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【聖木曜日】「私たち司祭の良心の究明や祈りの中に、どれだけの悔恨と涙があるのか」聖香油のミサで
(2024.3.28 バチカン放送)
28日、「聖木曜日」午前中の伝統の儀式「聖香油のミサ」が聖ペトロ大聖堂で、教皇フランシスコとローマ教区の司祭たちによって捧げられた。
復活祭を直前に控えた一週間、「聖週間」の木曜日の午前中に、世界の教区の司教座聖堂で、司教と司祭の共同司式による「聖香油のミサ」が捧げられることになっており、その中で行われる「司祭叙階時の約束の更新」と「聖油の祝別」を特徴としている。
28日朝、バチカンの聖ペトロ大聖堂の中央祭壇を囲み、ローマ司教である教皇と共に1500人の司祭たちが共同でミサを司式。前半の「ことばの典礼」は教皇が、後半の「感謝の典礼」はローマ教区の教皇代理司教アンジェロ・デ・ドナーティス枢機卿が主司式者となった。
教皇はミサ中の説教で、朗読されたルカ福音書の、イエスが故郷ナザレの会堂で朗読・説教する場面(4章16-21節)を取り上げ、「会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた」(同4章20節)ことに注目。沈黙のうちにイエスに向けられる、驚きといぶかしさの入り混じった人々の眼差しを思い起こされた。
一方で、最後の晩餐の席で、「あなたは… 三度、私のことを知らないと言うだろう」(マルコ福音書14章30節)とペトロの離反を見抜くイエスの眼差し、またイエスが逮捕されてから「私はあの人を知らない」と三度否定するペトロを振り向いて見つめるイエスの眼差しも観想された。
(イエスのその眼差しを見たペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度、私を知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出し、外に出て、激しく泣いた= ルカ福音書22章61-62節)。
教皇は、「ペトロの癒し、使徒の癒しは、彼らが傷つき、後悔し、イエスに赦していただいた時に、苦い涙と悲しみを通してもたらされ、その涙は、彼らに愛を再び見出させるものとなる」とされ、さらに、「私たちの内的な再生は、自分たちの惨めさと、主の慈しみが出会った場所から、私たちの精神の貧しさに対し、聖霊がそれを豊かにしてくださるところから生まれるのです… 私たち司祭は、『自分の良心の究明や祈りの中に、どれだけの悔恨と涙があるのか』と、自身に問いたださねばなりません」と強調された。
説教に続いて、司祭叙階の日の約束の更新が行われた。
「主キリストが使徒とわたしたちにご自分の司祭職を告げたこの記念の日に、あなたがたが叙階の日に司教と聖なる神の民の前で行った約束を新たにすることを望みますか」と教皇が問うと、司祭らは「はい」と答え、その約束を更新した。
また、教皇は会衆に向けて、司祭たちのために祈るよう求められた。
この後、聖油の祝別が教皇によって行われ、助祭たちが「病者用聖油」、「洗礼志願者用聖油」、入信、堅信、叙階等に用いられる「聖香油」の三種の聖油の壺を教皇の前に運んだ。教皇はそれぞれの香油を、祈りと共に祝別された。特に最後の「聖香油」の壺には香料が注がれ、教皇は祈りに続き、その壺に息を吹き込まれた。再び続く教皇の祈りと一致し、司祭らも壺に向けて手をかざし、沈黙のうちに祈った。
この「聖木曜日」の午後より、教会の典礼は一年間の頂点をなす「聖なる過ぎ越しの三日間」に入った。教皇は午前中の「聖香油のミサ」に続き、午後「主の晩餐の夕べのミサ」を捧げるために、ローマのレビッビア刑務所に向かわれた。
(編集「カトリック・あい」)
◎教皇連続講話「悪徳と美徳」⑬「『忍耐』はキリストの愛の説得力ある証しとなる」
One can read Pope Francis’ full remarks at the General Audience later today on the Vatican website.
☩「苦しみの中でまかれた種から希望が生まれますように!」教皇、聖地のカトリック教徒たちに書簡
また教皇は、「主が生き、死に、復活された場所、聖地で暮らしておられる皆さんにとって、復活祭を祝うことは、特別な意味を持っています」とされ、「何世紀にもわたって住んできた土地に残りたい」と願う現地のキリスト教徒の心情を理解し、その信仰、慈善、希望を讃えられた。
そして、2014年のご自身の聖地巡礼を振り返り、平和と安全を願い、中東における人類の価値観に対する「絶え間ない、恐るべき脅威」、緊張の連続について警告した聖パウロ6世の言葉を繰り返され、「私たちの救いの場所」を守る中東のキリスト教徒の役割、「苦難を通して主の受難の神秘を永続的に証し」する役割の重要性を強調され、 「新たに立ち上がって前進する皆さんの力によって、十字架につけられた主が死者の中からよみがえられたことを宣言し、そして宣言し続けているのです」と励まされた。
教皇は続けて、聖地のキリスト教徒のために、また聖地のキリスト教徒たちに、次のような祈りを捧げられた。
「主よ、あなたは私たちの平和です(エフェソの信徒への手紙2章14-22節参照)。 平和を実現する者たちへの祝福を宣言された主よ(マタイ福音書 5章9 節参照)。人の心を、憎しみ、暴力、復讐の精神から解放してください。 私たちはあなたの模範に目を向け、憐れみ深く、柔和で、心の謙虚なあなたに従います(同11章29節参照)。 あなたと共に新たに立ち上がる希望を、誰も私たちの心から奪わないようにしてください。 私たちが宗教、民族、国籍の区別なく、女性、高齢者、子供、貧しい人々など最も弱い立場にある人々はもとより、すべての男性、女性、子供の尊厳を守る気力をなくすことがありませんように」。
教皇は、聖地の人々が決して一人ではないことを改めて確認され、世界の教会が「祈りと実践的な慈善活動」を通じて連帯を示すことを約束され、「近いうちに私たちは巡礼者としてあなた方のもとに戻り、あなた方に近づき、あなた方を抱きしめ、あなた方と共に友愛のパンを裂くこと、あなた方が苦しみながら蒔き、忍耐強く育てている種から希望の柔らかい芽が出ることを願っています」 と呼びかけられた。
そして、現地の司教、司祭、修道者の働きに感謝された後、カトリック教徒や他のキリスト教徒の間で「苦しみのるつぼの中で…一致という貴重な黄金が浄化され、輝き出すように」と祈られるとともに、「霊的な親密さと励まし」を表明され、これからも彼らのために祈り続けることを約束された。
書簡の結びで、教皇は、聖地のカトリック教徒に対し、「あなたの国の娘」である聖母マリアが守ってくださるように願うよう勧められ、さらに世界のキリスト教徒に対して、「聖地の人々への具体的な支援を約束し、そのすべての人々が愛する土地に平和のうちに住むことができるように、絶えずお祈りください」と呼びかけられた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
You can read the full text of the Pope’s Letter to the Catholics of the Holy Land here.
☩「あなた方は、前進する教会の生きた希望だ」教皇、使徒的勧告Christus vivit公布5周年に若者たちへメッセージ
教皇フランシスコは25日、使徒的勧告「Christus vivit(キリストは生きておられる)」の公布5周年にあたってのメッセージを発表され、その中で、世界の若者たちに「キリストとの友情から生まれた喜びを皆の前で証しする」ために「自分たちの声」を届けるよう呼びかけられた。
メッセージで教皇は、「若者たち、とりわけ、多くの紛争と多くの苦しみが特徴の世界の中で落胆しているかもしれない若者たちに、私の言葉が新たな希望の源となってほしい、と願っています」と語られた。
そして、「キリストは、生きておられ、無限の愛で皆さんを愛しておられます」とされたうえで、「友人として神と共に歩み、皆さんの人生に神を迎え入れ、人生のこの時期のすべての喜びと希望、問題と葛藤を、神に分かち合っていただきなさい・・・そして『キリストとの友情から生まれる喜びを、人々の前で証しする』という、皆さんが受けた『偉大な使命』を人々に思い起こさせ、皆さんの声を届けるようにしましょう」と促された。
また教皇は若者たちに対し、イエスの臨在の中で生きることで「過去の記憶」が実を結び、「現在に勇気を見出し」、「希望を持って未来に向かう」ことができると語られ、使徒的勧告「Christus vivit(キリストは生きておられる)」は、「人々の声に耳を傾け、対話し、主の御心を絶えず識別することによって共に前進しようとする教会の成果」であり、2018年の青少年問題シノドスが現在進められているシノダリティ(共働性)をテーマにしたシノドス(全世界代表司教会議)を準備する力となった、と指摘。
そして、「私たちの教会の旅の新たな段階を迎えている今、常にルーツに忠実であるとともに、新しい道を探求するための創造性をこれまで以上に発揮することが求められています・・・皆さんは、『前進する教会の生きた希望』です」と若者たちを励まされた。
メッセージの最後に、「『混乱を引き起こす』ことをせずに、私たちを置いてきぼりにしないように。 清浄でよく調整されたエンジン、 そしてあなた自身の特別な生き方をもって、復活されたイエスを喜びをもって宣言しつつ、車を前に進めてください!」と強く希望された。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩「神を冒涜する非道な行為だ」教皇、モスクワのテロを批判、犠牲者のために祈る
(2024.3.24バチカン放送)
教皇フランシスコは24日、「受難の主日」のミサに続く正午の祈りで、22日にモスクワ近郊で起きたテロについて「卑劣なテロ攻撃」として非難されるとともに、犠牲者を主の平安の中に委ね、遺族に神の慰めがあるように祈られた。
「これらの非道な行為は、『殺してはならない』(出エジプト記20章13節)と命じられた神を冒涜するもの」と強く非難したうえで、「こうした行為を計画・実行した者たちを、主が回心させてくださいますように」と祈られ、「イエスはエルサレムに、謙遜で温和な王として入城されました… そのイエスに、私たちの心を開きましょう。イエスだけが、敵意や憎しみ、暴力から私たちを解放してくださいます。なぜならイエスは『慈しみ』と『罪の赦し』だからです」と説かれた。
そして教皇は、「戦争のために苦しむすべての兄弟姉妹たちのために祈りましょう」と正午の祈りの参加者たちに呼びかけられ、ロシアによる攻撃、破壊で人々が苦しみ続けているウクライナに思いを向けられて、「ウクライナ、そして同じように苦しんでいるガザ地区、その他の多くの紛争地域を忘れないでください」と強調された。
(編集「カトリック・あい」)
◎教皇連続講話「悪徳と美徳」⑫神は、私たちが「賢く聖なる者」となることを望まれる
教皇フランシスコ 2024年3月20日の一般謁見 バチカン・聖ペトロ広場 (VATICAN MEDIA Divisione Foto)
(2024.3.20 バチカン放送)
教皇フランシスコは20日の水曜恒例一般謁見で、連続講話「悪徳と美徳」を、先週からの「徳」に関する考察として続けられ、今回は「枢要徳」の一つ、「賢明」を取り上げられた。
代読による講話の要旨は次の通り。
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今日のカテケーシスでは、「賢明」の徳について考えてみましょう。「賢明」は、「正義」、「勇気(剛毅)」、「節制」と共に、「枢要徳」と呼ばれるものを構成しています。これらはキリスト教独自の特質ではなく、ギリシャ哲学をはじめ、古代の優れた英知の遺産に属するものです。
中世の著作において、徳は、単に魂のポジティブな性質として列挙されるものではありませんでした。キリスト教的な啓示に照らしてみる時、神学者たちは、七つの徳、すなわち三つの「対神徳」(信仰、希望、愛)と四つの「枢要徳」(賢明、正義、勇気、節制)を、一つの生きた組織体のように捉え、そこではそれぞれの徳が調和のうちに各自の立場を占めていると想像していたのです。
「賢明」は、取るべき行動を前に、常にためらう「臆病な人の徳」だと思うのは、誤った解釈です。それは単なる用心深さではありません。「慎重さを優先する」とは、「人の行動はその人の知性と自由の手の内にある」という意味です。「賢明」な人は創造的です。「賢明」な人は考え、判断し、現実の複雑さを理解しようとします。そして、感情や怠惰、プレッシャー、幻想に飲み込まれる。ということがありません。
見せかけや、うわべだけの考え、凡庸さが目立つ現在の世界で、「賢明」を改めて学ぶことは意味があります。
聖トマス・アクィナスは「賢明」を、「行動における正しい思考」と呼んでいた。それは「行動を善に向けて導くために管理する力」です。ですから、「賢明」は、「徳の御者(ぎょしゃ)」とも呼ばれています。「賢明な人」とは、「選択ができる人」のことなのです。
「賢明」は、「極度のものは善の敵」であることも教えてくれます。実際、有り余る熱意は、しばしば災難をもたらします。ゆっくり築くべきものを壊したり、争いや無理解を生み、時には暴力さえ引き起こします。「賢明な人」は、過去の記憶を守ることができます。それは未来を恐れるからではなく、伝統は叡智の遺産であることを知っているからです。同時に、賢明な人は、先を見通す人です。目標を一度定めたら、そこに到達するためにあらゆる手段を考える必要があるからです。
福音の様々な箇所が、私たちが「賢明」を学ぶことを助けてくれます。たとえば、「岩の上に自分の家を建てた賢い人」(マタイ福音書7章24-27節)や、油の用意をしていない愚かなおとめたちに対して、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた「賢いおとめたち」(同25章1-13節)のたとえがそれです。
キリスト者の生活は、単純さと賢さを両立させたもの。イエスは弟子たちを派遣する際におっしゃいました。「私はあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」(マタイ福音書10章16節)。神は私たちが「聖なる者」になるだけでなく、「賢く聖なる者」となることを望まれます。「賢明」なしでは、道を誤るのは一瞬だからです。
(編集「カトリック・あい」)
☩マフィアによるディアナ神父殺害から30年ー「彼と同じ希望をもって共に歩み、悪の支配に打ち勝ち、自由な世界を構築するように」
イタリア南部カサル・ディ・プリンチペでジュセッペ・ディアナ神父がマフィアに殺されてから30年経った3月19日、教皇フランシスコは、アヴェルサ教区の司教に書簡を送り、「ディアナ神父と同じ希望をもって共に歩み、キリスト教的預言を実現しながら、悪の支配から自由な世界を構築するように」と呼びかけられた。。
ディアナ神父(1958-1994)は、イタリア・カンパニア州カセルタ県のカサル・ディ・プリンチペの生まれで、1982年司祭に叙階。アヴェルサ教区の司祭として活動するかたわらボーイスカウトの顧問等を経て、1989年から故郷カサル・ディ・プリンチペのサン・ニコラ・ディ・バーリ小教区の主任司祭を務め、地元の高校で文学・宗教などの科目を教えた。
「カモッラ」と呼ばれるマフィアが幅を利かせるこの地域社会で、ディアナ神父は福音の精神のもとに人々を導き、支えた。1991年の降誕祭には、「私の人々への愛のために」と題する書簡を発表し、犯罪組織がはびこる中で、キリスト者のとるべき態度と責任を示した。だが、1994年3月19日、自身の洗礼名の記念日でもある聖ヨセフの祭日の朝、香部屋でミサの準備中に、カモッラの一員にピストルで射殺された。
教皇フランシスコは、書簡の中で30年前の悲劇的な出来事を振り返ると同時に、人々の生活の「荒れ野」に分け入り、自らの命を犠牲にするまでに人々を守り、民に尽くした神の「忠実な良い僕」(マタイ福音書25章21節など)だったディアナ神父を讃えられ、アヴェルサ教区の人々、中でもディアナ神父を親しみを込めて「ペッペ神父」と呼んだカサル・ディ・プリンチペのサン・ニコラ・ディ・バーリ教会の信者たちに、彼と同じように希望を持って共に歩み、悪に支配に打ち勝ち、自由な世界を構築するように、と呼びかけられた。
また、ディアナ神父が開いた道を日常的な努力をもってたどり、正義の種と地元の人間的・社会的発展の夢を忍耐のうちに育て続けるすべての人々を勇気づけられ、「正義を否定し、人間の尊厳を無にする非道な暴力と横暴を前に、キリスト者は福音を告げ、キリストと共に、兄弟愛と交わりによって豊かにされた新しい人類のしるしとしての召命を生きるように呼ばれています」と説かれた。
そして、「キリストにおいて洗礼を受けた信者、また司牧者として、神は私たちに預言者であるようにと望まれる。預言者は見張りとして、不正義を見、それを告発し、神が望まれる本来のご計画を思い出させなければならない」(書簡「私の人々への愛のために」)と訴えたディアナ神父の言葉を改めて示された。
書簡の最後に教皇は、「師イエスの勇気ある弟子、ディアナ神父の死から30年が経った今、人々が御言葉を受け入れ、神の真理において信仰と希望を強め、悪の闇から清められた調和と兄弟愛あふれる未来を築く目標を保ち続けることができますように」と祈られた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩「賜物、赦しが神の栄光の真髄」教皇、四旬節第五主日の正午の祈りで
(2024.3.17 Vatican News Christopher Wells)
☩「教会が深刻な状況にある今も、勇気を失わず、『希望を具体的に生きる』ように」福音宣教省世界部門の総会参加者を促す
教皇フランシスコと福音宣教省・世界宣教部門の関係者らとの集い 2024年3月15日 バチカン宮殿 (Vatican Media)
(2024.3.15 バチカン放送)
教皇フランシスコが15日、バチカン福音宣教省・世界宣教部門の定例総会参加者たちとお会いになった。
風邪の症状が残る中での代読によるあいさつで、教皇は、多くの地方教会が面している「世俗化」の問題に触れ、「キリスト教共同体への帰属意識の喪失、信仰や信仰の教えへの無関心」がもたらしている今日の教会の深刻な状況に、参加者の注意を向けられた。
そして、「こうした深刻な状況にあっても、勇気を失わず、若い人々に人生の意味を取り戻させるための有効な答えを見つける機会としていくように」と促された。
「信仰の伝承が途切れることがないように」と願われた教皇は、「家庭や、教会で信仰育成に携わる人々との絆を強めると共に、若いカテキスタを育て、『教会のカテキズム』を普及させるなど、要理教育に力を注ぐこと」を希望された。
また、来年、2025年の聖年に言及され、「この聖年が、希望の力を浮かび上がらせる年となるように… 聖年の開催に備えた使徒的書簡を近く発表しますが、この書簡が、多くの人々にとって、『希望を具体的に生きる』ことについて考える助けになる」ことを願われた。
最後に教皇は、「聖年に先立つ今年が『祈りに捧げる年』であることを忘れないように… 聖母や聖人たちの教えから学び、まず自分自身から、よりよく祈ることを始めましょう」と参加者たちに求められた。
(編集「カトリック・あい」)
◎教皇連続講話「悪徳と美徳」 ⑪人間の持つ素晴らしい可能性は「徳」
(2024.3.13 バチカン放送)
教皇フランシスコは、教皇選出から11年目にあたる13日、バチカンで水曜恒例の一般謁見を行われ、その中で、「悪徳と美徳」をテーマにした連続講話を続けられた。今回から、「悪徳」と対称の関係にある「美徳」についての考察に入られた。
風邪の症状が残っておられるため、代読の形でなさった講話の要旨は以下の通り。
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これまで様々な「悪徳」を考察してきましたが、今回から、それと対称の関係にあるもの、悪の体験の対極にあるものに、目を向けたいと思います。
人間の心は、危険な情熱の言いなりになったり、害になる誘惑に耳を貸す可能性がある一方で、これらすべてに対抗することもできます。たとえそれが困難を伴うとしても、人間は善のために造られており、善を真に実現し、それを鍛え、自分の中で持続するものにすることができるのです。
人間が持つこの素晴らしい可能性をめぐる考察、それが「徳」という、倫理哲学の一つの古典的な主題を形作っています。 古代ローマの哲学者は「徳」をvirtus(ヴィルトゥス)、古代ギリシャ人はそれをaretè(アレテー)と呼んでいました。
ラテン語におけるその定義は、特に、「徳」を持った人の強さ、勇気、節制、苦行を強調しています。つまるところ、「徳」の行使は、努力や苦しみを要する長い発芽を経た結果なのです。それに対し、ギリシャ語のaretèは、優れた、際立つ、感嘆させる何かを指します。有徳の人とは、自分を曲げて無理に変えた人ではなく、自らの召命に忠実に、自分自身をあまねく実現した人のことです。
聖人たちは人間の中で稀な存在であり、私たちの限界を超えて生きる、一握りの勝者たちの集まりだ、と考えるのは誤りです。むしろ、聖人たちは「徳」という視点から見て、それぞれの召命を実現しながら、自分自身を精一杯に生きた人たちです。正義や、尊重、相互の優しさ、寛大さ、希望といったものを普通に分かち合えるなら、どれほどよいでしょう。しかし、それはめったにないことです。しばしば人間の最悪さと向き合わねばならない悲劇的な今日の時代ゆえに、徳ある態度の考察は再発見され、皆が学ぶべきもの、と言えるのです。この歪んだ世界において、私たちは神の似姿に沿って作られ、永遠に刻まれた自分たちのあるべき形を記憶せねばなりません。
ところで、「徳」という概念をどのように定義したらよいでしょう。『カトリック教会のカテキズム』は、正確で簡潔な定義を私たちに示しています―「徳とは善を行う堅固な習性です」(n.1803)。それは人間のゆっくりとした成熟から生まれ、その人の内的特質にまでに至る善です。「徳」とは自由の一つの「態度」です。私たちがあらゆる行いにおいて自由であるとすれば、善悪を選択する必要があるたびに、「徳」は正しい方を選ぶ習慣を私たちにもたらします。
「徳」がこれほど素晴らしい素質であるなら、すぐに次の問いが生まれるでしょう。「どのようにしてその徳を得ることができるのだろうか?」 その答えは簡単ではなく、複雑です。キリスト者にとって、一番の助けは神の「恵み」です。洗礼を受けた者の中では、聖霊が働きます。聖霊は私たちの魂の中で働き、それを有徳な生活へと導きます。いったいどれほど多くのキリスト者たちが、己の弱さを克服できぬことを認めつつ、涙を経て、聖性に到達したことでしょう。彼らは、自分にとって単なる素描に過ぎなかった「善」という作品を、神が完成してくださったことを知ったのです。神の恵みは、私たちの道徳的な努力に常に先行します。
さらに、先人の知恵からもたらされた、「徳は成長する。そして、それは鍛えることができる」という非常に豊かな教えを決して忘れてはなりません。そのためにも、聖霊に最初に願うべき賜物は、まさに知恵です。私たちが持つ、かけがえのない賜物は、開かれた精神と、人生を善に向かって方向付けるために、過ちから学ぶ賢明さです。そして、必要なのは、熱意と、善を選択し、過度なことを遠ざけ、節制を通して自分自身を形作る能力です。
それでは、こうして私たちの「徳」をめぐる旅を始めましょう。
(編集「カトリック・あい」)
☩「神は、私たちを受け入れ、罪から解放してくださる」四旬節第4主日の正午の祈り
教皇フランシスコは10日、四旬節第四主日の正午の祈りに先立つ説教で、「神は、私たちをとても愛してくださっており、罪に定めるために裁判にかけることよりも、私たちが一人も失われないように、全員を受け入れ、救うことに関心をお持ちです。私たちが罪や過ちによって重荷を感じていても、イエスは慰め、救ってくださいます」と語られた。
説教で教皇は、この日のミサで読まれたヨハネ福音書の箇所(3章14‐21節)で、イエスがファリサイ派のニコデモに語られた内容に注目され、「ニコデモはイエスがなさったしるしを見て、神から遣わされた教師であることを認め、人目につかないように夜にイエスに会いに行きました。 主は彼を歓迎し、言葉を交わし、『自分が来たのは罪に定めるためではなく、世界を救うためであること』を明らかにされました」と語られた。
「私たちも立ち止まって、このことについて考えてみましょう。イエスは私たちを非難するために来られたのではなく、救うために来られました。それは素晴らしいことです」とされ、「完璧な人はいません。私たちは皆、罪人です。でも、それは私たちに対する神の驚くべき愛を妨げるものではないのです」と説かれた。
そして、「主の前に秘密はありません。主は、私たちをなじることはされず、私たちの人生を受け入れ、罪から解放し、救うことを望んでおられます… 私たちを裁判にかけたり、判決に従わせたりすることに興味はありません。私たちが一人も失われないことを望んでおられます」と強調。
そのうえで、教皇は、「私たちが他者を非難したり、うわさ話をしたりすることが、何度もあったことを思い返しましょう。そして、キリストがなさったように、慈悲深い心で他者に目を向けてくださるよう、今後も主にお願いしましょう」と信者たちを促された。
教皇は最後に、「私たち一人一人に向けられる主のまなざしは、私たちをまぶしくさせ、困難に陥らせる”まばゆい光”ではなく、親しみのある優しい光。私たちが自分の中に良いところを見つけ、 悪を認識すれば私たちは回心し、神の恵みの助けによって癒されることができのです」と語られ、神の他者への愛に倣うよう呼びかけられ、私たちが互いの善を願うことができるよう、聖母に祈られた。
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩「戦争は狂気、止めるために交渉する勇気を持て」スイスの公共放送のインタビューに
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)
☩「神の赦しを、教会の中心に置くように」ー教皇が「主のための24時間」を主宰
教皇フランシスコは8日夕(日本時間9日未明)、四旬節の祈り、礼拝,赦しの秘跡を促す「主のための24時間」にあたって、ローマ市内の聖ピオ5世教会を訪問、信徒たちと共に共同回心式をされ、説教で「私たちは、神の赦しの秘跡である告解によって、洗礼を受けることから始まった新たな人生の旅を再び始めることができます」と語られた。
☩「課題山積の世界で教会で、女性の貢献がこれまで以上に求められている」ー教皇、「教会の女性たち」の国際会議で
(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)