。

*聖霊は私たちが人生で失敗と罪に屈しないよう助けてくれる

また教皇は「私たちが人生で、失敗と罪に直面する時、それに屈しないように助け、イエスの言葉『あなたがたが私を愛しているならば、私の戒めを守るはずである』の意味をしっかりと理解して生きることができるようにしてくださるのが、聖霊です」と語られ、さらに、イエスの戒めは、私たちに自分の悲惨さと矛盾を映す鏡として授けられたものではなく、「神の言葉は、命の言葉として私たちに与えられたもの-変容させ、新しくし、裁かず、癒し、赦してくださる言葉。私たちが道を歩むための光なのです」と述べられた。

 そして、この日の説話を「この賜物を通して、神は私たちが自由な民ー愛することを望み、愛し方を知っている民、主を信じる者たちに主が成し遂げられる驚くべきことを宣言する使命を、自分たちの人生が帯びていることを理解している民ーとなるように助けてくださるのです」と締めくくられ、最後に次のように祈られた。

 「乙女マリアよ、教会の模範、どのようにして神の言葉を聴き、聖霊の賜物を受け入れられるかを、知っておられる方、私たちを助けてください。『私たちの心を温め、私たちの歩みを照らす、神の火』である聖霊によって支えられていることを私たちが知り、喜びをもって、福音を生きることができますように」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二=引用された聖書の翻訳は「聖書協会 共同訳」を使用)

 

2020年5月18日

♰「人生は物語、だがすべての物語が良いとは限らない」-5月17日「世界広報の日」に

(2020.5.16 カトリック・あい)教皇フランシスコは17日の第54回「世界広報の日」に向けて以下のメッセージを発表された。

教皇メッセージ 「あなたが子孫に語り伝える」(出エジプト記10章2節)人生は物語となる

 今年のメッセージは、物語をテーマにしたいと思います。道に迷ったままにならないためには、良い物語から真理を吸収する必要があると、私が信じているからです。良い物語とは、壊すのではなく築き上げる物語、自分のルーツと、ともに前に進むための力を見いだす助けとなる物語です。

 さまざまな声や知らせに取り囲まれる喧騒の中で、私たちに必要なのは、自分自身のことと、周りにあるすべての美しいもののこととを語る、人間らしい物語です。世界とさまざまな出来事に慈しみのまなざしを向ける物語、私たちは生きている織物の一部であることを伝えてくれる物語、私たちを互いに結びつけている糸の縒り合わせを明かす物語です。

1. 物語を織る

 人間は物語る存在です。私たちは子どものころから、食べ物を欲するのと同じように、物語を欲します。童話、小説、映画、歌、報道など、いずれの形であれ、物語は私たちの人生に、そうとは気づかなくても、影響を与えています。なじみのある登場人物や話に基づいて、物事の善悪を判断することもあります。物語は私たちに刻まれ、私たちの信条と姿勢を形成し、自分は何者であるかを理解して伝えられるよう助けます。

 人間は、自分のもろさを覆うために衣を必要とする唯一の生き物(創世記3章21節参照)であるばかりか、自分の命を守るために物語を「まとう」ことをも必要とする唯一の生き物でもあります。私たちは衣だけでなく、物語も織り上げます。人間の「織りなす(テクセレ〔ラテン語〕)力は、まさに、織物(テキスタイル)にも、文章(テキスト)にも及ぶのです。

 どの時代の物語にも、共通の「枠組み〔機(はた)〕」、すなわち「勇者」が登場するという型があります。日常生活においても見られるそうした勇者が、夢を追い求める中で困難に直面し、勇気を与える力、愛の力に動かされ、悪と戦うという展開になっているのです。物語に熱中することで、私たちは人生という挑戦に臨むための勇者の士気を得ることができます。

 人間は物語る存在です。人間は、「日常」という筋書き〔横糸〕の中で己を知って豊かにし、成長する生き物だからです。しかし原初から、私たちの物語は危険と隣り合わせにありました。歴史〔物語〕には、悪が蛇のように、はい回っているのです。

2. すべての物語が良いとは限らない

 「それを食べると、神のようになる」(創世記3章5節参照)。蛇の誘惑は、ほどけにくい結び目を、歴史の筋書きに生じさせます。「あれを手に入れると、このようになれる、あのようなこともできるようになる……」。これは、いわゆるストーリーテリングを道具として用いる人が、今もささやく言葉です。幸せになるためには、獲得し、所有し、消費することを続ける必要があると信じ込ませ、説き伏せる物語がどれほど多くあることでしょう

 私たちはどれだけ、おしゃべりやうわさ話に躍起になって、どれほど暴力や虚言を振るっているのか、ほとんど自覚していません。「コミュニケーション」という機(はた)は、社会的なつながりや文化の構造を結びつける建設的な物語ではなく、社会を織りなす切れやすい糸をほつれさせ、断ち切ってしまう破壊的で挑発的な物語ばかりを生み出しています。裏づけのない情報を寄せ集め、ありきたりな話や一見説得力のありそうな話を繰り返し、ヘイト・スピーチで人を傷つけ、人間の物語をつむぐどころか、人間から尊厳を奪っているのです。

 道具として用いられる物語や権力のための物語は長くは続きませんが、よい物語は時空を超えます。命を育むものなので、幾世紀を経ても普遍なのです。

 偽造がますます巧妙化し、予想をはるかに超えた域(ディープ・フェイク)にまで達する現代において、私たちには美しく、真実で、良い物語を受け入れ、生み出す知恵が必要です。偽りで悪意のある物語をはねつける勇気が必要です。今日の多くの分裂にあって、それをつなぎ止める糸を見失わないよう助けてくれる物語を再び見いだすためには、忍耐力と識別が必要です。それは、日常の気づかれることのない英雄行為をも含め、私たちの真の姿を照らし出す物語です。

3. 種々の物語から成る物語

 聖書は、種々の物語から成る物語です。なんと多くの出来事、民族、人々が示されていることでしょう。そこには冒頭から、創造主であり語り手でもある神について記されています。神が言葉を発せられると、それは実現するのです(創世記1章参照)。神は、言葉を発することで、さまざまなものに命をお与えになり、その頂点として、自由意志をもったご自分の話相手として、またご自分とともに歴史を生み出す者として、男と女をお造りになります。

 詩編では、被造物が神に呼びかけています。「あなたは、私の内臓を造り、母の胎内に私を組み立ててくださった。私はあなたに感謝をささげる。私は…驚くべきものに造り上げられている。…秘められたところで私は造られ、深い地の底で織りなされた。あなたには、私の骨も隠されてはいない」(139章13―15節)。

 私たちは完成されて生まれたのではありません。それどころか、つねに「編まれ」、「織られ」なければなりません。命は、「驚くべきもの」である私たち自身を織りなし続けるよう促す招きとして、わたしたちに与えられているのです。

 この意味で聖書は、神と人間との壮大なラブストーリーです。その中心にはイエスがおられます。イエスの物語は、神の人間への愛を完成させ、同時に、人間の神へのラブストーリーも完成させます。ですから人間は、種々の物語から成るこの物語の中の重要なエピソードの数々を、世代から世代へと語り伝え、記憶にとどめなければなりません。それらのエピソードには、起きたことの意味を伝える力があるのです。

 今年のメッセージのタイトルは、出エジプト記から取られています。出エジプト記は、神がご自分の民の歴史に介入されることを語る本質的な聖書物語です。奴隷となったイスラエルの子らが神に向かって叫んだ時、神はその声を聞き、思い起こされます。

 「神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの人々を顧み、み心に留められた」(出エジプト記2章24-25節)。しるしと奇跡を通してもたらされる抑圧からの解放は、神の記憶に由来します。その時、主はこれらすべてのしるしの意味をモーセに知らせます。「どのようなしるしを行ったかをあなたが子孫に語り伝え、私が主であることをあなたたちが知るためである」(同10・2)。

 出エジプトの体験が教えているのは、神についての知は何よりも、神がいかに現存されているかを次の世代に語り継ぐことによって伝えられる、ということです。命の神は、命について語ることによって伝えられるのです。

 イエスご自身も神について、抽象的な話ではなく、日常生活にまつわる例え話や短い物語を用いて語りました。そこでは人生は物語となり、そして、聴衆にとっては、その物語が自分の人生となるのです。その物語はそれを聞く者の人生に入り込み、その人生を変えるのです。

 もちろん福音書も物語です。福音書は、私たちにイエスのことを伝えるだけでなく、「行為遂行的」1)でもあり、私たちをイエスに一致させます。同じ生き方をするために、同じ信仰に結ばれるよう福音書は読者に求めます。ヨハネによる福音書は、至聖なる語り手──言(言葉)、神であることば──が、ご自身について語られたことを伝えています。

 「父の懐にいる独り子である神、この方が神を語られたのである」(ヨハネ福音書1章18節参照)。私が「語られた」という表現にしたのは、この言葉の原語exeghésato(示された)は、「啓示された」とも「語られた」とも訳せるからです。神は自ら、私たち人間の中にご自分を織り込むことにより、私たちの物語を織る新しい方法を示してくださいます。

4. 新たにされる物語

 キリストの物語は過去の遺産ではありません。それは、今も絶えず進行中の、私たちの物語です。神は受肉して人となり、歴史となるほどに、人間、私たち肉なる者、わたしたちの歴史を深く気遣っておられることを、その物語は示しています。また、人間の物語には、取るに足らない無意味な話など一つもないことも伝えています。神が物語になられたのですから、人間の物語はそれぞれが、ある意味で神聖なのです。御父は、一人ひとりの物語の中に、地に下られた御子の物語を再び見ておられます。どんな人の物語にも、否定しえない尊厳があります。ですから人間は、イエスが引き上げてくださった、目もくらむようなすばらしい最高傑作の物語にふさわしいのです。

 聖パウロは次のように記しています。「あなたがたは、……墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です」(コリントの信徒への手紙2・3章3節)。

 神の愛である聖霊が、私たちの中に書きつけておられます。そして、書き記しながら、善を私たちの中に留め置き、そのことを思い起こさせてくださいます。実際、「思い起こさせる(ri-cordare)」とは、心に記す、心に「書きとどめる」ことを意味します。どんな物語も、たとえ誰からも忘れ去られたものや、滅裂な文でつづられたように見えるものであっても、聖霊の働きによって導かれ、傑作となって息を吹き返し、福音書に添えられる物語となることができます。

 アウグスティヌスの『告白』しかり、イグナチオの『ある巡礼者の物語』しかり、幼いイエスのテレジアの『ある霊魂の物語』しかり。『いいなずけ』、『カラマーゾフの兄弟』しかり、です。神の自由と人間の自由の出会いを見事に描いた数えきれないほど多くの他の物語も同様です。私たちは誰もが、人生を変えてくださる愛なる方をあかしした、福音の香りのする、さまざまな物語に覚えがあります。そうした物語は、いつの時代も、あらゆる言語で、すべての手段によって、共有され、語られ、生きられなければなりません。

5. 私たちを新たにする物語

 私たちの物語は、どの偉大な物語の中にも見られます。聖書、聖人伝や、人間の魂を洞察してその素晴らしさを照らし出すことのできた文学作品を読む時、聖霊は、自由に私たちの心に書き込みをし、神の目に映る私たちの姿の記憶を、私たちの中で新たにしてくださいます。私たちを造り、救ってくださった愛を思い起こすなら、日々の物語の中に愛を差し込むなら、日常の筋書き〔横糸〕をあわれみで織るなら、その時、私たちは、ページをめくっているのです。

 私たちはもはや、後悔や悲しみにつながれ、心を閉じ込めてしまう暗い記憶に縛られてはいません。それどころか、他者に対して自らを開くことで、語り手である神がまさに見ておられるものに向けて、自分自身を開いているのです。神に自分の物語を語ることは、決して無駄ではありません。たとえ出来事を記した年譜は変わらなくても、意味と見方は変わります。主に自分のことを語るとは、主が私たちと他者に向けておられる哀れみ深い愛の視界の中に入ることです。私たちは主に、自分が生きている物語を語り、他者のことを伝え、状況を打ち明けることができます。主とともに、ほころびや裂け目を修繕しながら、命の織物を再び織り上げることができるのです。皆さん、私たちはどんなに、そのことを必要としているでしょう。

 そうして私たちは、語り手である主──決定的な視点をもつ唯一の方──のまなざしをもって、主要な登場人物たち、つまり今日の物語の中で私たちのすぐそばにいる役者である兄弟姉妹に歩み寄ります。そうです。世界という舞台では、誰も端役ではありませんし、どの人の物語も、生じうる変化に開かれているからです。悪について語る時でさえ、あがないのための場を残すすべを学ぶことができます。悪のただ中の善のダイナミズムに気づき、善に働きの場を与えることもできるのです。

 ですから、ストーリーテリングの論理に従うことでも、自分を宣伝することでもなく、神の目に映る自分の姿を記憶にとどめること、聖霊が心に記したことをあかしすること、そして神の物語の中には息をのむほどの驚きがあることを、あらゆる人に明かすことが肝心なのです。私たちにそれができるよう、ご自分の胎で神の人性を織りなした方に、そして福音で語られているように、ご自分に起きたすべての出来事を一つに織り上げた方に、私たち自身をゆだねましょう。乙女マリアはまさに、すべてのことを心に納めて、思い巡らしておられました(ルカ福音書2章19節参照)。「愛」という柔和な力によって、人生の結び目を解くすべを心得ておられるマリアに、助けを願い求めましょう。

 一人の女性であり母であるマリアよ。あなたはその胎内で神の言葉を織り、神の驚くべき業をご自分の人生をもって語りました。私したちの物語に耳を傾け、心に納め、誰も聞きたがらない物語をも、ご自身の物語としてください。物語を導くよい筋道〔糸〕に気づくすべを教えてください。私たちの人生をもつれさせ、私たちの記憶を曖昧にさせる、幾重もの結び目に目を向けてください。あなたの繊細な手先は、どんな結び目も解くことができます。神の霊に満ちた方、信頼の母であるマリアよ。私たちをも導いてください。平和の物語、未来の物語をつむげるよう、助けてください。そして、その物語をともにたどる道を指し示してください。

 ローマ サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂にて 2020年1月24日 聖フランシスコ・サレジオの記念日 フランシスコ

2020年5月16日

♰「イエスのように逃避を強いられた人々に私たちがすべき10の行い」-9月の「世界移民・難民の日」の前に

(2020.5.15 バチカン放送)

 教皇フランシスコは15日、カトリック教会の「世界移民・難民の日」(9月27日)に先立つメッセージを発表された。

 第106回目となる今年の「世界移民・難民の日」のテーマは「Like Jesus Christ, forced to flee.Welcoming, protecting, promoting and integrating internally displaced persons(イエス・キリストのように逃避を強いられた人々。 国内避難民を進んで受け入れ、守り、励まし、共に歩む=「カトリック・あい」訳)」。

 教皇は、このメッセージを、紛争、貧困、気候変動によって国内で住まいを追われた何百万の男女、子供たちに捧げた。そして、窮状をさらに悪化させている新型コロナウイルスの大感染の中で、そうした危機の結果としての極度の危険、放棄、疎外、拒絶を体験している、全ての人々に注意を向けられた。

 幼子イエスが両親と共にエジプトに逃避された際に体験した避難民の状況に、教皇は「残念ながら、今日も多くの家族が直面しています」と指摘され、飢餓や戦争、極度の危険の中で、安全で尊厳ある生活を求めて避難民となった人々、その一人ひとりに、ヘロデの時代に逃避を余儀なくされたイエスの姿を重ねられた。

 そのうえで、教皇は、避難民たちの顔の中にイエスの御顔を認め、具体的に奉仕するために、2018年の「世界移民・難民の日」で示した「進んで受け入れる」「守る」「励ます」「融和する」という4つの行いに、今回、次のように、それぞれ2組の動詞からなる6つの行いを加えられた。

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【「理解する」ために「知る」】

 教皇は「知ることは、他者を理解する上で必要な第一歩です」とされ、エマオで弟子たちに自ら歩み寄り、旅を共にされたイエスのように、「移民・難民一人ひとりとの出会いによって、相手を知り、その背景を理解することができるのです」と説かれた。

【「奉仕する」ために「隣人となる」】

 道端の瀕死の負傷者を見て憐み、介抱した善きサマリア人のたとえを示され、「他者への怖れや偏見を超えて隣人となり、奉仕することの大切さ」を説かれた。そして、「隣人に寄り添い奉仕することは、時にリスクをも伴うこと」と語られ、新型ウイルスの大感染が続く中で献身的に働く多くの医師や看護師らを思い起こされた。

【「和解する」ために「耳を傾ける」】

 「和解と救いをもたらす愛は、相手に耳を傾けることから始まります」とされた教皇は、「今日の世界にはメッセージがあふれているのに、それに耳を傾ける姿勢が、人々から失われつつあります」と指摘、「耳を傾けることで、切り捨てられた人々や、自分自身、そして、慈しみ深い神と、和解するきっかけを得ることができるのです」と強調された。

【「成長する」ために「分かち合う」】

 「神は、私たちの地球の資源が、限られた人々のためにだけに恩恵をもたらすことを望まれません… 誰一人締め出すことなく、共に成長するために、分かち合うことを学ばねばなりません」とされたうえで、「今回の新型ウイルスの世界的な大感染は、私たちに、皆、同じ一つの船に乗り合わせているのだ、ということを、改めて気付かせました」とし、「真の成長のためには、イエスに5つのパンと2匹の魚を差し出した少年のように、持っているものを互いに分かち合わねばなりません」と説かれた。

【「伸ばす」ために「関係を持つ」】

 また、大感染は「私たちに共同責任の大切さを再認識させ、すべての人の貢献によってのみ、私たちが危機に立ち向かえることを教えた」とし、「すべての人が必要とされ、新しい形の受容と、兄弟愛、連帯が可能な世界を切り開く」ように促された。そして「『他の人たちに奉仕したい』という強い気持ちが、その人たちの持つ真の豊かさを見るのを妨げることがあります。私たちが助けようとする人々の持つ豊かさを伸ばしたい、と本当に思うなら、彼らとしっかりとした関係を持ち、彼らが自分の救いの主体者となるようにしなければなりません」と述べられた。

【「築く」ために「協力する」】

 現在の状況の中で、エゴイズムを排し、すべての人が協力する必要を強調。「人類の共通の家を守るために、国際的な協力と連帯、皆が参加できる地域の取り組みを確実にする努力」を強く求められた。

 最後に教皇は、難民・避難民、また試練を受けている人々を、エジプトへの避難において幼子イエスと聖母を守った聖ヨセフの保護に託して祈られた。

(編集「カトリック・あい」)

2020年5月16日

♰「全人類が新型ウイルス大感染の悲劇を克服するよう、神に慈悲を祈る」『祈りと断食、人類のための祈願の日』

教皇フランシスコ、2020年5月14日、バチカン、サンタ・マルタ館でのミサ教皇フランシスコ、2020年5月14日、バチカン、サンタ・マルタ館でのミサ  (ANSA)

  教皇フランシスコは14日、バチカンのサンタマルタ館でミサを捧げられ、その中で、この日が、バチカンに事務局を置く諸宗教代表による「人類の兄弟愛のための高等委員会」提案の「祈りと断食、人類のための祈願の日」(正式には「大感染の悲劇の中で、慈悲を神に願う祈りと断食の日」)に当たることを示され、現在世界中を襲っている新型コロナウイルス大感染の早期終息を願って、次のように祈られた。

 「新型ウイルス大感染の悲惨な状況の中で、『人類の兄弟愛のための高等委員会』は、今日14日を『祈りと断食の日』とし、神に慈しみとあわれみを願うように勧めています。私たちは兄弟です。アッシジの聖フランシスコは『皆、兄弟』と言っていました。それゆえ、今日、すべての宗教に属する人々は、祈りと悔い改めのうちに一致し、この大感染からの立ち直りの恵みを祈り求めます」。

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 「人類の兄弟愛のための高等委員会(議長 ミゲル・アンヘル・アユソ・ギクソット枢機卿)」は昨年8月、バチカンに設立された組織。教皇が昨年2月にアラブ首長国連邦を訪問された際、アブダビで、アル=アズハルのグランド・イマームであるアフマド・アル・タイーブ師と会談、「世界平和のための人類の兄弟愛」をめぐる共同文書に署名したのが、委員会設立に結び付いた。委員会は、先に声明を発表し、5月14日を「祈りと断食、人類のための祈願の日」とし、人類が新型ウイルス大感染を克服し、安全と安定、健康、発展を取り戻し、より人間的で兄弟愛に満ちた世界を築けるよう、一致した祈りを世界の諸宗教の人々に、呼びかけていた。

2020年5月14日

◎教皇連続講話「祈りの神秘」②「辛抱強く愛してくださる父の腕の中で祈ろう」

教皇フランシスコ、2020年5月13日の一般謁見教皇フランシスコ、5月13日の一般謁見  (Vatican Media)

(2020.5.13 バチカン放送)

 教皇フランシスコは13日、バチカン宮殿からのビデオを通した水曜恒例の一般謁見で、前週始められた「祈りの神秘」をテーマとしたカテケーシス(教会の教えの解説)を続けられた。

 「キリスト教の祈り」の核心とは何かについて考察された講話の内容は次の通り。

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親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 今日は、先週から始めた「祈りの神秘」をめぐるカテケーシスの第2回の考察を行いましょう。

 祈りは、すべての人のものです。すべての宗教に属する人、そして、おそらくどの宗教にも属さない人のものでもあります。祈りは、自分自身の秘めた部分から生まれます。それは霊的作者がしばしば「心」と呼ぶ、内的な場所です(「カトリック教会のカテキズム」2562-2563項参照)。

 祈る時、私たちの中には、自分からかけ離れたものや、二次的、付随的なものはなく、そこにあるのは、自分自身の最も内面的な「神秘」です。この「神秘」が祈っているのです。感情の高揚によって祈ることはあっても、祈りは「感情」だけとは言えません。知性によって祈ることはあっても、祈りは単に「知的な行為」ではありません。体は祈りますが、体が最も不自由な状態でも神と話すことはできます。つまり、心が祈るならば、「人間の全体」が祈るのです。

 祈りは一つの飛躍です。それは自分自身を超えていく一つの願いです。私たちの人格の深いところから生まれ、前へ伸びていくものです。それは「一つの出会いに対する郷愁」から来るものです。この郷愁は一つの必要というより、「一つの道」です。祈りとは、手探りで前進する「私」が、「あなた(神)」を探し求める声なのです。「私」と「あなた(神)」との出会いは計算づくでできるものではありません。それは、多くの場合、求めながら、手探りで向かう「出会い」なのです。

 キリスト者の祈りは、一つの啓示から生まれます。そこでは、「あなた(神)」は神秘で覆われたままではなく、私たちとの関係の中に入って来られます。キリスト教は、神の顕示、すなわち神の御公現を絶えず記念する宗教です。典礼暦年の最初のいくつかの祭日は、神がご自分を隠されることなく、人間への友情を示されることを記念するものです。

 神はその栄光を、ベツレヘムの貧しさの中で、東方三博士の観想、ヨルダン川での洗礼、そしてカナの婚礼の奇跡において、現わされました。ヨハネ福音書は、偉大な序章の賛歌を次のように要約的な言葉で締めくくっています。「いまだかつて、神を見た者はいない。父の懐にいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(ヨハネ福音書1章18節)。神を私たちに示してくださったのは、イエスです。

 キリスト者の祈りは、「神との関係」の中に入ります。神は優しい御顔を持たれ、人間に対し、一切の恐れを引き起そうとはされません。これがキリスト教の祈りの最初の特徴です。いつも神にびくびくし、魅惑的で恐ろしい神秘に怖がりながら近づき、主人に敬意を欠かさぬよう振る舞う家来のように、人々が隷従的な態度で神を崇拝していたのに対し、キリスト者は、神に対し、親しみを込めて、「父」と呼びます。それどころか、イエスは「お父さん」とさえ呼んでいるのです。

 キリスト教は、神との絆において、あらゆる「封建的な関係」を閉め出しました。私たちの信仰の遺産には「服従」「隷属」という言葉はありません。そこにあるのは「契約」「友情」「約束」「交わり」「近さ」という言葉です。

 イエスは、最後の晩餐の長い別れの説教で、こう言われました。

 「私はもはや、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。私はあなたがたを友と呼んだ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。あなたがたが行って実を結び、その実が残るようにと、また、私の名によって願うなら、父が何でも与えてくださるようにと、私があなたがたを任命したのである」(ヨハネ福音書15章15-16節)。

 これは真っ白な小切手のようなものです。「私の名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、私があなたがたを任命した」と言うのです。

 神は友であり、同盟者にして花婿です。祈りにおいて神との信頼関係を築くことができます。実際、イエスは「主の祈り」で、私たちに、一連の願いを神に向けることを教えてくださいました。神に私たちはすべてを願い、すべてを説明し、すべてを語ることができます。神との関係において、「私たちは、良い友、出来の良い子、忠実な花嫁ではない」と、自分に足りない点を感じるかもしれません。

 しかし、それを気に病むことはありません。神は私たちを愛し続けてくださいます。そのことは、イエスが最後の晩餐で決定的に示しておられます。イエスは言われましたー「この杯は、あなたがたのために流される、私の血による新しい契約である」(ルカ福音書22章20節)。イエスはこの行為を通して、最後の晩餐の席で十字架の神秘を先取りされました。

 神は契約に忠実な方です。人間が愛することをやめても、神は愛し続けられます。たとえ、その愛がカルワリオに続くものであっても、です。神はいつも私たちの心の扉の前で、私たちがそれを開くのを待っておられます。時に扉をたたかれますが、押し付けがましいことはされず、待ってくださいます。神の辛抱強さは、子である私たちを深く愛するお父さんの辛抱強さです。それはお父さんとお母さんを合わせた辛抱強さ、と言ってもよいでしょう。神はいつも私たちの心のそばにおられ、その扉をたたく時、優しさと豊かな愛をもってたたかれるのです。

 契約の神秘の中に入り、皆でこのように祈ってみましょう。神のいつくしみ深い御腕の中で祈り、「三位一体の命である、あの幸福の神秘に包まれている」と感じましょう。そして、この光栄にふさわしくない招待客のように感じ、驚きの祈りをもって、神に繰り返し尋ねましょう。「本当に、あなたは、愛しかご存じないのですか」と。

 神は憎しみをご存じありません。神は、憎まれることがあっても、憎むことをご存じありません。愛だけを知っておられます。私たちが祈るのは、この神に向けてです。これがすべてのキリスト教の祈りの熱い核心なのです。神は愛です。御父は私たちを待っておられ、私たちと共におられます。

(編集「カトリック・あい」=聖書の翻訳は「聖書協会 共同訳」を使用)

2020年5月14日