◎教皇連続講話「使徒言行録」⑧「私たちが困難に遭う時、聖霊が勇気と『識別のわざ』をくださる」

 (2019.9.18 VaticanNews Devin Watkins)

 教皇フランシスコは18日のバチカンでの一般謁見中のカテケーシスで、先週に続いて「使徒言行録」についてお話しになり、その中で、聖霊は、困難に直面したキリスト教徒たちに勇気と「識別のわざ(art of discernment)」を与えてくださる、と強調された。

 この日は、新約聖書「使徒言行録」5章に書かれた「使徒たちを殺そうとする者たちに対する、律法学者ガマリエルの思慮深い言葉と態度」(34~35節,.38~-39節)がテーマとなった。

 教皇はまず、「聖霊降臨以来、使徒たちは自分たちだけで固まっている臆病な状態から抜け出し、聖霊の力を得て、驚くほどの『勇気』を得ていました」と語り、「使徒たちのこの大胆な行動力は、ユダヤ教界を揺るがすまでになり、脅威を感じた人々は使徒たちを殺そうと考えたのでした」と、当時の状況を振り返えられた。

 だが、人々のこのような怒りや衝動を前に、民衆から広く尊敬されていた律法学者で、聖パウロの師でもあったガマリエルは、慎重で異なる意見を唱えた。ガマリエルは、かつてメシアであるかのように噂された人々の名を挙げながら、彼らが最初は民衆を惹きつけながらも、最後には滅びたように、計画や行動が人間から出たならば自滅の道をたどることを示す一方で、「神から出たものであれば、それは滅びることはない」と説いた。

 この箇所に関連して教皇は、「人間の計画は常に挫折します…歴史上の大帝国や独裁体制も、一時は世界を支配すると思われるほどの勢いを得ましたが、最後にはあえなく崩壊したのです」と話され、「現在『帝国』とされる存在も、神が彼らと共におられないなら、崩壊します。人間だけの力は長続きせず、神の力だけが永続するからです」と説かれた。さらに、キリスト教や教会の歴史を振り返り、「たくさんの罪や躓きにも関わらず、滅びなかったのは、そこに神がおられるからです」と強調された。

 また、ガマリエルが「ナザレのイエスの弟子たちが詐欺師を信じていたなら、彼らは消え去る運命にあるが、神から出たものに従っているなら、彼らから手を引いた方がよい」と諭した箇所を取り上げ、「もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ」というガマリエルの訓戒は、私たちにもこのような『識別』をする必要を教えている、と指摘。「ガマリエルの落ち着いた先見性のある言葉は、キリスト教的出来事を新しい光で見つめさせ、『実から、その木を見分ける』(参照:マタイ福音書7章16節)ための、福音的な物差しを与えてくれるものです」と説かれた。

 最後に教皇は「私たちが今日の時代と隣人の顔の中に、神が通られたしるしを見出しながら、途切れることのない救いの歴史をいつも知ることができるように」と祈られた。

(編集「カトリック・あい」)

(参考・同じ講話の英文記事)

Pope at Audience: Holy Spirit gives us courage, helps us discern well

(2019.9.18 VaticanNews Devin Watkins)

 In his catechesis on the Acts of the Apostles at the weekly General Audience, Pope Francis says the Holy Spirit gives Christians courage and “the art of discernment” when facing hardship.

 Pope Francis started off by reflecting on the courage shown by the Apostles when they were dragged before the Sanhedrin to stand trial for preaching the Good News of Jesus Christ (Acts 5:34-35,38,39).

 He said they spoke with conviction and with one voice in the face of their accusers, who wanted to imprison them and halt the spread of the Gospel.

*‘Megaphone’ of the Holy Spirit

 The key to their courage, said the Pope, is the Holy Spirit.

 “The Apostles become the ‘megaphone’ of the Holy Spirit, sent by the Risen One to spread quickly and unhesitatingly the Word that brings salvation,” he said.

Pope Francis said these same men acted like “cowards” when Jesus faced similar circumstances. After Pentecost, however, they were completely changed and propelled onwards.

“The same happens to us: if we have the Holy Spirit within us, we will have the courage to strive forward, to win countless battles – not through our own strength but through the Holy Spirit who is with us.”

*Modern martyrs

 Then the Pope recalled the 21 Coptic Orthodox Christians – Egyptian construction workers – who were martyred for their faith in 2015 on a beach in Libya, at the hands of the so-called Islamic State.

“Their last word was ‘Jesus, Jesus’. They did not deny their faith, because the Holy Spirit was with them. Modern martyrs,” he said.

*Art of discernment

 Pope Francis went on to reflect on the wise words of the highly regarded doctor of the Law, Gamaliel. He urged the Sanhedrin to let the Apostles go, saying “if this endeavor is of human origin, it will destroy itself. But if it comes from God, you will not be able to destroy them; you may even find yourselves fighting against God.”

 The Pope called his attitude “the art of discernment”.

 “Every human project can first be approved and then end up shipwrecked,” he said. “But everything that comes from above and bears the ‘signature’ of God is destined to last.”

 The Holy Father invited everyone to think about the many empires, dictatorships, and political projects that have fallen by the wayside throughout history. “Every single one crumbled,” he said.

 But Christianity, he noted, has stood the test of time, despite scandals and sin. “God is with us,” said Pope Francis. “God first saves us, and then them. But the Lord always saves. Our strength is God-with-us.”

 

 

 

 

2019年9月18日

♰世界難民移民の日(9月29日)へ、教皇メッセージ

「移住者だけのことではありません」ー第105回「世界難民移住移動者の日」教皇メッセージ 2019年9月29日

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、

 信仰は、神の国が地上においてすでに神秘として存在すること(『現代世界憲章』39項参照)を私たちに確信させます。しかし残念ながら、私たちは、神の国が今も妨害や反対勢力に直面していることを痛感しなければなりません。武力衝突や戦争がつねに人類を引き裂き、そのために不正義と差別が生じています。地域、あるいは世界規模での経済格差や社会格差を是正することも困難です。そして何よりも、最も貧しく恵まれない人々がこれら全ての代償を払っているのです。

 経済的に最も繁栄している社会は、極端な個人主義に陥る傾向をその中で増大させています。その傾向は、功利的な考えと結びつき、メディアによって助長され、「無関心のグローバリゼーション」を生み出します。

 こうした状況の中では、移住者、難民、避難民、人身売買の被害者が、排除される側の代表的存在になっています。彼らは自分の立場から生じる苦難だけでなく、社会悪の根源とみなされるという否定的な評価も頻繁に負わされるからです。彼らに対するこうした態度は、このまま使い捨て文化をはびこらせるならば、道徳的退廃に直面することを知らせる警鐘です。事実、こうした道をたどるならば、身体的、精神的、社会的充足の基準に当てはまらない人は皆、取り残され、排除されるおそれがあります。

 ですから、移住者と難民の存在はー弱い立場に置かれている全ての人と同様にーキリスト者であり人間である私たちにとって不可欠な側面、何不自由のない生活の中で眠っている恐れのあるその側面を取り戻すようにと、今も私たちを招いています。

 だからこそ、「移住者だけのことではないのです」。つまり、彼らに目を向けることにより、私たちは自分にも、全ての人にも目を向けるようになります。彼らを気づかうことにより、私たち皆が成長します。彼らに耳を傾けることにより、今は良く思われないので、隠したままにしているのかもしれない自分の一面を、言葉に表すようになるのです。

 「安心しなさい。私だ。恐れることはない」(マタイ福音書14章27節)。これは移住者だけのことではなく、私たちの恐れにも関わることです。現代の悪と醜さは、「他者、見知らぬ人、社会の片隅に追いやられた人、外国人に対する私たちの恐怖心」に拍車をかけます。「このことは、保護と安全とより良い未来を求めて私たちのもとを訪れ、扉をたたいている移住者や難民の前で、今日、特に顕著に表れています。確かに、何の準備もなく出会うのですから、恐れるのは当然のことです」(説教、サクロファーノ、2019年2月15日)。

 疑ったり恐れたりすること自体が、問題なのではありません。その疑いと恐れが、私たちを不寛容で閉鎖的な人にするほどに、私たちの考えと行動を左右し、恐らく-知らず知らずのうちに-人種差別主義者にさえしてしまうことが、問題なのです。このように恐怖心は、他者という自分とは異なる人と出会う意欲も可能性も奪います。それは、主と出会う機会が奪われることなのです(「世界難民移住移動者の日」ミサ説教、2018年1月14日参照)。

 「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなた方にどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか」(マタイ福音書5章46節)。これは移住者だけのことではなく、愛の業に関わることです。

 私たちは愛の業を通して、自分の信仰を示します(ヤコブの手紙2章18節参照)。最高の愛の業は、報いることも、恐らく、感謝することさえもできない人に、向けられるものです。「それは、私たちが社会として身に着けたいと思っている顔と、一人ひとりの命の価値に関わることです。

 ……人々の成長は、私たちの扉をたたいている人に心を動かされ、共感できるかどうかにかかっています。その人は、命を担保にして人を隷属させるすべての偽りの偶像の正体を、その視線によって暴き、打ち砕きます。その偶像が約束するのは、現実からも他者の苦しみからもかけ離れた、見せかけだけの、はかない幸せです」(「ラバト教区カリタスでのあいさつ」2019年3月30日)。

 「ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見てあわれに思い」(ルカ福音書10章33節)ました。これは移住者だけのことではなく、私たちの人間性に関わることです。ユダヤ人にとって外国人であるこのサマリア人を突き動かし、立ち止まらせたのは、思いやりにほかなりません。その感情は、理性だけでは説明できません。思いやりは、私たち人間のもっとも繊細な琴線に触れ、苦境にある人の「隣人となる」よう駆り立てます。

 イエスが自ら教えておられるように(マタイ福音書9章35‐36節、14章13‐14節、15章32‐37節参照)、思いやるとは、他者の苦しみに気づき、それを和らげるためにすぐに行動すること、癒し、救うことを意味します。思いやるとは、現代社会が事あるごとに抑圧するよう求めている優しさに、働きの場を与えることです。

 「他者に対して開かれることによって、貧しくなるどころか、豊かになるのです。なぜならそれは、人間性を高めること、すなわち、さらに大きな全体の中で働く部分として自分を認識すること、自分の人生を他者への贈り物としてとらえること、さらには自分の利益ではなく、人間の善を目的とすることの助けとなるからです」(「ヘイダル・アリエフ・モスクでのあいさつ」アゼルバイジャン、バクー、2016年10月2日)。

 「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつも私の天の父のみ顔を仰いでいるのである」(マタイ福音書18章10節)。これは移住者だけのことではなく、誰をも疎外しないということです。現代社会はいつも、疎外された人に対して優越感を抱き、残酷です。

 発展途上諸国は、特権をもつ限られた市場の利益のために、最良の天然資源と人的資源を奪われ続けています。戦争は世界の限定された地域だけで起きていますが、そこで用いられる武器は、他の地域で製造され売られています。そしてそうした地域は、その紛争による難民を受け入れようとしません。

 代償を払わされるのいつでも、小さくされた人、貧しい人、最も弱い立場にある人です。彼らは食卓に着くこともできず、祝宴の「パンくず」を当てがわれるのです(ルカ福音書16章19‐21節参照)。「『出向いて行く』教会は……、恐れることなくイニシアティブをとり、行って遠くにいる人を捜し出し、疎外されている人を招くために往来の真ん中に立つことができるのです」(使徒的勧告『福音の喜び』24項)。排他的な発展は、豊かな者をさらに豊かにし、貧しい者をさらに貧しくします。真の発展は、世界のすべての人を対象とするものであり、その全面的な成長を促し、後の世代にも配慮します。

 「あなた方の中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」(マルコ福音書10章43‐44節)。これは移住者だけのことではなく、後回しにされる人を最優先するということです。イエス・キリストは、世俗の論理に屈することのないよう求めています。

 それは、自分と仲間の利益のために他者をないがしろにすることを正当化する、まずは自分で他者は二の次という論理です。そうではなく、キリスト者の真のモットーは「後回しにされる人を最優先に」です。「個人主義的な精神は、隣人への無関心を増長させる温床です。

 その精神は、単なる売買の対象として他者を捉え、その人間性に無関心になるよう仕向け、遂には人々を冷ややかな臆病者に仕立て上げます。貧しい人、疎外された人、社会の中で後回しにされる人を前にして、私たちもそのような思いに囚われることがよくあるのではないでしょうか。また、私たちの社会には、後回しにされる人がどれほどいることでしょう。

 中でも私は、移住者のことを取り分け考えます。彼らは困難と苦しみを抱えながらも、尊厳をもって安心して暮らせる場を、時には死に物狂いで探しながら、日々を送っています」(「外交使節団へのあいさつ」2016年1月11日)。福音の論理では、後にいる者が先になるのですから、私たちは仕える者にならなければなりません。

 「私が来たのは、羊がいのちを受けるため、しかも豊かに受けるためである」(ヨハネ福音書10章10節)。これは移住者だけのことではなく、一人の人間、そして全ての人に関わることです。イエスのこの言葉には、イエスの使命の核心、すなわち全ての人が御父のみ旨に従い、命の賜物を豊かに受けることが示されています。

 あらゆる政治運動、あらゆる計画、あらゆる司牧活動は、霊的なものを含む多様な側面において、常に人間を中心に据えなければなりません。このことは、根本的に平等であると認識されるべきだ、ということにおいて、すべての人に当てはまります。ですから、「進歩は単なる経済的発展に還元されるものではありません。本当の進歩とは全体的なもの、すなわち個人としての人間全体、および人類全体を、進歩向上させることであるはずです」(パウロ六世回勅『ポプロールム・プログレシオ』14)。

 「したがって、あなた方はもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族」(エフェソの信徒への手紙2章19節)です。これは移住者だけのことではなく、神と人間の国を築くということです。移住者の時代とも呼ばれる現代、大勢の罪のない人が、際限のない技術進歩と消費志向の高まりによる「重大な裏切り」の犠牲となっています(回勅『ラウダ―ト・シ』34項参照)。

 そして彼らは、自分たちの期待を情け容赦なく裏切る「楽園」へと旅立ちます。彼らの存在は、時には面倒がられることすらありますが、多くの人の搾取の上に成り立つ少数の人のための発展という神話の偽りを暴く助けとなっています。「移住者と難民は、解決すべき問題をもたらすだけの存在ではなく、歓迎され、尊重され、愛されるべき兄弟姉妹であることを、私たち自身が認識し、他の人々にも認識してもらう必要があります。

 彼らは、より公正な社会、より完全な民主主義、よりまとまりのある国、より兄弟愛に満ちた世界、より開かれた福音的なキリスト教共同体を築くのを助けるために、神の摂理が私たちに与えた機会なのです」(2014年「世界難民移住移動者の日」教皇メッセージ)。

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん、現代の移住現象が抱える課題への対応は、受け入れる、守る、励ます、共生するという四つの動詞にまとめることができます。しかし、これらの動詞は移住者と難民だけに当てはまるのではありません。それらは、受け入れられ、守られ、励まされ、共生することを必要としている、社会の片隅で生活するすべての人に対する教会の使命を表しています。

 これらの動詞を実践するなら、私たちは神と人間の国の構築に貢献し、すべての人の全人的発展を促すと同時に、国際社会が自ら掲げる持続可能な発展という目標へと近づくのを助けることができます。そうした取り組みなしには、その目標の達成は困難なはずです。

 ですから、これは移住者だけのことではありません。彼らだけでなく、私たち全てに、人類家族の現在と未来に関わることなのです。移住者、そして、特に、最も弱い立場に置かれた人々は、「時のしるし」を読み解くのを助けてくれます。主は彼らを通して私たちに、回心して、排他主義、無関心、使い捨ての文化から解き放たれるよう呼びかけておられます。主は彼らを通して私たちに、キリスト者としての生き方を完全に取り戻し、神の計画により適った世界を築くために、各自の召命に応じて貢献するよう招いておられます。

 世界の全ての移住者と難民、そして彼らの旅に同伴する人々に豊かな恵みが与えられるよう、私は「道の聖母」である乙女マリアの執り成しを通して、祈りのうちに願い求めます。

バチカンにて フランシスコ

(中央協議会訳を「カトリック・あい」が編集)

2019年「世界難民移住移動者の日」ー日本カトリック難民移住移動者委員会のメッセージ 

「これは移住者だけの話しではなく、私たちのことなのです」

 教皇フランシスコはこれまで難民や移住者に寄り添い、ともに歩む姿勢を示してきました。今年の教皇メッセージでは、難民移住移動者をとりまく諸問題は当人たちだけではなく、何よりも私たちの側の問題でもある、と訴えています。

 今日の社会は個人主義や功利主義、使い捨て文化が価値観の中心となり、そこでは誰もが、排除されるリスクを負っているのです。こうした中、人間性の最も深い琴線に響く共感は、私たちに他者の痛みを感じさせ、助けるための行動を促します。

 私たちは教皇の呼びかけに応え、「恐れずに」移住者らと出会い(マタイ福音書14章27節)、「見返りを求めない」思いやりで接し(同5章46節)、「どんな人も排除しない」(同18章10節)という具体的な行動を起こしていきましょう。それこそが神の国の実現のためにキリスト者としての召命を生きることだからです。

          2019年9月29日 日本カトリック難民移住移動者委員会 委員長・松浦悟郎   担当司教・山野内倫昭

2019年9月18日

♰「官僚と政治指導者たちが『共通善のため』に働いてくれるよう祈ろう」

Pope Francis celebrates Mass on MondayPope Francis celebrates Mass on Monday  (Vatican Media)

(2019.9.16 Vatican News)

    教皇フランシスコは16日、夏季休暇後初めてサンタ・マリアの宿舎でミサを捧げられ、説教の中で、官僚や政治指導者たちの悪口を言うのではなく、彼らが「共通の善のため」に働いてくれるように祈ることを勧められた。

  教皇はまず、聖パウロがテモテへの手紙(1・2章1~8節)で私たちに、すべての人のために、「王たちやすべての位の高い人」のためにも祈るように、そして「怒りや争いの心を持たず」に祈るように求めている、とし、パウロは「私たちが、常に敬虔と気品を保ち、穏やかで静かな生活を送る」ように、私たちはそうするのだ、と説いている、と指摘された。

 「パウロは信徒たちを取り巻く環境を強調し、そこで祈り、執り成しを求める祈り、に焦点を絞ります-皆が、全ての人のために祈るべきであり、そうすることで私たちは、神への奉献と敬意の中で、穏やかで静かな生活をおくることができる、と」と教皇は語り、さらに、「祈りはそのことを可能にします。しかし、私がここで強調したいのは、パウロはテモテへの手紙で『全ての人のために』の後に『王たちやすべての位の高い人のためにも』と付け加えていることです。つまり、パウロは、官僚たちのために、政治家のために、そして政治的な組織、国家、地域に責任を持つ人々のために、祈りの話をしているのです」と説かれた。

 さらに教皇は、「政治家たちはしばしば、支持者たちから賞賛あるいは侮辱を受けますが、司祭や司教たちも同じ扱いをされます。ある人々は、『そうする価値がある時』だけ、自分たちの司祭や司教たちのために祈り、「侮辱と呪いの言葉」の連祷のリストを作る、と言うでしょう… しかし、権威ある地位にある人々には、国民を導く責任があります。どうして、彼らを祝福してくださるように神に祈らず、彼らを放っておくことができるのでしょうか?」と問いかけた。

 そして、時間の大半を使って政府関係者たちを侮辱する祈りをする人はほとんどいないし、「パウロは『彼らすべてのために私たちは祈らなければならない』と、はっきり言っているのです」と強調された。

 また教皇は、最近ようやく解決したイタリアの政治危機に言及し、「私たちの誰が、政権を担当する人のために祈ったでしょうか?誰が議会のために、合意に達し、国を前進させられるように、と祈ったでしょうか?愛国心が、祈りに結び付いていないように思われます。批判、嫌悪、争い、そしてそれは、そこで終結しました。私の望みは、どの場所でも、人々が怒り、言い争うことなく、祈り、聖なる手を挙げることです。議論は必然であり、それが議会の役目です。議論はされねばなりませんが、相手を滅ぼすようなことをしてはならない。お互いに相手のために、自分と違う意見を持つ人にために祈らねばなりません」と訴えられた。

 そして、「あの政治家は、共産主義者すぎる」とか「腐敗している」と言う人に出会った場合には、政治の話をせずに、祈るように、と言われた。

 最後に、教皇は、ある人たちは「政治は汚い」と言うが、パウロ6世教皇は「政治は『慈善の最も崇高な形』」とされた、と指摘して、次のように語られた。

 「どの職業も汚れる可能性があるように、政治も汚いかもしれません… 私たちは、ものを汚す存在ですが、もともと、汚れていたわけではありません。私は信じます-私たちは自分の心を改め、すべての政治家のために祈らねばなりません。政権担当者のために祈りなさい」。

 「このことは、パウロが私たちに求めていることです。神の言葉を聞いて、私は福音から素晴らしい出来事について思った-自分の部下の一人のために祈る高い地位の人、自分の召使のため位に祈る百人隊長を。政権の担当者も、自分の国民のために祈らねばなりません。百人隊長は自分の召使のために祈る、その召使は家の召使だったかもしれませんが、彼は言います。『いや、違います。彼は私の召使です。私は彼に責任があります』と」。

 「政権担当者は自分の国の人々の暮らしに責任があります。人々が責任ある人々のために祈れば、政権担当者は自分の国の人々のために祈ることができるようになるでしょう。百人隊長が自分の召使のために祈るように」。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

2019年9月17日

☨「三つのたとえ話で、神は私たち罪人への無限の愛を示された」

 教皇フランシスコは15日、サンピエトロ広場で行われた主日の正午の祈りの説教で、「私たちは決して恐れてはなりません。神は私たち罪人を無限に愛してくださいます。その赦しを通して、悪は打ち負かされるのです」と語られた。

 説教で教皇はまず、この日のミサで読まれたルカ福音書の15章1-32節を取り上げられた。ここで、イエスはファリサイ派の人々や律法学者たちから、徴税人や罪人たちと一緒にいることを非難され、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言われる。

 教皇は、このことはまさに素晴らしい告知、と指摘。それは、イエスがその通りのことをなさった-罪人を迎え、一緒に食事をされたーからだ、とされた。そして、「これは私たちの教会の入り口に書かれてもいい言葉… どの教会の、どのミサでも、イエスは私たちがテーブルにつくことを歓迎され、ご自身を私たちにお与えになるのです」と説かれた。

ご自身を批判した人々に対して、主は、ご自身から遠く離れていると感じている人々をとても気にかけておられることを示す三つのたとえ話をなさった。まず、イエスは「あなた方の中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を探しに行かないだろうか」と問いかける。これは羊のたとえ話だが、ご自身から離れた人を探し、連れ戻すのを「神はあきらめません。神にとって、ご自身の愛の素晴らしさをまだ知らない人々が、心の中心にあるからです」と教皇は語られた。

 二つ目のたとえ話は、ドラクメ銀貨を十枚持っていて、そのうちの一枚を無くした女性の話だ。「あなた方は、主があきらめずに懸命にお探しになる、この小さな銀貨です。このたとえ話で、主は、あなた方一人一人が唯一無二の存在だ、ということを、おっしゃろうとしているのです」と説明された。

 三つめは「放蕩息子の帰還をまつ父親」のたとえ話。教皇は「主は私たちを待っておられます。あきらめることなく、失望することもなく…たとえあなた方がたくさん酷いことをしたとしても、恐れてはいけません。神はあきらめません。なぜなら、私たちは、父にところに再び戻って来る息子、探して見つけられる銀貨、やさしくなでてもらう羊だからです」と説かれた。

 さらに教皇は、「神は私たちがご自身の無限の愛を受け入れるのを待っておられるが、この無限の愛は時として拒まれることがある。それは、まさに、放蕩息子の兄のとった態度」と指摘。「兄は、父親としてよりも、主人として神をみています。慈しみ深い方、というよりも、厳しい神を見ているのです… でも、そうではない。神は、力ではなく、愛をもってお救いになるのです。ご自身をお示しになっても、押し付けることはされません」と説明された。

 だが、私たちも時として、このたとえ話の兄のように誤った理解をすることがあり、「自分自身が正しいと信じ込み、他の人は間違っている、と考えることがあります」と教皇は指摘されたうえで、「自分自身が良い者だと信じ込まないようにしましょう。私たちは自分だけでは、神の助けがなければ、どのように悪に打ち勝つことができるか分からないからです」と説かれた。そして、最後に、教皇は「それでは、私たちはどのようにすれば悪を打ち破ることができるのでしょうか」と会衆に問いかけ、「神の赦しを受け入れることです… 神は悪を追い払ってくださいます… 神がおられるので、罪は思い通りできないのです」と強調された。

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

 

2019年9月15日

♰「歴訪で蒔いた福音の種が、豊かな実をもたらすように」-3か国訪問を終えて

 教皇フランシスコは11日、バチカンで水曜恒例の一般謁見を行われ、4日から前日10日にかけてのモザンビークなどアフリカ東部3カ国歴訪について報告された。

 まず、今回の歴訪全体の狙いとして、「平和と希望の巡礼者」として訪れた3国に「世の希望であるキリストを示し、すべての民の兄弟愛・自由・正義・平和の力強いパン種である福音をもらたすことを望みました」とされた。

 そして、最初の訪問国だったモザンビークでは「長い武力闘争で苦しんだ同国に、希望と平和と和解の種を蒔き、今年の春、2つのサイクロンによって大きな被害を受けた人々に寄り添うこと」を目的とし、同国の要人との会見で「共通善のために共に働く」よう励まし、様々な宗教の若者たちとの出会いでは「諦めや不安を乗り越え、国の構築のために働き、社会に友情を広げると共に、先人たちの伝統を大切に守っていく」ように勇気づけた、とされ、聖エジディオ共同体のプロジェクトとして開設された医療センターでは「患者が最も大切にされ、異なる宗教の人々が一致して兄弟のように働いている様子を目にすることができた」と印象を語られた。最大の行事となったミサでは「雨にもかかわらず、皆が幸福を感じていました」「そこには、暴力を鎮め、兄弟愛を生む、『敵を愛しなさい』(ルカ福音書6章27節)というイエスの言葉が響いていました」と振り返られた。

 次に訪れたマダガスカルは「美しい自然と豊かな天然資源を持つ一方で、多くの貧困が存在する国」だが、「国民が伝統的な連帯の精神をもって、対立を乗り越え、環境と社会正義が尊重される未来を構築する」ように促した、と話された。また、アンタナナリボ郊外の「友情の町」を訪問されたが、これは宣教師ペドロ・オペカ神父が始めた共同体で「福音の精神に基づいて、労働、尊厳、貧しい人への援助、子どもの教育などのテーマを一致させています…隣接の採石場で、労働者のための祈りを唱えました」と語られた。また、観想修道会の修道女たちと昼の祈りを唱えたが、「信仰と祈りなしでは、人間にふさわしい町を築くことはできません」と祈りの大切さを指摘された。マダガスカル訪問の後半の行事、アンタナナリボ郊外で行われた日曜日のミサと、それに先立つ、若者たちとの祈りの前夜祭に、多数の参加者があったことも、思い起こされた。

 最後に訪問されたモーリシャスについては、「観光で知られると同時に、多様な民族と文化が統合された国。実際、同諸島には前世紀から、インドはじめ、様々な国からやってきた民族が生活しています」とされたうえで、「諸宗教間の対話と友好が自然な形で存在しており、たとえば、司教館で見た美しい花束は、イスラム教の指導者から贈られたものでした」と話され、ミサは、同国の「一致の使徒」、福者ジャック・デジレ・ラヴァル神父を追憶するものだったが、ここで「イエスの『真福八端』をキリスト者の身分証、利己主義や差別に対する特効薬」として示した、と語られた。さらに、要人らとの会見で、「共通の計画実現のために多様性を調和させる同国の努力」を評価され、これからも「さらに受容力のある社会と民主主義の発展に尽くすように」と激励した、と述べられた。

  最後に「今回の歴訪で蒔いた種が、モザンビーク、マダガスカル、モーリシャスに豊かな実をもたらすように」と祈られた。

(編集「カトリック・あい」)

2019年9月12日

・教皇、モーリシャスの各界代表に「人間を中心とした経済政策」求める

(2019.9.9バチカン放送)

 モーリシャスを訪問された教皇フランシスコは9日朝のミサに続いて、大統領官邸でバーレン・ヴヤプーリ大統領、プラヴィン・クマール・ジャグナット首相と相次いで会談、さらに官邸内で、同国の各界代表、駐在外交団とお会いになった。

 この席で、教皇は、ミサの説教で述べたテーマと同様に、若者たちの失業問題に触れられ、「人間を中心とした経済政策を促進しつつ、税収入の有効な配分、就労機会の創生、最も貧しい人々の支援に力を入れてください」と努力を求められた。

 また、「統合的エコロジーへの回心」を取り上げ、「自然を大切にすることは、環境破壊を防ぐだけでなく、すべての人が享受できる経済発展を築くために必要な、生活様式の変革をもたらす機会になります」と強調され、さらに、モーリシャスが「文化・民族・宗教の多様性のうちに、相互の尊重と調和をもって、共通の目標のために取り組む」ことを願われた。

(編集「カトリック・あい」)

2019年9月10日

♰「教会と社会から『若い顔』を奪わないで」-教皇、モーリシャスでのミサで

  (2019.9.9 バチカン放送)

 教皇フランシスコは9日、モーリシャスの首都ポートルイスの「平和の元后マリア」のモニュメントの下で、約10万人参加のミサを行われた。この会場では、30年前に、聖ヨハネ・パウロ2世がミサを司式している。

 ミサの説教で、教皇は「福音書の『真福八端』は、キリストの身分証のようなもの」とされ、「良きキリスト者になるには、一人ひとりが自分にできる方法で、イエスの『真福八端』の教えを実践することです」と語られた。

 そして、同国で崇敬されている福者ジャック・デシレ・ラヴァル神父の「イエスと貧しい人への愛に生きた生涯」を思い起こされ、「宣教の活力と愛を通して、モーリシャスの教会に新たな若さと息吹きをもたらしたラヴァル神父の精神を今日に受け継いでいってください」と励まされた。

 また教皇は、ここ数十年の経済発展にもかかわらず、若者たちが仕事に就けず、不安定な未来を抱えているモーリシャスの現状を取り上げ、「若者から自分たちの歴史の主役になる可能性を取り上げてはなりません」「教会と社会から若い顔を奪ってはなりません」と訴えられ、さらに「若者たちが現代社会の様々な隷属の危険に陥らないよう、幸福をイエスの中に見出すように導く必要がある」と大人たちに求められた。

(編集「カトリック・あい」)

2019年9月10日

♰「安易な幻想や約束の罠に陥らないように」-教皇、マダガスカルの若者たちに

教皇フランシスコとマダガスカルの若者たち 2019年9月7日 アンタナナリボ教皇フランシスコとマダガスカルの若者たち 2019年9月7日 アンタナナリボ  (Vatican Media)

(2019.9.7 バチカン放送)

 マダガスカル訪問中の教皇フランシスコは7日夕、翌日の教皇ミサの前夜祭として企画された若者たちとの祈りの集いを主宰された。

 首都アンタナナリボ郊外に設けられたイベントスペースには、多くの若者たちが詰めかけ、教皇が到着された夕方には、およそ10万人に達し、伝統的なリズムに乗ったダンスがステージで披露され、代表の青年たちが信仰や生活を通して得た体験を語った。

 「家族の反対を受けながらも、刑務所でボランティアをした」という青年は「受刑者たちとの出会いを通して、自分の人を見る目や評価の仕方が完全に変わりました」と話し、教皇は、この青年が「偏見や批判に陥らず、一人ひとりの人間が秘めている素質や、その人が背負っている固有の人生に気付いたこと」を讃え、「受刑者たちは自身の中の悪のためというより、誤った選択によって道を失う場合が多いのです」と話された。

 また教皇は「神は私たちを罪や過ちで呼ばず、名前で呼んでくださいます。神の目には、私たち一人ひとりが大切に映っているのです」と語られ、若者たちが生きる上で「安易な幻想や約束の罠に陥らないように」と注意され、「主に従い、主と共にいるなら、私たちを麻痺させ、隷属させる声を聞き分け、自分の使命と新しい地平を見出すことができるでしょう」と説かれた。

 代表の一人の女性は「伝統や習慣に大きな隔たりのある部族間の軋轢や試練を超えて、互いの愛によって一致している両親」について語ったが、教皇は「私たちは、主がくださった愛と信頼を分かち合う人たちを必要としています。私たちは一人でも大きなことを成し遂げられますが、皆と一緒にやれば想像のつかないほどのことを夢見、努力できます」と激励された。

 さらに教皇は「家族間の絆や、人々との連帯を強め、皆が必要とされる社会のために共に働き、日常生活の中に小さな奇跡を見出すことを学ぶように」と若者たちを促された。

(編集「カトリック・あい」)

2019年9月9日

♰「人間の尊厳の蹂躙を傍観していてはならない」-マダガスカルでの主日のミサで

マダガスカル首都アンタナナリボで、教皇フランシスコ司式のミサ 2019年9月8日マダガスカル首都アンタナナリボで、教皇フランシスコ司式のミサ 2019年9月8日  (Vatican Media)

(2019.9.8 バチカン放送)

 教皇フランシスコは8日、マダガスカルの首都アンタナナリボで主日(日曜日)のミサを捧げ、正午のお告げの祈りを唱えられた。

 首都郊外のイベントスペースで行われた教皇ミサには、前日の前夜祭に参加し会場で朝を迎えた若者たちをはじめマダガスカル全土から信者が詰めかけ、参列者は当局の発表では100万人近くに達した。

 ミサの説教で教皇は「自己の小さな世界に閉じこもらず、眼差しを上げ、自分ではなく、神を生活の中心に据えることで、兄弟たちに心を開きましょう」と呼びかけられた。

 そして、「多くの人々、若者、子どもたちが苦しみ、すべてに事欠いている現実」を見つめるように促しつつ、「このような現実は、神のご計画ではありません」とされたうえで、「排他的な生き方やプライド、個人主義を捨て、兄弟愛の精神をもって、すべての人が愛され、理解され、尊重される社会を目指さなくてはならなりません」と訴えられた。

 さらに「主は神の王国の到来を準備しながら、人類を最も重い隷属から解放しようとしておられます」とし、その隷属とは「自分自身のためだけに生きることだです」と話され、「自分の小さな世界に閉じこもることは、他の人々への関心を失わせます。貧しい人を疎外し、神の声を受け入れることはできません」「自分に閉じこもる人々は、一見、安泰であるかのように思われても、最後には不満を抱えた、生命のない人になってしまいます」と警告された。

 「キリスト者は、人間の尊厳が蹂躙されているのを傍観していてはなりません… 無関心や諦めで両腕を広げるポーズをとるのではなく、(蹂躙されている人々に)手を差し伸べましょう」と促された。

 ミサの後半で教皇は、正午のお告げの祈りを参加者と共に唱えられ、人類の救いの曙、マリアの誕生が記念されたこの日、無原罪のマリアに、マダガスカルの平和と希望の歩みを託して祈られた。

(編集「カトリック・あい」)

2019年9月9日

♰「一番重い仕事を神に委ねるにも、勇気が必要」教皇、マダガスカルの女子修道院で

 

教皇フランシスコ、マダガスカルの観想修道女たちと 2019年9月7日 アンタナナリボ・女子カルメル会修道院で教皇フランシスコ、マダガスカルの観想修道女たちと 2019年9月7日 アンタナナリボ・女子カルメル会修道院で  (Vatican Media)

(2019.9.7 バチカン放送)

 マダガスカルを訪れた教皇フランシスコは、9月7日、首都アンタナナリボの女子カルメル会修道院で、昼の祈りを修道女らと共にされた。

 同修道院の聖堂で行われた教皇との集いには、マダガスカル全土の様々な観想修道会から、およそ100人の修道女たちが参加し、昼の祈りを唱和。

 祈りに続いて行われた講話で、準備した原稿を用いず、修道女たちに語りかけた。「主に従うには、常に勇気を必要とする。一番重い仕事は神がしてくださるとしても、それを神に委ねるにも、勇気が必要です」と話され、ご自分の司祭生活を支えてくれたある若い修道女の話しをされた。

 その若い修道女は、ある夕方、一人の高齢の修道女が食堂に歩いて行くのを助けていたが、関節痛を患い、とても気難しいその修道女の世話は、並大抵の忍耐ではできないことだった。それでも、彼女は、微笑みながら、すすんで世話を引き受けていた。「これはおとぎ話ではありません。本当にあった出来事… 彼女の名は、『幼きイエスのテレジア』です」と明かされた。

 教皇は、カルメル会修道女、リジューの聖テレーズ(1873-1897)の生涯を振り返りつつ、共同生活を愛をもって生きるためのヒントを示され、「大きなことも、小さなことも、愛を持って行う」「完徳への道は、従順の道の小さな一歩一歩にある」「小さな一歩をしるすための勇気、『自分の小ささを通して神は世の救いを完成させられる』と信じる勇気を持つ」「奉献生活に忍び寄る世俗に注意する」「長上への従順は、イエスへの従順、愛への従順」などを挙げられた。

 そして講話の最後に、「今、小さきテレジアは、高齢の修道女ではなく、高齢の私に付き添ってくださっています」と語り、この講話を通して、「聖女が誠実な友として、私自身の司祭生活のあらゆる歩みを共にしてくれたことを証ししたかったのです」と話された。

 マダガスカルに、ベルギーから最初の女子跣足カルメル修道会の修道女たち10名が到着したのは、1921年。修道女たちは、1927年に、アンタナナリボのアンパサニマロ地区に共同体を作り、1937年に今日の修道院の礎石を据えたが、完成を見たのはさらに20年後のことだった。現在、共同体は、志願者、修練者を含めて17名で構成されている。

(編集「カトリック・あい」)

 

2019年9月8日