・Sr.岡のマリアの風 ㉙M.T.さんの葬儀…ありのままに…

 むつみの家 -重症心身障がい者施設-に8歳の時に入所し、昨日、31歳で帰天したM.T.さん。本部のシスターたちと一緒に、通夜、葬儀に参列した

 M.T.さんの障害は非常に重く、痙攣すると、足が背中につくほどエビなりになり、何とかリラックスさせてあげたいと、医者、看護師はじめ、すべての職員が心を砕いてきたそうだ。

 話すことは出来なかったが、体の調子が少し良いときのM.T.さんの「ほほえみ」は、周りにいる人たちを「癒して」くれた、と、お別れ会で看護師長さんが涙ながらに語り、ひつぎの中のM.T.さんに、何度も「ありがとう」と言っていた。

 葬儀 施設ホールでの「お別れ会」 には、家族、親族、職員と共に、むつみの家の入所者の方々が ベッドや車いすで運ばれ、参列した。家族も、職員も、献花の花に囲まれた、ひつぎの中M.T.さんを見ながら、手を合わせ、泣いていた。

 普通、この世で人々が「望むこと」-お金、権力、地位、快適な生活、幸せな結婚-の、どれ一つも約束されず、痙攣で苦しみ、ベッドの上で看護される、M.T.さんの、文字通り「生き抜いた」一生。そのM.T.さんの、まったく野心も利害もない、ありのままの「ほほえみ」が、周りのわたしたちの心を癒した。優秀なお医者さんや看護師さんたちが、この、「何も出来なかった」、でも「ほほえみ」をくれた、M.T.さんとの別れに涙する。

 看護師長さんは、「もっと一緒にいたかった。もっと生きていてほしかった」と、率直に言っていた。

 施設のホールでの、簡素な「お別れ会」。ベージュ色の、小さな、優しい表情で手を広げているマリア像の、その、開かれた手に囲まれるように、M.T.さんの棺が置かれていた。M.T.さんの顔は、どこか静かで、おだやかだった。その、生き抜いた「いのち」は、多くの人々の優しさによって受け入れられ、抱きしめられてきたのだ、と感じた。

 「いのち」の不思議さ… 一つの、本当に、この世に「たった一つのいのち」の神秘。さまざまな障がいをもった方々と接していると、与えるよりも、与えられるものが、いかに大きいかを知らされ、驚かされる。

 食事も排泄も一人では出来ず、痙攣でエビなりになり、苦しい、痛い… それが、31年間、毎日。そのMTさんを、少しでも楽にしてあげたい、と、お医者さん、看護士さん、スタッフたちは一生懸命だった。そして、M.T.さんが、楽になって「ほほえむ」と、周りがパァっと明るくなり、苦労も忘れる。そんな、毎日。

 何の解釈も、何のコメントも要らない。「いのち」の不思議さを、分析したり、切り刻んだりすることは、出来ないから。今日、一つの、生き抜いたいのちが、天に帰っていった。たくさんの、たくさんの人々に感動を与えながら。

 「いのち」は不思議だ。そんなに大切な、この世にたった一つの「いのち」をいただいているわたし、わたしたち。その「いのち」を一瞬一瞬生きて、生かされているわたし、わたしたち。

 M.T.さんに、そして、M.T.さんに関わってきた家族、スタッフの皆さんに「ありがとう」。

祈りつつ

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

2018年6月18日 | カテゴリー :

・Sr.岡のマリアの風 ㉘三位一体の祭日に…リラックス法…

 山登りが好きなH神父。仕事の合間を縫って(本当に忙しい!)、休日には山登り。
「神父さま、休みの日に山登りなんて、いつ『休む』のですか?」という、わたしの「正直な」質問に対して、「いや~、山を登ることが、リラックスなんですよ」と、当たり
前のようにH神父。
「だって…疲れるでしょう?」…どうも、わたしとH神父の「感覚」がずれている、と感じながらも、さらに質問するわたしに、H神父は答える。

 「疲れ果てて、頭が真っ白になって、何も考えられなくなる。それが、リラックスなんですよ」。

 H神父にしてみれば、この気持ち、わかんないだろうな~と言いたいところだろう。先日、N教会の主日のミサにあずかったとき、主任司祭H神父(山登りのH神父とは別の)が、説教の中で、ちょうど連休だったこともあり、「休む」ことについて話した。

 わたしたち日本人は忙しいから、連休、となると、忙しかった分「休まなくちゃ損」、つまり、「働いた分、取り戻さなければ、休まなければ…」と「忙しく」なる。で、結局、「休み疲れ」になり、その「休み疲れ」を取るために、また休まなければならない…という話。

 そして、「本当に休みたいなら、わたしは次のことをお勧めします」と、H神父流「休む業」とは…森の中に入って、「ボ~っと」すること。

 「何も考えてはいけないですよ。木が美しいとか、空気がさわやかとか、そんなことも考えない。とにかくボ~っとするんです」。「ボ~っとしていて、心の中から、わたしの存在の中心から、何か湧き上がってくるのを待つ」。「ああ、この『雑草』と呼ばれる草花は、神さまが命を与えてくださった場所で、けんかすることなく、譲り合いながら生きているんだな~」とか、「この木々は、誰からも世話されずに、それでも、神さまに向かって、天に向かって、ひたすら伸びているんだな~」とか…。

 「考えるんじゃないんですよ。考えてはいけません。自然にわきあがってくるまで、ボ~っとしているんです。わきあがってくる思いをもって、しぜ~んに、創造主である神さまを賛美するんです。すべてお恵みなんだな~と感謝するんです」。

 H神父いわく、これが「休む」ということ。山登りのH神父も。ボ~っとのH神父も、「見た目」違うけれど、同じことを言っているのかな~、とわたしは思った。

 頭が真っ白になること 体が疲れ果て、体の芯から真っ白になること。そのとき、わたしのこの存在、この体、この魂を造ってくださった方の懐で、わたしはすべて「委ね尽くして」リラックスする。ボ~っとする中で、わたしの存在から自然に湧き上がってくる「驚き。 どんなにささいなことでも、それは驚きだ、と言えるだろう 」に委ねる。「わたしが」休まなきゃ損…から、わたしを造ってくださった方の懐に、わたしを委ねる、への通過。

 今日、三位一体の祭日。朝、ロザリオ片手に外に出て歩いていると、二人の姉妹たち(シスター)が、黙々と草取りをしていた。「何をわざわざ休みの日に」…と思うのは、「休まなきゃ」派の考えることだろう。きっとこれが、このシスターたちにとっての「リラックス」なんだろう。

 先日、信徒のSさんは、N市内から、わざわざこの山奥の修道院に来てくださり、茂りすぎて収集がつかなくなっていたバラの剪定をし、植えたばかりの小さなゴーヤの苗に覆いかぶさっていたお茶の木の枝を切ってくださった。昨年、ゴーヤがカーテン状に伸びるために、網をかけてくれたのも、このSさんだ。「わざわざ、休みの日に…」。

 「わたしの時間」を、人のために使うなんて「もったいない」「損する」というのは、「ぶどう園のたとえ話」で、朝早くからやとわれて働いた人が、夕方遅く来て働いた人と同じ賃金をもらって、ぶつぶつ言うのと似ているような気がする。「最後の瞬間に来て、ちょっとだけ働いて、同じ賃金をもらうなら、朝から働いて『損した』」、という理屈。「放蕩息子」の話しも、そう。

 そして極めつきは、いわゆる「天国泥棒」と呼ばれている、十字架上のイエスから「あなたはわたしと一緒に、今日、天国にいる」と言われた強盗の話だろう。「わたしは、小さいころから、若いころから、 こんなに苦労して 信仰を守ってきた。それを、好き放題して、悪い事までしておきながら、最後に悪かったと思っただけで、天国に入れるなんて。わたしももっと、好きなことすればよかった。損した」、という理屈…。

 「一生懸命頑張り過ぎる」と、すべてが「恵み」であることを、忘れてしまうことがある。この、わたしの命そのものが、「恵み」であること、そもそも、わたしという存在そのものが「恵み」であることを、忘れてしまう。

 パパ・フランシスコは、今、毎週水曜日の一般謁見のカテキズムで、教会の「秘跡」について話している。「洗礼」によって、こんなに弱く、罪びとであるにも関わらず、「本当に」神の「子」としていただいたこと。これ以上の恵み、喜びはない、と、パパは強調する。

 この恵みに慣れ過ぎて、感謝できなくなると、教会の掟に「しばられず」、「自由に」遊べる人はいいな~、ということになる。このみじめなわたしたちが、どんなに信じられない「代償」をもってあがなわれたかを、考えなさい、そしてそれにふさわしく生きなさい、と使徒パウロは言う。

 大人になって洗礼の恵みをいただいたわたしにとって、洗礼、ミサ聖祭、ゆるしの秘跡の「無償」の恵みは、どんなに感謝しても、感謝し尽くせない。このように無限の恵みを前にしたら、どんなことが起こっても、「損をした」とは思えない。無償の洗礼の恵みによって、本当に「神の子」としていただいて、本当に「神のいのち-永遠のいのち-」をいただいたのだから。

 今日は、三位一体の神の神秘に「驚き」、賛美し、感謝する日。わたしたちの神が「孤独」の神ではなく、「交わり(コムニオ)」の神であると知ることは、何とすばらしいことでしょう、と、聖書学者A. Vanhoye枢機卿は書いている。わたしたちは実際に、洗礼によって、この「交わりの神-たがいに与え尽くす、愛の神-」の中に入る。

 Vanhoye枢機卿の言葉を、ちょっと聞いてみよう。

 「わたしたちの心は、この神の賜物への感謝でいっぱいになるはずです。もしかしたら、わたしたちは、三位一体の神のいのちにあずかっているという特権、その神秘の中に入れられているという特権について、十分に考えていないかもしれません 「考える」とは、知的な知識だけでなく、それに生き生きと(バイタルに)あずかること-それはより大切です-によって。神が、三つの「ペルソナ」の一致であると知ること自体、すでにわたしたちにとって大切な知識ですが、これらの神の「ペルソナ」との交わり(コムニオ)の中に生きるということは、さらにより尊いことです」

 「…わたしたちの、三位一体の神との関係は、わたしたちにとって、大きな喜びの源でありますが、同時に、深い要請の源でもあります。実際、真の愛は、わたしたちの人間としての全能力を使います わたしたち自身をすべて捧げることを要求します。神の愛は、炎のようです、だから、多くを要求します けれどそれは、わたしたちを恐れさせるべきではありません。そうではなく、わたしたちは信頼をもって前に進むことが出来ます。なぜなら、神の恵みがわたしたちを支え、愛の生活(愛する生き方)においてわたしたちを成長させるから。実に、愛の生活は、もっとも聖なる三位一体の神のいのち自身にあずかることです 」。

 そんな難しいこと言われても…と、言われるだろうか?でも、これはまさに、わたしたちの「いのち」がかかっていることだ。そして、わたしたちを通して、すべての人々の「いのち」がかかっていることだ。「わたし」は「丸ごと」恵み、まさに「恵みのかたまり」であることを、しばしば、特に、どうしようもなくなったとき、前が見えなくなったときに思い起こしたい。頭で考えることも大切だけれど、それ以上に、神の「懐」の中で、「ボ~っと」しながら、「頭が真っ白に」なりながら、この「丸ごと恵みの存在」を味わいたい。

 アーメン!

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

2018年5月27日 | カテゴリー :

・Sr.岡のマリアの風 ㉗「危険を冒してください!」-中国出張を前に-

(独り言)「危険を冒してください!」-中国出張を前に-

Jさま、

 久しぶりのメール、うれしかった。ありがとうございます!

 実は、この週末、院長会議のすぐ後、中国(太原)出張のため出発することになり、バタバタしています。

 相手側、中国からのメールは…

 「ちょっと寒め」「だけど、すごくは寒くない」

 「(修道服ではなくて)私服を着て来てください」

 「空港のパスポートコントロールで、たぶん、大丈夫だと(中国に入れてくれると)思うけど」…

  パパ・フランシスコが、「若者たち」に、たびたび言っていますね。「恐れないで!」「Rischiate!(危険を冒してください!)」、その理由は、単純に、「キリスト者(キリストに従う者)なのだから」、と。

 そして、パパの思いの中では、ぬくぬくと自分の快適な場所に留まらず、「やっぱり、おかしい」、「とにかく、何かしよう」…と、「出て行く」人こそ、「若者」なのですね。年齢に関係なく。

 この、イエス・キリストの名のために、「危険を冒してください!」という呼びかけは、まさに、今のわたしに向けた、タイミングのよい声のように響きます。

 どういうことになるのか、まったく未知…。そういう旅、20代前後のころ、よく、しました。(わたしが修道院に入った時、これで娘も、少なくとも「住所の分かる場所」に落ち着くだろうと、父がほっとしたくらいです…)。

 わたしたちのパパ・フランシスコは、最近では、南イタリアのバリに(2018年4月20日)、チリとペルーに(2018年1月15日~22日)、昨年末、ミャンマー・バングラデシュに(2017年11月26日~12月2日)、コロンビアに(9月6日~11日)、ファティマに(5月12日~13日)、エジプトに(4月28日~29日)、「出て行って」いますね。まさに彼自身、言っているように、「貧しい一巡礼者として」、主がその地に、その民に託した「富」-文化の中に具体化した信仰の宝-に感謝し、祝い、学ぶために。

 それぞれの地で、パパは、さまざまな人々と出会い、共に主に感謝し、主が約束した希望のうちに、信仰にしっかり留まるよう励まし…。

 そんな、パパの姿、わざ、言葉に、日々触れながら、そして、同じように生きた数えきれない先輩たちの姿を思い巡らしながら、自問します。

 わたしは今、自分の修道院で、自分の部屋で、「キリストの熱い思い」に突き動かされ、「危険を冒して」、つねに「出て行って」いるだろうか。

 これは何も、物理的に外に出て行く、ということだけではありませんね。

 パパが再三言うように、「いつもこうだったから」「どうせ変わらないのだから」「するだけ無駄だから」…という、「キリストに似る者になる」歩みを弱らせ、「中和」させる、狡猾な「敵」と闘うために、危険を冒しているか、ということですね。

 「やっぱり違うと思う、もっと良くなると思う…」。

 「え~っ、その年で、まだそんな夢みたいなこと言ってるの?」

 「でも、今、わたしたちが動かなければ、一歩踏み出さなければ、次の世代の人たちはどうなるの?」

 「そんなこと言ったって、ど~せ反対されるよ。わたしたちだけ頑張ったって無理だし…」

 「パパ・フランシスコは、聖パウロの言葉をかりて、言いました。わたしたちを強めてくださる方-キリスト-と共にするなら、わたしたちはいつも勝利するって」

 「う~ん、でも、それって『現実的』じゃないよね~」

 「洗礼を受けたとき、わたしたちの中に、復活のキリストの力、聖霊が入って来たのだから、その力に信頼して一歩を踏み出してください、って、パパは言っているし…」

 「でも、聖霊って目に見えないし…本当に、ここで働いているのかな~」

 「いや、聖霊は、目に『見えます』…わたしたちが望みさえすれば…。わたしたちが思ってもみなかった、もっとも小さく、貧しいしるしの中に…。パパは言ってます、わたしたちの神は、『サプライズの神』だって」。…

 …と、こんなやりとりが、自分の中でも、人々との話の中でも、会議の中でも、あります。

 主を「安全地帯」に引き戻そうとしたペトロは、主から、「サタンよ、引き下がれ!」と叱られましたね。「ペトロって、しょうがないね~」と、わたしたちは簡単に言うけれど、でも実は、あのペトロの「もっともな理屈」は、わたしたちが、しょっちゅう使っている「理屈」ですね。

 主が、エルサレムに向かって、十字架に向かって進むのを、妨げようとする「もっともな理屈」。

 そして、もし、主がエルサレムに行かなかったら、十字架に向かって進まなければ、わたしたちは、今も、罪の闇の中、脱出するすべも知らずに…。

 なんと度々、わたしたちの「もっともな理屈」は、神の思い、「すべての人々の救い」のための思いに、反対するのでしょう!

 古代の教父たちは言いました。このような「闘い」の中で、「神の母」のマントのもとに駆け寄り、神の母マリアから、「主を真ん中に置く」ことを学びましょう、と。

 わたしたちのいのちの中心にいる主は、そこに「いる」のだけれど、神秘の中に留まります。わたしたちのただ中に、確かにいるのだけれど、でも同時に、わたしたちの思いを超える神秘でもあります。

 わたしたちが、何か、栄光に満ちた権力、光り輝く正義、悪者を打倒す勝利の王…というイメージで、この世に、周りに、キリストのしるしを探し求めるなら、簡単に、悪魔の罠に引っかかりますね。悪魔は、いつも言います、「そうそう、あなたの言うことはもっともだ。あなたは悪くない、あの人が、この状況が悪い。頑張ったって無駄。どうせ理解してもらえないのだから…」。

 神の母のマントのもとに逃れて、わたしたちはどうするのか?

 まず、わたし自身が、真に貧しく弱い者であることを、素直に認め受け入れることを学びます。わたしたちの力で、悪魔と闘うことなど出来ないことを、はっきりと悟ります。そして、そこから出発します。もう一度、キリストを中心に置いて、再出発します。キリストに従う、貧しく、小さな道を。主とともに、すべての人々の救いのために、十字架に向かう道を。マリアとともに、「母の愛」に内奥から突き動かされて、主に従う道を。

 神の母のマントのもとに逃れて、わたしたちは叫びます。「神の母よ、悪魔の誘惑は、とても巧妙で、執拗で、わたしの能力(知力、体力、気力)以上のものです。わたしは弱く貧しい、あなたの子です。どうか、急いで助けに、救いに来てください!主の望みが、主のことばが、主のわざが、わたしの中で行われますように!」

 そうやって、神の民は、ずっと、荒波、嵐の中を進んできました。神の母マリアを、荒れ狂う海の中の「はこぶね」、目的地を示すために空に輝く「星」と呼びながら。

 でも…話は元に戻って…初めての中国行き。神の母よ、あなたのためです。主のお望みが、主のお望みだけが行われますように、わたしを助けてください!思うとおりに行かないとき、まさにそのただなかに、主がおられることを見分ける知恵をください!そして、あきらめることなく、前を歩く主の足元だけを見つめて、一歩一歩、前に進む力をください!その、一歩一歩の先にあるものも、どこにたどり着くかも、それさえも、主に委ねることが出来るようにしてください!

アーメン!

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

2018年4月27日 | カテゴリー :

・Sr.岡のマリアの風 ㉖聖週間-パパ・フランシスコと共に

 Aさん、メールをありがとうございます。パパ・フランシスコが、今、若者に求めていることは、本当の意味での「若者」たちに訴えていることですね。

 パパは、「生き延びる」ことだけを考えて、現状に対して「あきらめ」、「無関心」、「怠惰な」態度を取っている人は、たとえ年齢が若くても、年寄りであり、いつでも、どこからでも、どんな状況からも、また新たに、人々の善のために、自分のエゴから出て行く人は、たとえ高齢であっても「若者」だ、と言っていますね。

 無関心、あきらめ、自分さえよければいい、という心が、人を、霊的「年寄り」にし、もはや、その人は、「枯れて行く」しか道がない、と。

 日々、わたしの心に、ズ~ン、ドシ~ン、とくる言葉です。つねに目覚めていること。それは、わたしたちの力では不可能です。
何でもうまくいっている時はいいけれど、人から理解されない、物事が思ったとおりに行かない時、「目覚めていること」-自分の良心に対して-は、自分の力では、不可能ではないとしたら、かなり、難しい。

 ましてわたしたちは、今(聖週間)、人目には、「ヒーロー(英雄)」からは、遠くかけ離れた、「みじめで、貧しい」主に、沈黙のうちに従うよう、招かれています。
イエスに、もっとも近くから従った弟子の一人、ペトロは、「先生」-イエス-を、三度、「知らない」と言います。

 わたしたちは、「え~、ペトロ、何で~?」と口に出して言った後、気が付きます。イエスが、誰であるか、分からなくなったペトロ、それは実に、「わたしたち」の姿である、と。
もし、「先生」‐イエス-が、たとえ捕らえられたとしても、「勇ましく」、「弱い」先生を守るのが、自分の務めだと思っていたペトロは、先生を助けるために、戦ったかもしれません。

 でも、今、目の前にいるのは、不正に訴えられ、しかも、弟子の一人から裏切られたにも関わらず、抵抗しようともせず、一言も語らず、不条理な嫉妬と憎しみに燃えた人々に、捕らえられ、引きずられて行くに任せている、一人の「みじめな人間まるで、世の悪に対して戦わず、敗北を認めたかのような、「弱い先生」。

 ペトロは、「そんな人は知らない」と言います。それは、ある意味で、ペトロの本心だったでしょう。力強いわざと言葉をもって、悪魔を追い出し、病人を癒し、祭司長たちを論破した、偉大な先生、使徒たちの「誇り」であった、イエス。この「格好いい」先生に、ペトロは、命をかけて従う、と宣言しました。

 でも、今、ペトロが目の前で「見て」いるのは、そんな先生ではない。ペトロが 思い描いていた メシア・救い主の姿ではない。だから、ペトロは混乱し、「そんな人は知らない」と、宣言します。そして、鶏が鳴く…

 ヨセフ・ラッツィンガーは書いています。
(最高法院で、大祭司とそこに集まった評議員たちは)、イエスを愚弄し、打ちすえることによって、神のしもべとしてのイエスの受けるべき定めを言葉どおりに満たしたということに、気が付いていませんでした。
屈辱と栄光は神秘的な形で互いに繋がっています。正に、打ちすえられた者として、イエスは人の子なのであり、雲に乗って神のもとから現れ、人の子の国、神に由来する人間性の国を打ち立てるのです。マタイによれば、イエスは衝撃的な逆説によって、「今から、あなたたちは、人の子が…見るであろう」(マタい福音書26章 64節)と言ったのです。「今から」、新しいことが始まるのです。
歴史を通してずっと、人々は損なわれたイエスの顔を見上げ、まさにそこに神の栄光を認めて来たのです。その同じ時に、ペトロは三度目に、イエスとは何の関係もない、と誓ったのです。「するとすぐ、鶏が再び鳴いた。そして、ペトロは思い出した…」(マタい福音書14章 72節)
鶏の鳴き声は夜の終わりのしるしと見られています。一日が始まるのです。ペトロにとっても、鶏の鳴き声は、彼が沈んでいった魂の夜の終わりを意味していました。鶏の鳴き声によって、否認についてのイエスの言葉が突然、ペトロの頭に蘇ります。そして、恐ろしい現実に立ち会わされます。
ルカはそれに更に付け加えます。この瞬間、刑の宣告を受け、縄目を受けたイエスは、ピラトの法廷に移るために連行されます。イエスとペトロはすれ違います。イエスの眼差しは、裏切りの弟子の視線を通し心の奥にまで達します。
そしてペトロは、「外に出て、激しく泣いた」(ルカ福音書22章 62節)のです。
(『ナザレのイエス』、第二巻、春秋社2013年、21頁)。

 わたしたちにとって、わたしにとって、「はい、わたしはここにいます。主よ、あなたのおことばどおり、わたしの身になりますように。あなたのお望みが、このあなたのしもべ(はしため)であるわたしを通して 行われますように」と、日々、言い続けることは、容易いことではありません。特に、何か特別な時ではなく、まさに、日々の、毎日の、「普通」の生活の中で、それを言い続けることは、決して容易いことではありません。

 ゲッセマニの園での、イエスが捕らえられる場面は、ペトロにとっては、あまりに「陳腐な」場面だったかもしれません。「あなたはメシアです」と、ペトロに宣言させたのは、父である神の恵みの力でした。その、同じ父である神が、今、ご自分のメシアが、敵どもの手に引かれて行くときに、彼を助けるために、天の大軍を遣わすことも、しない。何か、当たり前のように、悪の力が勝り、無実の善人が、悪人として引かれていく。あまりに「陳腐」な場面ではないか…。

 「わたしが」思ったとおりに、物事が進まない、人々が動いてくれない、理解してくれない、ふさわしく評価してくれない… その時こそ、まさに、わたしは、主の「十字架の道行」を、主と共に、主の傍らで共に歩むよう、招かれているのだろう

 主の「十字架の道行」を、主の傍らで歩む、とは、主とともに、人々の罵声、嘲りを受け、「十字架から降りて来い、そうしたら信じてやろう」という人々の挑発を受け、同時に、主と共に、「主よ、あなたのみ国においでになるとき、わたしを思い起こしてください」という、泥の中から咲き出る花のような真摯な声を聞き、あがないの十字架のもとで生まれつつある教会の姿-母と愛する弟子-を観想する…ということだろう。

 「わたしが」思い描く、メシア・救い主の姿と、父である神の思いの中にある、メシア・救い主の姿の、何と違うことか!
「わたしのメシア像」と、父である神の「メシア像」。その間の、越えることの出来ない淵を埋めたのが、真の神でありながら、わたしたちと「同じ」、真の人であるメシア、イエス・キリストである。

 神と人との間に横たわる深淵に、自らを「橋」として、神と人との出会いの「場」として捧げたのが-自分の命を捧げるまでに-、父のみ心に徹底的に従った、子、イエスの姿だ。
わたしたちは、「その」イエスに、従うよう、招かれている。

 特に、この聖週間。14名の若者たちによって編纂された、パパ・フランシスコが司式する、今年(2018年)の「十字架の道行」(聖金曜日)のテキスト。神学者でもなく、過去に書かれた著作からでもなく、若者たち-16歳から27歳まで-によって作られた、「十字架の道行」のテキスト。彼らは、共に、四つの福音の「受難物語」を読み、祈り、黙想し、このテキストを作り上げた。

 そこには、若者らしい、誤解を恐れない、率直で、ありのままの「出会い」がある。ゴルゴタに向かって歩むイエスとの出会い。そのイエスを取り囲む人々、一人ひとりとの出会い。若者たちは、自分自身を、その場に置き、イエスを「見つめ」、人々を見つめ、イエスと「出会い」、自分自身に出会い、その出会いから生まれる「祈り」を、言葉にした。

 今朝、わたしは、若者たちの「十字架の道行」の一つを黙想しながら、ペトロと「出会う」。そして、ペトロを「見つめ」ながら、自分の中の、嘘、偽りを見つめ、イエスと「出会う」。

 ペトロは、自分に自信があった時は、イエスを見ていても、イエスに出会っていなかったのだろう。「わたしの」好きなイエスを見ていただけで、父のみ心を行うためだけに生きているイエスに出会っていなかった。

 父のみ心の実現のために、死ぬばかりに苦しい思いをしながら、エルサレムに上っていくイエスに従いながら、三年間、イエスの身近にいた弟子たちは、「だれが一番偉いか」と議論をしていた。それが、わたし、わたしたちである。そのことを認めて初めて、わたしは、イエスと「出会う」のだろう。

 ペトロは、イエスの眼差しに触れて、「初めて」イエスと「出会い」、自分に「出会い」、「外に出て、激しく泣いた」。ペトロは、このようにして、受難の主の神秘に対して、初めて目が開かれた。

 ペトロの涙こそ、わたしたちの涙。赦されても、赦されても、主を否み続けるわたしたちを、それでも、疲れずに赦してくださる主のまなざしに触れた、わたしたちの涙。
わたしは、つねに、「欠けた者」「足りない者」であることを率直に-決して卑屈にではなく-受け入れて初めて、「主よ、あなたのお望みが、わたしの中で行われますように」と真摯に祈ることが出来るのだろう。

 聖週間。今は、「恵みの時」。主の「十字架の道行」に従うわたしは、一人ではない。わたしは、共同体の姉妹たちとともに、「欠けた者」同志で、許し合い、いたわり合い、助け合いながら、共に、主イエスの「十字架の道行」に従っていく。

 主によって集められた「共同体」-教会-は、「わたし」の思うとおりにはいかない。「わたし」と合う人たちだけではない。「わたし」のリズムと違う。だから、恵みの場。だから、「散らされた神の子らを集めるために来た」キリストの心の、目に見えるしるし。だから…復活の主は、ご自分の「共同体」を通して、はたらく。

 ご自分のみ国-赦しといつくしみのみ国-を広めるために。「共同体」は、主の、受難・復活・死の、この世への「目に見える証し」として、招かれている。

 受難の主よ、聖週間の日々、あなたの沈黙の中に、深く入らせてください。父である神のみ心が実現するとき。それは、沈黙のとき。わたしたちの日々の騒音を超えた、三位一体の神の懐の中の、深い、沈黙。それは、冷たい沈黙でも、無関心の沈黙でも、あきらめの沈黙でもない。それは、愛するがあまり、いつくしむがあまり、沈黙せずにはいられない、苦しむ我が子を見つめる、母の沈黙。

 受難の主よ、あなたの沈黙が、わたしへの、わたしたちへの、計り知れない宇宙のような、深い海のような、あなたの「いつくしみの心」の沈黙であることを、分からせてください。

 受難の主よ、わたしたちの石の心、固い心を、あなたの十字架のあがないの死によって、肉の心、あなたの霊によって生かされる心に変えてください。

 受難の主よ、弱くみじめなわたしたちを、あわれんでください。あなたは真理そのものです。そしてあなたの真理は、冷酷な裁きではなく、赦すことをあきらめない、赦すことに決して疲れない、父である神の心の真理です。

 自分の罪、偽り、過ち、怠りに泣くわたしたちを、かえりみてください。あなたの十字架の傍らに立つ、あなたの母マリアのように、わたしたちも、あなたの恵みによって、闇と絶望の淵にあっても、「はい、わたしはここにいます。主よ、あなたの望みが、わたしの中に行われますように。

 わたしは、あなたのみ心だけを望みます、と言い続けることが出来ますように。アーメン。

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

2018年3月27日 | カテゴリー :

・Sr.岡のマリアの風 ㉕聖週間の始めに・・黙想と十字架の道行きのために

本部修道院、聖週間の始めに-「賛美の集い」のための覚書―
[祭壇まで行列。各々、四旬節に書いた「手紙」を祭壇前の籠に入れる]
[始めの祈り](祭壇の前で)
主イエスよ、 あなたは、旧約の預言者たちが預言したように、ろばに乗って、ご自分の都、聖なるエルサレムに、王として、メシア・救い主としてお入りになります。
あなたが「王」である、とは、 仕える者であることです。
あなたが「王」である、とは、 わたしたちを、わたしを愛して 命までも捧げることです。
わたしたちの、固く冷たい心が、この聖なる一週間、あなたの一つ一つのしぐさ、言葉、まなざしに触れて、生きた、肉の心に変えられますように。
アーメン

[黙想のために]
今年、2018年は、若者たちについてのシノドス(世界司教会議)が開かれます。パパ・フランシスコは、その前に、若者たち自身による準備の集いを、バチカンで開催しました。

 若者たち自身が、自分たちに出来ることを、自分たちの手で、共に行うことによって、教会共同体に新たな力を与えることが出来るように、と。
このパパの思いは、若者たちだけでなく、教会を形づくるすべての信徒、わたしたちにも向けられています。自分たちに出来ることを、自分たちの手で、共に行うことによって、教会共同体を、すこしでも前に進ませることが出来るように。同じ、一つの目的に向かって。「散らされた神の子ら」を集めるために、十字架に「上げられ」、ご自分の命を捧げ尽くした主に従いながら。

 教皇は、毎年、ローマのコロセウム(円形競技場)で、十字架の道行を司式します。その時に使うテキストを、パパは、今年、若者たち自身が創るように提案し、それは、16歳から27歳までの14人の若者たち(そのうちの9人は高校生)によって、熱意をもって受け入れられました。

 「見ること-出会うこと-祈ること」を鍵として、14人の若者たちは、一つずつの留の黙想を、自分の言葉にしていきました。
わたしたちも、今、自分の心を一番打つ「留」の場面に留まり、聖週間の間、自分の黙想を言葉にして表していけるなら、わたしがイエスとより深く出会う助けになると思います。

*この「十字架の道行」のパンフレット(バチカンHPより)の導入部分を、皆さんと分かち合いたいと思います。[以下、イタリア語より試訳]

 今年の「十字架の道行」の儀式の、14留の黙想は、16歳から27歳の間の、14人の若者たちによって作られました ですから、二つの主要な新しさがあります。第一の新しさは、過去の著作から取られたものではないこと、書いた人たちの年齢-若者、青年(彼らの中の9人は、Roma Pilo Albertelliの高校生)に関連して。第二の新しさは、この作業の「合唱性」―たくさんのトーンや響きの異なる声のシンフォニーであること-。そこには、名無しの「若者たち」ではなく、ヴァレリオ、マリア、マルゲリタ、フランチェスコ、キアラ、グレタ…がいます。

 彼らは、彼らの年齢に典型的な熱意をもって、若い世代に捧げられた2018年の中で、パパ・フランシスコから提案されたこのチャレンジ(挑戦)を受け入れました。

 彼らは机の周りに集まって、四つの福音によるキリストの受難のテキストを読みました。それから、「十字架の道行」の場面の前に自分たちを置き、その場面を「見つめました」。朗読の後、必要な間をとりながら、若者たちの一人ひとりは、どの「場面」が特に心を打ったかを表現しました。このようにして、より単純に自然に、一つひとつの留がふりわけられました。
鍵となる三つの言葉、三つの動詞が、これらのテキストの展開を印しました:先ず、すでにふれたように、見ること、そして、出会うこと、最後に 祈ること若者は、見ることを望みます。世界を見る、すべてを見る。

 「聖金曜日」の場面は、その残酷さをもっても強烈です:それを見ることは、反感を引き起こすことも出来るし、または、あわれみ(いつくしみ)、ゆえに、出会いに行くよう促すことも出来ます。まさに、イエスが福音の中で、毎日-そしてこの日、最後の日にも-行ったように。イエスは、ピラトに出会い、ヘロデに

 出会い、祭司たち、番人たち、ご自分の母、キレネ人、エルサレムの女性たち、2人の強盗―彼の歩みの最後の同伴者たち-に出会います
若い時、毎日が、誰かに出会う機会となり、一つひとつの出会いは、新しく、驚きに満ちています。もはや誰にも会いたくなくなるとき、人は年を取ります。信頼をもって心を開くことよ、人を閉じ込める恐れが勝つ時、人は年を取ります。変わることの恐れ。なぜなら、出会うことは変わることを求めるから、新しい目をもって、再び歩みを始める準備をすることを求めるから。

 最後に、見ることと、出会うことは、祈ることへと促す。なぜなら、見ること、出会うことは、いつくしみ(あわれみ)を生みだすから―たとえ、あわれみに欠けているような世界においても、人々の、無分別な(良識を欠いた)怒り、卑劣な行為、怠慢を放っておくような、今日のような日の中でも-。
もし、イエスに心から従うなら-たとえ、十字架の神秘的な歩みを通してでも-、その時、勇気と信頼が再び生まれます。そして、見た後、出会いに開かれた後、わたしたちは祈る恵みを体験するでしょう。もはや一人だけではなく、共に祈る恵みを。

「道行」の14の留の黙想のために、若者たちが選んだ聖書の箇所は、皆さんに配布したプリントの通りです。[表参照]
第一留:イエスは死を宣告される V:ルカによる福音(23 22 25
第二留:イエス、十字架を負わされる(Maria Tagliaferri e Margherita Di Marco作:マルコによる福音(8 34 35
第三留:イエス、初めて倒れる(Caterina Benincasa作):預言者イザヤの書 53 4
第四留:イエス、母と出会う(Agnese Brunetti作):ルカによる福音(2 34 35
第五留:キレネ人シモンが、イエスを助け、十字架を運ぶ(Chiara Mancini作):ルカによる福音(23 26
第六留:ヴェロニカがイエスのみ顔をぬぐう(Cecilia Nardini作):預言者イザヤの書(53 2 3
第七留:イエス、二度目に倒れる(Francesco Porceddu作):預言者イザヤの書(53 8 10
第八留:イエス、エルサレムの女性たちと出会う(Sofia Russo作):ルカによる福音(23 27 31
第九留:イエス、三度目に倒れる(Chiara Bartolucci作):預言者イザヤの書(53 5 6
第十留:イエス、衣をはぎ取られる(Greta Giglio作):ヨハネによる福音(19 23
第十一留:イエス、十字架にくぎ付けにされる(Greta Sandri作):ルカによる福音(23 33 34
第十二留:イエス、十字架上で息を引き取る(Dante Monda作):ルカによる福音(23 44 47
第十三留:イエス、十字架から降ろされる(Flavia De Angelis作:ヨハネによる福音(19 38 40
第十四留:イエス、墓に置かれる(Marta Croppo作):ヨハネによる福音(19 41 42

 今日、ここで、Valerio De Felice作、第一留の黙想を聞きたいと思います。
[試訳]
第一留:イエスは死を宣告される
ルカによる福音(23 22 25

 ピラトは、三度彼らに向かって言った、「いったい、この男がどんな悪事を働いたというのか。この男には、死に値する罪は何も認められなかった。だから懲らしめたうえで、この男を釈放することにする」。しかし人々はあくまでイエスを十字架につけるよう主張し、大声で要求した。そして、とうとう彼らの声が勝ち、ピラトは彼らの要求を入れることにした。そして、彼らの要求どおり、暴動と殺人のかどで投獄されていた男を釈放し、イエスを彼らに引き渡し、思うままにさせた。

 イエスよ、わたしは、総督の前にいる、あなたを見つめている。総督は、三度、民の要求に反対しようと試み、最後には、民衆を前に-三度、尋ねられ、三度とも、あなたに反対した民衆を前に-、何も選ばないことを選んだ。
民衆、つまり、すべての人々、そしてつまり、誰でもない人々。群衆の中に隠れて、人は、自分の人格(自分自身)を見失い、その他の何千という声の一つになる。最初に、あなたを拒み、そして自分を拒む。自分の責任を、顔のない群衆の、変動する責任の中に分散させながら。
それにもかかわらず、人には責任がある。扇動者たちに迷わされ、人をあざむく、耳をつんざくような声をもって広がる悪に迷わされ、イエスよ、あなたを断罪する人となる。

 わたしたちは今日、そのような不正を前に、恐怖を覚え、そこから離れたいと望む。しかし、そのようにしながら、わたしたちは忘れてしまう。わたしが先ず、あなたではなく、バラバを救うことを選んだ、すべての時を。わたしたちの耳が、善の呼びかけに閉ざされていたとき、わたしたちの前の不正を見ないようにしたとき。

 この、人でいっぱいの広場の中で、たった一つの心でも、疑いを起こしたなら、たった一つの声でも、悪の何千もの声に反対して上げられたなら、十分だっただろう。人生が、わたしたちを、一つの選択の前に置くたびに、あの広場、あの間違いを思い起こそう。わたしたちの心に疑うことを許し、わたしたちの声に、声を上げるよう命じよう。

 主よ、あなたに願います、わたしたちの選択を見守ってください、それを、あなたの「光」で照らしてください、わたしたちの中に、自分を問いただす能力を磨いてください:

 「悪」だけが、決して疑いません。地面の中に根を降ろした木は、もし、「悪」によって水をかけられるなら、枯れてしまいます。
でも、あなたはわたしたちの根を、「天」に、そして枝を地上においてくださいます。

 あなたを認め、あなたに従うことが出来るように。
「主の祈り

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

2018年3月26日 | カテゴリー :

・Sr.岡のマリアの風 ㉔マリアは、ためらわずに出発する「勇敢な女性」、そして・・

 Sr.Jへ、メール、ありがとう!

 日常の「食卓の会話についていけない悶々」は、海外生活をしたことがある人なら(わたしも含めて)誰もが経験するところです。特に修道院は、一日三回ですからね。

 わたしも、イタリアで最初の一年は、そんな経験をしました。-だいたい、言葉を覚えるのは、「時間」がかかる!あたりまえだけど、いくら勉強したって、やっぱり「時間」がかかる―。

 そう言えば、Sr.Cが、ポーランドから帰ってきたとき(どこかにバスで行くとき、わたしはたまたま近くの席だった)、ポーランドで言葉がぜんぜんわからなくて、重度の障害をもって、話しが出来なかったり、難しかったりする子どもたちが、どんな気持ちなのか、と初めて分かったような気がした、という話をしていて、なぜかそれがいまだに心に残っています。

 ローマで勉強していた、日本人の神父さまが、日本では役職についていて、ある程度の責任を任せられていたけれど、ローマに来て、とにかく言葉が分からないから、赤くなったり白くなったり、まるで若造のよう。40歳過ぎたら、自分のやり方、考え方に固執しがち。そんな中で、こんな体験、なかなか「出来る」もんじゃない。まさに、「恵みの時」だ!と言っていて、それもよく覚えています。

 まあ…そういう言葉を何で忘れないかと言えば、わたし自身、そういう経験をしていたからです。ホント、言葉ばかりは、勉強によるのではなく、「共に生きる」ことで学ぶのだ、と。

 他人事みたいに聞こえるかもしれませんが、経験者として、「今しか」経験できないことだ、と言っておきましょう。そして、おそらく「永遠に」、パーフェクトに理解することは無理。これも、言っておきますね。わたしも、イタリア語をパーフェクトに理解することは無理です。特に、日常会話は。
そんな中で、言葉にならないところを、いたわり合って、理解しあっていくのが、パパ・フランシスコが言うところの、異なる他者と、互いがもっている宝を分かち合う、ということですね。

 まあ、日本語は、ヨーロッパ語と、ぜんぜん違うので、だいたいヨーロッパで勉強している日本人は、最初の一年は、ありとあらゆる「誘惑」を受けます-孤独、自己嫌悪、人間不信、会話恐怖症…-。

 それらの誘惑が起こった時、「こんな誘惑をわたしは感じている、情けないな~」…などという心の動きを、ありのまま受け取っていけばいいのだと、わたしは経験しました(あくまで、わたしの場合)。誘惑自身は、いいことでも悪いことでもなく、自然なことですから。それを隠したり、ないかのように振る舞ったりするときに、「うそ」が生まれます。「うそ」の中で生きているときに、わたしはだんだん、神さまからも、人々からも離れてしまうのだと思います。

 だいたい、生きていれば、言葉だけでなく、いろいろなことで、「通じない」経験はありますね。
わたしは、むしろ、ローマでの経験から、「通じない」とき、心の中のさまざまな「誘惑」、心の中の動きを落ち着いて見つめて、それらを全部、神さまのもとに、イエスさまのもとに持って行く、ということを学びました(いつも実行できるとは限りませんが…)

 そして、イエスさまの前にありのままで出て(聖堂でなくても、道を歩いている時でも、仕事をしているときでも、心をイエスさまに向けて)、「イエスさま、わたしは今、こんな風に感じています。いけない、と思うけど、どうしても、こんな誘惑がざわざわと心を騒がしています。イエスさま、罪人のわたしをあわれんでください!イエスさま、こんなみじめなわたしを、放っておかないでください!この誘惑に負けないよう、あなたの解放の力をください!」と祈ります。

 先日の福音で、皮膚病を患った人の、全人格から絞り出すような嘆願を聞きましたね。「わたしを、清くしてください!」という叫び。誰も、わたしを清くすることは出来ない。

 神さましか、出来ない。イエスさま、あなたなら、あなただけが、わたしを「清く」することが出来る…という、必死の叫び。この叫びを、特に、四旬節の間の、わたしの祈りにしたいと、切に望みます。

 マリアは、天使のお告げの後も、すべてが分かっていたわけではありませんでした。むしろ、「闇」はますます深くなる。目の前に起こる出来事、イエスのことば、わざ…は、マリアにとって、すべては分からない「神秘」であり続けました。

 それでも、マリアは、信じました。マリアの心の中で、どんなに大きな「誘惑」が起こったことか、と思います。イエスでさえ「誘惑」されたのですから、人間であるマリアは、なおさらです。でも。マリアは、その誘惑に屈しませんでした。あきらめませんでした。

 それは、マリアが、自分が貧しく、小さな者であることを知っていたからだと、わたしは思います。マリアは、神が自分を選んだのは、自分が小さな者であるから、神にしか頼れない貧しい者であるからだ、と知っていました。なぜなら、それこそが、旧約聖書の中にうかび上がる「神のやり方」ですから。まさに、その、「みじめな者、身分の低い者」に、いつくしみのまなざしを向ける神への信仰を、マリアは、「マニフィカト」の中で歌います。

 マリアは、ためらわずに出発する「勇敢な女性」、深く考えることができる「知恵あるおとめ」…神の「たまもの」を「受け入れる」ことを知っている「信仰の母」…。

 Sr.Jの「旅」の仲間である、ポーランド共同体の姉妹たち、修道会のすべての姉妹たち。その、すべての姉妹たちの傍らで、母マリアが、いつも執り成してくださいますように!

 喜びが、希望が、信仰が、愛が欠けるとき、イエスに執り成してくださいますように!…「彼らにぶどう酒がなくなりました」「この人(イエス)の言うことは、何でも行ってください」…

 わたしたちの四旬節の歩みを、主が豊かに祝福してくださいますように!

 祈りつつ。

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

2018年2月15日 | カテゴリー :

・Sr.岡のマリアの風 ㉓「一人息子の誘惑」~パパ・フランシスコと共に

***今回は、「金曜日の独り言」***

 分かりやすいな~。

 パパ・フランシスコの言葉を聞いていると、ひじょうにしばしば、こう、思う。

 パパは、「分かりやすい」表現で、けっこう複雑な問題を言い表している。この「一人息子の誘惑」という表現も、とっても「ストン」と来て、分かりやすい。読んでいて、思わず、「分かりやすいな~、なるほど」と声に出す。

 パパ・フランシスコは、司牧訪問先のペルーで、「奉献(聖別)された人々」(パパはこの言葉の中に、広い意味で、司教、司祭、奉献生活者、神学生たちを入れている)に、わたしたちの時代の「細分化」「分断化」された世界の中で、「共同体を造り出す人、共同体の預言者」となってください、と繰り返しアピールした( 司祭、修道者、神学生との集い=ペルー、2018年1月20日)。

 奉献された人々は、「みなを一つに集める」ために来たイエスに、ある意味で、「より強く」「より近く」従おうとしているから。

 イエスの使命、「みなを一つに集める」とは、自分の好きな人、意見が、好みが合う人のグループを造る、ということではない。イエスの傍らで、イエスの「みなを一つに集める」使命に協力するとは、まさに、「みな」、異なる民族、文化、言葉、習慣…の人々が「一つになる」よう、一人ひとり、自分に出来る限りのことをする、ということだろう。

 神の民の一致を造り出すことが出来るのは、唯一の神の霊、聖霊だけである。

 けれど、同時に、神が「人となった」ときから、「神は、人間の救いの営みにおいて、人無しには(人間抜きでは)、何も実現することを望まない」と、教会(わたしたち)は、少しずつ悟って来た。

 「みなが一つになるように」という、受難に向かう前のイエスの、父である神への祈りは、真の神でありながら、真の人間であるイエスの唯一の願い(遺言)、とも言えるだろう。「みなが一つになる」というのは、アダムとエバの楽園からの追放の後、アブラハムの召命から始まって、神が、救いの営みの中で、ご自分の民を、そのために長い時間をかけて教育し、準備をしてきたことだ。「みなが一つになるように」というイエスの祈りの中には、ゆるし、和解、平和、愛、いつくしみ、へりくだり、優しさ…への願いが含まれている、と言えるだろう。

 さて…。パパは、ペルーの「奉献された人々」との集いの中で、「一人息子の誘惑」に陥らないように、とアピールする。「一人息子」の誘惑、とは、「すべて自分のために欲しい」(または、「すべてが自分のものであるのは当たり前」)と思う誘惑、つまり、他に兄弟がいないので、分かち合うことを知らない、気を遣い合うことを知らない、という誘惑。

 人は、一人で、自分を救うことは出来ない。また、世界の中で、自分一人だけ救われる、ということはあり得ない。神の救いの営みは、初めから、いつでも、「共同体的」である。

 修道生活25年を過ぎ、キリスト者として、修道者として、共同体の「ありがたさ」をますます感じる今日この頃である。

 それは、自分の共同体が「完璧」であるとか、兄弟愛に満ちあふれているから、という意味ではない(それを目指してはいるけれど、そのメンバーである「わたし」自身が、完璧ではないし、兄弟愛に満ちあふれているとは言えない状態は多々あるし…)。

 共同生活をしていれば、自分の思うように、好きなように、望みどおりにならないことが「たくさん」ある。それも、毎日。

 パパ・フランシスコは、「出て行きなさい」、と繰り返す。自分の家、自分から「出て行って」、他の人々の苦しむ顔(表情)、傷を負った顔を見て、触れて、寄り添うために。

 わたしの場合、共同生活が、まさに、わたしが「出て行く」のを促し、助けている。自分の好きなように、思い通りに、「ぬくぬくと」気楽に生きることだけを求めていると、わたしはだんだん、閉じ込められ、不自由になる。そんなわたしの「ぬくぬく布団」を、共同体の姉妹たちは、はぎ取ってくれる(時にやさしく、時に手厳しく!)。自分の好きなように、思い通りに行かない生活-まさに、それが共同生活!-は、わたしが、わたしから「出て行く」ことを促し、助けてくれる。

 でも、それって、不自由じゃない?

 まあ、ちょっと待って。自分自身に問いかけてみよう。

 「わたしの」思い通りに何でもなる世界は、「他の人」にとって「自由」なのか?

 「他の人の」思い通りに何でもなる世界は、「わたし」にとって「自由」なのか?

 人は、一人で自分を救うことは出来ない。わたしが救われるためには、他の人々が必要。他の人々も、救われるためには、「わたしが」必要。

 「一人息子の誘惑」は、「自己完結」の誘惑である。これは、パパ・フランシスコが、すでに最初の使徒的勧告『福音の喜び』[EG](2013年)の中で指摘し、その後、ひじょうにしばしば口に出している誘惑だ。

 例えば、ペルーでの奉献された人々への話の中で引用した94項。「[霊的世俗性の一つは]自己完結的でプロメテウス的な新ペラギウス主義です」(EG94)。

 …つまり、自分自身で自分を救うことが出来る、自分自身で罪をつぐなうことが出来る、とうぬぼれること。これは、「わたしは、イエス・キリストのあがないの業は必要ではない」と言うようなものである…

 「この人々は、自分の力だけに信を置き、定められた法規を遵守していること、またカトリックの過去に特有の様式にかたくなに忠実であることで、他者よりも自己の力と感情にのみ信を置いているのです」(EG 94)。

 そして、このような人々は「自己陶酔的で権威的なエリート主義を生じさせ」、「福音をのべ伝える代わりに他者を分析し格付けし、恵みへと導くことにではなく、人を管理することに力を費やします」(EG 94)。

 パパは明確である。そういう人は、「聖なるもの」の管理者、行使者としては立派かもしれないけれど、自分も傷をもっていて、主によってその傷がいやされた、という感謝から、今度は自分の方から「出て行く」「奉仕者」ではない、と。

 パパの言葉の、何と的(まと)を得ていることか!これらの言葉で、心の中に、何かズキッと来るものがなければ、わたしは偽り者だろう。ここまで極端でないにしても、多かれ少なかれ、他者を「管理したい」、「わたしの思い通りに動かしたい」という誘惑は、つねにあるだろう。わたしの中にも、ある。

 これが、わたしを閉鎖的にし、神の創造的な恵みへの扉を閉ざしてしまう。

 だから、「警戒しなさい」とパパは言う。「このようなキリスト教のゆがめられた形態が、福音の真の活力を生み出すとは想像もできません」と言いながら(EG 94)。

 またパパは、神の民は、奉献された人々が、感謝に満ちた「奉仕者」であるとき、それを見分けることが出来る、とも指摘する。神の忠実な民は、嗅覚をもっていて、聖なるものの管理者と、感謝に満ちた奉仕者を見分けることが出来ます。記憶に満ちた人と、記憶を失った人を見分けることが出来ます。

 「神の民は、我慢することを知っていますが、喜びと感謝の油をもって、民に仕え、民を世話する人を見分けます 」(司祭、修道者、神学生との集い=ペルー、1月20日)。

 パパは、さらに言う。民が必要としているのは、「管理人」である司祭、修道者ではなく、「手を汚して」民の傷に触れ、治療してくれる司祭、修道者だ、と。転んだとき、罪を犯した時に、指を指して非難する「管理人」ではなく、手を差し伸べ、共に涙を流し、傍らで歩いてくれる司祭、修道者だ、と。

「神の民は、優越的指導者を、待っているのではありません。必要ともしていません。神の民は、いつくしみを知っている、手を差し伸べることを知っている、転んだ人の前で立ち止まることを知っている、牧者、奉献生活者を待っています。イエスのように、この、霊魂を毒する悲嘆を 咀嚼する 悪循環から抜け出すのを助ける牧者、奉献生活者を待っています」(司祭、修道者、神学生との集い=チリ、2018年1月16日)。

 「一人息子の誘惑」は、自分の世界しか知らず、自分の世界から出ないので、(時に悪気はなくても)周りの人が何を望み、何に苦しみ、何に傷ついているのかに気づかなくさせる誘惑だろう。たとえ、「奉仕活動」をしているとしても、いつでも「わたしのやり方」「わたしのリズム」に固執する誘惑だろう。

 「一人息子の誘惑」から自由になるためには、解放されるためには、わたしが「他者」を必要としている、「他者」はわたしにとってかけがえがない、ということをとことん経験しなければならない。そのためには、文書を読むだけ、「祈るだけ」では十分ではない。「出て行って」(たとえ、修道院の中から出て行けないとしても、自分から出て行く手段はたくさんある)、他の人々に「出会う」ことが必要だ。
出会う中で、共に生活する中で、人は少しずつ学んでいくのだろう。

 他者に会って、いきなりその人の傷に触れてはいけない。まず長い時間をかけて互いに信頼し合うことを学び、互いに正直に、率直になることを学ばなければならない。… そして、何よりもまず、「わたしの傷」に気づき、認めるところから出発することを。

 わたしは「傷無し」で、かわいそうな他者の傷を癒してあげる、というスタンスでは、まだまだ「一人息子」である。それは、自信満々のペトロの状態(cf.司祭、修道者、神学生との集い=チリ、2018年1月16日)。それは、「わたしは救われる必要がない」という自己完結的うぬぼれ。

 わたしは傷を負っている者、わたしは罪深い者、と悟る時、わたしは本当に「自由に」なる。

 「傷をもっているという自覚は、わたしたちを自由にします(解放します)。そうです、わたしたちを、自己言及(自己参照)的に

autoreferenzialiなることから、自分が優れた者であると思うことから、自由にします」(司祭、修道者、神学生との集い=チリ、2018年
1月16日)。

 「わたしたちは、他の人々よりも優れているから、ここにいるのではありません。わたしたちは、高い所から、『死すべき人間』に会うために降りてくるような、優位にいる者ではありません。むしろ、わたしたちは、ゆるされた者であることの意識をもって、招かれています。そして、これは、わたしたちの喜びの源です。傷つき、死に、復活したイエスのスタイルにおいて、わたしたちは奉献生活者、司牧者なのです。奉献(聖別)された人々 … は、自分自身の傷の中で、 復活 のしるしに出会った人、世の傷の中に、 復活 の力を見ることが出来る人、イエスのように、兄弟たちのところに、叱責や非難をもって会いに行かない人です」(司祭、修道者、神学生との集い=チリ、2018年1月16日)。

 パパの挙げる「こういう人になってはいけない」というサンプルを聞いて、すぐ、「あっ、これ、あの人のことだ」とか、「あのシスターは、まさにそうだようね~」と、考えているうちは、まだ、わたしは、わたしの「傷」に気づいていないのだろう。

 「わたしは、『優位に』『長上職に』立ったことがないから、『上から目線』の被害者だ!」と思っている間は、まだ、わたしは、わたしの心の「内奥」にまで入っていないのだろう。

 わたしの心の「内奥」に入るためには、わたしの救いのために死んで復活したイエス・キリストの霊に心を開かなければならない。まだ、「わたしが」「わたしが」と思っている間は、知らないうちに、わたしは、キリストの霊に心を閉ざしている。

 「長上職」に立ったことがないから、「上から目線」の被害者だ、と思っている、その心の状態は、もし、わたしが「長上職」に立ったら、「上から目線」になることを暗示している。というより、優位な立場にいなくても、日々の生活の中で、ことごとく「上から目線」で
生きていることの、しるしでもあるだろう。

 自分自身が「メシア・救い主」であるかのように勘違いすることの誘惑に対する「戦い方」の一つとして、パパは、「笑うこと」、特に、「自分自身を笑うことが出来ること」を挙げている。喜びに満ちた意識(自覚)。自分自身について笑うのを学ぶことは、わたしたちに、主
の前に立つ、霊的能力を与えます-自分の限界、誤り、罪をもって、しかしまた、自身の成功、そして主がわたしたちの傍らにいることを知っている喜びとともに( 司祭、修道者、神学生との集い=ペルー、1月20日)。

 そして、効果的な「霊的テスト」として、「わたしたち自身を笑う能力があるかと自問するテスト」を示す。「他の人々のことを笑うのは簡単」だけれど、自分自身の失敗や影の部分までの笑うことが出来るのは、そう簡単ではない。だから、「学ぶ」。笑ってください。共同体の中で笑っていください。共同体を笑うのでも、他の人々を笑うのでもなく!「あまりに偉すぎて、生活の中でどうやって微笑むのか忘れてしまった人々にならないように 」(司祭、修道者、神学生との集い=ペルー、1月20日)。

 パパ・フランシスコの言葉に触れれば触れるほど、奉献された者であるということ、奉献された者として生きるということは、何と大きな恵み、喜び、感謝であり、同時に、大きな責任であるかを知らされる。

 パパは、ペルーで、奉献された人々の「本物ぐあい」のバロメーターとして、「三つの要素」を挙げている。もし、ある修道者、司祭、奉献生活者、神学生が、「記憶、喜び、感謝にあふれた人」であれば、それは「本物だ」と。この三つは、「偽りの(仮装の)」召命を見破る武器である、とも(司祭、修道者、神学生との集い=ペルー、1月20日)。

 ここまで「はっきり」言われたら、もう逃げ場はない。「喜ぶことなんて出来ない、だって…」「感謝することなんて無理、だって…」と言い訳することは、出来ない。

 喜び、感謝がないなら、それは、根源的要素が欠けている、ということだろう。奉献された人々にとっての、根源的要素は、ただ一つ。イエス・キリストとの出会い。そしてそれは、祈りにおける出会いだけでなく、自分から「出て行って」、自分を煩わせる人と出会い、その人の中に、イエスの傷を見、また、イエスの傷の中に、その人の傷を見ること…。自分の思い通りにならない出来事、自分を邪魔する人の中に、イエスと出会って行くこと…。イエスのように、かがみこみ、へりくだって、時に中傷されながらも、人々の中にある傷を、唯一、それを癒すことが出来るイエスにもっていくこと…。

 だから、「記憶」。だから、民の記憶、わたしの歴史の記憶。パパは、洗礼者ヨハネの態度に留まっている。

 ヨハネは、自分が「メシア・救い主」ではないことを、自覚していた。自分の使命は、メシアのために道を準備することであることを知っていた。自分の民の記憶をもっていたから。ヨハネは、自分の弟子たちに、イエスを指し示し、彼らが自分のもとを去り、イエスについて行くよう促す。民の記憶をもっていたから。

 さらには、「自分は衰え、あの方[イエス]は栄えなければならない」と明言する。これは、出来そうで、出来ない。分かっていても、なかなか出来ることではない。ヨハネは、どんなに有名になっても、どんなに多くの人々が自分のもとにやってきても、自分自身の意識を失わなかった。

 「ヨハネもまた、彼よりも偉大な人を待っていました。ヨハネは、自分はメシアではなく、単にメシアを告げる者であることを明確に知っていました。ヨハネは、約束の記憶と、自分の歴史の記憶に満ちた人でした。彼は有名でした、偉大な名声をもっていました、すべての人々が、彼から洗礼を受けるために来ました、すべての人々が、尊敬をもって彼の言葉を聞きました。人々は、ヨハネがメシアであると信じていました。しかしヨハネは、自分の歴史の記憶に豊かであり、うぬぼれ(虚栄心)のお世辞にだまされるに任せませんでした」( 司祭、修道者、神学生との集い=ペルー、1月20日)

 パパは、使徒的勧告『福音の喜び』の中で、わたしたちの救いの決定的な時が、ひじょうに貧しい環境の中で始まったことを強調している。

 「神のみ心には貧しい人々のための優先席があります。神ご自身が『貧しくなられた』からです。神のあがないへとわたしたちが至る道のりのあらゆる場所において、貧しい人々がその道しるべとなります。わたしたちの救いは、大帝国の外れの辺鄙な小村に住む身分の低い少女から発せられた『はい』によってもたらされました…」(EG 197)。

 わたしたちは、そこで、まさに、そのもっとも貧しい場所で、イエスと出会うのだろう。イエスと出会う、特権的場所としての「貧しさ」。それは、物質的な貧しさばかりではない。自分の心の内奥の「傷」を認め、その傷が、イエスの傷によって癒され、復活させられた
ことを知る。記憶と、感謝と、喜びの中で。それこそ、まさに、わたしたちを、イエスの「生き生きとした証し人」としていくのだろう。毎日、毎日、少しずつ。

 パパは、ペルーの観想修道会のシスターたちとの集いの中で、「みなが一つになるように」という イエスのみ心と共調して、兄弟的生活(兄弟姉妹としての共同生活)に身を入れてください、と勧めている。

 「兄弟的生活に身を入れてください。不和と分裂のただ中で、一つ一つの修道院が光を放つことが出来る灯台であるように。それが可能であると預言するのを、助けてください。誰でも、あなたがたに近づく人が、兄弟的愛の『幸い を前もって味わうことが出来るように。兄弟的愛は、まさに、奉献生活固有のもので、今日の世の中で、そしてわたしたちの共同体の中で、ひじょうに必要です」( 観想修道会の修道女との集い=ペルー、2018年1月21日)。

 今日もまた、共同体の「困ったちゃん」シスターのことで、あれこれと「対策」が立てられる…。

 もしかしたら、わたしたちの共同体の一致を妨害しているように「見える」そのシスターこそ、わたしたちに、姉妹として共に生きることの大切さを教えてくれているのかも。わたしが、わたしたちが、共同体の一人のシスターを、「困った人」と排斥してしまわない限り、その人に扉を閉ざしてしまわない限り、今日も、わたしたちは、「キリストのからだ」としての共同生活を成長させていくことが出来るのだろう。

 「困った姉妹」にも、「居場所」がある、共同体。空間的な「居場所」、受け入れてもらえる、姉妹たちの心の中の「居場所」…。かえって、「目に見える」 困った姉妹」の方が、分かりやすくていいのかも。

 主よ、わたしの中に、心の中にある「傷」に気づかせてください。それを、あなたの「傷」の中で癒してください。わたしの傷を通して、わたしが、人々の傷を思い遣ることを可能にしてください。わたしの心が、決して、誰に対しても閉ざされることがないようにしてください。

 主よ、あなたは、中傷、裏切り、孤独の中で、ご自分の傷を通して、わたしたちを救ってくださいました。あなたの傷は、決して、憎しみに変わりませんでした。それどころか、あなたの傷は、自分の罪を悔いた盗賊を救い、弟子たちに平和を与え、疑い深いトマスの心を揺さぶりました。

 あなたの傷を通して救われた、最初の方、あなたの母マリアと共に、わたしたちも、人々の傷に寄り添い、人々をあなたのもとに連れていくことが出来ますように。あなただけが、人々の、わたしたちの傷を癒すことが出来るからです。

 アーメン!

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

2018年1月26日 | カテゴリー :

 Sr.岡のマリアの風 ㉒パパ・フランシスコと共に… 独り言アラカルト…(新)

 また、土曜日、「マリアと共にお手紙デー」が来た。他の日より、「ちょっぴり」、違う日。

***

 この「ちょっぴり」という言葉。わたしは、けっこう、使うらしい。意識していなかったが、ある時、ポーランドからここ、本部修道院に派遣され、日本語を勉強しているSr.Tから、「シスター、『ちょっびり』って何ですか?」と、聞かれた。

 (わたしが思うに)「ちょっぴり」は、「少し」とは、まさに「ちょっぴり」違う(あくまで、わたしのこだわりだけれど)。わたしが、昨日よりも、今日、もうちょっとだけ、イエスさまに近づきたい、昨日よりも、もうちょっとだけ、目覚めて、ミサに行きたい、イエスさまに、姉妹たちに会いに、出て行きたい。昨日よりも、もうちょっとだけ、「みことば」に留まりたい。…「ちょっぴり」だけ…

***

 それは、「どーせ、たくさんは出来ないから」…という、「あきらめ」とも、違う。「あきらめ」は、パパ・フランシスコが何度も言うように、「停止してしまう」こと、さらには、自分だけでなく、周りの人の善意も「ストップさせてしまう」こと。

 だから、パパ・フランシスコの中で、「あきらめ」はすでに「罪」である。人々の希望を摘み取ってしまうから。さらには、次の世代の人々に何も残さないどころか、自分が歩いた跡に、「不毛」、「荒廃」を残すから。

 「あきらめ」は、「ちょっぴり」進むことも拒否する。「ちょっぴり」前に進む、とは、(わたしによると)自分の弱さ、限界という現実に気づき、それをありのまま受け止めながら、周りの姉妹たち兄弟たちの弱さ、限界という現実に、ちょっぴりやさしくなって、どうにかして一緒に前に進みたい、という望み、希望から生まれる、「現実の一歩」だ。

 パパ・フランシスコは、「…したい」の状態で留まっていてはだめだ、と繰り返す。

 心の中の希望を消さない、とは、あきらめずに、小さなことを、普通の日々の中で、信じてやり続ける、具体的に「出て行く」、手を差し伸べる、声をかける、ほほえむ、善いことのために「手を汚して」働く…ということである。

***

 パパは、今年の1月1日、神の母マリアの祭日に、神が「本当に」人となったことの神秘を思い巡らす。本当に人となったイエス・キリストに従うとは、「具体的に」この世界を、より「美しく」「住みやすく」するために、出て行くことだ、と(そのような内容のことを)訴えた。

 パパは、神が、真実に、マリアの胎の中で人間の肉を取り、「人となった」、その時から、もはや、神と人とは切り離せない、「もはや、人間なしに神はいない」とまで言い切る。

 この地の、苦悩の中にも希望する民を前にして、パパは、神が人となったのは、「わたしたちと共にいる」ためだけでなく、「わたしたちのように」なるためだ、と言う。神が、わたしの痛み、涙を、ご自分の痛み、涙として「経験する」ことが出来るように…。わたしたちを絶えず驚かす、神の心!(以下、試訳)

 「マリアが「神の母」であるということは[…]主がマリアの中で受肉したときから、その時から、そして永久に、主は、ご自分がまとったわたしたちの人間性を運んでいるという真理です。もはや、人間なしに、神はいません:イエスが、母から取った肉は、その時も、そして永久に、彼のものであるでしょう。「神の」母と言うのは、わたしたちに次のことを思い起こしています:神は、人の近くにいる-幼子が、彼を胎の中に運ぶ母の近くにいるように-。

 用語「母」(mater)は、用語「物体」materiaにも関連しています。天の神、無限の神が、彼の母の中で、自分を小さくした、自分を物体とした―「わたしたちと共に」いるためだけでなく、「わたしたちのように」なるために-。これこそ、奇跡、これこそ、新しいことです:人間はもはや一人ぼっちではありません;もはや、決して、孤児ではありません。永遠に、子です。そしてわたしたちは、マリアを、「神の母」と呼んでたたえます。わたしたちの孤独が打ち負かされたことを知るのは、喜びです。わたしたちが、愛されている子であると知ることは、このわたしたちの幼年期(子であること)は、決して取り除かれないと知ることは、美しいことです。… 」

 復活のイエスが、その体に、「傷」-十字架の傷―を運んでいた、という神秘を思い巡らすたびに、みじめな罪びとであるわたしたちは、ありがたさのあまり、涙を流さないではいられない。イエスは、「強い」「健康な」わたしたちに会うために、出て来たのではない。イエスは、「この」、弱い、罪に傷ついたわたしたちに会うために、出て来て、降りて来て、降り尽くしてくださった。この、疑いもない「真実」は、何という大きな慰めであることか。

 慰め…なぜなら神は、人間の、わたしたちの、わたしの罪に「つまずかない」「驚かない」から。神は、わたしたちの弱さ、傷つきやすさを知っているから。神は、わたしたちの疲れ、渇き、苦悩を、「生きて」「経験して」知っているから。

***

 今週は、わたしにとって、チリ、ペルーを司牧訪問中のパパ・フランシスコの、「強烈な」言葉の一つ一つに触れ、心打たれ、涙を流した時期だった。自分のみじめさを思い、足りなさを思い、その「みじめなまま、足りないまま、傷ついたまま」で、「出て行ってください」、と懇願するパパの言葉をかみしめた。

***

 パパは、チリで、司祭、修道者たちに話しかけた。司祭による未成年の性的虐待事件という、何か内にくすぶっていたものの「現れ」でもあった事実を前に、信頼を失いつつあるチリの教会、道を歩いていたら人々に中傷されることさえある司祭、修道者たちに。

 パパは彼らと共に、聖書の言葉を味わう。パパは彼らと共に、聖書が示す、ペトロと共同体の「信仰の歩み」を辿った。
自信のあったペトロ…世の常識を知らない「先生」(イエス)を守ってあげなければ、と頑張っていたペトロ、「先生」が弟子の足なんか洗うもんじゃない、と抵抗したペトロ、「先生」のためなら命も捨てる、と宣言したペトロ… 落胆したペトロ… それなのに、「先生」を裏切った。「先生」を見捨てた。自分の弱さ、限界を経験して、打ちのめされたペトロ。

 そして、ゆるされたペトロ… 復活したイエスはペトロに、「この人たち以上に、わたしを愛しているか」と問いかける。ペトロは、「はい、愛しています」と言うが、イエスは、さらに同じ質問をなげかける。最後にペトロは、「あなたは何もかもご存知です…わたしが、あなたを愛していること、それでも弱さに負けて、恐れて、あなたを裏切ってしまったこと。それでも、それにもかかわらず、あなたを、何にもまして愛したいことを…」。

 この、ペトロの、ありのままの、「へりくだった」告白を、イエスは聞きたかった。教会の頭(かしら)であるペトロが、自分の弱さ、限界を受け入れ、それでもイエスに従いたいという告白を。イエスは、その告白を受け入れ、彼にご自分の教会を託す。そして、まさに、イエスの、この「いつくしみに満ちあふれる心」によって、「変容される」ペトロ。

 ペトロは、初めて理解する。

 自分は「先生」に、「偉い人」が弟子の足を洗うなんて非常識だ、止めてください、と抵抗した。自分たちは、「先生」が受難に向かって歩いているときに、「自分たちの中で誰が一番偉いか」と、話し合っていた。

 ペトロは、初めて理解する。

 「偉くなりたい」なら、「小さく」なり、「低く」なり、「仕える」者となりなさい、という「先生」の言葉を。「先生」は、小さくなり、身をかがめ、自分たちの足を洗ってくれた。それは、「先生」の尊厳を低めることではなかった。イエスは、まさに、「そのために」世に来たのだ。

***

 パパは、チリの司祭、修道者たちに言う。民が求めているのは、「規律」を厳格に守る司祭、修道者でも、高い所から命令する軍の司令官のような司祭、修道者でも、ない。

 民が求めているのは、自分たちのところに来て、自分たちの目を見て、自分たちと共に歩み、転んでしまったら、指さして非難するのではなく、黙って手を差し伸べ、また一緒に歩く司祭、修道者。苦悩のあまり涙を流すとき、弱さを見せるとき、自分たちのそばで、何も言わずに共に泣いてくれる司祭、修道者。イエスの「傷」を、自分の傷として運び、人々の傷、世界の傷の中に、イエスの傷を見ることが出来る司祭、修道者。そして、人々の傷、世界の傷を、唯一、それを癒すことが出来る方―イエス・キリスト-に運ぶことのできる、司祭、修道者である、と。

***

 昨日の夜、本部修道院での月一度の「ルカ(わたし)の勉強会」があった。「勉強会」の前、いつも祈る。

 イエスさま、あなたが、このあなたの民に語りたいと望むことだけを、わたしに語らせてください。

 マリアさま、わたしが、主が望むこと以外を語るのを、決してゆるさないでください―どんなに美しい言葉であったとしても、理屈の通った教訓であったとしても―。ただ、主が、今、ご自分の民に語ることを望んでいる言葉だけを、わたしに運ばせてください。

 わたしの中に、善意ではあっても、よい意図ではあっても、「姉妹たちに、この人たちに、こういうことを分かってもらいたい。こういう状態だから、こういうことを言う必要がある」…と、「わたしの」欲が入ると、それはまさに、「高い所からの話し」になる。

 イエスが、受難に向かいながらエルサレムに入ったとき、民衆は歓呼して迎えた。その流れて神殿に入り、司祭や律法の先生たちの前で、何か「偉大なレクチャー」をすれば、ひじょうにインパクトがあったはずだ。でも、イエスは何をしたか…。神殿に入るなり、境内で商売している人たちを追い出し、机やいすを倒した。「神の家」は「祈りの家」だ、と言いながら。

 もっと「賢明に」、その辺のところは妥協して、神殿の中で、エルサレムの権力者たちに、当たり障りのない「良い話」をすることだって出来たはずだ。
でも、イエスは、そうしなかった。

 イエスは、だんだん、受難の「沈黙」に入っていく。神のみ心の中の、すべての人々の救いは、受難の沈黙の中で実現する。
永遠から、神とともに在った「みことば」は、わたしたちの救いのために降りて来て、その「誕生」のとき、「語らない」「みことば」-生まれたばかりの乳飲み子―となった。

 そして、その生涯の最後、「受難」のとき、再び、「みことば」は黙する。わたしたちの救いの、決定的な「時」は、沈黙の時である。神の「みことば」は、沈黙の中で、わたしたちに「語りかける」。

***

 「沈黙」の中で語りかける神の「みことば」を運ぶ者となる。この、神のパラドックス(逆説)の中で、わたしたちも、沈黙に留まって、思い巡らさなければならない。マリアのように。十字架のもとに立つ、マリアのように。

***

 わたしたちは何としばしば、「わたしはこう思う!」「そんなこと、あり得ない!」…と、主張したがることか。
パパは、今年の世界平和の日、世界難民移住移動者の日、バチカン駐在各国大使たちへの新年の挨拶…の中で強調する。「互いに受け入れ合う」ことは大切だ。でも、それでも十分ではない。「互いに認め合う」ことがなければ、と。

 「認め合う」とは、まさに、目の前の相手の、一人の人間としての尊厳、神の御手で造られた人間としての尊厳を認める、ということであり、それもどちらかが一方的にではなくて、相互に、ということだ。

 「そんなのキリスト者として当たり前」、と思うだろうか。そう、確かに「当たり前」。でも、この当たり前のことを、普通の日々の中で、自分の良心に照らしながら、神の「みことば」に照らしながら生きるのは、そんなに簡単ではない(少なくとも、わたしにとっては)。

 相手は、わたしにとってなくてはならない存在である、相手は、わたしが「総合的に」成長するために、絶対必要な「賜物」である、と互いに認め合う。この地を、この世界を、美しくするために、わたしたちは互いを、必要な「賜物」として受け入れ、認め合う。

 そうしないと、神の織りなす「唯一の作品」は、出来上がらない。この世界を、美しくするために、わたしたちは互いを、必要な「賜物」として受け入れ、認め合う。そうしないと、神の織りなす「唯一の作品」は、出来上がらない。

 救いの歴史の、唯一の織物。さまざまな材質、色が、それぞれの場所に織り込まれた、織物。神の御手による織物。しかし、人間の協力なしには、決して出来上がらない織物。神が人となった、その時から、神のわざは、人間なしでは完成しない。
神の唯一の望みは、全被造物が、創造の目的―「エデンの園」の調和、神のいのちの共有―に達することであり、神の姿、神に似た者として造られた人間は、全被造物を完成へと導く協力者としての任務を託されている。

 使徒パウロは言う。全被造物が、その完成の時を、呻きながら待っている、と。

 「現在の苦しみは、将来、わたしたちに現されるはずの栄光と比べると、取るに足りないとわたしは思います。被造物は神の子らが現れるのを、切なる思い出待ち焦がれているのです。被造物は虚無に服従させられていますが、それは、自分の意志にあらず、そうさせた方のみ旨によるのであり、同時に希望も与えられています。すなわち、その被造物も、やがて腐敗への隷属から自由にされて、神の子どもの栄光の自由にあずかるのです。わたしたちは今もなお、被造物がみなともに呻き、ともに産みの苦しみを味わっていることを知っています。被造物だけでなく、初穂として霊をいただいているわたしたち自身も、神の子の身分、つまり、体の贖われることを待ち焦がれて、心の中で呻いています。わたしたちは救われているのですが、まだ、希望している状態にあるのです。目に見える望みは望みではありません。目に見えるものを誰が望むでしょうか。わたしたちは目に見えないものを望んでいるので辛抱強く待っているのです」(ロマ8・18-25)。

 わたしの好きな聖書の箇所の一つ。そうなりますように!アーメン!

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

2018年1月20日 | カテゴリー :

 Sr.岡のマリアの風 ㉑パパ・フランシスコとの旅

 パパ・フランシスコは、謙虚に、一歩一歩進んでいますね。

 時に、メディアには、パパ・フランシスコの言動は「パフォーマンス的」 に映るかもしれないけれど、パパの言葉を、一言一言 かみしめていくと、決して、「耳に心地よい」ことは、言っていませんね

 この世の「常識」は 時に、「だって、しようがないじゃん」「相手が悪いんだから」「わたしたちが、いっくら頑張ったって… …と言って、わたしたちに「あきらめ」の空気を伝染する。その「あきらめ」に、わたしが、わたしたち自身が、流されるに任せてしまうこと、それは「罪」だ、とパパは断言します。

 あきらめてしまう、とは、もう、今、わたしの住んでいるこの世界を、さらには、次の世代の子どもたちの世界を、「少しでも良くする」ために 何かをする」のを放棄する、というだから。それは、今も、世の終わりまで、「働いて」いる、創造主である神の協力者
としての人間の使命、責任を、放棄することだから。

 それにしても、日々、短い言葉でパパの行動、言葉を要約している、「バチカン放送局HP」は、さすがにプロですね!(わたしは「記者」という職業をひじょうに尊敬しています。「要約」がひじょうに下手だから)。

 わたしは、その素晴らしい記事を読みながら、その間、シスターたちのために、ぼちぼち、パパの言葉を一言一言、試訳しています。誰かの言葉を 批判 するなら、きちんと原文を読んでからにしろ!と、恩師にさんざん-6年間-言われ続けましたので この場合、「批判」というのは、ヨーロッパ的ニュアンスで、否定的な意味ではありません)

 1月16日の、司祭、修道者、神学生たちへの話も、ひじょうにパパらしい、一方で、謙虚さ、他方で、「出て行く」力を兼ね備えたものですね。こちらは長いので、そしてわたしたち修道者にズ~ンとくる内容なので、少しずつ訳すことにします。

 1月17日の、テムコ空港でのミサ。短いけれど-バチカン放送HPでも分かるように―、本質的にいきなり入る、強烈なメッセージですね。「分かっちゃいるけど、実行するとなるとね~」と、わたしたちが概して、心の中では「このままではいけない と思いつつ、言い訳しながら、「ぐずぐず」しているところを、ズバッと明らかにする…。

 それプラス、今日のミサの第一朗読。イスラエル人を、ペリシテ人に対する勝利へと導いたダビデに、嫉妬するサウル王…。「他人事」として、この聖書の箇所を読めば、サウル王を、「王であるのに、大人げないな~」と思ってしまうけれど、こういうこと、日々の何気ない心の動きの中で、多かれ少なかれ、ありますね(わたしだけ??)

 嫉妬に狂って、冷静な判断が出来ず、ダビデを殺そうなどと過激な結論まで出してしまうサウル王。

 「嫉妬」は、まさに、神がわたしたち一人ひとりに託した、一つひとつのユニーク、唯一の使命を見えなくしてしまいますね。…だから、「嫉妬、妬み」は、わたしを、神から分裂させる。

 サウル王は、主に「油注がれた者(メシア)」としての自分の使命-すべての人を一つに集め、神の「地」、神のいのちへと導く使命-を、まったく忘れています。というより、もしかしたら、心の底でわかってはいるけれど、認めたくない!という気持ちでしょう。
わたしは、わたしたちは、何と無駄なことに、神の時間を費やしているのでしょうか…

 サウル王から始まる、イスラエルの、主に油を注がれた王たちの歴史。その完全な実現である、大文字の「油注がれた者(メシア) イエスは、十字架に上げられながら、すべての人々を一つに集めます。

 何と、わたしたちの思いと、神の思いは、異なるのでしょう!
今日から、「キリスト教一致週間」。平和を脅かす「分裂」をもたらすもの。それは、まさに、「善いことをした」ダビデを妬み、殺そうとまでする、サウル王の「心」―嫉妬、妬み-ですね。

 聖書学者A. Vanhoye枢機卿は、また、このサウル王の心を落ち着かせ、主が彼に託した「王であること」の意味を静かに諭す、彼の息子、ヨナタンのしたことを、「和解」の素晴らしい模範だ、と指摘しています。まさに、一致、平和を助けるのは、暴力ではなく、相
手を思いやる心から発する真理の言葉ですね。

 パパは、テムコ空港のミサの中で、パパの「口癖」の一つ、わたしの好きな言葉を伝えています。平和を造りだすのは、「手職人rtigiani だ、平和は、異なる糸を一つ一つ味わいながら(一つ一つの糸に「聞きながら」)、少しずつ、忍耐強く、一つの調和のとれた織物を織っていくようなものだ、と。だから、平和は、「手作業」「手作り」。機械による大量生産や、机の上だけの精巧な理論では造り出せない、とパパは強調します。

 平和は「手作業」…だから、「対話」。だから、「相手」のところに「出て行って」、その人が住んでいるところ、生きている場に行って、その人の話だけでなく、その人「自身」に聞くこと…

 パパ・フランシスコは、さらに、相手を「受け入れる」だけでは十分ではない、と言います。相手を「認め」なければならない、相手の、人であることの尊厳を認めなければならない、互いに「認め合わなければ」ならない、と。

 これって、まさに、パパ自身が行っていることですね。今、チリで「出て行って」、その人たちの「地」に自らを置き、美しいことばかりでなく、その人たちの涙、苦しみを「聞く」こと…

 パパは、テムコ空港でのミサに集まった人々に、共に祈るよう、呼びかけます。「主よ、わたしたちを、一致の職人としてください」«Signore, rendici artigiani della tuaunità»

 わたしが、ぼちぼちと、せっせと、いろいろな「試訳」をしているのを、「すごいバイタリティー!」と感心してくださる、心優しい友人たちがいます。でも、わたしの中では、そんな大げさなことでも、尊敬されるようなことでもなく、今日のわたしの使命を、不器用に、少~しずつ、生きている、という感じです(こう言うと、また「謙遜な…」と「誤解」されるかもしれませんが、これって、すべての善意の人たちが、毎日、しようとしていることと、まったく同じです)。アーメン!

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

2018年1月18日 | カテゴリー :

 Sr.岡のマリアの風 ⑳2017年終わりの「独り言あれこれ」

パパ・フランシスコと共に…仕えること(奉仕)と、交わり(コムニオ)を生きること

2017年度、待降節・降誕節を、パパ・フランシスコと共に過ごしながら-パパの言葉、任務に、インターネットを通じて寄り添いながら-、繰り返される幾つかの言葉が、わたしの中で響く…

 パパ・フランシスコと共に、受肉の神秘に奥深く分け入る中での「独り言」…

・限りなく、無償で、わたしたち人間に愛を注ぐ父である神は、御子、イエス・キリストの中で、わたしたちが見、聞き、触れることが出来るものとなった。

・御子、イエス・キリストは、わたしたちのため、わたしたちの救いのために、インマヌエル 「わたしたちと共におられる神」 となった。罪を除いて、わたしたちとまったく同じ者、同じ肉をまといながら。
わたしたちは、主の降誕の神秘の中に、人間の知恵では想像もつかない、神の「やり方」を見る-わたしたちのために、貧しく、身分の低い者となって、ご自分のために「宿屋に場所がない」この世に降りて来た神―・わたしたちは、この、柔和で謙遜な「幼子イエス」を、今、世界中で、「宿屋に場所がない―生きるための場を奪われた-」たくさんの子どもたちの顔の中に、見る。(パパは、具体的に、中東、シリア、イエメン、イラン、アフリカ…の子どもたち、両親に仕事がない子どもたち、さまざまな形で搾取され[人身売買、少年兵… 幼年期を奪われた子どもたち…と例を挙げている)。

・わたしたちは、聖霊に照らされて初めて、この貧しくへりくだり、飼い葉桶に寝かされた「幼子」の中に、わたしたちのただ中に降りて来た「救い主」を見分けることが出来る。

・幼子イエスは、わたしたちの心を開く…この世の価値観ではなく、「神の価値観」へと。富、権力、名誉、快楽、安心を求める生き方ではなく、自分の一番大切なものを、神のために、人々のために捧げ尽くしていく生き方へと。

・幼子イエスは、わたしたちに悟らせる…無償のいつくしみ深い愛である神の御手の中で作られた人間は、「他者」より優れた者になることにではなく、「他者」のために-神のために、人々のために-自分の大切なもの、命までをも分け与えて行くことの中に、真の「幸い」を見出すことが出来ることを…。

 幼子イエスは、わたしたちに悟らせる…神の「姿-イメージ-」を、自分の存在深く印されている人間は 相手の富を搾取したり、相手の心を独占しようとしたり、相手の名声、権力をねたんで陥れ、自分がトップに立とうとしたり、決して満たされることのない快楽を求めたりする「生き方」の中で、決して、本当の「幸い」を見出すことが出来ないことを。

・「世の初めから」「永遠から」神の傍らで、神の栄光をまとっていた「みことば」は、聖霊の働きによって、ナザレの貧しい、身分の低いおとめ、しかし同時に、「永遠から」神の母となるために望まれ、準備され、神の恵みに満たされていたおとめ、マリアの胎の中に宿った。飼い葉桶に寝かされた、人となった神の「みことば」には、当然まとうべき「神の栄光」はないけれど、その代わりに、マリアとヨセフの、人間の親としての気遣いに「まとわれ」、貧しいけれど、神の救いの知らせに「目覚めて」いた羊飼いたちの喜び、遠い国から、すべてを置いて救い主を拝みに来た、東方の博士たちの喜びに「まとわれ」ている

・長い間、イスラエルの民が待っていた「救い主」が生まれたのに、王、権力者たち、学者たち、祭司たちは、飼い葉桶に寝かされた貧しい幼子の中に、それを見分けることが来なかった。

・今日、「わたしたちのために、救い主が生まれた」。それは、わたしたちが想像するような場所、姿(王宮の中、立派なベッドの上、召使たちに囲まれて…)においてではなく、わたしたちの「すぐ近く」に、わたしたちの共同体の中に、町の中に、国の中に、忘れ去られている人々、排斥されている人々、苦しむ人々の中に…。

・今日、わたしたちも、羊飼いたちと共に「出て行こう」-「さあ、立って、天使が告げたこと(飼い葉桶に寝かされた、救い主)を、見に行こう!」-。

 パパは、教皇庁恒例の、降誕祭挨拶(Auguri Natalizi della Curia Romana:2017年12月21日)や イタリア神学会Associazione Teologica Italianaへの講話(2017年12月29日)の中で、さまざまな意味で、教会を導く立場にある人々に、「仕えること」-「交わり(コムニオ)の中で生きること」を強調している

 教会のトップに立つ者は、「社会常識」の中で考えられている、トップに立つ者の姿とは、全く違う。自分の権力をひけらかすことにではなく、「仕えること(奉仕すること)」の中に、教会の指導者たちの権威の表現が、ある。

 何に仕えるのか?―「交わり(コムニオ)」に仕える。互いの(指導者たちの間、神学者たちの間)交わり。神の民-教会-との交わり。
ペトロの任務を継承する、教皇との交わり。三位一体の「交わり」の神との、交わり。「交わり(コムニオ)」の神秘を深めることにより、「仕える」ことの神秘が深められ、「仕える」ことの神秘を深めることにより、「交わり」の神秘が深められる。

 「仕える」ことも、「交わり(コムニオ)」も、キリスト者にとって、根源的な「神秘」である。なぜなら、主イエス・キリストが、「仕える」ため、散らされた神の子たちを「一つに集めるため-交わりの中に-」、わたしたちのただ中に降りて来たのだから。ご自分の命を、徹底的に、根源的に、すべて、神である御父の救いの計画のため、わたしたちの救いのためにささげ尽くしながら。

 別の機会に、パパ・フランシスコは、教会の中で責任ある立場にある人々は、この世の「出世主義」に毒されないように、と繰り返し訴えている。教会の中での任務は、「出世」のためではない。今はこの役職だから、次の異動のときには、もっと「上の」役職をもらえるだろう、あの人より、この人より、早く「出世」できるように…と考えるのは、「この世の」メンタリティー、「出世主義」の考え方である。

 教会の中で、一つ一つの任務、役職は、それが大きいものでも、小さいものでも、みな、同じ「奉仕」である。教会の中で、肩書のある役職から、肩書のない「下働き」に移された、と文句を言う人には、こう言いたい…とパパは言う…。何も心配しないでください。あなたはただ、一つの「奉仕」から、もう一つの「奉仕」へと移っただけです、と。

 またパパは、イタリアの神学会への講話の中で、神学は、「交わり」のための「奉仕」であるから、教会共同体の交わりの中で、神の民に「分かるように」、「善い知らせ」-福音-を伝えてください、と訴えている。

 この、複雑にさまざまな思惑が絡み合っている現代社会に生きる人々に、複雑な話ではなく、「単純な光」に照らされた「善い知らせ」を伝える。…誤解してはいけないと(わたしは)思うが、人々に「分かるように」とは、「簡単に」という意味ではないだろう。キリストの福音は、ある意味で、「簡単に分かるものではない」からだ。キリストの福音は、こう言うことが出来るなら、人間の思考回路に対して、常に、「パラドックス(逆説)」として映る。

 イエスは、人々に「分かるように」、たとえ話で話した。しかし、この、たとえ話にしたって、「簡単に分かるものではない」。ルカ福音書が伝える、神のいつくしみに関する、三つのたとえ話―失われた銀貨、見失った一匹の羊、放蕩息子のたとえ話―にしたって、物語としては「分かりやすい」が、その奥に隠されている真理は、決して分かりやすくない。

 無償の愛を注ぐ父と、その父の愛を、自分の快楽、利益のために使い、父を裏切り、一文無しになって帰ってきた息子を、駆け寄って抱きしめ、再び、息子としての尊厳を与え(上等の服、指輪、靴…)、宴会まで開いて喜び合う父。それに腹を立てて、宴会に来ようとはしない、もう一人の息子を、わざわざ外に迎えに行く父。…これは、決して「分かりやすい」話ではないだろう。

 神の民に「分かるように」伝える、という神学の、神学者の務めとは、神の民を「子ども扱い」することではなく、分かりやすい言葉を使いながら、人間の知恵では、決して理解し尽くすことの出来ない、神の「知恵」の深みに、少しずつ、へりくだって、忍耐強く、そして、神学者自身も、神の民の一人として、民と共に、交わりの中で、入っていくことだろう。

 キリストの復活の霊、聖霊だけが、わたしたちを、人間の知恵を超える神の「知恵」へと開く。まさに、「聖霊に導かれた(動かされた)」老シメオンが、貧しい両親―ヨセフとマリア-に連れられて、神殿に入って来た「幼子」の中に、イスラエルの民が長年待望していた「救い主」を見分けることが出来たように。わたしたちも、日々の、一見、普通の、取るに足りない出来事の中に、「わたしたちと共におられる神」-インマヌエル-を見分けることが出来るように。

 神の民は、決して「子ども」ではない。神の民、一人ひとりの中で働く聖霊が、「分かりやすい」言葉で語られる、深い神の神秘を、少しずつ理解させていく。だから、大切なのは、神の民一人ひとりが―指導者も、司祭も、神学者も、修道者も、信徒も-、おとめマリアの、へりくだって、率直に、神の「みことば」を心に受け入れ、留め、思い巡らす態度を、自分のものとすることだろう。

 おとめマリアの「思い巡らし」は、単に、目の前に起こる出来事を考えるだけにはとどまらない。マリアは、彼女自身の民の伝統-数千年のイスラエルの民の信仰の旅から来る知恵―と、現実を対比させながら、今、主が自分に望んでいること、主の「思い」を理解しようとする。それを、より良く生きることが出来るように。

 これこそ、神との深い交わり―「子」、「友」としての交わり―に招かれている、神の民の「信じる」態度だろう。単に、何かが天から落ちてくるのを、または誰かが教えてくれるのを待っているのではなく、自分の方から、神の思い、望みを探し求め、それを生きようと積極的に努力する。それがつまり、聖霊に心を開いている状態、と言えるだろう。

 マリアは「教会の姿―イコン-」とも呼ばれる。マリアは、「アルファ(初め)」から、「オメガ(終わり、完成)」へと向って、日々の
歩みを続けている、神の民の壮大な旅の「小宇宙(ミクロ・コスモ)」とも言われるイスラエルの娘、シオンの娘であるマリアの、神の民を代表した、あの「はい(フィアット)」が、わたしたちのための神の救いの計画の「決定的実現」の始まりを印した。あの、マリアに代表された神の民の、積極的な、意識ある、責任ある「はい(フィアット)」がなければ、全知全能の神でさえ、ご自分の計画を実現できなかった。

 …では、神は、「不確実性」にかけたのか?そうではない、と、教会の伝統は教える。神が、ご自分の民の娘の「はい(フィアット)」を「必要」としたのは、神が、それほどまでに、人間を尊重し、信頼しているから、と言えるだろう。実に神は、天地創造の「初め」から、数千年という膨大な時間をかけて、この、救いの歴史の中で唯一の「はい(フィアット)」を準備したのだ。神は、不確実性にかけたのではなく、こう言うことが出来るなら、絶対に確かな、決して撤回されない「はい(フィアット)」を準備するために、ご自分の民を教育した。神の前で、わたしたちの世の千年は一日に等しい、と、詩編作者は歌う。神の、わたしたちに対する忍耐、いつくしみ深さは、とてもわたしたちが想像することは出来ない。

 新しい年、2018年が始まろうとしている。自分に出来ることを、日々、忠実に続ける中で、聖霊に動かされて、わたしたちのただ中
におられる主―インマヌエル-の現存に、つねに目覚めていることが出来るように。主の望みを、「普通の日々」の中で、へりくだって、喜んで、行っていくことが出来るように。

 そのためには、毎朝、共同体と共にミサ聖祭の始まりに捧げる 「主よ、あわれみたまえ」の祈りに、全身全霊を込め、主に絶えず赦しの恵みをいただきながら、自分のみじめさ、罪深さを涙すると同時に、無償で、真に「神の子」としての尊厳をいただいたことに感謝しながら、喜んで、前に進んで行こう。「赦された者たち」の共同体の交わりの中で。

 また、自分の生きている間のことだけを考えるのではなく、次の世代、後輩たちのために、自分自身が受けてきた教えを、語り継いでいこう。唯一の霊に導かれ、たとえ文化、言語、考え方が違っても、唯一の歩み―神ご自身の永遠のいのち、交わりの中に入る歩み―を続けてきた神の民の中で、共に歩んでいくことが出来るように。「オメガ(完成の時)」に向かって…。このようにして、貧しいわたしたちを通して、すべての人々に、主の祝福が行きわたるように。地の果てにまで。アーメン!

 2017年終わりの独り言として…Sr.ルカ

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

2017年12月30日 | カテゴリー :