・Sr.岡のマリアの風㉝教皇フランシスコの聖母巡礼地・アグロナでのミサ

教皇フランシスコのバルト3国訪問中の 24日、ラトビアの聖母巡礼の中心地、アグロナ でのミサが感動的でした。試訳でお届けします。(小見出しも)

「あなたが母であることを示してください!」

十字架のもとに立つ母 わたしたちは、こう言うことが出来るでしょう:聖ルカが使徒言行録の最初に語っていることが、今日、ここで繰り返される、と。わたしたちは、深く結びつき(一致し)、祈りに専念しています、わたしたちの母、マリアと共に(1 14参照)。今日、わたしたちは、この訪問のモットーをわたしたちのものにしましょう:「あなたが母であることを示してください!」“Mostrati Madre! Show yourself as Mother! ” 母よ、あなたが「マニフィカト」を歌い続けている場所を、わたしたちに示してください。

わたしたちに、あなたのみ子が十字架につけられている場所を示してください-わたしたちが、十字架のもとで、あなたの堅固な存在と出会えるように-。カナの婚礼と、十字架のもと ヨハネの福音は、イエスの生涯が、彼の母の生涯と交差する、ただ二つの時だけを語っています:カナの婚礼(2 1 12参照)と、今、聞いたばかりの、十字架のもとの母(19 25 27参照)。

ヨハネの福音書は、人生の、一見して反対の状況の中で、わたしたちにイエスの母を示そうとしたとも言えるでしょう:婚礼の喜びと、子の死のための苦しみ。わたしたちが、「みことば」の神秘の中に深く入り込むとき、「みことば」はわたしたちに、主が、今日、わたしたちと共に分かち合うことを望んでいる「善い知らせ(福音)」が何であるかを示します。
「しっかりと(堅固に)立っていた」

福音作者が強調する最初のことは、マリアが、彼女の子の傍らに、「しっかりと(堅固に)立っていた」“saldamente in piedi”ということです。

気楽な方法で立っているのでもなく、あいまいでも、ましてや臆病な方法でもなく。マリアは、断固として、十字架のもとに「釘づけにされて」います。彼女の体の姿勢をもって、何も、誰も、彼女をあの場所から動かすことは出来ないことを表現しながら。

マリアは、世界中が避けている人々の傍らに、ご自分を示すマリアは、先ず、このように ご自分を示します :苦しんでいる人々の傍らに、世界中が避ける人々の傍らに、告訴された人々、すべての人々から糾弾された人々、追放された人々の傍らにも。抑圧され、または搾取されただけでなく、直接、「システムの外に」、社会の縁にいる人々の傍らに(使徒的勧告『福音のよろこび』53項参照)。彼らと共に、母もいます-無理解と苦しみの十字架の上に釘付けにされて-。

マリアは、持続的に、傍らに留まることを、わたしたちに示す

マリアは わたしたちに示しています この現実の傍らに立つ方法をも ちょっとした散歩や、短い訪問、ましてや「連帯のツアー(観光)」をするのではなく。

苦しみの現実を耐えている人々が、わたしたちを、彼らの傍らに感じること、彼らの側にいると感じること-断固とした、持続的な方法で-が必要です;社会の「廃棄された人々」がすべて、繊細に(思いやりをもって)近くにいるdelicatamente vicina「母」の経験をすることが出来ます―なぜなら、苦しんでいる人の中に、彼女の子イエスの開かれた傷が続いているから―

マリアは、それを、十字架のもとで学びました。わたしたちもまた、人々の苦しみに「触れる」よう呼ばれています。わたしたちの民に会いに行きましょう。彼らを慰め、彼らに寄り添うために;わたしたちは、「やさしさの力」を経験すること、他の人々の生活に巻き込まれ、面倒になることを、恐れません(同上、270項参照)。

そして、マリアのように、堅固に、立って、留まりましょう:神に向けられた心をもって、勇敢に。転んだ人を再び起こし、みじめな人を慰め、彼らを、十字架につけられた者たちのようにしている、あらゆる抑圧の状況を終わらせるよう、助けながら。

マリアは、わたしたちを「子」として受け入れる

マリアは、イエスから、愛する弟子を、彼女の子として受け入れるよう招かれました。福音箇所はわたしたちに、彼らが共にいたと語っています。しかしイエスは、互いに受け入れ合わなければ、十分ではないと気付きました。

なぜなら、ひじょうにたくさんの人々の傍らにいることは出来ます、同じ住まい、地区、または仕事を共有することさえ出来ます;信仰を共有し、同じ神秘を観想し、享受することが出来ます。しかし、受け入れることなしに、他者を 愛をもって受け入れようとせずに。

どんなにたくさんの夫婦が、近くにいながら、共にいない彼らの物語を語ることが出来るでしょうか;どんなにたくさんの若者たちが、大人たちに関するこの隔たりを、苦しみをもって感じているでしょうか;どんなに多くの高齢者たちが、冷たく世話をやかれていると-愛情をもって気遣われ、受け入れられているのではなく-感じているでしょうか。

マリアは、赦しに開かれた女性としてご自分を示す

わたしたちが他の人々に開くとき、時に、それがわたしたちをひじょうに傷つけることがあるのは、本当です。そしてまた、わたしたちの政治的現実において、民の間の衝突は、まだ痛ましくも生々しいことは本当です。

マリアは ご自分を示します 赦しに開かれた女性、怨恨(えんこん)、不信をわきに置く女性として マリアは、もし、彼女の子の友人たちが、彼女の民の祭司たちが、「こうすることが出来たら」、または、政治家たちが、異なる方法でふるまったなら、と非難することを放棄します。マリアは、欲求不満(フラストレーション)、または無気力に勝たせるに任せません。

マリアは、イエスを信じ、弟子を受け入れます。なぜなら、わたしたちを癒し、わたしたちを解放する関係は、他の人々との出会い、兄弟愛にわたしたちを開く関係だからです。そのような関係は、他者の中に、神ご自身を見出すからです(同上、92項参照)。

Sloskans司教の言葉

ここに眠っているSloskans司教は、捕らえられ、遠くに連れて行かれた後、彼の両親に書いています:「あなた方に、わたしの心の奥深くからお願いします:復讐、または絶望が、あなた方の心の中に開かれるままにしないでください。もし、わたしたちがそれを許すなら、わたしたちは本当のキリスト者ではなく、狂信者となるでしょう」。

わたしたちに、他の人々を信用しないよう(警戒するよう)招き、統計をもって、わたしたちに、もしわたしたちが一人でいるなら、より繁栄を得、より安全だと示そうとしているメンタリティーが戻って来たように見える、今の時代において、マリアと、この地の弟子たちは、わたしたちに、受け入れ、兄弟について、普遍的兄弟愛について、再び賭けをするよう、招いています。

マリアは、受け入れられるに任せる女性としてご自分を示す

しかしマリアはまた ご自分を示します 受け入れられるに任せる女性として、弟子に属する物事の一部になることを、謙虚に受け入れる女性として。

あの、ぶどう酒がなくなった婚礼―喧嘩に満ち、しかし、愛と喜びに欠けて終わる危険とともに―の中で、イエスが彼らに言うだろうことを行ってくださいと命じたのは、彼女でした(ヨハ2 5参照)。

今、マリアは従順な弟子として、受け入れられ、変えられ、より若い者のリズムに自らを順応させるにまかせます。

いつも、調和は苦労を要します:わたしたちが異なるとき、年月、歴史、状況が、わたしたちに、一見して反対であることのように見えることを 感じ、考え、行なうように仕向ける時。わたしたちが、受け入れなさいという命令、受け入れられなさいという命令を 信仰をもって聞く時、違いにおける一致を形づくることが可能になります。

なぜなら、違いは、わたしたちにブレーキをかけることも、わたしたちを分裂させることもせず、わたしたちは、さらに向こうを見つめることが出来るから、他の人々を、彼らの、より深い尊厳において見ることが出来るから―同じ「御父」の子らとして(福音的勧告『福音のよろこび』228項参照)。

このミサ聖祭の中で-あらゆるミサ聖祭の中でのように-、わたしたちはあの日の記念を行います。十字架のもとで、マリアはわたしたちに思い起こします:マリアの子らとして認められたことの喜びを。そして御子イエスはわたしたちを招きます:マリアを家に連れて行くことを、マリアを、わたしたちの生活の真ん中に置くことを。

マリアは、わたしたちに与えることを望んでいます:堅固に立つために、彼女の勇気を;歴史のあらゆる時の座標軸に、自らを順応させるにゆだねる、謙虚さ(へりくだり)を;そして、彼女の声を上げます-この彼女の巡礼地に、わたしたちすべてが、差別無しに、集まるよう努力するように。そして、ラトビアにおいて、わたしたちすべてが、より貧しい人々を優先し、倒れた人々を再び起こし、到着し、わたしたしたちの前に現れる他の人々を受け入れる心構えが出来ているように。

ミサの終わりに-感謝-

愛する兄弟姉妹たち、この祭儀の終わりに、あなた方の司教の言葉に感謝します。また、さまざまな方法で、この訪問のために協力したすべての人々に、心からありがとうを言いたいのです。特に、ラトビア共和国大統領と、各界代表の方々の歓迎に、心からの感謝を表します。

この「マリアの地」で、神の聖なる母に、特別なロザリオを捧げます:おとめマリアが、あなた方を守り、あなた方につねに寄り添ってくださいますように。

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

2018年9月28日 | カテゴリー :

・Sr.岡のマリアの風㉜9月の初めに:小さな道を歩もう-初心にかえって-

 8月を「聖母の被昇天」の祭日 一年の典礼暦の中で一番大きな聖母の祭日 を祝って終え、9月を、「聖マリアの誕生」の祝日で始める。東方正教会Orthodox Churchでは、9月は、新しい典礼暦の始まりである。

 聖マリアの「誕生」をもって始まる、新しい時。それは、「小さな道」とも言えるだろう。

 聖マリアの誕生の場は、伝統的に、エルサレムの、現在の「聖ステファノの門」の近く、聖アンナ教会があるところだったろうと言われている(諸説あるけれど)。それは、イスラエルの民の宗教の中心地、エルサレムで起こったとしても、当時、ほとんど人目に付かない、宗教の指導者たちの目からは隠された、「小さな」出来事だっただろう。

 7月、ローマの恩師、先輩たちと会い、ヨーロッパにおいても「マイナー」な神学分野であるマリア論の研究を、喜びと熱意をもって続けている姿を見た。また、ローマ出張の後に訪問したポーランドの共同体の姉妹たちの、素朴で力強い信仰と、聖母への、子どものように単純な崇敬を体験した。

 8月、本部修道院では、被昇天の聖母祭日 8月15日 を中心に、祭日前の「9日間の祈り」(ノヴェナ)と、祭日を含む「8日間の祈り」を、姉妹みなで祝った つまり、8月6日から始まり、8月15日で頂点を迎え、8月22日の天の元后聖マリアの記念日までその間、晩の教会の祈りの少し前に聖堂に集まり、聖母賛歌を歌い、聖母の被昇天の神秘に関する教会の伝統を、ゆったりと聞く 今年は特に、教皇フランシスコ、教皇ヨハネ・パウロ二世の講話、祈りを味わった。

 祭日、8月15日には、一時間の「被昇天の聖母の集い」を行った。修道院の長い廊下を通って聖堂まで、聖母像を先頭に聖歌を歌いながら行列し、聖堂では、各々バラの花(シスター手作り)を捧げ、聖母像に触れて祈る。共に「聖母の戴冠式の連祷」を歌う祈りの期間中の主日には、ミサにあずかった障がい者施設の利用者、その他の信徒の方々が ミサの後、それぞれ行列をして聖母に花を捧げた。

 最終日の8月22日、天の元后聖マリアの記念日には、聖堂の大きな聖母像に荘厳に戴冠し、九日間と八日間の祈りの中で捧げてきたものすべて(花、手紙…)を、聖母像の前に捧げた。

 聖母や聖人のご像や絵に触れたり接吻したりするのは、日本的な感覚ではないかもしれない。でも、本部修道院は、ポーランド、韓国、ベトナムの姉妹たちと共に共同生活をしている場。それぞれの国の信仰感覚-それは特に、「民間信心」の中に培われ、温められ、表現される-を共有することによる豊かさを、わたしたちは現に経験している。

 いわゆる「民間信心popular piety」については、教皇フランシスコがたびたび示しているように、パウロ六世の、使徒的勧告『福音宣教Evangelii nuntiandi 1975 -まさに、福音宣教に関する「座右の書」-48項に、簡潔だが深い要約を見ることが出来る。それをさらに、現代のわたしたちにも分かりやすく説明したのが、教皇フランシスコの使徒的勧告『福音の喜びEvangelii gaudium 2013 122 126項(「民間信心がもつ福音化の力」というサブタイトルがついている)だろう。

 付け加えれば、パウロ六世の文書自身、第二バチカン公会議の『教会の宣教活動に関する教令Ad gentes 1965 第2項の、次の要約的一節を深めたものとも言える:「地上を旅する教会は、父である神の計画に従って、御子の派遣と聖霊の派遣とに由来するのであるから、その本質上、宣教的である」。

 教皇フランシスコは、『福音の喜び』の123項で、第二バチカン公会議後の数十年間で「再評価」されるようになった民間信心に「決定的な弾みをつけた」のが、パウロ六世の『福音宣教』であると述べ、次のように要約している:「パウロ六世は、民間信心は『素朴で貧しい人々のみが知りうる、ある神への渇きを示していて』、『信仰告白が問われるときには、人々に自らをささげて、熱心に徳の頂点の至らせる力を与えます』と説明しています」。

 また、125項では、教皇フランシスコ自身の経験を 日常の分かりやすい言葉で表現している:「今、わたしが思い出しているのは、彼ら[貧しい人々]の強い信仰です。信条(クレド)の信仰箇条を知らなくとも、病気の子どものベッドの足元で熱心にロザリオを唱える母親たちのことです。マリアの助けを求めて、質素な家にともされたろうそくに心からの希望を寄せる人々、十字架のキリスト像に親しみを込めたまなざしを向ける人々のことです。神の忠実で聖なる民を愛する人なら、こうした行為は神的なものを求める自然な探求心に過ぎないという見方はしないでしょう。こうした信心行為は、わたしたちの心に注がれた聖霊が働く、み心にかなう生活の表れです(ロ―マの信徒への手紙5 章5節参照)」。

 本部修道院の「聖母賛美」の中で、聖母像に軽く手を触れる人、その顔をやさしくなでる人、何かを語りかける人、手を置きながら、しばらくじっと祈る人… 姉妹の中に、それを「外面的」とか、「迷信的」などと言う人はいない。どの姉妹も真剣。そして、おのおのの、聖母との対話を尊重し合う。そのようにして、賛美の時は深められていく。

 8月中提出の、日本カトリック神学院、神学2年生の「マリア論」レポートの採点をした。毎年のことだが、神学生たちのレポートが入った 版の封筒が届くと、緊張する。

 むやみに開けて、神学生たちのレポートを、その辺に散らばせておく気持ちはなれない。というわけで、結局、8月下旬まで、封をしたまま、作業室に置かれていることになる。採点をする日は、前日から「覚悟」を決め、作業室の机の上の整理をする。当日の朝、(少しは整頓された)作業室で、祈りながら封を開ける。

 なぜ緊張するか、といえば、神学生たちのレポートは、自分の授業を、ある意味で「映し出す」ものとも言えるからだ(少なくともわたしはそう思う)。わたしが伝えたかったことが反映されているのを見たら、素直に感謝。わたしの授業で欠けていたことが反映されているのを見たら、率直に反省、来年度のための参考とする。

 大神学校での授業、初めての年は、もしも落第点を付けなければならないほどのレポートがあったらどうしよう、と心配だった(自分もつい最近まで学生だったから)。しかしこれは杞憂に過ぎないことを、最初の年で分かった。

 点数を付けるというのは、付けられる方もだが、付ける方も、気分のよいものではない。どこまで、自分の好みではなく、客観的に評価できるのか。

 わたしは、採点のために決めた日は、他の仕事で中断せずに、一気に集中してレポートを読むことにしている。全部読んでから、一つ一つ読み直し、また全部読む。採点をした後で、「神学生たちに向けて」、全体的に評価できる点、全体的に欠けていると思われる点を示し、参考のためにアドバイスを書く。 一枚の、簡単なものだが、これがせめてもの、わたしの神学生たちへの感謝の気持ちである。

 今年の神学2年生のレポートも、わたし自身、教えられることが多かった。神さまは、一人ひとりを、ご自分の姿、似た者として造られた。その、一人ひとりが、こんなに違うということは、神さまがいかに、限りなく大きく、広く、深いかを教えてくれる。誰一人欠けても、唯一の方向に向かって歩んでいる「人類家族」の旅路に必要なものが、欠けるだろう。

 「独り言」の始めに戻れば…  わたしのしていることは、何と小さいのか、と、時々思うことがある。

 そういう時には「初心」にもどりたい。わたしの初心だけでなく、キリストの民の初心、そして、神の民の初心。 モーセは、イスラエルの民全体に思い起こす:「あなたの神、主は地上のすべての民の中からあなたを選んで、ご自分の宝とされた主があなたたちに愛情を傾けて、あなたたちを選ばれたのは、あなたたちがほかのどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたたちはすべての民の中で最も数の少ない民であった。しかし、主はあなたたちを愛誌、また先祖に立てた誓いを守られたので、主は強いその手であなたたちを導き出し、どれの家から、エジプトの王 ファラオの手からあなたを贖われた」(申命記7章6~ 8節参照)

 イスラエルの娘、ナザレのマリアは、だから、高らかに宣言する-「主は、身分の低いはしためにも目を留めてくださった」。「身分の低い者を引き上げ」、「飢えた人を良いもので満たす」主、力ある方が「 わたしに偉大なわざを行われた」と(ルカ福音書1章 48 、49、 52、 53節参照)。

 イエス自身、父である神が、「小さい者たち」にご自分を現してくださったこと、それが神の望みであることを知り、喜びにあふれる(同10章 21 、24節参照)。

 6月に訪問した、韓国の「マリアのけがれなきみ心」修道会の総長、Sr.Mにメールを書いた。わたしたちは小さなもので、小さなことしか出来ないけれど、その小さなことを、率直に、単純に、謙虚に積み重ねていきたい、それがマリアに倣う生き方なのだと思う、協力してくださいませんか、と。Sr.Mから、小さな力を分かち合って、よろこんで協力します、と返事が来た。

 父である神が、わたしに、わたしたち一人ひとりに託した「夢」。わたしたちは、その「夢」の実現の協力者なのだろう。そして、神の望みは、すべての人を、ご自分の永遠の命の中に招き入れることである。わたしたちは、神の「夢」を実現しながら、わたしたち一人ひとりの召命を実現していくのだろう。それは、わたしたち一人ひとりが、「わたしたち自身」になること-造り主の神が望んだわたしたちの姿になること-である。

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

2018年8月30日 | カテゴリー :

・Sr.岡のマリアの風 ㉛少し長めの欧州出張から帰って…猛暑+会議、行事、原稿…

   七月も終わりに近づき…

    I神父さま、メールをありがとうございます。  ローマ・ポーランドの 少し長めの出張から帰ってきて、猛暑+会議、行事、原稿(閉め切り過ぎ!)…で、その時々を ♪わた しの望みではなく、あなたの望みどおりに、あなーたの願いどおりに、わたしにーなるように…♪」という T神父さまの歌を口ずさみながら生きている、という感じです。

  ちなみに、この、歌の繰り返し部分、覚えやすいし、何も考えられなくなったときに(暑くて頭が真っ白になったときなど)、よく歌っています。

   「ローマ・ポーランド出張報告」も、ざっと書き留めたものの、まだ完成していません。後になったら忘れてしまうだろう、新鮮な印象、大切だと思ったことを、記しておきたいと思うので。落ち着いて書くことが出来るころには、その時の感動は色あせてしまう、今、書かなければ…と思いながらも、なかなか時間がなくて。

   今度の『日本カトリック神学院紀要』第9号のために、「教会の母マリア」の名称についてまとめています。ローマに行った時、恩師のサルバトーレ教授が、発表前の自分の小論文を「参考にしなさい」と、わたしにくださいました。

   恩師はありがたい!ほんとうに。日本ではアクセスが難しい、膨大な資料を駆使しての論文ですから。サルバトーレ教授の研究をもとに、日本の教会のため(大げさに聞こえますが、わたしなりに気合を入れて)、少しでも役に立てばと、書いています(というより、「あともうちょっとで終わり」というところで、じっと机の前に座れる時間が少ないのが現状です)。

  その原稿、締め切りを過ぎているので、編集作業をしてくださっているO神父さまに、遅れていることをお詫びするメールを書きました。O神父さまからは、自分もまだ、なかなか編集作業に取り掛かれないから、いいですよ、と寛大な返事をいただきました とはいえ、出来れば8月始めには書き終えたいと思います。時間をかければよい論文が書けるというわけではない、区切りとけじめも必要だ、と、これまたサルバトーレ教授の言葉です。

   たくさんの限界があるわたしですが、いつも、主の望みに対して、素直で謙虚、率直でありますように!と祈っています。

 暑い夏、I神父さま、シスター方、信徒のみなさんの、心と体の健康を祈りつつ...

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

2018年7月30日 | カテゴリー :

・Sr.岡のマリアの風 ㉙M.T.さんの葬儀…ありのままに…

 むつみの家 -重症心身障がい者施設-に8歳の時に入所し、昨日、31歳で帰天したM.T.さん。本部のシスターたちと一緒に、通夜、葬儀に参列した

 M.T.さんの障害は非常に重く、痙攣すると、足が背中につくほどエビなりになり、何とかリラックスさせてあげたいと、医者、看護師はじめ、すべての職員が心を砕いてきたそうだ。

 話すことは出来なかったが、体の調子が少し良いときのM.T.さんの「ほほえみ」は、周りにいる人たちを「癒して」くれた、と、お別れ会で看護師長さんが涙ながらに語り、ひつぎの中のM.T.さんに、何度も「ありがとう」と言っていた。

 葬儀 施設ホールでの「お別れ会」 には、家族、親族、職員と共に、むつみの家の入所者の方々が ベッドや車いすで運ばれ、参列した。家族も、職員も、献花の花に囲まれた、ひつぎの中M.T.さんを見ながら、手を合わせ、泣いていた。

 普通、この世で人々が「望むこと」-お金、権力、地位、快適な生活、幸せな結婚-の、どれ一つも約束されず、痙攣で苦しみ、ベッドの上で看護される、M.T.さんの、文字通り「生き抜いた」一生。そのM.T.さんの、まったく野心も利害もない、ありのままの「ほほえみ」が、周りのわたしたちの心を癒した。優秀なお医者さんや看護師さんたちが、この、「何も出来なかった」、でも「ほほえみ」をくれた、M.T.さんとの別れに涙する。

 看護師長さんは、「もっと一緒にいたかった。もっと生きていてほしかった」と、率直に言っていた。

 施設のホールでの、簡素な「お別れ会」。ベージュ色の、小さな、優しい表情で手を広げているマリア像の、その、開かれた手に囲まれるように、M.T.さんの棺が置かれていた。M.T.さんの顔は、どこか静かで、おだやかだった。その、生き抜いた「いのち」は、多くの人々の優しさによって受け入れられ、抱きしめられてきたのだ、と感じた。

 「いのち」の不思議さ… 一つの、本当に、この世に「たった一つのいのち」の神秘。さまざまな障がいをもった方々と接していると、与えるよりも、与えられるものが、いかに大きいかを知らされ、驚かされる。

 食事も排泄も一人では出来ず、痙攣でエビなりになり、苦しい、痛い… それが、31年間、毎日。そのMTさんを、少しでも楽にしてあげたい、と、お医者さん、看護士さん、スタッフたちは一生懸命だった。そして、M.T.さんが、楽になって「ほほえむ」と、周りがパァっと明るくなり、苦労も忘れる。そんな、毎日。

 何の解釈も、何のコメントも要らない。「いのち」の不思議さを、分析したり、切り刻んだりすることは、出来ないから。今日、一つの、生き抜いたいのちが、天に帰っていった。たくさんの、たくさんの人々に感動を与えながら。

 「いのち」は不思議だ。そんなに大切な、この世にたった一つの「いのち」をいただいているわたし、わたしたち。その「いのち」を一瞬一瞬生きて、生かされているわたし、わたしたち。

 M.T.さんに、そして、M.T.さんに関わってきた家族、スタッフの皆さんに「ありがとう」。

祈りつつ

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

2018年6月18日 | カテゴリー :

・Sr.岡のマリアの風 ㉘三位一体の祭日に…リラックス法…

 山登りが好きなH神父。仕事の合間を縫って(本当に忙しい!)、休日には山登り。
「神父さま、休みの日に山登りなんて、いつ『休む』のですか?」という、わたしの「正直な」質問に対して、「いや~、山を登ることが、リラックスなんですよ」と、当たり
前のようにH神父。
「だって…疲れるでしょう?」…どうも、わたしとH神父の「感覚」がずれている、と感じながらも、さらに質問するわたしに、H神父は答える。

 「疲れ果てて、頭が真っ白になって、何も考えられなくなる。それが、リラックスなんですよ」。

 H神父にしてみれば、この気持ち、わかんないだろうな~と言いたいところだろう。先日、N教会の主日のミサにあずかったとき、主任司祭H神父(山登りのH神父とは別の)が、説教の中で、ちょうど連休だったこともあり、「休む」ことについて話した。

 わたしたち日本人は忙しいから、連休、となると、忙しかった分「休まなくちゃ損」、つまり、「働いた分、取り戻さなければ、休まなければ…」と「忙しく」なる。で、結局、「休み疲れ」になり、その「休み疲れ」を取るために、また休まなければならない…という話。

 そして、「本当に休みたいなら、わたしは次のことをお勧めします」と、H神父流「休む業」とは…森の中に入って、「ボ~っと」すること。

 「何も考えてはいけないですよ。木が美しいとか、空気がさわやかとか、そんなことも考えない。とにかくボ~っとするんです」。「ボ~っとしていて、心の中から、わたしの存在の中心から、何か湧き上がってくるのを待つ」。「ああ、この『雑草』と呼ばれる草花は、神さまが命を与えてくださった場所で、けんかすることなく、譲り合いながら生きているんだな~」とか、「この木々は、誰からも世話されずに、それでも、神さまに向かって、天に向かって、ひたすら伸びているんだな~」とか…。

 「考えるんじゃないんですよ。考えてはいけません。自然にわきあがってくるまで、ボ~っとしているんです。わきあがってくる思いをもって、しぜ~んに、創造主である神さまを賛美するんです。すべてお恵みなんだな~と感謝するんです」。

 H神父いわく、これが「休む」ということ。山登りのH神父も。ボ~っとのH神父も、「見た目」違うけれど、同じことを言っているのかな~、とわたしは思った。

 頭が真っ白になること 体が疲れ果て、体の芯から真っ白になること。そのとき、わたしのこの存在、この体、この魂を造ってくださった方の懐で、わたしはすべて「委ね尽くして」リラックスする。ボ~っとする中で、わたしの存在から自然に湧き上がってくる「驚き。 どんなにささいなことでも、それは驚きだ、と言えるだろう 」に委ねる。「わたしが」休まなきゃ損…から、わたしを造ってくださった方の懐に、わたしを委ねる、への通過。

 今日、三位一体の祭日。朝、ロザリオ片手に外に出て歩いていると、二人の姉妹たち(シスター)が、黙々と草取りをしていた。「何をわざわざ休みの日に」…と思うのは、「休まなきゃ」派の考えることだろう。きっとこれが、このシスターたちにとっての「リラックス」なんだろう。

 先日、信徒のSさんは、N市内から、わざわざこの山奥の修道院に来てくださり、茂りすぎて収集がつかなくなっていたバラの剪定をし、植えたばかりの小さなゴーヤの苗に覆いかぶさっていたお茶の木の枝を切ってくださった。昨年、ゴーヤがカーテン状に伸びるために、網をかけてくれたのも、このSさんだ。「わざわざ、休みの日に…」。

 「わたしの時間」を、人のために使うなんて「もったいない」「損する」というのは、「ぶどう園のたとえ話」で、朝早くからやとわれて働いた人が、夕方遅く来て働いた人と同じ賃金をもらって、ぶつぶつ言うのと似ているような気がする。「最後の瞬間に来て、ちょっとだけ働いて、同じ賃金をもらうなら、朝から働いて『損した』」、という理屈。「放蕩息子」の話しも、そう。

 そして極めつきは、いわゆる「天国泥棒」と呼ばれている、十字架上のイエスから「あなたはわたしと一緒に、今日、天国にいる」と言われた強盗の話だろう。「わたしは、小さいころから、若いころから、 こんなに苦労して 信仰を守ってきた。それを、好き放題して、悪い事までしておきながら、最後に悪かったと思っただけで、天国に入れるなんて。わたしももっと、好きなことすればよかった。損した」、という理屈…。

 「一生懸命頑張り過ぎる」と、すべてが「恵み」であることを、忘れてしまうことがある。この、わたしの命そのものが、「恵み」であること、そもそも、わたしという存在そのものが「恵み」であることを、忘れてしまう。

 パパ・フランシスコは、今、毎週水曜日の一般謁見のカテキズムで、教会の「秘跡」について話している。「洗礼」によって、こんなに弱く、罪びとであるにも関わらず、「本当に」神の「子」としていただいたこと。これ以上の恵み、喜びはない、と、パパは強調する。

 この恵みに慣れ過ぎて、感謝できなくなると、教会の掟に「しばられず」、「自由に」遊べる人はいいな~、ということになる。このみじめなわたしたちが、どんなに信じられない「代償」をもってあがなわれたかを、考えなさい、そしてそれにふさわしく生きなさい、と使徒パウロは言う。

 大人になって洗礼の恵みをいただいたわたしにとって、洗礼、ミサ聖祭、ゆるしの秘跡の「無償」の恵みは、どんなに感謝しても、感謝し尽くせない。このように無限の恵みを前にしたら、どんなことが起こっても、「損をした」とは思えない。無償の洗礼の恵みによって、本当に「神の子」としていただいて、本当に「神のいのち-永遠のいのち-」をいただいたのだから。

 今日は、三位一体の神の神秘に「驚き」、賛美し、感謝する日。わたしたちの神が「孤独」の神ではなく、「交わり(コムニオ)」の神であると知ることは、何とすばらしいことでしょう、と、聖書学者A. Vanhoye枢機卿は書いている。わたしたちは実際に、洗礼によって、この「交わりの神-たがいに与え尽くす、愛の神-」の中に入る。

 Vanhoye枢機卿の言葉を、ちょっと聞いてみよう。

 「わたしたちの心は、この神の賜物への感謝でいっぱいになるはずです。もしかしたら、わたしたちは、三位一体の神のいのちにあずかっているという特権、その神秘の中に入れられているという特権について、十分に考えていないかもしれません 「考える」とは、知的な知識だけでなく、それに生き生きと(バイタルに)あずかること-それはより大切です-によって。神が、三つの「ペルソナ」の一致であると知ること自体、すでにわたしたちにとって大切な知識ですが、これらの神の「ペルソナ」との交わり(コムニオ)の中に生きるということは、さらにより尊いことです」

 「…わたしたちの、三位一体の神との関係は、わたしたちにとって、大きな喜びの源でありますが、同時に、深い要請の源でもあります。実際、真の愛は、わたしたちの人間としての全能力を使います わたしたち自身をすべて捧げることを要求します。神の愛は、炎のようです、だから、多くを要求します けれどそれは、わたしたちを恐れさせるべきではありません。そうではなく、わたしたちは信頼をもって前に進むことが出来ます。なぜなら、神の恵みがわたしたちを支え、愛の生活(愛する生き方)においてわたしたちを成長させるから。実に、愛の生活は、もっとも聖なる三位一体の神のいのち自身にあずかることです 」。

 そんな難しいこと言われても…と、言われるだろうか?でも、これはまさに、わたしたちの「いのち」がかかっていることだ。そして、わたしたちを通して、すべての人々の「いのち」がかかっていることだ。「わたし」は「丸ごと」恵み、まさに「恵みのかたまり」であることを、しばしば、特に、どうしようもなくなったとき、前が見えなくなったときに思い起こしたい。頭で考えることも大切だけれど、それ以上に、神の「懐」の中で、「ボ~っと」しながら、「頭が真っ白に」なりながら、この「丸ごと恵みの存在」を味わいたい。

 アーメン!

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

2018年5月27日 | カテゴリー :

・Sr.岡のマリアの風 ㉗「危険を冒してください!」-中国出張を前に-

(独り言)「危険を冒してください!」-中国出張を前に-

Jさま、

 久しぶりのメール、うれしかった。ありがとうございます!

 実は、この週末、院長会議のすぐ後、中国(太原)出張のため出発することになり、バタバタしています。

 相手側、中国からのメールは…

 「ちょっと寒め」「だけど、すごくは寒くない」

 「(修道服ではなくて)私服を着て来てください」

 「空港のパスポートコントロールで、たぶん、大丈夫だと(中国に入れてくれると)思うけど」…

  パパ・フランシスコが、「若者たち」に、たびたび言っていますね。「恐れないで!」「Rischiate!(危険を冒してください!)」、その理由は、単純に、「キリスト者(キリストに従う者)なのだから」、と。

 そして、パパの思いの中では、ぬくぬくと自分の快適な場所に留まらず、「やっぱり、おかしい」、「とにかく、何かしよう」…と、「出て行く」人こそ、「若者」なのですね。年齢に関係なく。

 この、イエス・キリストの名のために、「危険を冒してください!」という呼びかけは、まさに、今のわたしに向けた、タイミングのよい声のように響きます。

 どういうことになるのか、まったく未知…。そういう旅、20代前後のころ、よく、しました。(わたしが修道院に入った時、これで娘も、少なくとも「住所の分かる場所」に落ち着くだろうと、父がほっとしたくらいです…)。

 わたしたちのパパ・フランシスコは、最近では、南イタリアのバリに(2018年4月20日)、チリとペルーに(2018年1月15日~22日)、昨年末、ミャンマー・バングラデシュに(2017年11月26日~12月2日)、コロンビアに(9月6日~11日)、ファティマに(5月12日~13日)、エジプトに(4月28日~29日)、「出て行って」いますね。まさに彼自身、言っているように、「貧しい一巡礼者として」、主がその地に、その民に託した「富」-文化の中に具体化した信仰の宝-に感謝し、祝い、学ぶために。

 それぞれの地で、パパは、さまざまな人々と出会い、共に主に感謝し、主が約束した希望のうちに、信仰にしっかり留まるよう励まし…。

 そんな、パパの姿、わざ、言葉に、日々触れながら、そして、同じように生きた数えきれない先輩たちの姿を思い巡らしながら、自問します。

 わたしは今、自分の修道院で、自分の部屋で、「キリストの熱い思い」に突き動かされ、「危険を冒して」、つねに「出て行って」いるだろうか。

 これは何も、物理的に外に出て行く、ということだけではありませんね。

 パパが再三言うように、「いつもこうだったから」「どうせ変わらないのだから」「するだけ無駄だから」…という、「キリストに似る者になる」歩みを弱らせ、「中和」させる、狡猾な「敵」と闘うために、危険を冒しているか、ということですね。

 「やっぱり違うと思う、もっと良くなると思う…」。

 「え~っ、その年で、まだそんな夢みたいなこと言ってるの?」

 「でも、今、わたしたちが動かなければ、一歩踏み出さなければ、次の世代の人たちはどうなるの?」

 「そんなこと言ったって、ど~せ反対されるよ。わたしたちだけ頑張ったって無理だし…」

 「パパ・フランシスコは、聖パウロの言葉をかりて、言いました。わたしたちを強めてくださる方-キリスト-と共にするなら、わたしたちはいつも勝利するって」

 「う~ん、でも、それって『現実的』じゃないよね~」

 「洗礼を受けたとき、わたしたちの中に、復活のキリストの力、聖霊が入って来たのだから、その力に信頼して一歩を踏み出してください、って、パパは言っているし…」

 「でも、聖霊って目に見えないし…本当に、ここで働いているのかな~」

 「いや、聖霊は、目に『見えます』…わたしたちが望みさえすれば…。わたしたちが思ってもみなかった、もっとも小さく、貧しいしるしの中に…。パパは言ってます、わたしたちの神は、『サプライズの神』だって」。…

 …と、こんなやりとりが、自分の中でも、人々との話の中でも、会議の中でも、あります。

 主を「安全地帯」に引き戻そうとしたペトロは、主から、「サタンよ、引き下がれ!」と叱られましたね。「ペトロって、しょうがないね~」と、わたしたちは簡単に言うけれど、でも実は、あのペトロの「もっともな理屈」は、わたしたちが、しょっちゅう使っている「理屈」ですね。

 主が、エルサレムに向かって、十字架に向かって進むのを、妨げようとする「もっともな理屈」。

 そして、もし、主がエルサレムに行かなかったら、十字架に向かって進まなければ、わたしたちは、今も、罪の闇の中、脱出するすべも知らずに…。

 なんと度々、わたしたちの「もっともな理屈」は、神の思い、「すべての人々の救い」のための思いに、反対するのでしょう!

 古代の教父たちは言いました。このような「闘い」の中で、「神の母」のマントのもとに駆け寄り、神の母マリアから、「主を真ん中に置く」ことを学びましょう、と。

 わたしたちのいのちの中心にいる主は、そこに「いる」のだけれど、神秘の中に留まります。わたしたちのただ中に、確かにいるのだけれど、でも同時に、わたしたちの思いを超える神秘でもあります。

 わたしたちが、何か、栄光に満ちた権力、光り輝く正義、悪者を打倒す勝利の王…というイメージで、この世に、周りに、キリストのしるしを探し求めるなら、簡単に、悪魔の罠に引っかかりますね。悪魔は、いつも言います、「そうそう、あなたの言うことはもっともだ。あなたは悪くない、あの人が、この状況が悪い。頑張ったって無駄。どうせ理解してもらえないのだから…」。

 神の母のマントのもとに逃れて、わたしたちはどうするのか?

 まず、わたし自身が、真に貧しく弱い者であることを、素直に認め受け入れることを学びます。わたしたちの力で、悪魔と闘うことなど出来ないことを、はっきりと悟ります。そして、そこから出発します。もう一度、キリストを中心に置いて、再出発します。キリストに従う、貧しく、小さな道を。主とともに、すべての人々の救いのために、十字架に向かう道を。マリアとともに、「母の愛」に内奥から突き動かされて、主に従う道を。

 神の母のマントのもとに逃れて、わたしたちは叫びます。「神の母よ、悪魔の誘惑は、とても巧妙で、執拗で、わたしの能力(知力、体力、気力)以上のものです。わたしは弱く貧しい、あなたの子です。どうか、急いで助けに、救いに来てください!主の望みが、主のことばが、主のわざが、わたしの中で行われますように!」

 そうやって、神の民は、ずっと、荒波、嵐の中を進んできました。神の母マリアを、荒れ狂う海の中の「はこぶね」、目的地を示すために空に輝く「星」と呼びながら。

 でも…話は元に戻って…初めての中国行き。神の母よ、あなたのためです。主のお望みが、主のお望みだけが行われますように、わたしを助けてください!思うとおりに行かないとき、まさにそのただなかに、主がおられることを見分ける知恵をください!そして、あきらめることなく、前を歩く主の足元だけを見つめて、一歩一歩、前に進む力をください!その、一歩一歩の先にあるものも、どこにたどり着くかも、それさえも、主に委ねることが出来るようにしてください!

アーメン!

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

2018年4月27日 | カテゴリー :

・Sr.岡のマリアの風 ㉖聖週間-パパ・フランシスコと共に

 Aさん、メールをありがとうございます。パパ・フランシスコが、今、若者に求めていることは、本当の意味での「若者」たちに訴えていることですね。

 パパは、「生き延びる」ことだけを考えて、現状に対して「あきらめ」、「無関心」、「怠惰な」態度を取っている人は、たとえ年齢が若くても、年寄りであり、いつでも、どこからでも、どんな状況からも、また新たに、人々の善のために、自分のエゴから出て行く人は、たとえ高齢であっても「若者」だ、と言っていますね。

 無関心、あきらめ、自分さえよければいい、という心が、人を、霊的「年寄り」にし、もはや、その人は、「枯れて行く」しか道がない、と。

 日々、わたしの心に、ズ~ン、ドシ~ン、とくる言葉です。つねに目覚めていること。それは、わたしたちの力では不可能です。
何でもうまくいっている時はいいけれど、人から理解されない、物事が思ったとおりに行かない時、「目覚めていること」-自分の良心に対して-は、自分の力では、不可能ではないとしたら、かなり、難しい。

 ましてわたしたちは、今(聖週間)、人目には、「ヒーロー(英雄)」からは、遠くかけ離れた、「みじめで、貧しい」主に、沈黙のうちに従うよう、招かれています。
イエスに、もっとも近くから従った弟子の一人、ペトロは、「先生」-イエス-を、三度、「知らない」と言います。

 わたしたちは、「え~、ペトロ、何で~?」と口に出して言った後、気が付きます。イエスが、誰であるか、分からなくなったペトロ、それは実に、「わたしたち」の姿である、と。
もし、「先生」‐イエス-が、たとえ捕らえられたとしても、「勇ましく」、「弱い」先生を守るのが、自分の務めだと思っていたペトロは、先生を助けるために、戦ったかもしれません。

 でも、今、目の前にいるのは、不正に訴えられ、しかも、弟子の一人から裏切られたにも関わらず、抵抗しようともせず、一言も語らず、不条理な嫉妬と憎しみに燃えた人々に、捕らえられ、引きずられて行くに任せている、一人の「みじめな人間まるで、世の悪に対して戦わず、敗北を認めたかのような、「弱い先生」。

 ペトロは、「そんな人は知らない」と言います。それは、ある意味で、ペトロの本心だったでしょう。力強いわざと言葉をもって、悪魔を追い出し、病人を癒し、祭司長たちを論破した、偉大な先生、使徒たちの「誇り」であった、イエス。この「格好いい」先生に、ペトロは、命をかけて従う、と宣言しました。

 でも、今、ペトロが目の前で「見て」いるのは、そんな先生ではない。ペトロが 思い描いていた メシア・救い主の姿ではない。だから、ペトロは混乱し、「そんな人は知らない」と、宣言します。そして、鶏が鳴く…

 ヨセフ・ラッツィンガーは書いています。
(最高法院で、大祭司とそこに集まった評議員たちは)、イエスを愚弄し、打ちすえることによって、神のしもべとしてのイエスの受けるべき定めを言葉どおりに満たしたということに、気が付いていませんでした。
屈辱と栄光は神秘的な形で互いに繋がっています。正に、打ちすえられた者として、イエスは人の子なのであり、雲に乗って神のもとから現れ、人の子の国、神に由来する人間性の国を打ち立てるのです。マタイによれば、イエスは衝撃的な逆説によって、「今から、あなたたちは、人の子が…見るであろう」(マタい福音書26章 64節)と言ったのです。「今から」、新しいことが始まるのです。
歴史を通してずっと、人々は損なわれたイエスの顔を見上げ、まさにそこに神の栄光を認めて来たのです。その同じ時に、ペトロは三度目に、イエスとは何の関係もない、と誓ったのです。「するとすぐ、鶏が再び鳴いた。そして、ペトロは思い出した…」(マタい福音書14章 72節)
鶏の鳴き声は夜の終わりのしるしと見られています。一日が始まるのです。ペトロにとっても、鶏の鳴き声は、彼が沈んでいった魂の夜の終わりを意味していました。鶏の鳴き声によって、否認についてのイエスの言葉が突然、ペトロの頭に蘇ります。そして、恐ろしい現実に立ち会わされます。
ルカはそれに更に付け加えます。この瞬間、刑の宣告を受け、縄目を受けたイエスは、ピラトの法廷に移るために連行されます。イエスとペトロはすれ違います。イエスの眼差しは、裏切りの弟子の視線を通し心の奥にまで達します。
そしてペトロは、「外に出て、激しく泣いた」(ルカ福音書22章 62節)のです。
(『ナザレのイエス』、第二巻、春秋社2013年、21頁)。

 わたしたちにとって、わたしにとって、「はい、わたしはここにいます。主よ、あなたのおことばどおり、わたしの身になりますように。あなたのお望みが、このあなたのしもべ(はしため)であるわたしを通して 行われますように」と、日々、言い続けることは、容易いことではありません。特に、何か特別な時ではなく、まさに、日々の、毎日の、「普通」の生活の中で、それを言い続けることは、決して容易いことではありません。

 ゲッセマニの園での、イエスが捕らえられる場面は、ペトロにとっては、あまりに「陳腐な」場面だったかもしれません。「あなたはメシアです」と、ペトロに宣言させたのは、父である神の恵みの力でした。その、同じ父である神が、今、ご自分のメシアが、敵どもの手に引かれて行くときに、彼を助けるために、天の大軍を遣わすことも、しない。何か、当たり前のように、悪の力が勝り、無実の善人が、悪人として引かれていく。あまりに「陳腐」な場面ではないか…。

 「わたしが」思ったとおりに、物事が進まない、人々が動いてくれない、理解してくれない、ふさわしく評価してくれない… その時こそ、まさに、わたしは、主の「十字架の道行」を、主と共に、主の傍らで共に歩むよう、招かれているのだろう

 主の「十字架の道行」を、主の傍らで歩む、とは、主とともに、人々の罵声、嘲りを受け、「十字架から降りて来い、そうしたら信じてやろう」という人々の挑発を受け、同時に、主と共に、「主よ、あなたのみ国においでになるとき、わたしを思い起こしてください」という、泥の中から咲き出る花のような真摯な声を聞き、あがないの十字架のもとで生まれつつある教会の姿-母と愛する弟子-を観想する…ということだろう。

 「わたしが」思い描く、メシア・救い主の姿と、父である神の思いの中にある、メシア・救い主の姿の、何と違うことか!
「わたしのメシア像」と、父である神の「メシア像」。その間の、越えることの出来ない淵を埋めたのが、真の神でありながら、わたしたちと「同じ」、真の人であるメシア、イエス・キリストである。

 神と人との間に横たわる深淵に、自らを「橋」として、神と人との出会いの「場」として捧げたのが-自分の命を捧げるまでに-、父のみ心に徹底的に従った、子、イエスの姿だ。
わたしたちは、「その」イエスに、従うよう、招かれている。

 特に、この聖週間。14名の若者たちによって編纂された、パパ・フランシスコが司式する、今年(2018年)の「十字架の道行」(聖金曜日)のテキスト。神学者でもなく、過去に書かれた著作からでもなく、若者たち-16歳から27歳まで-によって作られた、「十字架の道行」のテキスト。彼らは、共に、四つの福音の「受難物語」を読み、祈り、黙想し、このテキストを作り上げた。

 そこには、若者らしい、誤解を恐れない、率直で、ありのままの「出会い」がある。ゴルゴタに向かって歩むイエスとの出会い。そのイエスを取り囲む人々、一人ひとりとの出会い。若者たちは、自分自身を、その場に置き、イエスを「見つめ」、人々を見つめ、イエスと「出会い」、自分自身に出会い、その出会いから生まれる「祈り」を、言葉にした。

 今朝、わたしは、若者たちの「十字架の道行」の一つを黙想しながら、ペトロと「出会う」。そして、ペトロを「見つめ」ながら、自分の中の、嘘、偽りを見つめ、イエスと「出会う」。

 ペトロは、自分に自信があった時は、イエスを見ていても、イエスに出会っていなかったのだろう。「わたしの」好きなイエスを見ていただけで、父のみ心を行うためだけに生きているイエスに出会っていなかった。

 父のみ心の実現のために、死ぬばかりに苦しい思いをしながら、エルサレムに上っていくイエスに従いながら、三年間、イエスの身近にいた弟子たちは、「だれが一番偉いか」と議論をしていた。それが、わたし、わたしたちである。そのことを認めて初めて、わたしは、イエスと「出会う」のだろう。

 ペトロは、イエスの眼差しに触れて、「初めて」イエスと「出会い」、自分に「出会い」、「外に出て、激しく泣いた」。ペトロは、このようにして、受難の主の神秘に対して、初めて目が開かれた。

 ペトロの涙こそ、わたしたちの涙。赦されても、赦されても、主を否み続けるわたしたちを、それでも、疲れずに赦してくださる主のまなざしに触れた、わたしたちの涙。
わたしは、つねに、「欠けた者」「足りない者」であることを率直に-決して卑屈にではなく-受け入れて初めて、「主よ、あなたのお望みが、わたしの中で行われますように」と真摯に祈ることが出来るのだろう。

 聖週間。今は、「恵みの時」。主の「十字架の道行」に従うわたしは、一人ではない。わたしは、共同体の姉妹たちとともに、「欠けた者」同志で、許し合い、いたわり合い、助け合いながら、共に、主イエスの「十字架の道行」に従っていく。

 主によって集められた「共同体」-教会-は、「わたし」の思うとおりにはいかない。「わたし」と合う人たちだけではない。「わたし」のリズムと違う。だから、恵みの場。だから、「散らされた神の子らを集めるために来た」キリストの心の、目に見えるしるし。だから…復活の主は、ご自分の「共同体」を通して、はたらく。

 ご自分のみ国-赦しといつくしみのみ国-を広めるために。「共同体」は、主の、受難・復活・死の、この世への「目に見える証し」として、招かれている。

 受難の主よ、聖週間の日々、あなたの沈黙の中に、深く入らせてください。父である神のみ心が実現するとき。それは、沈黙のとき。わたしたちの日々の騒音を超えた、三位一体の神の懐の中の、深い、沈黙。それは、冷たい沈黙でも、無関心の沈黙でも、あきらめの沈黙でもない。それは、愛するがあまり、いつくしむがあまり、沈黙せずにはいられない、苦しむ我が子を見つめる、母の沈黙。

 受難の主よ、あなたの沈黙が、わたしへの、わたしたちへの、計り知れない宇宙のような、深い海のような、あなたの「いつくしみの心」の沈黙であることを、分からせてください。

 受難の主よ、わたしたちの石の心、固い心を、あなたの十字架のあがないの死によって、肉の心、あなたの霊によって生かされる心に変えてください。

 受難の主よ、弱くみじめなわたしたちを、あわれんでください。あなたは真理そのものです。そしてあなたの真理は、冷酷な裁きではなく、赦すことをあきらめない、赦すことに決して疲れない、父である神の心の真理です。

 自分の罪、偽り、過ち、怠りに泣くわたしたちを、かえりみてください。あなたの十字架の傍らに立つ、あなたの母マリアのように、わたしたちも、あなたの恵みによって、闇と絶望の淵にあっても、「はい、わたしはここにいます。主よ、あなたの望みが、わたしの中に行われますように。

 わたしは、あなたのみ心だけを望みます、と言い続けることが出来ますように。アーメン。

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

2018年3月27日 | カテゴリー :

・Sr.岡のマリアの風 ㉕聖週間の始めに・・黙想と十字架の道行きのために

本部修道院、聖週間の始めに-「賛美の集い」のための覚書―
[祭壇まで行列。各々、四旬節に書いた「手紙」を祭壇前の籠に入れる]
[始めの祈り](祭壇の前で)
主イエスよ、 あなたは、旧約の預言者たちが預言したように、ろばに乗って、ご自分の都、聖なるエルサレムに、王として、メシア・救い主としてお入りになります。
あなたが「王」である、とは、 仕える者であることです。
あなたが「王」である、とは、 わたしたちを、わたしを愛して 命までも捧げることです。
わたしたちの、固く冷たい心が、この聖なる一週間、あなたの一つ一つのしぐさ、言葉、まなざしに触れて、生きた、肉の心に変えられますように。
アーメン

[黙想のために]
今年、2018年は、若者たちについてのシノドス(世界司教会議)が開かれます。パパ・フランシスコは、その前に、若者たち自身による準備の集いを、バチカンで開催しました。

 若者たち自身が、自分たちに出来ることを、自分たちの手で、共に行うことによって、教会共同体に新たな力を与えることが出来るように、と。
このパパの思いは、若者たちだけでなく、教会を形づくるすべての信徒、わたしたちにも向けられています。自分たちに出来ることを、自分たちの手で、共に行うことによって、教会共同体を、すこしでも前に進ませることが出来るように。同じ、一つの目的に向かって。「散らされた神の子ら」を集めるために、十字架に「上げられ」、ご自分の命を捧げ尽くした主に従いながら。

 教皇は、毎年、ローマのコロセウム(円形競技場)で、十字架の道行を司式します。その時に使うテキストを、パパは、今年、若者たち自身が創るように提案し、それは、16歳から27歳までの14人の若者たち(そのうちの9人は高校生)によって、熱意をもって受け入れられました。

 「見ること-出会うこと-祈ること」を鍵として、14人の若者たちは、一つずつの留の黙想を、自分の言葉にしていきました。
わたしたちも、今、自分の心を一番打つ「留」の場面に留まり、聖週間の間、自分の黙想を言葉にして表していけるなら、わたしがイエスとより深く出会う助けになると思います。

*この「十字架の道行」のパンフレット(バチカンHPより)の導入部分を、皆さんと分かち合いたいと思います。[以下、イタリア語より試訳]

 今年の「十字架の道行」の儀式の、14留の黙想は、16歳から27歳の間の、14人の若者たちによって作られました ですから、二つの主要な新しさがあります。第一の新しさは、過去の著作から取られたものではないこと、書いた人たちの年齢-若者、青年(彼らの中の9人は、Roma Pilo Albertelliの高校生)に関連して。第二の新しさは、この作業の「合唱性」―たくさんのトーンや響きの異なる声のシンフォニーであること-。そこには、名無しの「若者たち」ではなく、ヴァレリオ、マリア、マルゲリタ、フランチェスコ、キアラ、グレタ…がいます。

 彼らは、彼らの年齢に典型的な熱意をもって、若い世代に捧げられた2018年の中で、パパ・フランシスコから提案されたこのチャレンジ(挑戦)を受け入れました。

 彼らは机の周りに集まって、四つの福音によるキリストの受難のテキストを読みました。それから、「十字架の道行」の場面の前に自分たちを置き、その場面を「見つめました」。朗読の後、必要な間をとりながら、若者たちの一人ひとりは、どの「場面」が特に心を打ったかを表現しました。このようにして、より単純に自然に、一つひとつの留がふりわけられました。
鍵となる三つの言葉、三つの動詞が、これらのテキストの展開を印しました:先ず、すでにふれたように、見ること、そして、出会うこと、最後に 祈ること若者は、見ることを望みます。世界を見る、すべてを見る。

 「聖金曜日」の場面は、その残酷さをもっても強烈です:それを見ることは、反感を引き起こすことも出来るし、または、あわれみ(いつくしみ)、ゆえに、出会いに行くよう促すことも出来ます。まさに、イエスが福音の中で、毎日-そしてこの日、最後の日にも-行ったように。イエスは、ピラトに出会い、ヘロデに

 出会い、祭司たち、番人たち、ご自分の母、キレネ人、エルサレムの女性たち、2人の強盗―彼の歩みの最後の同伴者たち-に出会います
若い時、毎日が、誰かに出会う機会となり、一つひとつの出会いは、新しく、驚きに満ちています。もはや誰にも会いたくなくなるとき、人は年を取ります。信頼をもって心を開くことよ、人を閉じ込める恐れが勝つ時、人は年を取ります。変わることの恐れ。なぜなら、出会うことは変わることを求めるから、新しい目をもって、再び歩みを始める準備をすることを求めるから。

 最後に、見ることと、出会うことは、祈ることへと促す。なぜなら、見ること、出会うことは、いつくしみ(あわれみ)を生みだすから―たとえ、あわれみに欠けているような世界においても、人々の、無分別な(良識を欠いた)怒り、卑劣な行為、怠慢を放っておくような、今日のような日の中でも-。
もし、イエスに心から従うなら-たとえ、十字架の神秘的な歩みを通してでも-、その時、勇気と信頼が再び生まれます。そして、見た後、出会いに開かれた後、わたしたちは祈る恵みを体験するでしょう。もはや一人だけではなく、共に祈る恵みを。

「道行」の14の留の黙想のために、若者たちが選んだ聖書の箇所は、皆さんに配布したプリントの通りです。[表参照]
第一留:イエスは死を宣告される V:ルカによる福音(23 22 25
第二留:イエス、十字架を負わされる(Maria Tagliaferri e Margherita Di Marco作:マルコによる福音(8 34 35
第三留:イエス、初めて倒れる(Caterina Benincasa作):預言者イザヤの書 53 4
第四留:イエス、母と出会う(Agnese Brunetti作):ルカによる福音(2 34 35
第五留:キレネ人シモンが、イエスを助け、十字架を運ぶ(Chiara Mancini作):ルカによる福音(23 26
第六留:ヴェロニカがイエスのみ顔をぬぐう(Cecilia Nardini作):預言者イザヤの書(53 2 3
第七留:イエス、二度目に倒れる(Francesco Porceddu作):預言者イザヤの書(53 8 10
第八留:イエス、エルサレムの女性たちと出会う(Sofia Russo作):ルカによる福音(23 27 31
第九留:イエス、三度目に倒れる(Chiara Bartolucci作):預言者イザヤの書(53 5 6
第十留:イエス、衣をはぎ取られる(Greta Giglio作):ヨハネによる福音(19 23
第十一留:イエス、十字架にくぎ付けにされる(Greta Sandri作):ルカによる福音(23 33 34
第十二留:イエス、十字架上で息を引き取る(Dante Monda作):ルカによる福音(23 44 47
第十三留:イエス、十字架から降ろされる(Flavia De Angelis作:ヨハネによる福音(19 38 40
第十四留:イエス、墓に置かれる(Marta Croppo作):ヨハネによる福音(19 41 42

 今日、ここで、Valerio De Felice作、第一留の黙想を聞きたいと思います。
[試訳]
第一留:イエスは死を宣告される
ルカによる福音(23 22 25

 ピラトは、三度彼らに向かって言った、「いったい、この男がどんな悪事を働いたというのか。この男には、死に値する罪は何も認められなかった。だから懲らしめたうえで、この男を釈放することにする」。しかし人々はあくまでイエスを十字架につけるよう主張し、大声で要求した。そして、とうとう彼らの声が勝ち、ピラトは彼らの要求を入れることにした。そして、彼らの要求どおり、暴動と殺人のかどで投獄されていた男を釈放し、イエスを彼らに引き渡し、思うままにさせた。

 イエスよ、わたしは、総督の前にいる、あなたを見つめている。総督は、三度、民の要求に反対しようと試み、最後には、民衆を前に-三度、尋ねられ、三度とも、あなたに反対した民衆を前に-、何も選ばないことを選んだ。
民衆、つまり、すべての人々、そしてつまり、誰でもない人々。群衆の中に隠れて、人は、自分の人格(自分自身)を見失い、その他の何千という声の一つになる。最初に、あなたを拒み、そして自分を拒む。自分の責任を、顔のない群衆の、変動する責任の中に分散させながら。
それにもかかわらず、人には責任がある。扇動者たちに迷わされ、人をあざむく、耳をつんざくような声をもって広がる悪に迷わされ、イエスよ、あなたを断罪する人となる。

 わたしたちは今日、そのような不正を前に、恐怖を覚え、そこから離れたいと望む。しかし、そのようにしながら、わたしたちは忘れてしまう。わたしが先ず、あなたではなく、バラバを救うことを選んだ、すべての時を。わたしたちの耳が、善の呼びかけに閉ざされていたとき、わたしたちの前の不正を見ないようにしたとき。

 この、人でいっぱいの広場の中で、たった一つの心でも、疑いを起こしたなら、たった一つの声でも、悪の何千もの声に反対して上げられたなら、十分だっただろう。人生が、わたしたちを、一つの選択の前に置くたびに、あの広場、あの間違いを思い起こそう。わたしたちの心に疑うことを許し、わたしたちの声に、声を上げるよう命じよう。

 主よ、あなたに願います、わたしたちの選択を見守ってください、それを、あなたの「光」で照らしてください、わたしたちの中に、自分を問いただす能力を磨いてください:

 「悪」だけが、決して疑いません。地面の中に根を降ろした木は、もし、「悪」によって水をかけられるなら、枯れてしまいます。
でも、あなたはわたしたちの根を、「天」に、そして枝を地上においてくださいます。

 あなたを認め、あなたに従うことが出来るように。
「主の祈り

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

2018年3月26日 | カテゴリー :

・Sr.岡のマリアの風 ㉔マリアは、ためらわずに出発する「勇敢な女性」、そして・・

 Sr.Jへ、メール、ありがとう!

 日常の「食卓の会話についていけない悶々」は、海外生活をしたことがある人なら(わたしも含めて)誰もが経験するところです。特に修道院は、一日三回ですからね。

 わたしも、イタリアで最初の一年は、そんな経験をしました。-だいたい、言葉を覚えるのは、「時間」がかかる!あたりまえだけど、いくら勉強したって、やっぱり「時間」がかかる―。

 そう言えば、Sr.Cが、ポーランドから帰ってきたとき(どこかにバスで行くとき、わたしはたまたま近くの席だった)、ポーランドで言葉がぜんぜんわからなくて、重度の障害をもって、話しが出来なかったり、難しかったりする子どもたちが、どんな気持ちなのか、と初めて分かったような気がした、という話をしていて、なぜかそれがいまだに心に残っています。

 ローマで勉強していた、日本人の神父さまが、日本では役職についていて、ある程度の責任を任せられていたけれど、ローマに来て、とにかく言葉が分からないから、赤くなったり白くなったり、まるで若造のよう。40歳過ぎたら、自分のやり方、考え方に固執しがち。そんな中で、こんな体験、なかなか「出来る」もんじゃない。まさに、「恵みの時」だ!と言っていて、それもよく覚えています。

 まあ…そういう言葉を何で忘れないかと言えば、わたし自身、そういう経験をしていたからです。ホント、言葉ばかりは、勉強によるのではなく、「共に生きる」ことで学ぶのだ、と。

 他人事みたいに聞こえるかもしれませんが、経験者として、「今しか」経験できないことだ、と言っておきましょう。そして、おそらく「永遠に」、パーフェクトに理解することは無理。これも、言っておきますね。わたしも、イタリア語をパーフェクトに理解することは無理です。特に、日常会話は。
そんな中で、言葉にならないところを、いたわり合って、理解しあっていくのが、パパ・フランシスコが言うところの、異なる他者と、互いがもっている宝を分かち合う、ということですね。

 まあ、日本語は、ヨーロッパ語と、ぜんぜん違うので、だいたいヨーロッパで勉強している日本人は、最初の一年は、ありとあらゆる「誘惑」を受けます-孤独、自己嫌悪、人間不信、会話恐怖症…-。

 それらの誘惑が起こった時、「こんな誘惑をわたしは感じている、情けないな~」…などという心の動きを、ありのまま受け取っていけばいいのだと、わたしは経験しました(あくまで、わたしの場合)。誘惑自身は、いいことでも悪いことでもなく、自然なことですから。それを隠したり、ないかのように振る舞ったりするときに、「うそ」が生まれます。「うそ」の中で生きているときに、わたしはだんだん、神さまからも、人々からも離れてしまうのだと思います。

 だいたい、生きていれば、言葉だけでなく、いろいろなことで、「通じない」経験はありますね。
わたしは、むしろ、ローマでの経験から、「通じない」とき、心の中のさまざまな「誘惑」、心の中の動きを落ち着いて見つめて、それらを全部、神さまのもとに、イエスさまのもとに持って行く、ということを学びました(いつも実行できるとは限りませんが…)

 そして、イエスさまの前にありのままで出て(聖堂でなくても、道を歩いている時でも、仕事をしているときでも、心をイエスさまに向けて)、「イエスさま、わたしは今、こんな風に感じています。いけない、と思うけど、どうしても、こんな誘惑がざわざわと心を騒がしています。イエスさま、罪人のわたしをあわれんでください!イエスさま、こんなみじめなわたしを、放っておかないでください!この誘惑に負けないよう、あなたの解放の力をください!」と祈ります。

 先日の福音で、皮膚病を患った人の、全人格から絞り出すような嘆願を聞きましたね。「わたしを、清くしてください!」という叫び。誰も、わたしを清くすることは出来ない。

 神さましか、出来ない。イエスさま、あなたなら、あなただけが、わたしを「清く」することが出来る…という、必死の叫び。この叫びを、特に、四旬節の間の、わたしの祈りにしたいと、切に望みます。

 マリアは、天使のお告げの後も、すべてが分かっていたわけではありませんでした。むしろ、「闇」はますます深くなる。目の前に起こる出来事、イエスのことば、わざ…は、マリアにとって、すべては分からない「神秘」であり続けました。

 それでも、マリアは、信じました。マリアの心の中で、どんなに大きな「誘惑」が起こったことか、と思います。イエスでさえ「誘惑」されたのですから、人間であるマリアは、なおさらです。でも。マリアは、その誘惑に屈しませんでした。あきらめませんでした。

 それは、マリアが、自分が貧しく、小さな者であることを知っていたからだと、わたしは思います。マリアは、神が自分を選んだのは、自分が小さな者であるから、神にしか頼れない貧しい者であるからだ、と知っていました。なぜなら、それこそが、旧約聖書の中にうかび上がる「神のやり方」ですから。まさに、その、「みじめな者、身分の低い者」に、いつくしみのまなざしを向ける神への信仰を、マリアは、「マニフィカト」の中で歌います。

 マリアは、ためらわずに出発する「勇敢な女性」、深く考えることができる「知恵あるおとめ」…神の「たまもの」を「受け入れる」ことを知っている「信仰の母」…。

 Sr.Jの「旅」の仲間である、ポーランド共同体の姉妹たち、修道会のすべての姉妹たち。その、すべての姉妹たちの傍らで、母マリアが、いつも執り成してくださいますように!

 喜びが、希望が、信仰が、愛が欠けるとき、イエスに執り成してくださいますように!…「彼らにぶどう酒がなくなりました」「この人(イエス)の言うことは、何でも行ってください」…

 わたしたちの四旬節の歩みを、主が豊かに祝福してくださいますように!

 祈りつつ。

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

2018年2月15日 | カテゴリー :

・Sr.岡のマリアの風 ㉓「一人息子の誘惑」~パパ・フランシスコと共に

***今回は、「金曜日の独り言」***

 分かりやすいな~。

 パパ・フランシスコの言葉を聞いていると、ひじょうにしばしば、こう、思う。

 パパは、「分かりやすい」表現で、けっこう複雑な問題を言い表している。この「一人息子の誘惑」という表現も、とっても「ストン」と来て、分かりやすい。読んでいて、思わず、「分かりやすいな~、なるほど」と声に出す。

 パパ・フランシスコは、司牧訪問先のペルーで、「奉献(聖別)された人々」(パパはこの言葉の中に、広い意味で、司教、司祭、奉献生活者、神学生たちを入れている)に、わたしたちの時代の「細分化」「分断化」された世界の中で、「共同体を造り出す人、共同体の預言者」となってください、と繰り返しアピールした( 司祭、修道者、神学生との集い=ペルー、2018年1月20日)。

 奉献された人々は、「みなを一つに集める」ために来たイエスに、ある意味で、「より強く」「より近く」従おうとしているから。

 イエスの使命、「みなを一つに集める」とは、自分の好きな人、意見が、好みが合う人のグループを造る、ということではない。イエスの傍らで、イエスの「みなを一つに集める」使命に協力するとは、まさに、「みな」、異なる民族、文化、言葉、習慣…の人々が「一つになる」よう、一人ひとり、自分に出来る限りのことをする、ということだろう。

 神の民の一致を造り出すことが出来るのは、唯一の神の霊、聖霊だけである。

 けれど、同時に、神が「人となった」ときから、「神は、人間の救いの営みにおいて、人無しには(人間抜きでは)、何も実現することを望まない」と、教会(わたしたち)は、少しずつ悟って来た。

 「みなが一つになるように」という、受難に向かう前のイエスの、父である神への祈りは、真の神でありながら、真の人間であるイエスの唯一の願い(遺言)、とも言えるだろう。「みなが一つになる」というのは、アダムとエバの楽園からの追放の後、アブラハムの召命から始まって、神が、救いの営みの中で、ご自分の民を、そのために長い時間をかけて教育し、準備をしてきたことだ。「みなが一つになるように」というイエスの祈りの中には、ゆるし、和解、平和、愛、いつくしみ、へりくだり、優しさ…への願いが含まれている、と言えるだろう。

 さて…。パパは、ペルーの「奉献された人々」との集いの中で、「一人息子の誘惑」に陥らないように、とアピールする。「一人息子」の誘惑、とは、「すべて自分のために欲しい」(または、「すべてが自分のものであるのは当たり前」)と思う誘惑、つまり、他に兄弟がいないので、分かち合うことを知らない、気を遣い合うことを知らない、という誘惑。

 人は、一人で、自分を救うことは出来ない。また、世界の中で、自分一人だけ救われる、ということはあり得ない。神の救いの営みは、初めから、いつでも、「共同体的」である。

 修道生活25年を過ぎ、キリスト者として、修道者として、共同体の「ありがたさ」をますます感じる今日この頃である。

 それは、自分の共同体が「完璧」であるとか、兄弟愛に満ちあふれているから、という意味ではない(それを目指してはいるけれど、そのメンバーである「わたし」自身が、完璧ではないし、兄弟愛に満ちあふれているとは言えない状態は多々あるし…)。

 共同生活をしていれば、自分の思うように、好きなように、望みどおりにならないことが「たくさん」ある。それも、毎日。

 パパ・フランシスコは、「出て行きなさい」、と繰り返す。自分の家、自分から「出て行って」、他の人々の苦しむ顔(表情)、傷を負った顔を見て、触れて、寄り添うために。

 わたしの場合、共同生活が、まさに、わたしが「出て行く」のを促し、助けている。自分の好きなように、思い通りに、「ぬくぬくと」気楽に生きることだけを求めていると、わたしはだんだん、閉じ込められ、不自由になる。そんなわたしの「ぬくぬく布団」を、共同体の姉妹たちは、はぎ取ってくれる(時にやさしく、時に手厳しく!)。自分の好きなように、思い通りに行かない生活-まさに、それが共同生活!-は、わたしが、わたしから「出て行く」ことを促し、助けてくれる。

 でも、それって、不自由じゃない?

 まあ、ちょっと待って。自分自身に問いかけてみよう。

 「わたしの」思い通りに何でもなる世界は、「他の人」にとって「自由」なのか?

 「他の人の」思い通りに何でもなる世界は、「わたし」にとって「自由」なのか?

 人は、一人で自分を救うことは出来ない。わたしが救われるためには、他の人々が必要。他の人々も、救われるためには、「わたしが」必要。

 「一人息子の誘惑」は、「自己完結」の誘惑である。これは、パパ・フランシスコが、すでに最初の使徒的勧告『福音の喜び』[EG](2013年)の中で指摘し、その後、ひじょうにしばしば口に出している誘惑だ。

 例えば、ペルーでの奉献された人々への話の中で引用した94項。「[霊的世俗性の一つは]自己完結的でプロメテウス的な新ペラギウス主義です」(EG94)。

 …つまり、自分自身で自分を救うことが出来る、自分自身で罪をつぐなうことが出来る、とうぬぼれること。これは、「わたしは、イエス・キリストのあがないの業は必要ではない」と言うようなものである…

 「この人々は、自分の力だけに信を置き、定められた法規を遵守していること、またカトリックの過去に特有の様式にかたくなに忠実であることで、他者よりも自己の力と感情にのみ信を置いているのです」(EG 94)。

 そして、このような人々は「自己陶酔的で権威的なエリート主義を生じさせ」、「福音をのべ伝える代わりに他者を分析し格付けし、恵みへと導くことにではなく、人を管理することに力を費やします」(EG 94)。

 パパは明確である。そういう人は、「聖なるもの」の管理者、行使者としては立派かもしれないけれど、自分も傷をもっていて、主によってその傷がいやされた、という感謝から、今度は自分の方から「出て行く」「奉仕者」ではない、と。

 パパの言葉の、何と的(まと)を得ていることか!これらの言葉で、心の中に、何かズキッと来るものがなければ、わたしは偽り者だろう。ここまで極端でないにしても、多かれ少なかれ、他者を「管理したい」、「わたしの思い通りに動かしたい」という誘惑は、つねにあるだろう。わたしの中にも、ある。

 これが、わたしを閉鎖的にし、神の創造的な恵みへの扉を閉ざしてしまう。

 だから、「警戒しなさい」とパパは言う。「このようなキリスト教のゆがめられた形態が、福音の真の活力を生み出すとは想像もできません」と言いながら(EG 94)。

 またパパは、神の民は、奉献された人々が、感謝に満ちた「奉仕者」であるとき、それを見分けることが出来る、とも指摘する。神の忠実な民は、嗅覚をもっていて、聖なるものの管理者と、感謝に満ちた奉仕者を見分けることが出来ます。記憶に満ちた人と、記憶を失った人を見分けることが出来ます。

 「神の民は、我慢することを知っていますが、喜びと感謝の油をもって、民に仕え、民を世話する人を見分けます 」(司祭、修道者、神学生との集い=ペルー、1月20日)。

 パパは、さらに言う。民が必要としているのは、「管理人」である司祭、修道者ではなく、「手を汚して」民の傷に触れ、治療してくれる司祭、修道者だ、と。転んだとき、罪を犯した時に、指を指して非難する「管理人」ではなく、手を差し伸べ、共に涙を流し、傍らで歩いてくれる司祭、修道者だ、と。

「神の民は、優越的指導者を、待っているのではありません。必要ともしていません。神の民は、いつくしみを知っている、手を差し伸べることを知っている、転んだ人の前で立ち止まることを知っている、牧者、奉献生活者を待っています。イエスのように、この、霊魂を毒する悲嘆を 咀嚼する 悪循環から抜け出すのを助ける牧者、奉献生活者を待っています」(司祭、修道者、神学生との集い=チリ、2018年1月16日)。

 「一人息子の誘惑」は、自分の世界しか知らず、自分の世界から出ないので、(時に悪気はなくても)周りの人が何を望み、何に苦しみ、何に傷ついているのかに気づかなくさせる誘惑だろう。たとえ、「奉仕活動」をしているとしても、いつでも「わたしのやり方」「わたしのリズム」に固執する誘惑だろう。

 「一人息子の誘惑」から自由になるためには、解放されるためには、わたしが「他者」を必要としている、「他者」はわたしにとってかけがえがない、ということをとことん経験しなければならない。そのためには、文書を読むだけ、「祈るだけ」では十分ではない。「出て行って」(たとえ、修道院の中から出て行けないとしても、自分から出て行く手段はたくさんある)、他の人々に「出会う」ことが必要だ。
出会う中で、共に生活する中で、人は少しずつ学んでいくのだろう。

 他者に会って、いきなりその人の傷に触れてはいけない。まず長い時間をかけて互いに信頼し合うことを学び、互いに正直に、率直になることを学ばなければならない。… そして、何よりもまず、「わたしの傷」に気づき、認めるところから出発することを。

 わたしは「傷無し」で、かわいそうな他者の傷を癒してあげる、というスタンスでは、まだまだ「一人息子」である。それは、自信満々のペトロの状態(cf.司祭、修道者、神学生との集い=チリ、2018年1月16日)。それは、「わたしは救われる必要がない」という自己完結的うぬぼれ。

 わたしは傷を負っている者、わたしは罪深い者、と悟る時、わたしは本当に「自由に」なる。

 「傷をもっているという自覚は、わたしたちを自由にします(解放します)。そうです、わたしたちを、自己言及(自己参照)的に

autoreferenzialiなることから、自分が優れた者であると思うことから、自由にします」(司祭、修道者、神学生との集い=チリ、2018年
1月16日)。

 「わたしたちは、他の人々よりも優れているから、ここにいるのではありません。わたしたちは、高い所から、『死すべき人間』に会うために降りてくるような、優位にいる者ではありません。むしろ、わたしたちは、ゆるされた者であることの意識をもって、招かれています。そして、これは、わたしたちの喜びの源です。傷つき、死に、復活したイエスのスタイルにおいて、わたしたちは奉献生活者、司牧者なのです。奉献(聖別)された人々 … は、自分自身の傷の中で、 復活 のしるしに出会った人、世の傷の中に、 復活 の力を見ることが出来る人、イエスのように、兄弟たちのところに、叱責や非難をもって会いに行かない人です」(司祭、修道者、神学生との集い=チリ、2018年1月16日)。

 パパの挙げる「こういう人になってはいけない」というサンプルを聞いて、すぐ、「あっ、これ、あの人のことだ」とか、「あのシスターは、まさにそうだようね~」と、考えているうちは、まだ、わたしは、わたしの「傷」に気づいていないのだろう。

 「わたしは、『優位に』『長上職に』立ったことがないから、『上から目線』の被害者だ!」と思っている間は、まだ、わたしは、わたしの心の「内奥」にまで入っていないのだろう。

 わたしの心の「内奥」に入るためには、わたしの救いのために死んで復活したイエス・キリストの霊に心を開かなければならない。まだ、「わたしが」「わたしが」と思っている間は、知らないうちに、わたしは、キリストの霊に心を閉ざしている。

 「長上職」に立ったことがないから、「上から目線」の被害者だ、と思っている、その心の状態は、もし、わたしが「長上職」に立ったら、「上から目線」になることを暗示している。というより、優位な立場にいなくても、日々の生活の中で、ことごとく「上から目線」で
生きていることの、しるしでもあるだろう。

 自分自身が「メシア・救い主」であるかのように勘違いすることの誘惑に対する「戦い方」の一つとして、パパは、「笑うこと」、特に、「自分自身を笑うことが出来ること」を挙げている。喜びに満ちた意識(自覚)。自分自身について笑うのを学ぶことは、わたしたちに、主
の前に立つ、霊的能力を与えます-自分の限界、誤り、罪をもって、しかしまた、自身の成功、そして主がわたしたちの傍らにいることを知っている喜びとともに( 司祭、修道者、神学生との集い=ペルー、1月20日)。

 そして、効果的な「霊的テスト」として、「わたしたち自身を笑う能力があるかと自問するテスト」を示す。「他の人々のことを笑うのは簡単」だけれど、自分自身の失敗や影の部分までの笑うことが出来るのは、そう簡単ではない。だから、「学ぶ」。笑ってください。共同体の中で笑っていください。共同体を笑うのでも、他の人々を笑うのでもなく!「あまりに偉すぎて、生活の中でどうやって微笑むのか忘れてしまった人々にならないように 」(司祭、修道者、神学生との集い=ペルー、1月20日)。

 パパ・フランシスコの言葉に触れれば触れるほど、奉献された者であるということ、奉献された者として生きるということは、何と大きな恵み、喜び、感謝であり、同時に、大きな責任であるかを知らされる。

 パパは、ペルーで、奉献された人々の「本物ぐあい」のバロメーターとして、「三つの要素」を挙げている。もし、ある修道者、司祭、奉献生活者、神学生が、「記憶、喜び、感謝にあふれた人」であれば、それは「本物だ」と。この三つは、「偽りの(仮装の)」召命を見破る武器である、とも(司祭、修道者、神学生との集い=ペルー、1月20日)。

 ここまで「はっきり」言われたら、もう逃げ場はない。「喜ぶことなんて出来ない、だって…」「感謝することなんて無理、だって…」と言い訳することは、出来ない。

 喜び、感謝がないなら、それは、根源的要素が欠けている、ということだろう。奉献された人々にとっての、根源的要素は、ただ一つ。イエス・キリストとの出会い。そしてそれは、祈りにおける出会いだけでなく、自分から「出て行って」、自分を煩わせる人と出会い、その人の中に、イエスの傷を見、また、イエスの傷の中に、その人の傷を見ること…。自分の思い通りにならない出来事、自分を邪魔する人の中に、イエスと出会って行くこと…。イエスのように、かがみこみ、へりくだって、時に中傷されながらも、人々の中にある傷を、唯一、それを癒すことが出来るイエスにもっていくこと…。

 だから、「記憶」。だから、民の記憶、わたしの歴史の記憶。パパは、洗礼者ヨハネの態度に留まっている。

 ヨハネは、自分が「メシア・救い主」ではないことを、自覚していた。自分の使命は、メシアのために道を準備することであることを知っていた。自分の民の記憶をもっていたから。ヨハネは、自分の弟子たちに、イエスを指し示し、彼らが自分のもとを去り、イエスについて行くよう促す。民の記憶をもっていたから。

 さらには、「自分は衰え、あの方[イエス]は栄えなければならない」と明言する。これは、出来そうで、出来ない。分かっていても、なかなか出来ることではない。ヨハネは、どんなに有名になっても、どんなに多くの人々が自分のもとにやってきても、自分自身の意識を失わなかった。

 「ヨハネもまた、彼よりも偉大な人を待っていました。ヨハネは、自分はメシアではなく、単にメシアを告げる者であることを明確に知っていました。ヨハネは、約束の記憶と、自分の歴史の記憶に満ちた人でした。彼は有名でした、偉大な名声をもっていました、すべての人々が、彼から洗礼を受けるために来ました、すべての人々が、尊敬をもって彼の言葉を聞きました。人々は、ヨハネがメシアであると信じていました。しかしヨハネは、自分の歴史の記憶に豊かであり、うぬぼれ(虚栄心)のお世辞にだまされるに任せませんでした」( 司祭、修道者、神学生との集い=ペルー、1月20日)

 パパは、使徒的勧告『福音の喜び』の中で、わたしたちの救いの決定的な時が、ひじょうに貧しい環境の中で始まったことを強調している。

 「神のみ心には貧しい人々のための優先席があります。神ご自身が『貧しくなられた』からです。神のあがないへとわたしたちが至る道のりのあらゆる場所において、貧しい人々がその道しるべとなります。わたしたちの救いは、大帝国の外れの辺鄙な小村に住む身分の低い少女から発せられた『はい』によってもたらされました…」(EG 197)。

 わたしたちは、そこで、まさに、そのもっとも貧しい場所で、イエスと出会うのだろう。イエスと出会う、特権的場所としての「貧しさ」。それは、物質的な貧しさばかりではない。自分の心の内奥の「傷」を認め、その傷が、イエスの傷によって癒され、復活させられた
ことを知る。記憶と、感謝と、喜びの中で。それこそ、まさに、わたしたちを、イエスの「生き生きとした証し人」としていくのだろう。毎日、毎日、少しずつ。

 パパは、ペルーの観想修道会のシスターたちとの集いの中で、「みなが一つになるように」という イエスのみ心と共調して、兄弟的生活(兄弟姉妹としての共同生活)に身を入れてください、と勧めている。

 「兄弟的生活に身を入れてください。不和と分裂のただ中で、一つ一つの修道院が光を放つことが出来る灯台であるように。それが可能であると預言するのを、助けてください。誰でも、あなたがたに近づく人が、兄弟的愛の『幸い を前もって味わうことが出来るように。兄弟的愛は、まさに、奉献生活固有のもので、今日の世の中で、そしてわたしたちの共同体の中で、ひじょうに必要です」( 観想修道会の修道女との集い=ペルー、2018年1月21日)。

 今日もまた、共同体の「困ったちゃん」シスターのことで、あれこれと「対策」が立てられる…。

 もしかしたら、わたしたちの共同体の一致を妨害しているように「見える」そのシスターこそ、わたしたちに、姉妹として共に生きることの大切さを教えてくれているのかも。わたしが、わたしたちが、共同体の一人のシスターを、「困った人」と排斥してしまわない限り、その人に扉を閉ざしてしまわない限り、今日も、わたしたちは、「キリストのからだ」としての共同生活を成長させていくことが出来るのだろう。

 「困った姉妹」にも、「居場所」がある、共同体。空間的な「居場所」、受け入れてもらえる、姉妹たちの心の中の「居場所」…。かえって、「目に見える」 困った姉妹」の方が、分かりやすくていいのかも。

 主よ、わたしの中に、心の中にある「傷」に気づかせてください。それを、あなたの「傷」の中で癒してください。わたしの傷を通して、わたしが、人々の傷を思い遣ることを可能にしてください。わたしの心が、決して、誰に対しても閉ざされることがないようにしてください。

 主よ、あなたは、中傷、裏切り、孤独の中で、ご自分の傷を通して、わたしたちを救ってくださいました。あなたの傷は、決して、憎しみに変わりませんでした。それどころか、あなたの傷は、自分の罪を悔いた盗賊を救い、弟子たちに平和を与え、疑い深いトマスの心を揺さぶりました。

 あなたの傷を通して救われた、最初の方、あなたの母マリアと共に、わたしたちも、人々の傷に寄り添い、人々をあなたのもとに連れていくことが出来ますように。あなただけが、人々の、わたしたちの傷を癒すことが出来るからです。

 アーメン!

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

2018年1月26日 | カテゴリー :