・Sr.石野の思い出あれこれ③初めて修道院の門をくぐったころ-洗礼を受けるか迷う

 今から60年以上も前、初めて修道院の門をくぐったころの前々回の話に戻る。

 修道院に行くのに遠慮する必要はない、と分かったわたしは、それからたびたび足を運んだ。お玄関を入っても緊張しなくなった。受付のシスターにご挨拶をして、いつもお話を聴く部屋に通った。

 どんなときにもやさしく、笑顔で迎えてくださるシスターがわたしは大好きだった。修道院の雰囲気にも環境にも慣れ、「公共要理」とやらのお勉強も順調に進んでいた。今までキリスト教のキの字も知らなかったわたしの頭の中に毎日毎日新しいことが飛び込んでくる。すべてが新しく、新鮮だった。でも理解に苦しんだこともたくさんあった。

 そんな私の心を察したのか、シスターが言われた「これは奥義です。人間の知恵で理解することはできません。ただ信じるのです。信じればよいのです」。

 素直にシスターの言葉に従った。でも、復活の話になった時は、そう単純に信じられなかった。亡くなった人が生き返るなんて・・・ある日、信じられない苦しみを胸に、暗くなりかけた道を「どうしたらよいのだろう」と考えながら一人で歩いていた。

 その時、ふと、面白い解決策が頭に浮かんだ。

 シスターはスペインの外交官の娘、毎週修道院に通って来られる神父様はウイーン出身のピアニスト。あの方たちがすべてを捨て、いのちをかけて信じていることがもし本当なら、たとえ、わたしが疑ったとしても、真理は真理として動くことなく存在する。疑うわたしが愚かなのだー未熟で単純な”解決策”だけど、それで納得がいって、心が軽くなるのを感じ、足取り軽く家路を急いだ。

 その頃、修道院には若い女性がたくさん通っていた。公共要理のお勉強が主だった。勉強がひと通り終え、受洗を希望する人が次々と洗礼を受けていた。

 わたしの勉強も終わりに近づいたある日、シスターがおっしゃった。「次に洗礼を受けるグループには石野さんも入れましょうね」。

 わたしはぎょっとした。洗礼のことは一応考えてはいたけれど、まだまだと思っていたし、未だ決心がつきかねていた。洗礼を受けたら一生涯クリスチャンでいなければならない。毎日曜日に教会に行かなければいけない。他にも、カトリックになれば、いろいろ守る掟がある。そんなこと絶対に出来ない、と考えていた。家は、特に父は熱心な仏教徒、死ぬまであるお寺の会計監査役をしていた。そんな両親がわたしの洗礼を許してくれるはずがない。それ以上に、わたしの気持ちがまだ固まっていなかった。

 あまりにも急なシスターの言葉に「洗礼を受けることは、母が赦してくれないと思います」と答えて、一応妥当な返事をしたつもりでいた。ところが、シスターは「洗礼を授けるのは、あなたのお母様ではありません。神様です」と返してこられた。

 これには二の句が継げなかった。シスターはわたしも洗礼を受けることを考えていらっしゃるのか、と思うと憂鬱になった。どうしよう。それでも修道院に通うのを控えることは出来ず、それまで通り、週に二回、ときには三回通った。

( 石野澪子=いしの・みおこ=聖パウロ女子修道会修道女、元バチカン放送日本語課記者兼アナウンサー)

 

2018年9月28日 | カテゴリー :

・Sr.石野の思い出あれこれ②ベトナム人シスターと日本にいた弟2人のこと

 ローマにベルギー系の女子修道会が経営するレストランがある。ウエートレスは皆シスター。シスターと言っても修道服を着ているわけではなく、思い思いの服装で働いている。

 常時3、4人のシスターがいるが、その中にベトナム人のシスターがいた。ベトナムで修道院に入り、ベルギーに勉強に行ったが、ベトナム戦争が勃発して祖国に帰れず、そのままベルギーに残った、と言っていた。

 ある日、そのシスターから「弟がフィリピンのマニラから日本に行ったのを知ったが、居所が分からず連絡の取りようがない、何とかしてもらえないか」と相談を受けた。

 突然のことで、どうしてよいか分からなかった。でも考えた。ベトナム人のボートピープルなら皆、同じ所にいるだろう、日本のカトリック教会はその人たちのお世話をしているはずだ、と。

 そこで東京の大司教様に手紙を出した。すぐに返事をいただいた。ベトナム人の係をしているシスターを紹介して下さった。早速そのシスターに連絡を入れた。

 ベトナム人の弟さん二人は倉敷に住んでいて繊維工場で働いていることが分かった。姉のシスターの心は燃えた。すぐにも倉敷に飛んで行きたい-そう思ったのは当然だが、彼女は心臓を患っていたため、飛行機での長旅は出来ない。せめて電話でも話せたら、と言うことで、そちらを試してみた。

 ある日、ローマから、彼らが働いているという工場に電話を入れてみた。返事が返ってきた。10年以上も会っていない姉弟は、多くのことは語らなかった。流した涙が多くを語っていた。

 声を聴き、言葉を交わした姉と弟は「会って直接話したい」という強い望みにかられた。難民として日本に入国したベトナム人が日本を出ることは難しい。そんなことは分かっていた。それでも何とかならないものか。彼らのその強い思いがまた、わたしの心を動かした。

 ちょうどローマ駐在の日本大使館に勤務していた日本公使と親交があったので、事情を話してみた。彼はすぐ動いてくれた。そして日本の外務省から2人のベトナム人に3週間の日本外滞在の許可を取ってくれた。こうして2人の弟は姉を訪ねてローマに来ることになった。

 2人がローマに着いたとき、空港まで迎えに出た姉は、弟をすぐに見分けることが出来なかったとか。翌日二人は姉に連れられてバチカン放送局にわたしを訪ねてくれた。二人並んで直立不動で「シスターは僕たちの命の恩人です」としっかりした日本語で言って最敬礼をした。

 小さな船に70人で乗り込み、波にもまれ、食べ物もなくなり、恐ろしい日々を過ごしていた。立派な船が何隻も近くを通って行った。いくら助けを求めても救ってもらえなかっ た・・・。「そんな中で日本の船が僕たちを助けて、マニラに連れて行ってくれた。『日本人はいい人たちだ』。そう思って日本に行くことを決めた 日本に行ったことを後悔していません」と話してくれた。

 一週間ほどローマに滞在して、彼らはまた日本に向けて出発した。その後、弟たちはベトナムの女性と結婚し、子供にも恵まれた。結婚式に招待されたが、行けなかった。その後も何回か文通したが、やがて音沙汰も絶えてしまい、今はどこでどうしているか分からない。ひたすら幸せを祈るばかりだ。

( 石野澪子=いしの・みおこ=聖パウロ女子修道会修道女、元バチカン放送日本語課記者兼アナウンサー)

2018年8月27日 | カテゴリー :

・Sr石野の思い出あれこれ①焼け野原の東京-修道院の門を初めてくぐった時のこと

 わたしが修道院の門を初めてくぐったのは、今から60年以上も前のことである。戦争で東京も廃墟と化し、通っていた学校も講堂を残して全焼した。だから授業も午前と午後に分かれて二部授業が行われていた。なにをするでもなく時間を持て余していた。

 そんなある日、「公共要理の勉強に行かないか」と、一人の学友から誘われた。「勉強」と聞いたわたしはとびついた。公共要理と言う言葉をまだ知らなかったから、代数や幾何学、国語などが学べると思ったのだ。放課後、行く先も知らずその友の後について歩いた。そして目的地に着いた。

 近くまで戦火に見舞われているのに、立派な門構えの家が建っている。門の中に入ったわたしは度肝を抜かれた。青々と茂った大きな木々、話すのも控えたいような沈黙と静寂。修道院と聞いてわたしは緊張していた。恐ろしく緊張していた。

 玄関までの砂利道を黙って歩いた。玄関を入り、シスターがいらっしゃるまで、ここに座って待つようにと勧められた椅子にも座らず直立不動でシスターをお待ちするほど程緊張していた。やがて美しい外人のシスターがにこにこしながら出ていらして挨拶し、会話が始まった。

 わたしは緊張のあまり、シスターが何語を話していらっしゃるのか分からなかった。外国語と思いこんでいた。気持ちを落ち着け注意して聞いて、日本語だと分かった。

 戦争に負けて街全体が焼け野原になった東京に、こんな清らかですがすがしい感じのするところがあったのか。大発見したわたしは、心が洗われたような思いで、また訪れることを約束して修道院を後にし、言葉に出せない深い幸せ感に包まれて家路に向かった。

 その夜、わたしの心は満たされていた。何で?と聞かれても分からない。お布団に入っても眠れない。人生で初めて足を踏み入れた修道院で見たこと、聞いたこと、感じたことすべてがわたしの頭の中で走馬灯のように映し出され、心が平和と喜びに溢れた。

 翌日、学校に行った。数人の友に、前日経験したことを語った。みな興味を示した。大好きだった代数や幾何学が学べなくてもよい、早口だけど日本語で話してくださる外人のシスターのやさしい笑顔に触れながら過ごす時間は、戦争や戦災で傷つき、これからの人生に対する夢も希望も見つけることの出来ない殺伐とした心を癒し、満たしてくれた。わたしは大きな宝を見つけたような思いで前日の出来事をあれやこれやと語った。

 そして放課後、前日行ったところに自然に足が向いてしまうのを止めることは出来なかった。叱られるのを覚悟で、2・3人の友を連れて修道院を訪れた。前日シスターのやさしい笑顔に癒されたわたしは、その日はそれほど緊張していなかった。ただ二日も続けて来ることにお小言をいただくことだけは覚悟していた。

 ところが・・・わたしたちをご覧になったシスターは両手を広げて歓待して下さった。緊張は一気に消え、嬉しさと喜びが込み上げてきた。そして、早口ではあったけれど、話される日本語はよく理解できた。「またお待ちしています」。

 内容はよく分からなかったけれど、キリスト教について話してくださったシスターのやさしい心に触れて、その日も修道院を後にした。その日も前日のように、言葉に表すことが出来ない喜びと幸せ感に、心は満たされていた。

( 石野澪子=いしの・みおこ=聖パウロ女子修道会修道女、元バチカン放送日本語課記者兼アナウンサー)

2018年7月29日 | カテゴリー :

・Sr.石野のバチカン放送今昔 ㉔結びに代えて

 これまで二年ほど、コラム「バチカン放送・今昔」を担当させていただきました。お読みくださったみなさまに心より御礼を申し上げます。少ない字数の中で、思ったことを十分表現できず、舌足らず文章になったこともあり、読んでいらしてご理解に苦しまれたところもおありになったのではないかと思っております。どうかその点ご容赦ください。

 バチカンでの働きは、ずいぶん昔のことなのに、時間の隔たりを少しも感じないで、つい最近の出来事のように、いろいろの場面を思い出しながら、一コマ一コマを楽しく書かせていただきました。

 バチカン放送に勤務当初は、放送局があまりののんびりムードに、「放送は秒刻み」という日本の常識にとらわれていた私は驚きました。「何とか、日本の通念を貫こう」と頑張りましたが、緊張と疲労が募るばかりでした。

 「朱に染まれば赤くなれ」。いつか知らないうちに、というよりは自覚してだんだんと、日本的繊細さを失い、イタリア色に染まりながら、それでも楽しく仕事をしていました。そのうち放送局も少しずつ改革が行われ、だいぶ日本の放送感覚に近いものに変わってきました。

 現在は、バチカンの広報関係は、放送、新聞、テレビ、広報室などが一本化されたと聞いています。どのようになったのか、詳細は分かりませんが、永遠の都ローマの中心にあるバチカンにも改革・変革の波は押し寄せてきているようです。たとえどんなに変化しようとも、教皇様に直接お仕えできたバチカン放送での思い出は、私の心の中で、一生涯生き続けることでしょう。

( 石野澪子=いしの・みおこ=聖パウロ女子修道会修道女、元バチカン放送日本語課記者兼アナウンサー)

 *「カトリック・あい」よりお知らせ‥Sr石野のコラムは「Sr.石野のあれこれ思い出」という新たなタイトルで8月以降も随時継続させていただきます。お楽しみに)

・Sr.石野のバチカン放送今昔 ㉓教皇も‥老いや病いも人間の自然な姿‥慰められた若者たち

 58歳の若さで教皇に選ばれ、平和の使者として世界中を飛び回ったヨハネ・パウロ二世。狙撃事件の後も回復されると以前と同じように精力的に働かれた しかし彼も老いと病いに勝つことはできなかった。

 1990年頃からパーキンソンに襲われ、体力が衰え初めた。神経が麻痺して、左手はいつも震えている。お話をされてもろれつが回らず、何を言っておられるか分からない。TVでアップされた教皇のお口元からは唾が流れ、お召し物が汚れるのが見えた。それでも教皇は活動のペースを落とすことをなさらなかった。

 そんな教皇の痛々しいお姿を見て、関係者の間に、教皇の引退説が燃え上がった。 教会法は教皇の辞任を認めている-「教皇の辞任は、本人の自由意志で判断がなされ、かつ正しく表明されなければ、有効とはならない。ただし何人による受理も必要としない」(教会法332 条2項)。

 だが、教皇は引退の意志のないことをはっきりと口にされた -「私はキリストの代理者です。キリストは十字架にかけられたとき、そこから降りましたか・・・降りてその苦しみから逃れようとなさいましたか? 降りませんでした。私もキリストと同じようにします」と、「最後までキリストの後に続く」という決意を表明された。

 杖にすがり、足を引きずりながら歩まれる教皇。最後はご自分の足で歩くこともままならず、車椅子で。それでも人々の前にお姿を現わされた。そして、ある時言われた-「 老いや病いは恥ずべきものではありません。人間の自然な姿です。私は自分の苦しむ姿を人々に見てもらうことにより、苦悩を味わっている多くの人に連帯を示したいのです」と。 公けの儀式の最中に、もがくようなお姿で、痛みに耐えておられる時もあった。

 そのような姿をお見せになり、亡くなられた時、「最後のご挨拶をしたい」とバチカンを訪れた人の数はざっと500万人。中でも若者たちの姿が目立った。「ヨハネ・パウロ二世といると私たちは幸せなの」-彼らの言葉が、すべてを語ったように思われた。

( 石野澪子=いしの・みおこ=聖パウロ女子修道会修道女、元バチカン放送日本語課記者兼アナウンサー)

2018年5月26日 | カテゴリー :

・Sr.石野のバチカン放送今昔 ㉒バチカンの空に泳ぐ日本の鯉のぼり!

 リーン、リーン、オフィスの電話がなった。「もしもし・・・」なんと!横浜教区長の濱尾文郎司教さま(当時:のちに教皇庁移住・移動者司牧評議会議長・枢機卿、2007年没)のお声。「実はバチカンで鯉のぼりを揚げるために、ずっと前にバチカンに手紙を書き、万端整えてツアーを組んで、出発も間近に迫っているのに、バチカンから何の返事もない。ちょっと調べてほしい」とのこと。声と同時に司教さまの心配と焦りが伝わってきた。「ハイ、わかりました」と返事をして、教皇の秘書に連絡を取り、翌日倉庫に見に行った。

 あった!教皇さまが訪日された際、東京の武道館で行われた“young and Pope”の集いで「若さの力と勢いのシンボル」として献上した鯉が。早速、「日本の若者たちがローマに来る時、バチカンの空に泳がせたい」と教皇秘書にお願いした。

 彼は即座に命令を出してくれた。二日後には、バチカンの職人たちに手配して、バチカン宮殿の屋上、聖ペトロ広場に面したところにポールを立て、鯉を泳がせることに決まった。一般謁見の二日前、日本の若者たちの一行がローマ入りした。翌謁見の前日、8人の職人がバチカン宮殿の広場に面した屋上に長いポールを立てた。

 濱尾司教さまは工事が終わるまで現場で立ち会った。職人たちは「僕たちが働く現場に司教さまがずっといてくださるのは、初めてだ」と感激していた。司教さまにしてみれば、本当に実現するかどうか心配で、居ても立ってもいられなかったのだろう。

 翌日一般謁見の時、前日準備されたポールに3匹の鯉がとり付けられ、バチカンの空高く舞った。広場に集まった10万近い人々は、3匹の巨大な魚が宙に舞うのを見て歓声をあげた。・・こうして、教皇さまの招きに応えて、「バチカンの空に鯉のぼりを泳がせたい」という日本の若者たちの希望が実現したのだった。(写真は日本のもの、当時のものではありません「カトリック・あい」)

( 石野澪子=いしの・みおこ=聖パウロ女子修道会修道女、元バチカン放送日本語課記者兼アナウンサー)

2018年4月28日 | カテゴリー :

・Sr.石野のバチカン放送今昔 ㉑歴史的イベントの教皇・日本語ミサ、だが実況中継できず

 

 東京の後楽園で捧げられた野外ミサには4万人が参加した。参加を希望しながらも、人員超過で中には入れず、後楽園の外でミサに与った人も少なくなかった。主式はもちろん教皇様。ミサは日本語で行われた。教皇は一回も間違わず、流暢な日本語で、ミサを進められた。公共放送のNHKは、特殊の宗教行事の放送が禁じられている。

 だから、このミサは日本では公に放送されなかった。わたしたちバチカン放送関係者はNHKのご好意で、モニターによって、ミサの全部をフォローすることが出来た。教皇のミサのためには、ラテン語の公式ミサ典礼書と同じように赤い布で覆われた固い表紙が着いているきれいなミサ典書が数冊準備された。

 中は、ラテン語とローマ字の日本語が対訳になっている。ミサが終わるまで、そのミサ典礼書は一般公開されなかった。ミサが終わってからわたしたちはそれを一緒にいたNHKの放送関係者に披露した。厚くはないけれど立派なものだった。

 わたしたちが日本についてから、何くれと心にかけて世話をしてくれていたNHKの海外部長さんは、それをじっと見ていらしたが、しばらくして口を開いた。

 「ミサはカトリックの宗教行事であることは確かだ。だから放送は出来なかった。だが2000年の歴史の中でローマ教皇が、日本で日本語のミサを捧げるというのは歴史始まって以来、初めてのこと。これを、宗教行事としてではなく、歴史的イベントとして申請すれば、放送の許可が出たかもしれない」と感慨深そうに言われた。-そうだったのか。気が付くのが遅すぎた。

( 石野澪子=いしの・みおこ=聖パウロ女子修道会修道女、元バチカン放送日本語課記者兼アナウンサー)

2018年3月27日 | カテゴリー :

・Sr.石野のバチカン放送今昔 ⑳教皇訪日準備・ビジネスホテルは満員

 

 1981年の2月18日、バチカン放送の技術者一行がJALで東京に着いた。彼らはモスクワ経由で日本にやってきた。彼らは座席の狭さに、長い脚のやり場もなく、閉口したとのことだった。バチカン放送特派員全員が揃ったので、予約してあったホテル・ニュー・オータニに入った。なぜニュー・オータニに?そこには教皇来日に関するプレス・センターがあった。

 わたしたちは驚いた。東京の渋谷にあるNHKで、バチカン放送局と緊密な関係を取りながら働かなければならない。だからNHK近辺にあるビジネスホテルを予約してほしいと、バチカンから日本のカトリック司教協議会広報委員会にお願いしてあった。

 ところが「どこも満員。ホテル・ニュー・オータニに決まりました」という返事が届いたときには理解に苦しんだ。日本に来て、初めてその理由が分かった。2月は大学受験期。今はそう言ってもピンと来ないかもしれないが、当時はこの時期に大学受験生がビジネスホテルを占領し、そこで受験に備えるという習慣があったのだ。だから早くから、ビジネスホテルは満員になってしまうとか。今はそんなこと、夢のまた夢といった感じだが。

 NHKでは、大きなスタジオと副調整室、それに原稿を書いたり、打ち合わせをするなどのために大きな部屋を一つわたしたちに提供してくれた。KDDの協力でバチカン放送局とNHKのわたしたちの職場にホットラインがひかれた。こうして教皇を迎える準備は着々と進められていった。

( 石野澪子=いしの・みおこ=聖パウロ女子修道会修道女、元バチカン放送日本語課記者兼アナウンサー)

2018年2月27日 | カテゴリー :

・Sr.石野のバチカン放送今昔 ⑲憧れのJALで日本へ:しかし・・・

 

 1981年2月14日午前10時半、イエズス会のR師を載せたバチカン市国の黒い車がわたしたちの修道院に到着した。わたしも乗って、ローマのヒユーミチーノ空港へ向かうためである。

 R師とわたしはバチカン放送の特派員一行より一足先に東京に向かうためにローマを出発した。KDDやNHKに挨拶をし、打ち合わせをするためだった。

 飛行機はJAL。それまでいろいろの飛行機に乗ったが、JALに乗ったことはなかった。JALは定刻に離陸、着陸。サービス満点など、よい評判しか聞いていなかったので、一度乗ってみたかった。その望みがかなってJALで空を飛ぶ。好奇心と嬉しさでいっぱいだった。空港のチェックインは厳しく、ボディー・チェックもあった。ヒューミチーノにしては珍しかった。こんな厳しさにも魅力を感じた。シートに座り、安全ベルトを締める。

 さあ飛ぶぞと意気込んだが、離陸の時間が来ても飛行機が飛び立つ気配はない。時間厳守と聞いていただけにがっかりした。裏切られたような思いさえした。40分遅れでやっと離陸。何でもが時間通りにはいかないローマで、JALまでイタリアナイズされてルーズになってしまったのかな?そう思うと笑みが浮かんだ。

 東京には定刻より2時間遅れて到着。「時間厳守の定評は借りものですか、JAL様」と言いたい心境で、わたしのうちでJAL神話は崩れ始めていた。箱崎経由で修道院に着いたのは午前零時に近かった。翌朝7時のミサの後、R師と二人で早速活動開始。NHKやKDDへの挨拶まわりから始めた。

 ( 石野澪子=いしの・みおこ=聖パウロ女子修道会修道女、元バチカン放送日本語課記者兼アナウンサー)

2018年1月29日 | カテゴリー :

 Sr.石野のバチカン放送今昔 ⑱教皇、日本のカトリック記者団を特別謁見

 1981年1月13日午前7時、教皇ヨハネ・パウロ二世はバチカン宮殿の最上階にある私的聖堂で初めて日本語のミサを捧げられた。ローマ在住の日本人シスター12,3人がミサに招かれ、わたしは第一朗読を任された。そして、大きな宿題を胸に、その成功を祈りつつ、ミサに与った。

 宿題とは、教皇の訪日を前にしてバチカンに取材に来ている日本カトリック・ジャーナリスト・クラブのメンバーと、教皇との特別謁見を実現させるための許可を得ることである。日本のジャーナリストたちは、教皇庁広報評議会に正式な手続きで事前に申請書を出していたが、許可が下りず、暗礁に乗り上げていて、わたしに「SOS」を出してきたのだ。

 ミサ後、私たちは隣の控室で一人ひとり教皇さまにご挨拶した。その時、私は日本カトリック・ジャーナリストたちが教皇さまと特別謁見ができるよう、教皇の個人秘書S.Z.師にお願いした。「みんなカトリック?」と神父。「ハイ」と答えると、「したいことは何でもさせてあげますよ」。予想していた10倍もの返事が師から返ってきた。私はただ感激した。教皇さまとの謁見やインタビューの申請は毎日、世界中から何百も教皇庁広報評議会に届き、なかなか許可が下りず、その実現が難しいことを知っていたからだ。

  翌14日は一般謁見の日。ジャーナリストたちとの約束の時間に謁見広間前に行った。ジャーナリストの姿は一人も見えない。おかしいと思いながら謁見広間に入って目を見張った。広間は8000人収容できる広いものだが、席はほとんど埋まり、飛び入りの日本人ジャーナリストたちのための席はなかった。

 ところが、広間の前方、一段高く教皇がお座りになる席の近くに12の椅子が二列に並んで、日本のジャーナリストたちが、鬼の首でもとったかのように、広間の会衆に手を振って挨拶をしているではないか。一般謁見に引き続き、隣の特別謁見室に移された。そこには教皇と私たちだけしかいなかった。ジャーナリストをご覧になると教皇は「おー兄弟たち」と呼びかけながらやさしい笑顔で近づいてこられた。

 「教皇さま、日本のカトリック・ジャーナリスト・クラブの皆さんです。ご訪日に備えて日本から取材に来られました」と紹介した。

 「おーカトリック・ジャーナリスト」。ジャーナリストがお好きな教皇はお嬉しそう。会長をはじめ、一通りの紹介が終わったところで、彼らは15分間、教皇を質問攻めにした。会長のT氏が代表質問に入る。核について、投獄中の金大中について、お勉強中の日本語についてなどなど。

 時にはニコニコなさりながら、時には真剣に考えながら、言葉を選ぶように、教皇はお答えになった。去ろうとなさる教皇のお召し物の袖をつかんでさらに質問しようとする会長に、教皇は“You are terribleman!”と一言。皆の間から爆笑が沸く。礼儀正しく、和やかで楽しく、見事な15分間だった。

( 石野澪子=いしの・みおこ=聖パウロ女子修道会修道女、元バチカン放送日本語課記者兼アナウンサー)

2017年12月27日 | カテゴリー :