Sr.石野のバチカン放送今昔 ⑰「バチカンでの日本語ミサ」

 

 1981年1月13日午前7時、教皇ヨハネ・パウロ二世はバチカン宮殿の最上階にある私的聖堂で初めて日本語のミサを捧げられた。ローマ在住の日本人シスター12,3人がミサに招かれた。

 ミサ中、わたしは第一朗読を任された。教皇さまがじっと聞いていらっしゃるのを感じた。この日は、聖ペトロから264代続いたカトリック教会の教皇が、たとえ私的ではあっても、初めて日本語でミサを捧げるという、歴史に記憶されるべき日であった。

 わたしは朗読の他にもう一つ大きな宿題を胸に、その成功を祈りつつ、教皇ミサに与った。

 宿題とは、教皇の訪日を前にしてバチカンに取材に来ている日本カトリック・ジャーナリスト・クラブのメンバーと、教皇との特別謁見を実現させるための許可を得ることである。実は日本のジャーナリストたちは、教皇庁広報評議会に正式な手続きで事前に申請書を出していたが、許可が下りず、暗礁に乗り上げていて、わたしに「SOS」を出してきたのだ。

 ミサ後、わたしたちは隣の控室で一人ひとり教皇さまにご挨拶した。その時、わたしは日本カトリック・ジャーナリストたちが教皇さまと特別謁見ができるよう、教皇の個人秘書S.Z.師にお願いした。「みんなカトリック?」と神父。

 「ハイ」と答えると、「したいことは何でもさせてあげる」と考えていた10倍もの返事が師から返ってきた。わたしはただ感激した。教皇さまとの謁見やインタビューを求めるリクエストは、毎日、世界中から何百も教皇庁広報評議会に届いていることをわたしは知っていたからだ。そしてなかなか許可が下りず、その実現が難しいことも。

 ( 石野澪子=いしの・みおこ=聖パウロ女子修道会修道女、元バチカン放送日本語課記者兼アナウンサー)

2017年11月27日 | カテゴリー :

 Sr.石野のバチカン放送今昔⑯ 「ヨハネ・パウロ二世と日本語」

 

 1980年12月3日、ヨハネ・パウロ二世の日本行きが公表されてから数日が過ぎた日のことだった。午後6時少し前、バチカン国務庁次官のモンセニョール・レから日本語のオフィスに電話があった。「神父が一人必要なので、話したい」。

 ちょうどその時、日本語課に勤務していた神父さまが番組の録音に出ていたので、その旨伝え、帰り次第、電話をさしあげます、と答えた。相手は、一方的に自分で言いたいことだけを立て板に水のごとくに話して、こちらの返事が終わるか終わらないかのうちにガチャンと電話を切る。なんとせわしない人、そう思いながらも、わたしにはピンときた。「教皇さまの日本訪問に備えて、日本語を学ぶお手伝いの出来る神父さんを探しているのだ」ということが。

 果たしてそうだった。N神父さまはそれから時々、教皇のお住まいにあがり、日本語を学ぶお手伝いをした。最初は「ミサの一部分だけを日本語で」ということだったが、教皇さまの日本語力の進歩は目覚ましく、わずかの日数でミサ全体を日本語で唱えられるようになられた。

 そればかりではない、ミサ中の説教も、日本各地で行った13の講話のすべても流暢な日本語でお読みになることが出来るようになられた。東京に着かれて、司教座大聖堂の前で「親愛なる日本のみなさん・・・」という、朗々とした力強い声、歯切れのよい流暢な日本語で第一声を放ったとき、わたしはバチカンで聞いていた時とは違う感激に胸がふるえ、目からは涙が流れ落ちた。その時のことを、今も、新たな感激と共に思い出す。

( 石野澪子・いしの・みおこ・聖パウロ女子修道会修道女、元バチカン放送日本語課記者兼アナウンサー)

2017年10月25日 | カテゴリー :

 Sr.石野のバチカン放送今昔⑮ヨハネ・パウロ二世‐ハプニングに次ぐハプニング

 

 聖ヨハネ・パウロ2世は第264代目の教皇。彼まで400年以上ものあいだ教皇の座はイタリア人によって占められていた。その伝統を破って、当時は無神論的共産主義を旗印に掲げる東欧、ポーランドから選出された。ポーランド人たちは歓びに狂気し、ロシアは怯えた。ロシアのこの恐怖はやがて、1981年5月13日の教皇狙撃事件へと導く目には見えない一本の線となっていった。

 教皇はよほどのことがないかぎり、バチカン宮殿の中でお過ごしになり、外にはお出にならない。ところがヨハネ・パウロ二世は選出されてから24時間と経たないうちに友人の枢機卿が入院しているローマのジェメッリ病院に見舞いに行かれた。

 あわてたのは側近や警備員たち、そして・・・報道関係者。教皇は翌日、バチカンの近くに住む高齢の病気で苦しむ枢機卿を歩いて見舞いに行かれ、その次の日はやはりバチカンの近くに住む高齢枢機卿のお誕生日の祝いにと、毎日出かけられた。それも何の前触れもなく。側近の人たちもわたしたちも、ハプニングに振り回されながらも、次は何?と、忙しくなるのも忘れて楽しみ、喜んだ。

 同じ教皇に関するとはいえ、いつもと違うニュースを次々報道できるのだから。次は何?明日は何?続く毎日のハプニングを前にして、放送局員の話題も弾む。続くこれらのハプニングは、やがて人びとの目を見張らせた、あの海外旅行への準備だったのだろうか?間もなく正式の海外旅行が始まった。第一回目は1979年1月25日~2月1日まで、ドメニカ共和国、メキシコ、ハバマだった。

( 石野澪子・いしの・みおこ・聖パウロ女子修道会修道女、元バチカン放送日本語課記者兼アナウンサー)

2017年9月27日 | カテゴリー :

 Sr.石野のバチカン放送今昔 ⑭時間の奴隷と時間の支配者 

 バチカン放送は、国際放送なので、時差の関係で全ての番組が録音され、放送の時間が来ると、担当の技術者がオン・エアする、という形をとっている。だから録音中にたまに読み間違えても、失敗しても、やり直すことができるから安心。録音をするスタジオと外の副調整室で働くミキサーとは、両方に通じるマイクで交信できる。

 原稿を読み違えてしまい、止まって読み直すときに、ミキサーに「あと、何分残っている?」と聞けば、「3分とか2分」と真面目に応えてくれる。ところが「あと何秒?」と聞くと、「まだそんな言葉を覚えているのか?あと1秒」などあり得ない答えが返ってくる。「放送は秒刻み」というのが、日本人の常識だった。だから、わたしたちは時間を厳守するように努めた。

 でも、イタリア人にとっては「何秒」などという言葉は、頭の片隅にもない。いくら「日本ではこうなのだから」と説明しても、正確な時間に仕上げようとしても、「あんたたちは時間の奴隷だね。僕たちは自分で時間を支配している」と胸を張る。わたしたちの要求は無視して。

 日本に休暇で帰ってきたとき、NHKの国際放送局を訪ねた。その時に、こう言われた「時間にルーズなのは、バチカン放送とブラジルの放送です」。

 バチカンに戻り、会議の時にそのことを報告したら、「これは、少なくとも、日本でわたしたちの放送が聞かれている、という証拠だ」と、技術部副部長。唖然として言葉が継げなかった。考えようによっては、イタリア人のこの楽天的でおおらかな国民性が、いわゆる「外国人」と呼ばれる人々を寛大に迎え入れ、いささかの違和感も感じないで、生活できるようにしてくれるのかもしれない。21年間のイタリア滞在で、一回もホームシックにかからず、元気で働き続けることができたのも、そんお蔭かもしれないと、今にして思う。

( 石野澪子・いしの・みおこ・聖パウロ女子修道会修道女、元バチカン放送日本語課記者兼アナウンサー)

2017年8月24日 | カテゴリー :

 Sr.石野のバチカン放送今昔 ⑬生活習慣の違い  

 バチカン放送内では、会話はどの国の言葉で話すのも自由だったが、共通語はイタリア語だった。聞きなれない言葉、聞いたことのない言葉を耳にするのは楽しみだった。

 しかし、録音を担当するミキサーたちは全員がイタリア人なので、「録音の時にはミキサーたちとイタリア語で話すように」というのが決まりだった。録音前にいろいろ細かい打ち合わせをしたり、指示を出さなければならないからだ。

 イタリア語には自信があった。でも、イタリア社会の習慣になじめるかどうか、不安だった。初めて挨拶回りに行った日、音楽部に2・3人のプロの歌手がいた。N神父が私を紹介すると、一人の歌手が、握手のために差し出した私の手に接吻した。表には出さなかったけれど、ぎょっとした。映画でしか見たことのないシーンが、今、現実に私の目の前で起こっている。こんなこともあろうかと想像はしていたが、先が思いやられて憂鬱になった。

 そして、どこでもレディー・ファースト。エレベーターの前で局長や部長に会う。当然のこととして、私は先を譲り、身をちょっと引く。エレべ-タが来て、そうやって後から乗り込もうとすると、彼らは「どうぞ」と言って、一歩下がる。私が先に乗らなければいけないのだ。

 どんなときにも男性優先の日本社会に生きていた私は、初めのうちは戸惑い、緊張した。でも、多少の意識の転換と時間をかけて乗り越えることができた。その後は、にこにこしながらレディー・ファーストを心地よく楽しんだのだった。

( 石野澪子・いしの・みおこ・聖パウロ女子修道会修道女、元バチカン放送日本語課記者兼アナウンサー)

2017年7月26日 | カテゴリー :

 Sr石野のバチカン放送今昔⑫教皇の言葉を聴いた日本の若者が「僕、医者になります」

 1970年中ごろから1980 年代初めにかけて日本では「BCLブーム」が起きていた。

 BCLとは、BROADCASTING LISTENING/LISTENERSの頭文字の略で、短波ラジオによる国際放送を聴くのを楽しむことだった。主に中学生や高校生を中心に若い男子の間に広がっていた。その頃の短波受信機は性能がよく、遠く外国からの電波もよく受信できたということで、多くの若者がこのブームに走った。たとえ受信機の性能は良くても、雑音の間からかすかに聞こえる日本語を聞き取るのは一種の冒険だったに違いない。

 当時、ヨーロッパからの日本語放送は、イギリスのBBC,ドイツのドイチェベレ、バチカン放送の三つだった。今は、BBCもドイチェベレも閉鎖され、バチカン放送だけが残っている。バチカン放送は一回15分という短い放送だったにもかかわらず、リスナーから月に1000通以上のレポートが寄せられていた。ベリ・カード欲しさに書いてくるものもあったが、番組に対する感想やリクエストを寄せてくるものもあった。ある日、次のような手紙が届いた。

 「僕は高校3年生です。これからの進路について迷っていました。どの道を行こうか。決心がつきかねていました。そんな時ラジオバチカンで教皇さまの話を聴きました。医者のグループに対するお話でした。それを聴きながら僕は医者の使命の重大さに感動し、医師になることを決めました。今から受験まで一生懸命、勉強して、医学部を受けます。そして良い医者になろう、と決心しました」。

 バチカンで語られた教皇さまのお言葉が遠い日本の、一人の青年の心に触れ、生涯の目標をつかむことができた。バチカン放送は、教皇の話を優先して放送する。日本語セクションでもそうだった。でも、「難しくて一般のリスナーには理解されにくいのではないか」という心配がいつも心の片隅にあった。

 ところが、そうではなかった。神の力は人間の力をはるかに超えるものだ。教皇はすべての人の父、教皇の教えは誰にでも通じることを再認識できた出来事だった。そして、私たちの働きは宣教だ、ということも。

 ( 石野澪子・いしの・みおこ・聖パウロ女子修道会修道女、元バチカン放送日本語課記者兼アナウンサー)

2017年6月26日 | カテゴリー :

 Sr石野のバチカン放送今昔 ⑪教皇狙撃事件

 

 「教皇が撃たれた!」階段を二段跳びに勢いよく昇ってきた一人のミキサーが、すれ違いざまに吐き出すように言った。

 「えっ!」顔を見合わせたわたしたち二人に言葉はなかった。特別放送室では二人の神父が二か国語で事件を速報している。だが、未だ詳細は分からない。事件の全体像をつかむことも出来ず、断片的なニュースの提供にすぎない。

でも、「教皇暗殺未遂」は確かだった。このニュースは電光石火のごとく、世界中を駆け巡った。1981年5月13日、イタリア時間で午後5時24 分、一般謁見中に起きた教皇ヨハネ・パウロ二世狙撃事件である。

 犯人はトルコ人のアリ・アジャ。彼は、ジープでゆっくりと会衆の間を巡る教皇をめがけて二発を発射した。一発目は、教皇の腹部をめちゃくちゃにして貫通し、二発目は、教皇の右肘を傷つけ、左手の人差し指を骨折させた。意識がもうろうとする中で教皇は「マリア、わたしの母マリア」と唱え続けられたという。

 教皇は救急車でローマのジェメッリ病院に運ばれ、すぐに手術を受けた。手術は7,8時間かかった。その間、30分おきくらいに、4、5行のニュースが入る。ほとんどが「手術は順調に進められています」という内容。バチカンの日本語放送のオン・エアはイタリア時間で午後10時45分。できるだけ新しい情報を提供したくて、1人、オン・エアの時間ぎりぎりまで局で仕事を続けた。

 「これ以上は待てない」というニュース締め切り時間を迎え、「まだ、手術は続いています」という言葉でニュース原稿を書き終え、放送し、教皇さまのご無事を祈りつつ、暗いローマの夜道を一人、修道院に向かった。普段でも静かなローマの町全体が静まり返り、寂しさと悲しみに覆われていた。

( 石野澪子・いしの・みおこ・聖パウロ女子修道会修道女、元バチカン放送日本語課記者兼アナウンサー)

2017年5月25日 | カテゴリー :

 Sr石野のバチカン放送今昔 ⑩名物神父J.C.、またの名を「ブルドーザー」  

 

 バチカン放送にJ.C.というスペイン人の神父がいた。中央編集局の局長。実にダイナミックでよく働く。誰言うともなく「ブルドーザー」のニックネームで呼ばれるようになった。

 「空飛ぶ教皇」が外国を訪問されるときは、よい番組の準備ができるようにと、毎回、教皇が訪問する国々に関する資料が配られる。旅行中は、バチカン放送の特派員たちが送るニュースを直ちにコピーして各セクションに配布する。各言語セクションで、その原稿を翻訳して放送する。その時活躍するのが、中央編集局。もっとも編集局の働きはその時だけではないが。

 J.C.神父はニュースの速報性を非常に重んじる人だった。大げさなまでに。情報は出来るだけ早く提供すること、「今すぐ、ではもう遅い」が口癖。教皇の外国旅行中は朝早くから、夜遅くまでよく働いた。時差の大きい国に教皇が行かれると、夜中も働いた。それほどスリムな体でもないのに、放送局の廊下を身軽によく動いていた。

 朝の出勤時間、局員たちが出勤する時間、彼はもう働きの真最中。前には大きなハサミをぶら下げ、背中には「こんにちは!よい一日を祈ります。今、超多忙、声をかけないで」と大きく書いた厚紙を背負って、教皇の旅行先から着いたニュースの区分けをしたり、切り貼りして、私たちがデスクに就く前に、読みやすいようにしてくれていた。

 明るくて寛大、働き者の神父さんだから、誰も彼のそのやり方に文句を言ったり、不満をこぼす人はいなかった。私たちは「こんにちは」と、笑いながら彼の背中の厚紙に向かって声をかけたり、「またやってる」と言って微笑みながら、そばを通り過ぎていく・・。

 彼のすさまじいまでの働きで、私たちはずいぶん助けられた。私がバチカン放送をお役御免になった数年後、彼も辞めた。ある大学で、コミュニケーション学を教えていた。

( 石野澪子・いしの・みおこ・聖パウロ女子修道会修道女)

2017年4月25日 | カテゴリー :

 Sr石野のバチカン放送今昔 ⑨ヨハネ・パウロ二世の日本訪問

 

 

  教皇空位期間の多忙さには目を回したが、教皇ヨハネ・パウロ二世が選出されてからは同じように多忙な日々を経験するようになった。それも頻繁に。彼はよく外国旅行をなさった。そんな時は超多忙の日々を過ごした。

    前にも書いたが、バチカン放送は「教皇のラジオ」。だから放送内容の中心も教皇が占めている。教皇の外国旅行がある時は、バチカン放送は必ず何人かの特派員を、教皇が行かれる国に送る。旅先での教皇の行動やお話を、TELERXでバチカン放送に送信するためである。それらが教皇空位の時と同じように中央編集局から各セクションに配られる、各言語セクションではそれらを受けて翻訳し、放送する。

 教皇が日本に来られた時、わたしは日本語担当の特派員として送られてきた。さすが日本と思った。番組編集局長と技術部の副部長が先遣隊として来日し、KDDやNHKと交渉して準備万全だった。KDDはバチカン放送とわたしたちの仕事場にホットラインを引いてくれた。そしてNHKでは放送用のスタジオと副調整室、その他にもう一つの部屋をバチカン放送用に提供してくれた。わたしたち専用のモニターも準備してくれ、広島、長崎の放送も東京に居ながらにして、すべ見られるように便宜を図ってくれた。

 2月25日、降りしきる雪の中で教皇が、長崎の松山陸上競技場で捧げられたミサを、わたしはアメリカ人の神父さんと二人でモニターを見ながら実況放送をした。二時間降り続く雪の映像を見ながら放送を続けた後、体中が冷たく感じられた。降りしきる雪の中でミサと洗礼式に与った信徒たちに対して、教皇は「あなた方は実に、殉教者の子孫にふさわしい方々です」と、彼らの信仰をたたえた。

 ヨハネ・パウロ二世は2005年4月2日、84歳の生涯を閉じられ、2014年4月27日、故ヨハネ23世とともにに列聖された。

( 石野澪子・いしの・みおこ・聖パウロ女子修道会修道女)

2017年3月25日 | カテゴリー :

Sr石野のバチカン放送今昔 ⑧「微笑みの教皇」と「空飛ぶ教皇」

  昔、教皇は一般謁見にお出ましになる時、8 人の男性が担ぐ神輿画像検索結果に乗って、高いところから会衆に祝福を与えながら、謁見場に出てこられる習慣があった。

 謙遜で慎み深いヨハネ・パウロ一世は、教皇即位の簡素化を望み、戴冠式を取りやめて、ミサ中に牧者の権能の象徴であるパリウムを受けることだけにとどめられた。「微笑みの教皇」と呼ばれた教皇は、謁見の時神輿に乗ることを望まれなかった。ニコニコなさりながら、人々の間を歩いて謁見に臨まれた。すると、世界中から抗議の手紙がバチカンに殺到した。

 「教皇を一目見たい」、「せっかく遠路はるばるバチカンに来ているのだから、教皇のあの笑顔が見たい」「高いところならよく見える、どうか神輿に乗ってお出ましいただきたい」。そんな声を聞かれた教皇は、「人びとを喜ばせるためなら」と、信徒たちの熱い望みに応えるため、私意に反して神輿に乗ることを受けられた。

  人々は熱狂的に歓迎した。揺れる神輿の上で右手を挙げて熱狂的な会衆を祝福しながらその間をゆっくり進まれる教皇の謙虚なお姿は輝いてさえ見えた。

  ヨハネ・パウロ二世の時も、同じ「お歩きになると見えない」という声が繰り返された。しかしヨハネ・パウロ二世は「みんなが私を見たいけれど見えない?それでは見えるように私が工夫しましょう」と言って、そうした声に屈しなかった。そして元気よく歩いて謁見会場に出てこられた。

  おそらくその頃から、やがて「空飛ぶ教皇」と命名されるほど、世界各地に平和のメッセージを携えて旅をし、世界に平和を訴え、信者たちの信仰を固めることを、考えていらしたのかもしれない。実に26年間の教皇在任期間中に129か国を訪問されたのだった。

 ( 石野澪子・いしの・みおこ・聖パウロ女子修道会修道女)

2017年2月20日 | カテゴリー :

 Sr石野のバチカン放送今昔⑤ 新教皇、就任1か月で帰らぬ人に

 

 教皇が亡くなると、次期教皇を選挙するために枢機卿たちが直ちにローマに召集されることは、すでに述べた。そして教皇選挙を控えて、毎日、幾人かの枢機卿がローマに着く。そして、枢機卿たちより一足先に、ローマ入りするのが、ジャーナリストたちだ。

 パウロ六世の死後、ローマに集まったジャーナリストの数は1500人を下回らなかった。ベテラン・ジャーナリストたちは、バチカン省庁に勤務する知人、友人からニュースを聞き出し、それをもとに記事を書く。だが、彼らは、教皇の死を報じるためだけにローマ入りを急ぐのではない。それに続くコンクラーベ(教皇選挙)に興味があるからだ。

 次期教皇候補と噂されている枢機卿がローマの国際空港やテルミニ駅に降り立つと、待ち構えていたジャーナリストたちがマイク攻勢に出る。「枢機卿様、あなたの名前は次期教皇候補にあがっていますが、ご自分では教皇になるとお思いですか?」「いやー、わたしはイタリア人ではないから・・・」「わたしはもう年ですから・・・・」

 政治選挙に見られる厳しさや激しさは一切ない。真剣な顔で質問するジャーナリストたちに応える枢機卿たちの顔は穏やかで静かだ。しかしその胸中は・・・教皇のポストは450年以上イタリア人によって占められてきた。

 その伝統を守るべきか、国際化が進んだ今、イタリア人以外から教皇を選ぶべきではないか。枢機卿たちの意見は割れた。新聞も「枢機卿たち、次期教皇候補に対し、意見の一致を見ないまま、コンクラーベに入る」と書いた。ところが1日目(選挙は1日4回行われる)にして教皇は選出された。ベニスのルチア―ニ枢機卿。教皇名は、ヨハネ・パウロ。やさしくて穏やかな笑顔が特徴の教皇。たちまち「微笑みの教皇」と言うニックネームで世界中の人たちから慕われた。ところがわずか1か月の後、彼は帰らぬ人となってしまった。

 ( 石野澪子・いしの・みおこ・聖パウロ女子修道会修道女)

2016年12月25日 | カテゴリー :

 Sr石野のバチカン放送今昔④ 教皇パウロ6世の急死と逆転した報道

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1978 年8月6日、ローマは暑かった。夕食後、修道院の庭で涼を取りながら幾人かで談笑していた。その時、電話に呼び出された。駐バチカン日本大使館のR夫人だった。「教皇さまが亡くなったって本当でしょうか?」。「えっ」。私は絶口した。「すぐ確認して、ご連絡します」と答えた。

バチカン放送局に勤務する司祭たちが居住するイエズス会の修道院に電話した。電話口には一人の神父が待機していて、話はスムーズに進んだ。「午後8時40分、カステルガンドルフォの夏季別荘で教皇が亡くなりました。明朝8時に、放送局で「緊急会議」が開かれますから、会議室に来てください」。B神父が応えてくれた。R夫人に確認の電話を入れた。これから何が起こるのだろう、全く想像がつかない。ただ緊張が全身に走った。

翌朝、朝8時少し前に会議室に行った。各セクションの責任者が集まっていた。ほとんどが神父。誰の顔からも心配と不安の色が読み取れる。事は重大。それは誰でも分かっている。だが、どうやってそれに対処すべきか?

バチカン公会議後、放送局としての形を模索中のバチカン放送は、緊急時の対応にまだ慣れていなかった。初日はイタリア放送や他の新聞が提供した情報交換が、会議の大半を占めた。バチカンの一大事というのに、バチカンの報道関係者が他国〈イタリア〉の報道機関の情報に頼って情報提供するのはおかしい。「これから教皇が選出されるまで、毎日会議をする」と、議長を務める局長が最後に言った。

翌日からは毎朝8時に、関係者が会議室に集まった。日が経つにつれて、いろいろのことが整理され、煮つめられ、的が絞られてきた。その後のオルガナイズは見事だった。バチカンのニュースは教皇庁広報評議会を通して、まずバチカンの報道機関である広報室、バチカン放送、日刊紙「オッセルバトーレ・ロマーノ」に伝達され、そこから他の報道機関に流される。

これまでバチカン関係の報道の最前線にいたイタリアのテレビ局も新聞社も、バチカン広報室やバチカン放送からニュースを入手し、それを報道するようになった。順序がひっくり返ったわけだ。わたしたちは喜び、他の報道関係者たちは慌てた。

 ( 石野澪子・いしの・みおこ・聖パウロ女子修道会修道女)

2016年11月26日 | カテゴリー :

Sr石野のバチカン放送今昔③教皇ヨハネ23世の死

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 教皇の存在は、カトリック教会だけでなく、世界的にも大きい。その活動や他の国々に及ぼす影響力を見ても納得できる。一人の教皇が亡くなり、新しい教皇が誕生することは実に世界的なレベルの出来事であるということを、わたしは、バチカン放送にいて初めて知った。

 そして、わたしたちバチカン放送関係者にとって、この期間は超多忙な時だということも。

 1963年に教皇ヨハネ23世が亡くなった時、わたしは東京にいた。教皇の死を一つのニュースとして受け止め、祈っただけで、遠いところの出来事という印象しか持たなかった。ところが、教皇の葬儀や告別式は世界的規模をもつ。世界各国から要人たちが参加する。ベルギーやスペインなど、要するに「カトリック国」と呼ばれる国々からは国王御夫妻が、その他の国々からも、国の元首級の人びとが参加する。日本はたいていバチカン駐在日本大使が代表で参加する。

 教皇がいない期間のことを”教皇空位“とよぶ。その間、枢機卿たちが行うことは教皇が発布する使徒憲章に細かく規定されている。

 まず、教皇が死去すると、世界中の枢機卿がバチカンに召集され、毎日枢機卿会議が開かれる。そこでは、教皇空位期間にしなければならないことの日程や順序などが、細かく決められる。教皇の遺体は聖ペトロ大聖堂に安置され、信徒たちの弔問を受ける。枢機卿たちはノベンディアーリ〈九日間の追悼祈祷〉をする。

 その一部始終に関するニュースが膨大な資料となってバチカン放送の中央編集局からわたしたち各言語セクションに配られる。一日にA4の用紙で何十枚という資料が届く。それを読み、適当なところを日本語に訳して短い番組にまとめ上げる。そしてそれを、特別番組として新教皇選出まで、放送し続ける。神経も労力も擦り切れそうになるほど重い仕事である。

 ( 石野澪子・いしの・みおこ・聖パウロ女子修道会修道女)

2016年11月1日 | カテゴリー :

Sr石野のバチカン放送・今昔②

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  「神の至高のお望みにより、使徒および神のご命令によって、教会の教えをすべての人、およびすべての被造物に説く使命を帯びる者として、まず、すべてのもの、すべての人に今、そしてこれからも・・・、聖書のことばをそのまま引用して、『天よ聞け、大地よ聞け・・・すべての人々よ、聞け』と申しましょう・・・」

 無線電信の先駆者、グリエルモ・マルコーニ設立のマルコーニ社製マイクの前に立った教皇ピオ11世は、マルコーニに促され、感動に震える声で、世界の人々に呼びかけられた。それはラテン語だった。

  1931年2月12日、時の教皇の第一声を電波に乗せて、世界に伝えた・・・バチカン放送の誕生である。 (写真は、教皇ピオ11世がバチカン放送第一声に使用されたマイク)

 当初は「バチカン放送局」というよりは、世界に散在するカトリック信者と教皇が直接コミュニケーションをする手段として作られたので、「教皇のプライベートなコミュニケーション手段」という性格が強かった。このため、マイクの前に立つことができたのは教皇だけで、枢機卿さえ立つことができなかった。

 バチカン放送を教皇のプライベートなコミュニケーションの手段から大きく形を変えさせたのは、第二次世界大戦だった。戦中から戦後にかけて、ヨーロッパ各地で戦っている兵士と家族を電波で結んだり、戦地に行ったままで消息を絶っている兵士の情報を内地に向けて提供したり、反対に家族の様子を戦地に伝えるなど、双方のコミュニケーションに目覚しく貢献した。

 電波がもつ威力を知った教皇庁は、徐々にラジオ放送の働きの輪を広げていった。現在は、國際放送の形も整い、教皇以外に司教や神父は言うまでもなく、信徒たちも、男女の別を問わず、40か国以上の人が、バチカン放送のマイクを通して世界に語りかけている。

( 石野澪子・いしの・みおこ・聖パウロ女子修道会修道女)

 

2016年9月15日 | カテゴリー :

Sr石野バチカン放送回顧録①

はじめに―20年間のバチカン放送勤務

sr-%e7%9f%b3%e9%87%8e今日でこそバチカンは有名な観光スポットの一つとして、多くの人に知られているが、4,50年前まで日本では、あまり知られていなかった。バチカンは、総面積0.44平方キロメートルという世界最小の国。小さいけれど、教皇を元首とした独立国である。「永遠の都」とうたわれるローマ市内の一角にある。ローマ以上にバチカンは「永遠の市国」かと思っていたが、そうでもなさそうだ。変わらないところもたくさんあるが、大きく変化しているところもある。変化した新しいバチカンについては他の方にお任せして、わたしは昔のバチカンを、放送のことを軸に回顧し、ご紹介してみたい。

わたしがバチカン放送に勤務したのは、ずっと、ずっと昔のこと。第二バチカン公会議が閉幕した翌年の1966年から1986年までの20年間である。「シスターが放送局に乗り込んでくると聞いて、額に八の字を寄せている神父もいるから、そのつもりで」と、前任のN神父から言われた。まだそんな時代だった。でも、その意味でイヤな思いをしたことは20年間に一度もなかった。

情報手段が発達し、驚くほど簡単に、バチカンや教皇のニュースに接することができる今日、文字や言葉が表現しているバチカンのニュースの裏側が次々と想像されてニュースが膨らみ、想像が想像を呼んで、ニュースを身近に感じることができる。

バチカン放送勤務を目上から言われたとき、放送の仕事に未経験なわたしには一抹の不安があった。でも一つの強みもあった。それは、わたしが属する聖パウロ女子修道会は、現代的コミュニケーション・メディアを用いてみ言葉を宣教するという特殊目的を持っていることだ。

だから、マス・メディアについてはいろいろ聞いたり、学んだりはしていた。それに、リアルタイムで即時、情報を提供できる電波メディアに強い関心と魅力を感じていた。だから希望に燃えて新しい職場についた。 ( 石野澪子・いしの・みおこ・聖パウロ女子修道会修道女)

2016年8月31日 | カテゴリー :