・Sr.阿部のバンコク通信㊿ クリスマスが近づくと思い出す…

  バンコク都心のクリスマスムードは実に美しい。救い主の誕生を祝う音楽がジャンジャン流れ、夜はイルミネーションで素敵に輝く街並み。仏教国タイでも経済成長の波に乗ってクリスマスが祝われ、意味を知らずとも、贈り物やケーキを用意し、家族や恵まれない人に思いを馳せる良き日になっていて、うれしことです。

 ところで、所属するセントマイケル教会のクリスマスに、十数年前、こんな出来事がありました。クリスマスに近いある夕刻、日ごろ親しくしているN信徒が、5歳ぐらいの男の子を連れて「シスター、僕の子供です」と修道院にやって来ました。体格のいい目のクリッとした子、N氏が関係を持った女性の子、ハッとしました。でも、その子には何の罪もありません。何事も無かったように、その子を囲んで親しいひと時を過ごしました。

 その1か月後、N氏はフィリピン人の奥さんと車で移動中に突然帰らぬ人となりました、泣き伏す奥さんと病院へ。全速力で生きた濃密な47歳のN氏の生涯でした。

 彼は、フィリピン留学中に出会った愛しの人、お姫様のような奥様と結婚し、2人の男の子を授かりました。料理でも何でもこなし、教会でも大活躍、いつも若者に囲まれた賑やかな家庭でした。私たちも、この界隈に来た当初から大変お世話になりました。編集の仕事をゼロから始められたのも、N氏のお陰です。

 ただ、彼にも大きな問題がありました。立派な奥さんと家族がいるのに、若いタイ人女性と関係を持ってしまい、幸せな家庭に影が差し、奥様は同郷のフィリピン人の姉妹に苦しみを打ち明け、祈りを頼んできたことがあったのです。

 そして、N氏の通夜と葬儀。奥様を支える2人の頼もしい青年の傍には、5歳の男の子と若い母親の姿がありました。奥様は、「シスター、主人が『ごめんなさい』と謝って、この子を連れてきたの。自分の形見を残して亡くなったのよね」と語ってくれました。その後、男の子と母親は家族のように受け入れられている様子を目にしました。男の子はN氏を偲ばせる青年に成長し、母子とも教会で活躍しています。

 天に旅立ったN氏の事、毎年クリスマスが近づくと思い出します。誰にも肩身の狭い思いをさせずに受け入れられるイエス。大変な状況の中で、厩に誕生する救い主イエスを、心よりお祝いいたしましょう。皆さん、Merry Christmas!

(阿部羊子=あべ・ようこ=バンコク在住、聖パウロ女子修道会会員)

・森司教のことば ㉑『自己中心的な教会は、イエスを自身の目的のために利用し 、イエスを外に出さない。これは病気だ』・・教皇の言葉

 カトリック教会の現状について心配し、将来どうなるのだろうと不安を抱く人は、少なくないのではなかろうか。

 現教皇もその一人である。あまり知られていないが、まだ一枢機卿でおられたとき、ベネデイクト16世が引退した直後の、次期教皇を選ぶための準備の枢機卿会議の中で、教会の現状を憂いて、「教会は病気だ」とまで発言されているのである。

 「自己中心的な教会は、イエスを自身の目的のために利用し、イエスを外に出さない。これは病気だ。教会機関のさまざまな悪なる現象はそこに原因がある。この自己中心主義は教会の刷新のエネルギーを奪っている」と述べ、そして最後に、「2つの教会像がある。一つは福音を述べ伝えるため、飛び出す教会だ。もう一つは社交界の教会だ。それは自身の世界に閉じこもり、自身のために生きる教会だ。それは魂の救済のために必要な教会の刷新や改革への希望の光を投げ捨ててしまっている」(2013年3月)と。

 この発言には、列席していた他の枢機卿たちはきっと驚き、中には、その発言に眉をひそめた方もおられたかもしれない。しかし、枢機卿団は、そのような枢機卿を敢えて教皇に選出したのである。

 「自己中心的な教会は、イエスを自身の目的のために利用し、イエスを外に出さない。こんな教会は、病気だ」という教皇の言葉の背後には、長いカトリック教会の歴史がある。

 先ずは、16世紀に教会が分裂した後の、プロテスタントからカトリック教会を守らなければならないという思いから生まれた教会の護教的な体質である。

 教会分裂を招いた責任は、無論、教皇をはじめとする高位聖職者たちの腐敗堕落といかがわしい免罪符の乱発にある。直接のきっかけは、メジチ家出身のレオ10世が、サンピエトロ大聖堂改築の資金集めのために免罪符を乱発したことだった。

 こうした教会の腐敗堕落を目の当たりにして、刷新しなければという声をあげたのがルターである。彼によって始まったプロテスタント運動は、基本的には、教会の刷新・改革を求めたモーブメントと理解すべきである。

 分裂の痛みを体験したカトリック教会も、トリエント公会議(1545〜1563)を招集し、刷新・改革を図ろうとする。混乱した当時の社会状況から断続的な開催になったが、18年の歳月をかけて、教会の浄化と刷新について話し合い、分裂のきっかけとなった聖職者たちの腐敗堕落を払拭するために厳しい規律を設け、掟を前面に打ち出して、教会全体の綱紀粛正を図ると同時に、プロテスタントとの違いを明確にするために教義をまとめ、トリエント公会議の要理として一般に示して、教えと規律を中心とした流れを生み出したのである。

 その姿勢は、徐々に教会の隅々にまで浸透し、そのお陰で教会は浄化され、新しく生まれ変わることが出来たが、結果としては、教えと規律で信者たちを縛り、教えと規律の枠をもって人々と世界と向き合う共同体を育ててしまうことになったのである。その姿勢が現代に至るまで受け継がれてきてしまっているのである。

 一般の人々に、カトリック教会は、心の清い人たちの集まりで、自分のように汚れた人間は相応しくないなどという印象を与えてしまったのは、このような背景があったからである。

 その後、カトリック教会の護教的な姿勢をさらに強固なものにしてしまったものは、近代主義との対峙である。近代主義とは、17世紀以降のヨーロッパ社会全体に芽生えた新しい価値観・世界観による、それまでにはなかった新しい流れである。

 それは、フランス革命の際に掲げられた『人間はみな自由・平等』であると言う理念と、ガリレオ問題に象徴される合理主義・実証主義と、それに産業革命とともに誕生した資本主義経済を柱とした社会の営みである。

 当時のカトリック教会は、合理主義・実証主義は聖書の信憑性への疑いを抱かせ、資本主義経済は人々の心を、富の豊かさに靡かせ、神から引き離して地上の幸せに引き寄せ、信教・信条の自由は、人々の教会離れを勢いづかせてしまう危険な毒として受け取ってしまったのである。

 教会は、そうした毒が教会全体に及ばないように、さまざまな手を打っていったのである。ピオ9世(1792〜1878)からはじまってピオ12世1876〜-1958)に至るまでの歴代教皇に共通するものは、教会内の引き締めと近代主義に対する断罪である。

 その中でも最も目立つのが、ピオ9世だ。彼は、機会がある毎にカトリック教会の絶対性を訴え、近代主義を厳しく断罪し続けます。いくつかの回勅をだしていくが、その中でも有名なものは、1864年12月8日に公布した回勅『クワンタ・クラ』(Quanta Cura)である。直訳すると『何と心配なことか!』になる。

 その中で教皇は、自由主義合理主義、実証主義、さらにはまだ芽生え始めたばかりの社会主義共産主義まで糾弾し、その回勅の公布に合わせて、「誤謬表」を発表する。それは、近代主義の考え方を80の命題にまとめ、過ちとして列挙したものである

 また、教会は一致団結して闘わなければならないと言う思いから、世界に散らばる教会を統合し、カトリック教会を、教皇をピラミッドの頂点とした、強固な中央集権的な組織に導いたのも、彼である。

 そんな教皇の下でその手足となって働くバチカンの省庁が、全世界の教会に対して非常に大きな影響力を持つようになったのも、このような背景からである。

 さらにまたピオ9世は、第一バチカンン公会議を招集し、教皇の不可謬権を信仰箇条として宣言する。教皇は不可謬であると言う教義は、教会が示し伝える教義に信者たちが疑義を抱くことなく受け取っていくことができるための根拠となったのである。

 こうして教会は、教義について疑うことも議論することも許されない、重々しい雰囲気に覆われるようになる。聖職者を始め信者たちの言動を監視し、それを取り締まる機関として検邪聖省が生まれたのも、この時期です。この時期、教会全体が、近代社会と対話も出来ず、思考停止のような状態になってしまった言っても言い過ぎではない。。

 教会が、単なる組織ではなく、キリストを頭とする神秘体であり、教会そのものが救いの秘跡である、教会に触れるものはキリストに触れる、などという教会の神秘的な側面を強く訴えたのが、ピオ12世である。つまり、教会に触れ、教会につながっていくことの重要性を強調したのである。

 しかし、社会の営みを世俗主義とした決めつけ、聖職者たちから教えを学び、教会につながることに救いがある、と強調し続けた教会が、世界の営みに対する影響力を失っていくのは、当然である。

 それは、第一次世界大戦、第二次世界大戦が勃発し、多くの町や村そして都市が破壊され、多くの人々が血を流し、多くの人命が奪われていく悲惨な状況に、何一つ手を打つことが出来なかったことからも、明らかである。

 ヨハネ23世の呼びかけによって開催された第二バチカン公会議後、頑なな教義主義、秘跡中心主義、そして権威主義はやわらいだことは確かである。それ以前の教会のありようと比べてみれば、自由な風が吹き始めたことは、誰もが認めるところであるが、トリエント公会議後、数百年と受け継がれてきた護教的な姿勢、教義や秘跡を中心とした姿勢は、今もって私たちの心の深くに刻まれおり、無意識のうちに、縛られ動かされてしまっていることも事実なのである。

 現教皇は、その弊害を、私たち以上に敏感に、そして痛切に感じ取っておられるのではないかと思う。カトリック教会が、今もって、教義主義、秘跡主義、権威主義から抜け出せず、複雑でしかも過酷な社会の仕組みの中でもがき苦しむ人々と直接向き合おうとしてないことに、現教皇は、苛立ち、そんな教会の姿を、「イエスを教えと規律の中に閉じ込めた自己中心的な教会」と断罪し、嘆かれたのだと私には思われるのである。

 教皇が、全教会に求めるものは、人への眼差しを中心にし、人への愛に軸足を置いた教会共同体への転換である。憐れみの特別聖年をよびかけたのも、そのためだと捉えていくべきである。

 (森一弘=もり・かずひろ=司教・真生会館理事長)⇒筆者のご都合により、5月号以降、しばらく休載いたします(「カトリック・あい」)

2018年4月16日 | カテゴリー :

・森司教のことば ⑳人間の良心への呼びかけとしての『ラウダート・シ』ー神の前で問われる人の責任ー

 安全神話がどんなに信じられないものであるかは、福島の第一原発の事故から学んだ筈なのに、「安全である」と言う掛け声のもとに大飯原発の再稼働への布石が着々と進められている。経済活動を支えると言う名目であるが、一度事故が起これば、放射能汚染ほど人を不安に陥れ、自然を破壊してしまうものはない。

 この地球の秩序と調和の破壊と人々の幸せを奪ってしまうと言うことに関して、私たち人間ほど、罪深い者は他にいない。

 創世記の一章の天地創造の物語では、世界は明るい光に包まれ、闇を感じさせるものは何もない。初めにあった闇も深淵も、神の働きとともに消え去っている。一日ごとに「神は良いと思われた」という言葉が繰り返され、その業をすべて完成されたときには、「極めて良かった」と物語は結ばれている。

 闇も翳りもない光輝く世界。そんな世界を、神は、「産めよ、増えよ、地に満ちて、地を従わせよ」(創世記1の28)と言って人に委ね、人を祝福する。そこには、人に対する期待と人に幸せになってもらいたいと言う神の思いが込められている。

               ☆

 しかし、歴史を振り返れば明らかなように、人は、この世界を破壊し、隣人には地獄のような苦しみを与えてその幸せを奪い続けてきてしまってきているのである。

 「産めよ、増えよ」という点では、人はかろうじて神の期待に応えてきたと言えるかもしれない。国連の人口白書によれば、世界の総人口は70億人を超え、今後も増加の一途を辿ると予測されている。

 しかし、その陰には、幸せを踏み躙られて悲しみの淵に陥れられてしまった無数の人々が存在する。

実に人類が誕生して以来、殺傷事件がなかった日や紛争や戦争が行われなかった年はなく、この世界は、打ち倒されて嘆き悲しむ人々が流した涙と命を奪われた人々が流した血によって覆われてしまっている、と言っても過言ではない。

 悲しいことに、それは遠い過去のことではなく、今も繰り返されているのである。ナチスによる600万人以上のユダヤの人々の虐殺は、高々70年前のことであり、70年代にはポルポト派政権による大虐殺、90年代にはルアンダの民族紛争による大虐殺、さらに現代ではミヤンマーでのロヒンギャの人々に対する虐待と続いている。

この後も、人間の心が変わらない限り、この地球の上では、テロ事件や民族紛争が噴出し、多くの人々の幸せへの道が閉ざされていくに違いない。

 人に対してだけではない。私たち人間は、この世界の秩序と調和を破壊し続けてきているのである。その破壊は19世紀に入って産業革命以後急速に進み、産業廃棄物や生活廃棄物によって自然環境の汚染は進み、オゾン層の破壊や温暖化現象を招いて、地球そのものが人の生存を危くしてしまう場になってしまったのである。その延長上に原発の問題がある。

 それをもたらしたものは、少しでも多くの利益を得たいと言う人間の欲望と少しでも快適な生活をエンジョイしたいと言う人間の願望である。

               ☆

 私たちキリスト者は、天地創造の初めに光輝く世界を人に委ね、人に幸せになって欲しいと願った神の前に、どのような顔で立つ事が出来るのだろうか。目先に幸せに求めて展開する現代社会にあって、キリスト者としてアイデンテイテイが改めて問われてくるのではなかろうか

 現教皇の回勅『ラウダート・シ』は、改めてこの世界に対する人間の責任を問う、重要な回勅である。それは、現代社会の中にあって、あなたは、どのような生活を求めるのか、幸せを奪われていく多くの人々の悲惨な現実に、どのような心で向き合おうとしているのか、私たちの良心への呼びかけになっているのである。

(森一弘=もり・かずひろ=司教・真生会館理事長)

2018年3月1日 | カテゴリー :

・森司教のことば ⑲教皇の自発教令と典礼式文の翻訳の問題点

 昨年、教皇は、自発教令を発表し、ミサなどの教会の公式の典礼・祈祷文の翻訳の認可の権限を、基本的には現地の司教たちに委ねると言う方針に転換した。

 この自発教令によって、これまでバチカンの典礼秘跡省に与えられていた権限は、大幅に制限され、司教団から提出された翻訳文の最終的な認可を行うことだけのことになり、これまでのように、翻訳文の中身の是非にまで介入することは出来なくなってしまった。

 これまでは各国のミサなどの公式の式文の翻訳はすべて、たとえ、それぞれの国の司教団が責任をもって翻訳したとしても、典礼秘跡省に提出し、その翻訳が原文のラテン語規範版にそったものかどうか、一語一句、同省の判断を仰がなければならなかった。またその作業には、時間がかかり、最終的な裁可を受けるまで、各国の司教団は忍耐を強いられてきていたのである。

 したがって今回の教皇の教令は、バチカンの典礼秘跡省の厳しさにさんざん悩まされ、忍耐を強いられてきた各国の司教団、特に日本司教団などにとっては、朗報なのである。

 周知のように、ミサが、それぞれの国の言語に捧げられることが出来るようになったのは、第二バチカン公会議後のことである。それまでは、世界中、どこでもラテン語によるミサであり、それ以外の言語で捧げることは許されなかった。

 公会議前に洗礼を受けた私も、教会で侍者などの奉仕をするときは、ラテン語で応答しなければならなかった時代を経験している。しかし、ラテン語は、大昔のローマ帝国の言語である。ローマ帝国が滅んだ後は、教会の公式の言語として残り、聖職者たちの間では使われてきていたものである。実に、私がローマの神学院で学んだ頃も、授業はラテン語、教科書もラテン語、試験もラテン語であった。ヨーロッパの神学生たちにとっては古典になるので、それほど苦労することもなく対応していたが、東洋からの神学生たちにとっては、ラテン語漬けの日々は一般の人が想像する以上に過酷なものだった。

 ラテン語は死語であり、カトリック信者の信仰生活の源泉、原動力ともなるミサが、一般信徒が理解出来ないままで捧げられていると言うことは、よくよく考えてみれば、不可解なことである。いまだにラテン語に拘る信者もいなくはないが、そもそもラテン語はキリストが使った言語でもなく、ラテン語に拘ることも実はおかしなことなのである。

 またキリストが人々を教えるために用いたたとえ話が、非常に具体的で、誰にも分かりやすいものであったことなども念頭におくならば、一般の人々が分からないラテン語のミサは、そんなキリストの心に背くものでもある。

 とにかくカトリック教会は、何世紀にもわたってラテン語にこだわり続けることによって、知らず知らずのうちに、信仰と現実生活との遊離、教会と社会との遊離を招いてしまってきていたのである。

 第二バチカン公会議に招集された教父たちの大半は、司牧の前線に立って苦労してきた司教たちである。彼らが公会議で願ったものが、根本的な教会の刷新であり、そのために教会と社会との遊離、信仰と生活の遊離の克服を求め、そのために真っ先にチャレンジしたのが典礼の改革であり、それが母国語でのミサへの道を拓いたのである。

 典礼改革は、第二バチン公会議が歴史の残した大きな功績であり、現代カトリック教会のありようも、この典礼改革によるところ大なのである。

 しかし、それがまた、行き過ぎを招いてしまったことは、否定しがたい事実なのである。

 母国語への翻訳と適応、そして同時にミサを捧げる聖職者たちやあずかる信者たちの主体性が強調されたため、適応という名のもとに、ラテン語の規範版にはない文言が勝手に付け加えられたり、原文とは異なる意味の文言に変更されたり、またその時々に、ミサを捧げる司祭が、勝手に自分の主観に基づいた祈り文を加えたりなどして、ミサの式文が落ち着きのないものになったりして、収拾がつかなくなってしまったのである。

 それは、長年ラテン語に縛られ、自らの思いをミサの中で自由に表現することが出来ずにきてしまっていたことの反動として理解することが出来なくはないが、バチカンは、混乱が広がってしまったために規制が必要と判断し、各国の翻訳文がラテン語の規範版にそったものであるか否か、厳しくチェックする方針を選択したのである。1980年代になってからのことである。

 そのため、典礼秘跡省は、委員会を設置し、それぞれの国の言語.文化・伝統が分かる学者・神学者たちを委員として招聘し、彼らに各国の翻訳文とラテン語の規範版との整合性の検討を委ねたのである。しかし、そこに委員として招聘される委員たち資質の問題が噴出したのである。

 その一つは、それぞれの国の司牧の前線に立って日頃から人々と向きあって宣教司牧に苦労している司教たちと司牧経験の乏しい委員たちとの問題意識のずれである。司牧経験の乏しい委員たちには、各国の翻訳文に込められている各地の司教たちの思いを汲み取ることが難しく、どちらかというと原則論に流れて判断してしまうため、しばしば各国司教団との齟齬が生じ、各国司教団の苛立ちを招き、典礼秘跡省への不信を増長させてしまったのである。

 もう一点は、特に、ローマ在住で、日本語や中国語などの東洋の言語・文化・伝統に堪能な学者・神学者たちは少なく、日本など東洋の言語・文化・伝統に蘊蓄のある委員を選任することは容易なことではなかったことである。

 委員会に、日本の文化・伝統に疎い委員たちが多かったため、事実、日本の司教団が、日本人の感性にふさわしい訳として判断して提出した文言も、原文とは異なってしまっていると判断されて、突き返されてしまったことは、一度や二度のことではなかった。

 過去には、典礼秘跡省が、日本の司教団が翻訳し、典礼秘跡省に提出した翻訳文を、日本語が分かる者がいないことからローマの神学院で学んでいる何人かの日本人の神学生たちに検討を依頼し、彼らの意見・指摘を参考にして、司教団が提出した翻訳文に対する是非を判断して、司教団を指導してきていたということも、あったのである。それは司教団にとっては、無論屈辱的なことであった。

 こうした経緯を振り返るとき、今回のフランシスコ教皇の自発教令は、各地の司教団にとっては、確かに朗報とも言えるのである。

 しかし、今回の自発教令を手放しで喜んではいられない一抹の不安が、私にはある。というのは、日本語への適応という名のもとに、ミサの式文の中に込められている真意を歪めたり軽くしてしまったりしているケースが、これまでも多々見られたからである。

 一つ一つ具体例を挙げていけば切りがないが、その中でも、今私にとって最も気になるものが、「主の祈りの新しい口語訳」である。その中の、「私たちの罪をおゆるし下さい。私たちも人をゆるします。」という文言である。

 この訳は、明らかに神学的には間違っているように思われる。というのは、文章の流れから、私たち人間に人の罪を許す権限があるかのような印象を与えてしまっているからである。罪を許す権限は神だけのはずである。

 ちなみに、マタイ福音書では、「私たちの負い目をゆるしてください。私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように」と負い目に統一されている。ルカ福音書では「私たちの罪をお許し下さい。私たちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」になっており、罪と負い目とに使い分けている。

 負い目は、私たちにも赦すことが出来る。「罪」をどのように理解するかは、神学者によって意見は異なるかも知れないが、どうあれ、罪と言う表現を使う限り、罪を赦すことができるのは、神だけである。

 ここでは、一つの例にしか過ぎないが、今日の日本語のミサの式文には、日本語にこなれてないものもあれば、ラテン語の規範版の意味とは明らかに異なる意味になってしまっている文言も、少なくない。

 もし、これから、日本の司教団が、新しい自発教令によって、責任をもって訳を進めていくとするならば、私が進言できることは、今の中央協議会の典礼委員会を充実させることである。聖職者中心の委員会では限界がある。委員会の扉を開放し、日本的な感性が豊かで、日本語にも鋭い感覚を持っているに聖職者以外の委員を加えることである。

 今の典礼委員会による訳に批判的な声をあげる人々も少なくない。ネットを開いてみれば、今のミサの日本語訳に対する真剣に考え、自らの意見を述べ、別の訳も提示している者もいる。そうした人々と意見を交換したりすることも、プラスになるはずである。これまで典礼委員会がそうした声に丁寧に応えてきていたのどうか、私には分からない。

 これからは、公式の典礼文に関しては、扉を開いて多くの人々に声を掛け、協力を仰ぐことである。

 この際、典礼委員会には、これまで以上に善意に満ちた信者たちの声に耳を傾け、議論を重ねながら、規範版を裏切らない、しかし、日本人の心に届く典礼文の実現に努めてくださることをお願いしたい。と同時に、なぜ、この訳にしたのか、丁寧な説明をお願いしたい。

(森一弘=もり・かずひろ=司教・真生会館理事長)

2018年2月1日 | カテゴリー :

 森司教のことば ⑱キーワードで キリストの誕生の物語を読む

極貧、独裁者、難民、虐殺、民族宗教などのキーワードで キリストの誕生の物語を読むと・・

 クリスマスが近づくと、日本社会全体がクリスマス一色に染まってしまう。デパートや商店街には、イルミネーションが飾られ、街中にはジングルベルの軽やかな歌が流れ、人々は明るい気分に包み込まれる。

 しかし、それは、福音書が伝えるキリストの誕生の物語に込められている光とも異質のものであり、キリストがこの世界にもたらそうとしたメッセージとも無縁のものである。それは、キリストの誕生の場面を伝えるルカ福音書、マタイ福音書を丁寧に読んでみれば、明らかである。

極貧

 ルカ福音書が伝えるキリストの誕生の物語には、天使たちや羊飼いたちが登場し、表面的には、心を和ませるような牧歌的な印象が与える。が、それに惑わされてはならない。というのは、天使たちや羊飼いたちが登場する前に、ルカ福音書は、「キリストが極貧の中に生まれた」ことを殊更に強調しているからである。

 注目すべきは、「宿屋には彼らが泊まる部屋がなかったからである」と記している点である。

 『泊まる部屋がなかった』理由として、客が多くて、どの宿も満室だったということも、考えられなくもないが、それよりも、私には、ヨゼフに泊まるためのお金がなかったから、とか、ヨゼフが人々の目にみすぼらしく映ったから、と思われるのである。もし、金銭的に余裕があれば、そして裕福そうにみられれば、部屋の一つや二つは融通してもらえたかもしれない。

 貧しい者が、店先や宿屋の入り口で軽んじられたり、拒まれたりしてしまうのは、今も昔も同じである。またそこから、人々の冷たさも伝わってくる。臨月を迎え、お腹が大きくなった女性を目のあたりにしても、誰も、便宜を図ろうとしなかったのである。部屋がなかったとしても、片隅にでも、休ませることぐらいは出来たはずである。

 貧しさ。そして人々の冷たさ。そこで、止むを得ず、マリアは、家畜小屋で、出産することになる。家畜小屋とは、羊飼いたちが風雨を避けるための避難所のようなものである。決して心地よい小屋ではない。キリストは、柔らかなベットではなく、飼い葉桶に寝かせられる。

 誰もが、貧しさには目を背け、貧しさから抜け出そうと、必死である。貧者には哀れみの目を向けることがあっても、貧者に助けを求め、貧者に頼ろうとする者は、一人もいない。

 貧しさの極みの中で生まれた赤子が、人類の希望となるとは、常識的は理解できないことである。その非常識に目を向けるように呼びかけたのが、天使たちなのである。

 羊飼いたちは、天使たちの呼びかけを受けて、キリストの誕生の場に駆けつけていく。彼らが、何を感じとったか、記されていない。しかし、何かを感じとったに違ない。

 天使たちの呼びかけは、私たちへの呼びかけでもある。飼い葉桶に横たわるキリストには、人々を引き寄せる権力も富もなく、きらびやかなイルミネーションもない。しかし、そこに全人類を支え照らす光と力が満ちあふれているのである。

 極貧の中に誕生したキリストに出会うためには、私たちも裸になる必要がある。自らの心の奥に入り、自らを裸にし、自ら貧しい存在であるということを見極めることである。実に、キリストは、貧しさの中に誕生しているからである。私たちに求められるのは、私たちが普段囚われてしまっている常識的な価値観の転換である。

 

独裁者

 マタイ福音書の2章は、ルカとは異なって、独裁者ヘロデが権力を奮う社会の中でのキリストの誕生を語る。

 ヘロデは、ローマ皇帝の保護のもとにユダヤの王となった人物である。当然、ユダヤの人々には人気がなく、嫌われている。その上、猜疑心が強く、自分の息子たちが王座を狙っていると疑って、その母親たちと支援者たちを容赦なく虐殺してしまった過去のある、残虐な男である。そんな男の治世にキリストは誕生するのである。

 そんなヘロデのもとに東方から占星術師たちが訪ねてきて、『ユダヤの王は、どこに生まれしたか』と尋ねる。それは、ヘロデの前では、決して口にしてはならない言葉であったが、それは東方からの訪問者たちには分からない。不安に駆り立てられたヘロデは、禍根を残さないため、その地域一帯の二歳以下の幼子たちを殺してしまう。単なる政敵や反対者を虐殺するのではなく、無邪気な、罪のない赤子たちの命を奪ってしまうのだから、ヘロデの猜疑心は、異常ともいえる。

 ヘロデに限らず、自らの権力・地位の安定を求めて、邪魔な存在を抹殺する独裁者は、いつの時代にも、見られることである。思うがままに権力を奮う独裁者を通り過ぎていくところには、必ず踏みにじられたり命を奪われたりして、苦しみの叫びをあげたり、悲しみの涙を流したりする無力な「小さな人々」が現れる。

 我が子を殺された親たちは、当然、傷つき、悲しみ、叫ぶ。マタイは、その悲しみがどんなに深いものか、エレミヤ書を引用して証言する。

 『ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない。子供たちがもういないから。』(マタイ2の18)

 創世記も、兄のカインが弟アベルを殺した出来事を語りながら、強者によって人生を狂わされ、命を奪われていく弱者の無念さ、叫びを、次のように記している。

 「主は言われた。『お前の弟の血が、土の中から私に向かって叫んでいる。今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を口を開けて飲み込んだ土よりも、なお呪われる』」(創世記4の10)

 強者によって弱者が踏みにじられ、その人生が翻弄され、その果てに命まで奪われてしまうという悲しい現実は、人類が誕生して以来、途絶えることなく、連綿と続いてきている。アベルも幼子たちも、その弱者の系列に属するのである。

 実に、この世界は、弱者たちが流す涙に溢れ、その流す血で真っ黒に汚されてしまっている、と言っても過言ではない。

 福音書は、キリストは、実にそうした幼子と親たちの苦しみ、悲しみ、叫びを背負って、その生涯の歩みを始めたことを、私たちに伝えているのである。

難民

 独裁者の支配する所には、難民が生じる。その暴威・圧政に堪らなくなって故郷を捨て、異国の地に逃れていく人々である。

 ヨゼフとマリアも、ヘロデの手を逃れて、エジプトに逃れていく。幼いイエスを抱えてのエジプトまでの旅は、難儀だったはずである。その途中には、荒野がある。水や食べ物の確保も、身を横たえる場を見いだすことも、容易ではなかったはずである。

 ヘロデの手を逃れてエジプトを目指すヨゼフとマリアの姿は、現代世界のシリア、アフガニスタン、リビアなどなどの難民たちの惨めな姿に重なってくる。

 血も涙もない残酷な独裁者の手から、我が身、そして家族を守るためとはいえ、住み慣れた世界を捨てていくことは、不安だらけの決断である。すぐに住まいが見つかり、職が見つかり、生活が落ち着く保証はない。また言語・風習・伝統・文化・宗教が異なる人々からのプレッシャーが待っている。そこでの生活は、日現地の人々の蔑みの目に晒され、軽蔑されたり差別されたりする、屈辱的な日々になる。

 キリストの生涯には、惨めな生活を覚悟の上で、住み慣れたふるさとを捨てて屈辱的な人生を歩まざるをえない難民たちのDNAが刻まれているはずである。

キリストの真実

 福音書が伝える救い主としてのキリストの誕生の物語には、人々を魅惑し、引き寄せ、鼓舞するようなスローガンを掲げて人々の前に立つ政治家たちにような華やかさはなく、剣をとって立ち上がり、不正と戦うと群衆を煽るヒーローたちの過激さはみられない。

 イザヤ書が「彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない」(イザヤ53の2)と語っているように、常識の目で見れば『弱者の系列につながる』弱さであり『小ささ』である。実に極貧の中で生まれ、難民となった家族の中で成人し、指導者たちに煽られた群衆たちによって十字架の上で生を終えるキリストの生涯は、『弱者の系列』『小さい者の系列』に徹していたのである。

 しかし、そこにキリストの力、魅力が潜んでいるのである、つまり、人々との連帯である。

 ヘブライ人の手紙の著者も、次のように記す。

 「彼は、私たちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、私たちと同様に試練に遭われたのです。」(ヘブライ人の手紙4の15) 「自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることが出来るのです」(同5の2) 「事実、ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」(同2の18)

 繰り返すようで恐縮だが、キリストの魅力、力は、富で権力でもなく、人々との連帯にある。自ら、重荷と労苦を負って生きざるをえない人々の中に飛び込み、人々のもがき、苦しみ、悲しみに共振しながら、その重荷と労苦に心を寄せながら生きることに、生涯徹したことにある。

 キリストが誕生してから、二千余年、多くの人々がキリストに引き寄せられた理由も、そこにある。

(森一弘=もり・かずひろ=司教・真生会館理事長)

2017年12月31日 | カテゴリー :

 森司教のことば ⑰「教会は疲れている!」

 「教会は疲れている。幸せなヨーロッパと米国において、欧米の文化は歳を重ね、教会は大きく、宗教施設には人はいない。教会の官僚主義的な装置は多くなるばかりで、儀式と祭服はもったいぶったものに見える。(中略)今日、教会では残り火の上にとても多くの灰が覆い被さっているのを見て、私はしばしば無力感に苛まれる。どうすれば、愛の炎を再び燃え立たせるために灰の中から残り火を取り出すことが出来るだろうか」

 ここに掲げた言葉は、故カルロ・マルテイーニ枢機卿(1927〜2012年)が、亡くなる数週間前、イエズス会士によるインタビューに応えたものである。
「教会は疲れている」という枢機卿の率直な言葉に、どれくらいの信者が、共感する事が出来るか、私には不安がある。と言うのは、週に一度、月に一度ぐらいの信者生活では、教会全体の行き詰まっている深刻な状況が分からないのでは・・・と思うからである。

 マルテイーニ枢機卿彼は、教皇フランシスコと同じくイエズス会出身である。ミラノ教区の司教に任命され、2002年までミラノ大司教区の教区長として働き、イタリアのカトリック教会の優れた指導者として高く評価され、一時は、故ヨハネパウロ二世の後継者になるのではないか、と見なされていたほどの人物である。晩年パーキンソン病などを患った上、高齢であったことから教皇として選出されることはなく、2012年、85歳で帰天したが、その亡くなる直前に、それまで胸の奧に深く秘めていた、カトリック教会の現状に対して抱いていた心配、不安を、初めて公に口にしたのである。

 教会が、その力を弱め、人々に対する影響力を失ってしまっているという事実は、ヨーロッパの町を歩いてみれば、誰の目にも明らかである。
街の至るところに教会の建物はある。しかし、どこの聖堂も、現代人を引きつける魅力ある空間ではなくなっている。薄暗く、人の気配はなく、ひっそりと静まりかえっている。都市の中心にある、天高く聳える大聖堂も、その昔は人々の燃えるような信仰の発露の場であったろうが、今やその中で静かに祈る信徒の姿はほとんどなく、目につくのは、ガイドブックを片手にして堂内を歩き回る観光客の姿ばかりである。

 ちなみに、カトリック国といわれていたフランスでもイタリアでもスペインでも、日曜日のミサの参列者は信者の10%前後、幼児洗礼も、教会で結婚式を挙げる者も、激減している。

 さらにまた、かつては隆盛を誇った多くの修道会も、志願者が激減して衰退し、その広大な敷地と建物が売りに出され、ホテルになったり研修所になったり、図書館になったりしてしまっている。

 「しばしば無力感に苛まれる」の枢機卿の言葉には、おそらく多くの司祭たちは、心から共感するのではないかと思われる。司祭たちは、自らの人生を賭けて、教会のために尽くそう、と決断した男たちである。しかし、キリストが、なかなか悔い改めない人々を前にして嘆いた様に、司祭たちが、いくら悲しみの歌を歌っても、喜びの笛を吹いても、手応えはない。人々の日常は社会の営みにすっかりのみ込まれ、こころも時間もそこに奪われ、教会には足が向かなくなってしまっているからである。

 多くの司祭達は、しばしば自分たちの存在が無意味に思え、無力感に苛まれてしまう。それは、どの司祭も体験することである。枢機卿も、その一人であったと言うことである。

 しかし、大半の司祭は、それをなかなか表には出さない。自らの内なる苦しみも教会についての不満、批判も滅多に口にしない。と言うのは、信徒たちに負担をかけてはならない、という責任感からである。また、ある意味で、教会という組織の公僕だからである。マルテイーニ枢機卿のインタビューが、思い悩み、心痛めている多くの聖職者たちから好意的に受けとめられたことは、事実である。

                      ⭐

 大半のひとが、社会の営みにのみ込まれ、影響力を失い社会の少数派になっていくカトリック教会は、今後どのような姿勢で、社会とそして人々と向き合えばよいのか、これからのカトリック教会の大きな課題なのである。

 これまでのように、「自分たちにはキリストから委ねられた真理があり、救いが保証されている」という信念のもとに、社会に生きる人々を「世俗主義に毒されている」と決めつけて、上からの目線で語りかけ働きかけていく姿勢を続けるならば、歯止めにならないどころか、教会離れをますます進行させるだけになってしまうことは間違いない。

 これからの教会は、教会を無視し教会から離れていく人々を責める前に、これまでの自分たちの姿勢についての反省し、新たに進むべき道を探るべきなのではなかろうか。

 その点で、私が感服したのは、マルテイーニ枢機卿の姿勢である。二十数年前のことである。お忍びで,日本を訪れて来たことがあるのである。その際、個人的に枢機卿と会食する機会に恵まれた。その席で「なぜ,日本にこられたのですか」と問う私に、枢機卿は「ミラノでも教会離れが進んでしまっている。教会が社会の少数派になってしまうことは、これからも避けられない。そんなとき、教会がどのような姿勢で社会と向き合ったらよいのか、カトリック信者が、総人口の1%にも満たない社会の少数派として苦労している日本の教会からヒントをえたい、と思って来日した」と答えてくれたのである。

 確かに、日本の教会は,社会の少数派である。信者の数は,全人口の0、4%。1000人の人が集まれば,信者はわずか4人ということになる。その4人が、「自分たちだけに真理があり、光がある」と自負して、一般の人々に馴染みのない教会用語を駆使して、周りに語りかけ働きかけていっても、信頼をえられるはずがない。

 日本の社会で教会が人々から信頼され、意味ある存在となるための唯一の道は、苦しみ悩む人々に対する誠実な愛、そして彼らを無条件で包み込む、損得を超えた真摯な愛を証しすることである。それは、資本主義の論理が隅々にまで浸透してしまった社会では、最も否定され軽視されているものだからである。そうした生き方は、愛に徹したマザーテレサの生き方が宗派の違いを超えて人々の共感をえたのと同じように、日本でも多くの人々の共感を呼ぶはずである。

 その原型は、キリストにある。少数派になっていく教会に求められることは、余計な物を脱ぎ捨てて、キリストの原点に立ち戻ることなのではなかろうか。

(森一弘=もり・かずひろ=司教・真生会館理事長)

2017年12月2日 | カテゴリー :

 森司教のことば⑯離婚者への対応- 人の弱さを理解し、寄り添い、支えるのも教会の役割

 日本の教会の宣教司牧第一線に立つ司祭たちを悩ませている問題の一つに、離婚した人たちに対する教会の姿勢がある。その厳しい姿勢が、一度人生に挫折して、光と支えを得たいと願って教会に近づこうとする善意の人々に、教会は近寄り難い存在であると思わせてしまっているからである。

 ここ数年来、日本でも、離婚は、増加傾向にある。ちなみに、1970年代には10%前後だった離婚率(年間の婚姻件数を分母に離婚件数を分子にしたもの)が、一時は30%を超えることもあったが、ここ数年は、25%前後になって落ち着いている。単純に計算すると、今の日本社会は3組に1組、約3〜4秒に1組が離婚するという状態にある。

 特に目立つのが、若い世代の離婚率の高さである。最近の統計によると、10代で結婚した女性の約60%、20~24代で結婚した女性の約40%が、離婚していることになる。

 若年層の離婚率が高いことの理由として、彼らの人格的な未熟さや性衝動に走ってしまう安易さが指摘されるが、その背後には,家庭の崩壊と競争社会の中で,正規の職を得ることが出来ない経済的な不安定さがある。


それはともかくとして、離婚した若者たちは、あたたかな居場所を失い、孤独に晒されることになる。そんな彼らが、離婚した後、独りで生きて行けるわけがない。新たな伴侶を求めようとすることは、当然なことである。

 しかし、これまでの教会は、離婚した人々を、「神の道から外れた」といって責め、冷たかった。

 離婚した人々を責めることは、簡単なことである。しかし、すべての者が喜んで離婚するわけではない。大半の者が、悶々と悩み、言い知れぬ苦しみを味わい、将来に対する不安に怯えながら決断し、自分は人生に失敗したという重いコンプレックスを抱えながら生きようとしているのである。そんな人々を一方的に断罪することは、酷なことである。

 この世界の現実は、誰にとっても複雑で、苛酷である。弱く,脆く傷つきやすい人間が、長い人生を独りで生き抜くことは容易なことではない。天地創造の初め,「人はひとりで生きるのは良くない」と判断した神は、人に生きる希望と喜びを与えるためにパートナーを創造し、人を支えるために教会を創設した筈である。良きパートナーとの出会いも教会との出会いも、神の恵みと言える。

 神の恵みは、一度結婚に失敗した人々にも閉ざされていない筈である。新しいパートナーとの出会いは、新たな希望への道を開く筈である。その門出にあたって、神の祝福を願うカップルも少なくない。日本でも、同様である。

ところが、そんな彼らの前に、離婚を認めない教会は大きな壁となってたちはだかってしまってきているのである。現実には、過去に離婚があるということだけで教会の受付窓口で拒まれ、それでもあえて挙式を求め願うときは、過去の結婚の有効・無効が調査されることになる。しかし、その煩雑な調査に耐えきれなくなって、教会での挙式を諦めてしまう者も少なくない。

 倫理・道徳が衰退した現代社会に向かって、結婚の神聖さを訴え続けていくことは、教会に託された尊い使命である。しかし、また一方、人間の弱さを理解し、挫折した人々に寄り添ってその人生を支えていくことも教会の役割である。今のままでは、日本でも、教会は、罪人に近寄り難い、立派に生きることの出来る人々の共同体であると言う印象を与えてしまう。それは「義人を招くためではなく罪人を招くためにこられた」キリストの心に背くことになるのではなかろうか。

(森一弘=もり・かずひろ=司教・真生会館理事長)

2017年10月25日 | カテゴリー :

 森司教のことば ⑮フィローニ枢機卿が読み上げた親書の気になる点は

*ネオ・カテクメナートを示唆する言及

  この度、福音宣教省の長官フィローニ枢機卿が、来日し、一週間の日程で東京、長崎、大阪、仙台と司牧訪問し、9月24日、離日した。
日本のカトリック教会は、宣教国として福音宣教省の監督下にあり、日本の各教区の司教人事も、福音宣教省で検討されているので、長官は、ある意味で、日本のカトリック教会の上司とも言える。その上司が、日本の到着早々、その日の夕刻、ヴァチカン大使館で、迎えに出た日本の9人の司教たちの前で、教皇からの親書を読み上げたのである。
その親書は、日本の社会の問題点を的確に分析、指摘しており、その内容に敬意を示すことに私はやぶさかではないのだが、後半の部分で気になるものがあった。それは、新しい運動体に言及し、その働きを高く評価し、それを受け入れるように、日本の司教たちに暗黙の内に指示しているような印象を与えていたからである。
「最後に聖座が承認している教会運動について話したいと思います。これらの運動の福音宣教熱とそのあかしは、司牧活動や人々への宣教においても助けとなりえます(中略)これらの運動にかかわりをもつ司祭や修道者も少なくありません。彼らもまた、神がそれぞれの宣教使命を十全に生きるよう招いている神の民の一員です。これらの運動は福音宣教活動に寄与します。わたしたちは司教としてこれらの運動のカリスマを知り、同伴し、全体的な司牧活動の中でのわたしたちの働きへ参与するよう導くように招かれています」
その文言が私の心にひっかかってしまったのは、フィローニ枢機卿が、ネオ・カテクメナートの熱心な信奉者・擁護者としてとして良く知られていたからである。

  恐らく、そこに居合わせた司教たちも、私と同じように、その文言から、四国から去って行かざるを得なかったネオ・カテクメナートに言及していると受け取ったに違いないと思うのである。日本のカトリック教会は、運動体に比較的開放的である。しかし、日本のカトリック教会は、新しい運動体に対して決して閉鎖的でなかったことは、事実である。

  過去を振り返ってみれば明らかなように、ヴィンセンシオパウロ会、レジオマリア、クルシリヨ、聖霊運動、フォコラーレ、聖エジディオ共同体、エンマヌエル共同体などなど、数多くの運動体が日本に入ってきて、それなりの活動を展開してきているのである。個人的には、司教たちにも、それぞれの運動体に対しては好き嫌いという個人的な好みがあるかも知れないが、しかし、そうした活動団体がそれぞれの会の精神にそって主体的に活動することに関しては、日本の司教たちは、細かく干渉したり、否定的に介入したりしたという事実は、これまでなかったことは確かである。また気になる点があっても、ほとんどの司教たちは見て見ぬ振りをして、寛容に振る舞ってきているのである。
むしろ、小教区の指導や活動では物足りない信者たちが、そうした運動体に触れ、生き生きとし、活気づけられ、キリスト者として熱心に生きている姿を見て、喜び、歓迎していたとも言えるのである。

*しかし、ネオ・カテクメナートに対しては・・・!!

 日本の司教たちの多くが拒絶反応を示した運動体は、私の知る限り、唯一ネオ・カテクメナートだけである。司教たちが、高松教区に設立
されていたネオ・カテクメナートの神学院に否定的な断を下し、閉院を求め、日本から去って行ってもらったことは、紛れもない事実である。
なぜ、司教たちのほとんどが、ネオ・カテクメナートの運動に否定的だったのか、その理由の一つは、小教区に派遣されたネオ・カテクメナート共同体の司祭たちが、独自の司牧を展開し、信徒たちの間に分裂をもたらしてしまったことにある。
独自な司牧とは、小教区の中で、独自のカテキズムを教え、その実行を求めたり、土曜の午後や復活の大祭日などに自分たちの仲間だけを対象とした独自の形のミサを行ったりして、小教区の中に、もう一つ別の小教区共同体をつくるような結果を招いてしまったのである。
当然のように、ネオ・カテクメナート共同体の司祭に従う信者たちと一般の信徒たちの間に軋みが生じ、その分裂の苦情は、早い時期から、司教たちに寄せられるようになってしまっていたのである。
問題点は、ネオ・カテクメナート共同体の司祭たちが分裂に心を痛めた教区司教たちの指導には従わず、あくまでもネオ・カテクメナート共同体の精神にそって行動し、その長上たちの指導にしたがってしまったことである。
こうした苦い経験を持つ司教たちが中心になって、ネオ・カテクメナートに対する反対の声が高まり、一般の教区司祭の間でもネオ・カテクメナート共同体に対する不信感が拡がって行ってしまったのである。

*ネオ・カテクメナートの神学院の設立に関しても・・・!!

 当時の高松教区の教区長深掘司教が、ネオ・カテクメナートの神学院の創設をはかろうとした際に、多くの司教たちは憂慮し、緊急の司教会議を招集し、その是非について議論したのである。
それまで、日本の司教たちは、教区神学生の養成に関しては、福岡と東京の二つの神学院に任せると言うことに合意し、修道会が、それぞれの会の神学生の養成に固有の神学院を持つことに関しては納得し、認めてきていたのである。
ネオ・カテクメナートの神学院の創設に多くの司教たちが否定的だったのは、その神学院が、小教区で働く司祭の養成を目指したものであったからである。したがって、高松教区内に新たな神学院設立することは、司教たちの間にあった合意に背くことだったのである。
将来日本の小教区で司牧することを目指したものであるならば、福岡か東京の神学院で学べば良いはずである。そうすれば、司祭になってからともに働くことになる日本人の神学生たちとも交わり、日本人の固有な感性や伝統・風習などを身につけていくことも出来るはずである。司教たちの何人かは、そのように説得を試みたのだが、ネオ・カテクメナートは、それを拒み、独自に養成に拘ったのである。
また、教区内に神学院を設立することは、教会法上は、あくまでも教区長の権限に属するため、ほとんどの司教たちが反対であるにもかかわらず、高松教区長は設立に踏み切ってしまったのである。
そして、その神学院を卒業し、高松教区内の各小教区に派遣された司祭たちが、その小教区の中に分裂を引き起こし、社会問題として一般紙にも取り上げられるようなってしまい、多くの一般信徒の心に深い傷を与えてしまったことから、司教たちが心配し、改めて話し合い、バチカンに訴えたりなどして、ようやっとその閉鎖に辿り着いて、今になっているのである。

*なぜ、高松教区の教区長が、設立に踏み切ったのか・・・?

 なぜ、当時の高松教区の教区長がネオ・カテクメナートの神学院の設立に踏み切ったのか、同情すべき理由はある。それは、召命不足、司祭不足だったのである。実に、長年にわたって、高松教区には、召命がなく、司教は、活動出来る司祭の不足に苦しんでいたのである。
教区長は、近隣の教区に事情を訴え、司祭の派遣を求めたが、どの教区にも余裕がなく、最後に溺れる者が藁をもつかむような思いで、ネオ・カテクメナートからの司祭の派遣と神学院の設立の申し出に、飛びついたと言う事情があったのである。

*結び

  司祭の召命の不足、そして司祭の高齢化は、高松教区だけでなく、すべての教区に共通する深刻な問題である。その問題に、他の誰よりも頭を抱え悩んでいるのは、司教たちであることはいうまでもないことであるが、それは、司教たちだけではなく、すべての信者が真剣に考えていかなければならない重大な問題なのである。
それを、目先の解決に飛びついて、安易に解決しようとすると、同じ轍を踏むことになる。同じような過ちを繰り返さないためには、拙速は避けつつ、日本のカトリック全体で考えて行くべきことである。私の個人的な願望だが、第一回全国福音宣教推進会議(ナイス)のような、日本のカトリック教会のこれからのありようを考える場を、再び開催できたら・・・と思うのだが、無理なことだろうか。

(森一弘=もり・かずひろ=司教・真生会館理事長)

関係資料・・「カトリック・あい」作成

英ランカスター司教、「新求道共同体」の典礼に規制

  2017年6月13日【CJC】英カトリック教会ランカスター教区のマイケル・キャンベル司教は6日、運動体「新求道共同体」に対する典礼規範を発表した。同団体の活動に対する「懸念が増大している」ためという。カトリック・ヘラルド紙が報じた。キャンベル司教の発表は、ミサは教会、聖堂の祭壇だけで行われるべきであり、信徒は聖体を受けたら「遅滞なく」食すべきだというもので、7月1日から実施するという。

  今回の指示は、新求道共同体で行われている、信徒がすべて聖体を受けてから食すという独自の方法に関するもの。キャンベル司教は、司祭たちはそれぞれの小教区(各個教会)で行われる特別な典礼に制限を加える権限があるとしている。

   新求道共同体側は、このような規制が行われるのは「完全に驚き」だとして、実施方法やその理由について説明させてほしいと司教に要請しているのに、と反発している。

 日本司教訪問団、新求道共同体に活動5年間中止を要請  

  2010年12月20日【CJC=東京】日本カトリック司教協議会のバチカン訪問団は、「問題」続きの年月だったとして、新求道共同体に今後5年間、活動を中止するよう要請した。高見三明・長崎大司教が長崎から電話でカトリック通信CNAに12月15日語ったところでは、司教側の提案は共同体のキコ・アルグエリヨ創設者に直接行なったが、受け入れられなかった。教皇ベネディクト16世は、司教側の計画に満足していないと見られる。ただバチカンも共同体当局者も会談や提案について公式なコメントは出していない。

  ローマのレデンプトリス・マーテル神学校副校長のアンゲル・ルイス・ロメロ神父は、CNA通信に、自身も主任の平山高明司教も、現段階で意見を明らかにするのが賢明とは思っていない、と語っている。ロメロ神父は、日本神学校プログラムに登録している学生は21人。ローマに移籍以来、日本人とイタリア人の2人が司祭に叙階され、現在ローマで活動中と語った。

  高松の神学校閉鎖の際、バチカンは共同体が日本で活動を継続する際の管理方法を決定するため司教団と協力する教皇代理を任命した。当時、バチカンは、神学校が将来、「日本の福音化のために最も適当と見られる方向で貢献を続けられるよう」との「信頼」を表明していた。しかし高見大司教は、問題解決は難しいと見ている。共同体は「長年の間、高松教区で問題を数多く引き起こしてきた」と言う。大司教は、共同体のある司祭との経験や、他の司教からの同様な問題に対する聞き取りで、自分の教区では共同体の宣教を許可しないことに決めたと語った。

  共同体の司祭は、現地の司教と東京にいる上長の双方に従属することが、大きな問題だ、と大司教は説明する。「彼らは、活動している教区の司教に従いたいとは言うものの、それを全く実行していない。とにかく十分でも正当な方法でもない」と言う。問題は、権威に関することだけでなく、行なわれるミサの方法にもある。共同体の司祭は、ミサで日本語を使うが聖歌などは異なる。「彼らは全てキコ創設者の霊性に従うが、それは私たちの文化は心情からは全くかけ離れている」と高見大司教。

  さらに、教区司祭が執行するミサを「不完全」として、共同体のメンバーが自分たちのミサを優れたものとして推進しており、これも教区内に分裂をもたらした、と言う。財務面の問題もある。共同体は財務を教区から独立させており、官庁への収支報告を困難なものにし、また教区の力を削いでもいる

  司教側は、共同体の日本でのあり方に指針を設ける方法を探っている。高見大司教は、今回の教皇と司教団との会談で何が討議されたか正確に把握してはいないが、「日本の全司教が今回の会談に深い関心を寄せていることは確か」と言う。大司教は、日本の司教が、共同体の日本における将来について教皇の決定に従おうとしていることでは結束していることを強調した。

  高見大司教は、キコ創設者に出した提案が、共同体の活動5年間停止と、その期間を「日本における活動を反省するためのもの」とすることと言う。「5年経過した後に、司教側は共同体と問題の議論を始めたい。私たちは、彼らに立ち去って、二度と戻るな、と言いたいのでは決してない。望ましい形で活動して欲しい。日本語と特に日本文化を学んでほしいのだ」と語った。

 (なお、高松にあった「高松教区立国際宣教神学院」は2009年3月31日付で閉鎖、と当時、報道されている「カトリック・あい」)

 

2017年9月29日 | カテゴリー :

 森司教のことば ⑭教皇フランシスコに対する批判と教皇の心

 2016年、教皇は、家庭についての使徒的勧告『Amoris Laetitia(愛のよろこび )』を発表した。それは、すでに指摘したように、2014,15年と、家庭をテーマにして二回にわたって開催されたシノドスを基にまとめられたものである。
この文書は、教会の使命は人間一人ひとりに神の優しさ、あたたかさを伝え、あたたかさで包みこんでいくことにある、という教皇フランシスコの信念に貫かれている。特にそれは、結婚に失敗しながらも生きていかなければならない人々に対する教会の姿勢について語るときに、よりはっきりと現れる。教皇は、離婚した者に対するこれまでの教会の厳しい姿勢を改め、彼らの苦しみや悲しみについての理解を深めなければならない、と言及しているのである。

教皇の姿勢は、当事者たちはもとより、司牧の現場に立って日々苦しむ人々と顔を合わせていなければならない多くの司祭たちの共感を呼ぶものである。しかし、その一方で、教義を重んじる人々からの批判の声も上がってきているである。
カトリック教会には、2000年の歴史があり、一つ一つの教義の歴史も古く、その理解も多様で、さまざまな考え方が受け継がれてきており、たとえ教皇の発言であっても、そのまま素直に受け止められるとは限らない。良心的に教皇の姿勢に従うことが出来ず、カトリック教会から離れていった数多くの人々がいる。プロテスタント教会との分裂も、その一つの例である。
しかし、近代になってからは、教皇に対する批判の声は、ストレートに表に出ることは滅多になかった。が、今回の使徒的勧告に対しては、教皇にメッセージに逆らう批判の声が、はっきりと表に現れてきたのである。

教皇は、根強い反対意見があることを承知だったことは確かである。というのは、シノドスで司教たちが厳しい議論が交わされる場に臨席していたからである。そうした反対意見があることを承知の上で、教皇は、使徒的勧告をまとめ、発表したのである。そこから教皇フランシスコの、神は憐れみそのものであるという神理解と教会は神の心を証ししなければならないという揺るぎない
確信が、私たちには伝わってくるのである。


教皇への批判は、特に、離婚し再婚した者に聖体拝領を許すかどうかは、司牧の現場の司祭たちに委ねるべきである、という教皇の姿勢に対するものである。周知のように、カトリック教会は、これまで一貫して、夫婦の絆は神が結び合わせたものであり、その絆は不解消であり、離婚は神の掟に背く大罪である、離婚して再婚した者には聖体拝領は許されない、と教え、指導してきた。そうした教会の姿勢は、時代が変わっても受け継がれ、揺らぐことはなかった。

事実、1997年に公にされた、最も新しいカトリック教会の「カテキズム」の中でも、明記されている。「離婚は、秘蹟による結婚が表す救いの契約を侮辱するものです。たとえ、民法上認められたものであっても、再婚すれば、罪は一層重くなります。再婚した人は、公然の恒常的な姦通の状態にあります」(2384項 邦訳691ページ、傍線筆者)『離婚した後に民法上の再婚をした者は、客観的には神法に背く状態にあります。したがって、この状態が続く限り、聖体を拝領することが出来ません。同じ理由から、教会のある種の任務を行うこともできません。許しの秘蹟によって許しを与えられるのはただ、キリストの契約と忠実さのしるしである結婚を破ったことを痛悔し、全くの禁欲生活を送る人々に対してのみです。』(2384項 邦訳498ページ、傍線筆者)

この「カテキズム」は、後に教皇ベネディクト16世となるヨゼフ・ラッツィンガーがまだ教理省長官だったころ、彼を委員長として1993年に設置された委員会によって検討され、まとめられ、1997年にヨハネ・パウロ2世によって、カトリック教会の正式の教えとして公に認証されたものである。現代の教会の姿勢を示すものである。
しかし、「カテキズム」に記された文言は、離婚し、再婚した現代の人々にとっては、非常に厳しい表現になっている。そこに記されているとおりに「全くの禁欲生活を送る」ことは、一つ屋根の下で生活する男女には不可能に近い。さらにまた離婚が増加し、離婚したとも一人で生きていることが出来ず、新しい相手を見出して、新しい歩みを始めようとする者にとっては、「再婚した人は、公然の恒常的な姦通の状態にある」という言葉は、残酷すぎる言葉である。せっかく、これから前を向いて歩もうとする人の心に新たな重荷を与えることにもなる。

こうしたカトリック教会の結婚・離婚に関しての教えの厳しさは、一般の人々に「カトリック教会を近付きがたい存在である」という印象を与えてしまっていることは否めない。しかし、一般社会の人々がどのように受け止めようと、指導者たちの多くは、結婚・離婚に対する教会の教義は、決して妥協してはならない神聖な教義であり、その教義を教え守るように信者たちを指導していくことにこそ、カトリック教会の使命がある、という信念の上に立ってきているのである。
そうした指導者たちが、教皇の使徒的勧告が発表されてすぐ反応し、批判の声をあげたのである。彼らなりの使命感からである。まずは、ヨアヒム・マイスナー枢機卿、ヴァルター・ブランドミュラー枢機卿の2人のドイツ人枢機卿、米国人のレイモンド・レオ・バーク枢機卿 、イタリア人のカルロ・カファラ枢機卿の4人の枢機卿たちの名をあげることが出来る。恐らく教皇のメッセージに居たたまれなくなったのだろう。この4人は、教皇に批判的な手紙を送り、それを公にしたのである。

4人の内の一人、レイモンド・バーク枢機卿は、教会法学者でバチカンの最高裁判所の元長官である。彼は、アメリカのカトリック紙の記者のインタビューで「離婚して再婚した信者の聖体拝領が可能である」と示唆することによって「教皇は誤りを教えている」と述べ、カトリック信者の間に「重大な戸惑いと大きな混乱」を引き起こしていると指摘し、教皇に「正式に訂正すべきである」とまで発言している。
枢機卿たちだけではない。4人の枢機卿たちの発言に勢いづいて、23名の神学者たちが、この4人の枢機卿たちを支持するように各地の司教たちに呼びかける、という行動に出たのである。その23名の中には、教皇のお膝元のバチカンの諸委員会で働く数名の司祭たちも加わっている。呼びかけを受けた司教たちが、どのように反応したか、残念ながら、私は知らない。
さらにまた前教皇ベネディクト16世によって教理省長官に任命されていたゲルハルト・ミュラー枢機卿も、「再婚者に聖体拝領を認めることは神法に反する」と発言し、教皇の姿勢とは距離を置いた発言をしていたが、この7月その職から解任されている。


神理解の違い
枢機卿や司教たちが、教皇の発言に対して批判の声を公にあげることは、近年になってからは、稀なことである。教皇と教皇を批判する人たちとの意見の違いは、その根底にある神理解の違いによるものであるように、私には思われる。
伝統的な立場に立つ指導者たちにとっては、神は「万物の主催者であり、倫理・道徳の最高の基準」である。人間は、そうした神の権威を尊び、敬い、その掟に沿って生きていかなければならない、神の掟に背くことは、万物の主宰としての神の権威を無視し、逆らうことにつながっていく。教会の使命は、何よりも神の意思、権威を尊重し、神のみ旨に沿って生きていくよう、人々を指導することにある、という神理解であり、信仰である。

 こうした神理解に立つ指導者たちにとっては、離婚は神の掟に背く大きな罪であり、離婚し再婚した信者たちに、安易に聖体拝領への道を示していくことは、神の掟を曖昧にしていくことにつながってしまう誤った指導以外の何ものでもないのである。そうした観点から、教皇の使徒的な勧告に批判的な声をあげたように私には思われる。
こうした神理解に対して、フランシスコ教皇の神理解は「憐れみ」に軸足を置いている。
教皇が、教義を否定していないことは、「愛の喜び」の序章で、「教義および実践の統一性は普遍的な真理である」と記していることからも明らかである。教皇は、カトリック教会の教義の変更はせず、結婚に失敗した人々の聖体拝領などについて、教会内で解釈権限の拡大に道を開いたのである。

そのように教皇を促したものは、無論、教皇の人間理解である。教皇は、現実の人間は、みな弱く、複雑で、純粋に教えに沿って清く正しき生きることがどんなに難しいことであるかに配慮し、教会の教えにそって生きていくことが出来ない人々も、神の憐れみの対象であることを、訴えようとしたのである。
「教会の生命を支える柱は、憐れみです。教会の司牧行為はすべて優しさに包まれていなければなりません」(小冊子 18ページ)
「憐れみは、福音の脈打ち心臓であって、教会のすべての人の心と知性に届けなければならないものです」(同20ページ)

恐らく、教皇は、アルゼンチン時代の司牧経験から、夫婦が生涯をともにすることの難しさを、肌感覚で学んできていたに違いないのである。また離婚したからといって、一方的に罪を犯したと断罪できない現実も、十分に見てきたに違いないのである。次のように述べているのである。
「客観的に見て罪の状態と思われる条件の中にいる人は、様々な制約や情状配慮要素のため、主観的に罪科が無いことがありうる。その人は神の恩恵を受けている状態であり、教会の助けを得て恩恵と愛徳のうちに成長しつづけることがありうる。(中略)どんな問題でも、白か黒かというアプローチしかできないと、恵みと成長への道が閉じられてしまい、神に栄光を帰する聖性への道を諦めることになるでしょう」(第305項)
そして教義を前面に押し出す人々に対しては、次のように語るのである。

 「混乱の余地のない厳正な宗教指導を期待する人たちがいるのは承知している。しかし、聖霊は弱い人間のさなかに善なるものの種をまく。その善きものに気を配るよう、イエスは教会に求めていると、私は心から信じている」「本当に教義を守るのは、教義の文書よりも精神を支える者であることに気付かされた」「離婚・再婚した人々は助けが必要です。この助けは秘跡の助けを含む場合もある。ご聖体は完全さへの褒賞ではなく、弱さへの薬であり、栄養である」(第38項)

(森一弘=もり・かずひろ=司教・真生会館理事長)

2017年8月29日 | カテゴリー :

森司教のことば ⑬現代のカトリック教会における 「シノドス」の意義

 教皇フランシスコは、二つの使徒的な勧告『福音の喜び』『愛のよろこび』と発表した。いずれも、多くの人々から共感を持って受け止められている.その二つとも、シノドス(世界代表司教会議)での司教たちの議論と提言を踏まえて、教皇がまとめたものである。

 したがって、その中に込められた教皇のメッセージを正確に理解するためには、2回のシノドスではどのような議論がなされたのか、またそれが使徒的勧告にどのように反映されたのか、確認してみることが大事であるのは無論であるが、シノドスは、第二バチカン公会議前には、開催されたことのないものなので、そもそも、シノドスそのものが、現代のカトリック教会にとって、どのような役割を果たしているのか、確かめてみることは、現代教会がどのような歩みをしようとしているのか知るための参考になる。

               ☆

 そもそもシノドスとは、ギリシャ語の「ともに歩む」という意味の言葉である。その歴史は新しく、1965年、第二バチカン公会議後、公会議の意向にそってパウロ六世によって設置されたものである。

 それは、それまでのカトリック教会が、教皇とその下で働くバチカンを中心とした諸官庁の指導に縛られすぎて柔軟性を失い、絶えず変化してやまない世界の実態についていけなくなり、人々からも社会の営みからも遊離してしまったという反省から生まれたものである。

 それ以前のカトリック教会が、どんなにバチカンの指導と方針に縛られてしまっていたか、そして硬直してしまっていたかは、ミサ等の典礼などの公式の儀式ではラテン語の使用が義務づけられていて、それぞれの地域の言語の使用が許されなかったり、検邪聖省などが設けられ、伝統的な教義に背くことのないように信者たちの言動が厳しく監視されたりしていたことなどからも明らかである。

 カトリック教会全体を、教皇をピラミッドの頂点とした中央集権的な強固な体制に導いたのは、ピオ9世(在位1846〜1878年)である。それ以降、歴代教皇は、絶対的な権威をもった存在としてカトリック教会の頂点に座し、一般の信徒は無論のこと、教皇から直接任命されて世界各地で働く司教たちさえも、気軽に相談することも出来ない遠い存在になってしまっていたのである。

 それでも教皇とバチカンが全世界のカトリック教会に対する責任を果たせたのは、世界各国に遣わされていた大使や各地で活動する宣教師・修道者たちから寄せられる情報のお陰であった。

 今日とは異なって、20世紀の前半までのバチカンの情報収集能力は高く、世界のどこの国よりも抜きんでていたことは事実である。そうした情報によってバチカンは、世界各地の状況を知り、全世界のカトリック教会に対して指導力を発揮することが出来ていたのである。

 しかし、そうした情報に基づいて作成される指導書簡や教書は、第二次世界大戦後、世界が複雑で多様になって行くにしたがって、それまでのような指導力を発揮することが出来なくなっていった。いくつかの理由からである。

 まずその一つは、教皇やバチカンの指導者たちが、バチカンの外の社会の中に身を置いて苦労した経験が乏しく、そこで起こる出来事の背景や問題点についての十分な認識がないままに、世界に向けた指導書簡や教書を纏めていたことにある。

 権威が無条件に敬われていた時代では、バチカンからの指導は素直に受け取られていたかもしれないが、20世紀半ばの学生運動などにみられるように、すべての権威の真偽が問われる時代になって、人々の自意識が高まるようになってからは、社会の現実体験の裏付けが乏しい文書は 説得力がなく、たとえバチカンからの文書であったとしても、そのままでは受け取られることの難しい時代になってしまっていたのである。

 またアジアやアフリカなどの教会などでは、別の理由から、そのまま受け取ることが難しい文書が多くなっていたことも、見逃せない。というのは、ほとんどの文書が、キリスト教が深く浸透した欧米文化に慣れ親しんだ人々の感性と発想によってまとめられていたからである。そうした文書が、欧米とは全く異なる歴史や文化の中で生きる人々にしっくりしないのは、当然である。そのままでは反発を招かねないような指導が示されていたことも、稀ではなかった。

 私の体験からしか推測出来ないが、自分たちには明らかに馴染まないと思える文書に戸惑い、その対応に困ってしまうような体験をしたことのない司教は、アジアでは一人もいない、と言っても過言ではない。

 さらにまたバチカンからの文書や教書が、人々の心に響かなくなっていったもう一つの理由がある。それは、文書を纏める人々の、現実社会の過酷さについての理解不足と日々の生活の中でもがき苦しみながら生きる人々に対するあたたか眼差しの欠如によるものである。

 産業革命以降、社会は経済を中心とした厳しい競争社会に変わってしまい、そこで生き抜くことが出来るものは能力に恵まれた者で、貧しい者はさらに厳しい貧しさの中に追いやられるようになり、貧富の格差はますます広がる一方の社会になってしまった。

 そうした人々の辛さや惨めさは、妻子を抱えたこともなく、会社勤めをしたこともない聖職者たちに分かるはずがない。人々の痛みや辛さを実感出来ない聖職者たちが中心となって纏められる指導書簡や文書が、たとえ、その内容が教義的にはどんなに正しいものであったとしても、人々の心に響かないのは、当然である。

 こうした19世紀から20世紀にかけて欧米社会での教会離れが進み、教会は人々には魅力のない存在になってしまっていたのである。

              ☆

 教会が、現実社会から遊離し、そのメッセージが人々の心にストレートに響かなくなってしまった事実を直視し、教会の刷新を求めて開催されたのが、第二バチカン公会議だったのである。

 公会議に出席した司教たちが、教会の社会からの遊離の克服を求めて提案した数々の具体策の中の一つが、シノドスだったのである。教皇と世界各地の司教たちと一堂に会して、分かち合い、議論する場を設けて、カトリック教会の中の風通しを良くしようと願ったのである。

 シノドスはこれまで15回も開催されてきたが、公会議に参加した司教たちの当初の願い通りに、教会のそれまでのような中央集権的な固い体制はやわらぎ、対話型の共同体に変わり始めたのである。

 シノドスでまず変えられたのは、教皇たちである。それまでは孤高を保ち、司教たちと気安く言葉を交わすことさえ難しかった教皇も、司教たちと率直に言葉を交わしたり意見を交換したりすることができる場を与えられ、その交わりを介して自らの心で直接世界各地の状況とその問題を感じとり、世界に対する認識を深めて視野を広げ、これまでとは異なった視点で物事を考えることが出来るようになったのである。

 司教たちも恩恵を受けている。司教たちの多くは、それぞれ派遣された地域では孤独である。心を打ち明け、親身になって相談に乗ってくれる信頼出来るブレーンに恵まれている者は、実は少ない。また責任感の強い司教ほど、山積する地域の課題と真剣に向き合い、そのため、ともすると目先のことに追われて、広く世界を見る余裕を失い、視野が狭くなり、蛸壺的になっていく。

 そんな司教たちにとっては、教皇に直接まみえ、教皇とともに考える場を与えられることは、何よりの支え、励ましになる。また他の地域で働く司教たちと交わり、議論し合うことによって、孤独感は癒やされ、視野も広がる。

 シノドスのお陰で、教皇と司教たち、そして司教たち自身が、啓発され、相互理解と連帯感を深めることが出来るようになったのである。

 さらにまた、シノドスの事務局が、一般の信者たちの声を吸い上げようとして、工夫したことも軽々しく見落としてはならない、新しい点である。その工夫とは、議題についての質問票を作成し、全世界の教会に公にし、協力を呼び掛けたのである。実に、その質問票には、一般信者も、個人的に答え、それを事務局に直接送付することもできるのである。

 事務局は、全世界から寄せられた回答書を纏め整理して会議に提示する。司教たちは、それを参考にしながら、会議を進めていくのである。

 こうして一般信者も、間接的ではあるが、シノドスに参加することができるようになったのである。それは、聖職者たちが中心となって歩んできたそれまでの教会の歩みの中では画期的なことなのである。

 実にシノドスは、キリストから託された責任を、教皇、司教、一般の信者たちが、一つの丸いテーブルを囲んで、意見を交換し、互いに補い合い、ともに協力し合って果たそうという、これまでの教会に見られなかった新しい形を生み出し、その方向に向かって歩み始めているのである。

 (森一弘=もり・かずひろ=司教・真生会館理事長)

2017年7月28日 | カテゴリー :

 森司教のことば ⑫現代社会と向き合う教皇の軸足は・・

 教皇は、どのような軸足に立って現代社会と向き合おうとしているのか   

    ・・・排他性と格差のある経済を拒否せよ』(福音の喜び)・・・

 「『汝、殺すなかれ』という戒めが、人の生命の価値を保護するために明確な制限を設けるように、今日においては『排他性と格差のある経済を拒否せよ』と言わざるをえない。この経済は、人を殺します。」(福音の喜び、53、邦訳56ページ、傍線筆者)

 これは、教皇フランシスコの使徒的勧告『福音の喜び』の中の一節である。

 教皇は、『この経済は人を殺す』と記すが、その発言の真意については慎重に受けとめる必要がある。というのは、資本主義経済は、かってないほどの快適で便利な生活を人類にもたらしてきており、『人を殺す』どころか、多くの人々に人間らしく生きる道を提供してきているからである。

 教皇も、その事実は認めている。認めているどころか、賞賛さえしているのである。それは、2014年、世界の経済界のリーダーたちが集まってスイスで開催されたダボス会議の際に送ったメッセージなどからも、明らかである。

 「今の時代は、教育、情報通信、ヘルス・ケア等の分野で生活の質の向上を実現する大きな歩みを残していく時代だとして、賛辞に値するでしょう。さらに言えば、その他様々な分野においても、近代ビジネス活動が果たした役割が、大きな変化をもたらしてくれた。その役割の重要さを認識すべきです。近代ビジネス活動が、人類知性という無尽蔵の資源を、喚起し発展させてくれたのです

 しかし、教皇は、賞賛しながら、そこに留まらず、会議の参加者たちに経済の仕組みがもたらした問題点をはっきりと指摘していくのである。それは、教皇として使命感からにほかならない。

 教皇の拠って立つ土台は福音である。教皇は、物質的な豊かさの中に幸せを求めいる一般の人々とも、利益を得ることを最優先する企業人とも異なる価値観の上に立っている。その土台の上に立って世界と向き合うとき、教皇が、現在の経済システムを手放しで賞賛することはできないのは、当然である。

 教皇は、ダボス会議の参加者たちにメッセージの中では、経済のシステムがもたらしたマイナス面を「社会的排除を蔓延させた」と表現し、参加者たちにその克服を願った会議を求めたのである。

 「とはいえ、それが成し遂げた成功、即ち、困窮者を大幅に減らしたという事実も含めて、近代ビジネス活動が成し遂げた成功が、社会的排除の問題を蔓延させたのも事実です。」(傍線筆者)と。

 この『社会的排除』という表現で、教皇が何を伝えようとしたのかを知るためには、「福音の喜び」を繙いてみれば良い。そこで教皇は、資本主義経済の仕組みの何が福音に逆らい、それが、どのような闇を世界にもたらしたか、詳しく語る。

 「飢えている人々がいるにもかかわらず、食料が捨てられている状況を、私たちは許すことが出来ません。これが格差なのです。現代ではすべてのことが、強者が弱者を食い尽くすような競争と適者生存の原理のもとにあります。

 この結果として、人口の大部分が、仕事もなく、先の見通しも立たず、出口も見えない状態で排除され、隅に追いやられるのです。(中略)また私たちは、『廃棄』の文化をスタートさせ、それを奨励さえしています。 (中略)多くの人々が、社会の底辺へ、隅へ、権利の行使が出来ないところへと追いやられるのではなく、社会の外に追い出されてしまうのです」(福音の喜び、53)

 教皇の拠って立つ論拠を理解していくためには、まずはここに引用した文章の冒頭の「飢えている人々がいるにもかかわらず、食料が捨てられている状況」という文言に注目してみることである。

 国連食糧農業機関(FAO)の報告書(2015年)によれば、世界では約8億人もの人たちが栄養不足の状態にあり、1日に4万人が餓死し、その多くが発展途上国の子どもたちだという。その支援のためには約400万トンの食料が必要となるにもかかわらず、世界では年間13億トンもの食品が廃棄されているという。日本では、2013年の農林水産省の調査報告によると、年間1700万トンの食品廃棄物が排出されており、そのうち本来食べられるのに廃棄される食品は、年間約500~800万トンになるという。それは、国際的な食料援助に必要な食品の2倍近くになるという。

 飢餓に苦しむ人に目を向けず、大量に食品を廃棄することは、明らかに福音の光に逆らう行為である。その背後には、利益を最優先しようとする経済の仕組みと自分たちの楽しみ・豊かさだけに目を奪われてしまっている現代人の生き様がある。

 キリストが私たちに伝えようとするものは、それぞれの周りに生きている人への目覚めである。生きることの厳しさや辛さに堪えられず、叫びを上げて助けを求めている人々の存在に目覚めていくことの重要性である。

 というのは、キリストのメッセージの中心にある人間の幸せは、富によってもたらされるものではなく、人の心と心が響き合うことによってもたらされる幸せにあるからである。そこにこそ人間の究極に幸せがあると言う確信のもとに、キリストは、私たちが、自分の世界だけの幸せに呑み込まれることなく、他者と心を通わせ、その求めに駆け寄り、寄り添っていくことの重要性を、私たちに伝えようとしたのである。

 教皇は、現代世界の人々の心が、福音の心とは逆に、隣人には閉じられ、自らの幸せ、利益の追求だけに向けられてしまっている現状に心を痛め、それが、経済の仕組みと無関係でないことを見抜き、使徒的勧告を発表したのである。

 福音の光に逆らう論理に現代世界がすっかり蝕まれてしまっていることは、世界の所得格差の拡大からも明らかである。

 2014年の貧困撲滅に取り組む国際NGO「オックスファム(Oxfam)」の報告によると、世界の富の半数は、億万長者と呼ばれる1%の富裕者層が所持していおり、その差は縮まることはなく、年々拡大の方向にあるという。

 教皇は、この格差をもたらしたものは、資本主義経済の根底に働いている強者が弱者を食い尽くすような競争と適者生存の原理」であると喝破し、その論理の徹底が、格差の拡大をもたらし、貧しいものを相手にしない「排他の文化」を生みだし、「排他の文化」を育ててしまっていると指摘するのである。

 確かに、資本主義経済が浸透してしまった社会にあって弱肉強食の論理は、能力に恵まれてないものを、人々の営みの外に負いやってしまう冷酷な側面をもっているのである。

 たとえば、就職活動にあたっても、選ばれる者は、能力のある者である。能力のない者はその門前で拒まれ、就職しても役に立たない者は、窓際に追いやられていく。利益優先という旗の下に弱者を排除する論理が正当化されているのである。また職につくことが出来ない者は、収入を得ることが出来ない。収入の保障がなければ、生活設計も立てられない。また金のない者は、必要なものさえ手にいれることが出来ず、店頭でも相手にもされない。軽視されたり無視されたりして、最後は社会の営みからの排除されていくことになる。

 こうして世界は、教皇が心を痛めているような、多くの人々が、社会の底辺へ、隅へ、権利の行使が出来ないところへと追いやられるのではなく、社会の外に追い出されてしまう」現実になってしまうのである。

 使徒的勧告の中で、信者たちに、現代世界の営みの中に、福音的な愛の息吹を吹き込んでいくことを呼びかけたのである。

(2017.6.29記 森一弘=もり・かずひろ=司教・真生会館理事長)

 森司教のことば ⑪「資本主義経済のシステム」に警鐘を鳴らす教皇

    教皇フランシスコは、現代世界の隅々にまで浸透し、人々の心に深く入り込んで人々の日常をすっかり支配してしまっている経済のありように、厳しい警鐘を鳴らしている。使徒的勧告『福音の喜び』の中で、次のように記している。

  「『汝、殺すなかれ』という戒めが、人の生命の価値を保護するために明確な制限を設けるように、今日においては『排他性と格差のある経済を拒否せよ』と言わざるをえない。この経済は、人を殺します。」(福音の喜び、53、邦訳56ページ、傍線筆者)と。

   使徒的勧告とは、全世界のカトリック信者に向けた教皇の指導書簡である。その中で、教皇は「この経済は、人を殺します」とまで断言してしまっているのである。カトリック教会の責任者としての教皇の言葉には、それなりに重さがある。教皇は、一体、何を根拠にし、どのような視点から、『この経済が、人を殺す』とまで断言しているのだろうか。その真意を慎重に確かめてみる必要がある。

    教皇の言葉とはいえ、「この経済は人を殺す」という教皇の言葉に素直に共感し、そのまま相槌を打つことができる者は、カトリック信者の中にどれほどいるのか、正直なところ、私には疑問である。というのは、大半の人は、現代社会の経済の仕組みにどっぷりと浸り、その恩恵にあずかって生活を楽しんでいるからである。

   たとえば、サラリーマンたち。彼らは、日々黙々と職場に通い、それで給料をもらって家族を支え、幸せな生活を築こうと懸命に生きている。彼らの多くは、経済の仕組みがその内にさまざまな矛盾や欠陥を抱えていることを薄々感じてはいても、教皇が指摘しているように『人を殺す』仕組みにまでなってしまっているとは、夢にも思っていないだろう。

 というのは、資本主義経済が登場してからの歴史を振り返ってみるとき、表面的にはマイナス面よりも、人々の生活を向上させてきた、というプラス面の方が目につくからである。

 しかし、教皇は、資本主義を根底で支える論理の中に、一人ひとりの人間へ敬意とあたたかな眼差しの欠如がもたらした悲惨な現実を直視して、教皇は『この経済は人を殺す』と、警鐘を鳴らしたのではないかと思われる。

 資本主義経済の原動力は、利益を上げることへの飽くなき欲望である。経営者の心の根底には、能力に恵まれてない者、役に立たない者は、相手にしない、無視し、排除してしまう冷酷な論理が生きている、ということである。

 貨幣経済が徹底した社会にあって、職につけなかったり、職を失ったりして収入の道を閉ざされた者にとっては、死活問題になる。食べていけない、生活していけない、人生設計を立てられないことにつながってしまう。

 能力に恵まれている者や富みに恵まれている者が、ますます豊かになり、そうでない者が、ますます底辺に追いやられて、経済格差、教育格差などが拡大していく世界の現実をみて、教皇は、次ようにも語っている。

 「現代ではすべてのことが、強者が弱者を食い尽くすような競争社会と適者生存のもとにあります。この結果として、人口の大部分が、仕事もなく、先に見通しも立たず、出口の見えない状態で排除され、隅に追いやられるのです。そこでは、人間自身もまた使い捨ての出来る商品同様に思われています。(中略)もはや単なる搾取や抑圧の現象ではない、新たなことが起きています。(中略)社会の底辺へ、隅へ、権利の行使できないところに追いやられるのではなく、社会の外に追い出されてしまうのです」。(福音の喜び 53、邦訳56ページ)

 また教皇は、飽くことなき利潤の追求に明け暮れる経営者たちの問題点を、次のように記しているのである、

 『他者の叫びに対して共感出来なくなり、他者の悲劇を前にしてもはや涙を流すこともなく、他者に関心を示すこともなくなってしまってしまいます。 (中略)可能性を奪われたことで先の見えない人々の生活は、ただの風景、自分の心を動かすことのないものとなってしまうのです』(福音の喜び54,邦訳57ページ)

 使徒的書簡『福音の喜び』から伝わってくるのは、教皇の、人間一人ひとりを守ろうとする真摯な心である。教皇は、資本主義経済のシステムに、人間一人ひとりへの敬意とあたたかな心が吹き込まれていくことを求めているように、私には思えるのである。

(2017.5.30記  森一弘=もり・かずひろ=司教・真生会館理事長)

2017年5月30日 | カテゴリー :

 森司教のことば⑩教会の変化・改革を求めるフランシスコ教皇

教会の敷居は高い!?

   フランシスコ教皇は、心の底から教会の改革、変化を求めている。教会は、人々の慰め、支え、癒やし、希望にならなければならないと願ってのことである。そうならなければ、教会には存在する価値がない、とまで思っているかのようである。

   教会を愛し、教会の究極の使命は、人々と真実に向きあい、寄り添っていくことにある、と確信する教皇にとっては、確かに今日の教会の現状は物足りないに違いない。教会を手厳しく批判するのも、教会が、人々が生きている現実から遊離し、叫びをあげている人々に応えられていないという悲しい現実を、しばしば体験してきたからに違いない。

    教会と聞いて一般の人々がイメージするものは、信者たちが集まって祈りを捧げる聖堂や典礼、それに教皇をピラミッドの頂点とする聖職者たちを中心とした組織、そして崇高な倫理・道徳にそって生きようとする人々の共同体というようなものである。

    しかし、人々の目に映る教会が、教会のすべてではないし、教会の本質でもない。

    歴史を振り返ってみれば、教会には、街中に聖堂を建てることさえ出来なかった時代もあったし、キリスト者と分かるだけで弾圧されてしまう時代もあった。さらにまた、崇高な倫理道徳や教義が確立していない時代もあった。それでも教会は、多くの人々の拠り所になってきていたのである。

    歴史の中で形成されてきた教会の建物や崇高な教義や理念などの表面的な姿と教会の本質とを同一視してしまったり、それにこだわり続けていたりすれば、いつまで経っても、教会の敷居は高いままである。

   本来の教会は、誰もが気安く近付くことができる存在だったはずである。

『エクレジア』として

  「教会」についての思い込みや先入観を払拭し、教会の本来の姿を理解していくためには、「教会」と邦訳されているギリシャ語「エクレジア」と言う言葉に目を向けてみることである。「教会」という訳は、「教会」の中心があたかも「教え」にあるかのような印象を与えてしまうが、「エクレジア」という言葉には、「教え」や仰々しい儀式をほのめかすニュンスは全くない。

    漢字の世界に生きる人々のためにギリシャ語「エクレジア」を最初に「教会」と訳してしまった者は、19世紀に中国に渡った宣教師たちである。日本語訳としては江戸時代の末期、マカオで宣教していたギュラッフ牧師の「寄り合い宿」と言う訳がある。この訳は、「教会」という訳とは違って、温もりを感じさせる。しかし、残念なことにギュラッフ訳聖書は、時代が幕末であったこともあって、日本にはほとんど影響を与えることはなかった。

    明治になってからは、明治学院を創設した米国長老派教会の宣教師だったヘボン氏の「集会」と言う訳がある。その後、明治の半ばに結成された聖書翻訳委員会が「教会」と訳し、それが定着して今日に至っているのである。

   ところが、当時のギリシャの世界では、「エクレジア」は、「誰かの呼びかけやある人の人柄に惹かれて集まった人々のグループ、党派、団体」と言う程度のものだったのである。キリスト信者たちは、それを、キリストに出会い、キリストに惹かれて集まった人々の集まりにあてはめたのである。

   この「エクレジア」と言う言葉は、使徒たちの手紙の中では頻繁に使われているが、しかし、正確な定義は見当たらない。恐らく、それは、定義を必要とするまでもない、誰もが日常的に使っていた言葉だったからに違いないのである。

   しかし、一カ所だけ、「エクレジア」についての定義らしきものを見出すことが出来る。それは、コリントの人々に宛てたパウロの手紙の冒頭である。「コリントにある神の教会へ、すなわち至る所で私たちの主イエスキリストの名を呼び求めている人々と共に、キリストによって聖とされた人々へ。」(コリント、一、1章の2、新共同訳)

   パウロは「エクレジア」を「キリストの名を呼び求めるすべての人、キリストによって聖とされた人々」と明言しているのである。したがって「キリストの名を呼び求めている人々」が、どんな人々であったかを見極めていけば、本来の教会の姿が明らかになってくる。

   どんな人々であったのか、パウロが、コリントの信徒に宛てた手紙が参考になる。彼は、初代教会のメンバーについて次のように語っている。

  「兄弟たち、あなた方が召されたときのことを思い起こしてみなさい。人間的に見て、知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や家柄の良い者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵のある者に恥をかかせるために、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするために、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。」(コリント一、1の26〜28)

    つまり、キリストに魅せられ、キリストによって人生を変えられた人々の大半は、経済的にも貧しく、社会的な地位も低く、ほとんどの人が文字さえ読めない人々だったと言うことである。そうした人々が集まって生まれてきた共同体、それが『エクレジア』だったと言うことである。

   それは、まさに、過酷な現実の中でもがき苦しむ人々を、理屈なしに、無条件に、あたたかく受け止め包み込む共同体である。教皇が改革を呼びかけて目指す教会は、そんな共同体なのである。

(森一弘=もり・かずひろ=司教・真生会館理事長)

2017年4月26日 | カテゴリー :

 森司教のことば ⑨教皇の、教会の現状に対する認識・・・・

 

  教皇フランシスコがもがき苦しむ人々にあたたかな関心を積極的に寄せていることは、特別聖年にあたって公布された勅書からもはっきりと伝わってくる。

  教会の現状に満足していない教皇は、教会の変革を求め、教会そのものが厳しい人生に喘いでいる人々の希望になっていくよう、すべてのカトリック信者に意識改革を求めているのである。

 教皇が『憐れみの特別聖年』を設定したのも、そのためだったのである。すべての信者が改めて神の憐れみについての理解を深めて、その組織・構造からはじまって教義に至るまでの教会の営みのすべてが、人々の叫びに耳を傾け、人々をあたたかく包み込めるようなものに変わっていくことを、教皇は願ったのである。

 教皇である限り、人々の生き様に関心を寄せるのは当然なことなのだが、教会の現状を手厳しく批判し、何よりもまず先に教会そのものの変化・改革を呼び掛けていることに、現教皇の特徴がある。

 教皇が教会の現状に満足していないことは、インタビューなどを受けた際の応答やミサの中での説教や公的な文書や使徒的勧告などから明らかである。

 その本気度は、使徒的勧告『福音の喜び』からも伝わってくる。丁寧に読んでいくと、私たちは、そこで、実に歯に衣を着せず、容赦なく、教会の現状を批判する教皇の辛辣な言葉に遭遇し、驚くことになる。しかし、そこから、教皇が今の教会をどのように判断しているか、そしてまたどのような教会になって欲しいのか、教皇が目指す教会の姿が明らかになってくる。

 「私は、出て行ったことで事故に遭い、傷を負い、汚れた教会の方が好きです。閉じこもり、自分の安全地帯にしがみつく気楽さゆえに病んだ教会よりも、好きです。中心であろうと心配ばかりしている教会、強迫観念や手順に縛られ、閉じたまま死んでしまう教会は、望みません。(中略)過ちを恐れるのではなく,偽りの安心を与える構造冷酷な裁判官であることを強いる規則、そして安心出来る習慣に閉じこもったままでいること、それらを恐れ、その恐れに促されて行動したいと思います」(同49,50〜51ページ、傍線筆者)

 教皇の言葉を並べて見ると次のようになる

  「自分の安全地帯にしがみつく気楽さゆえに病んだ教会

  「中心であろうと心配ばかりしている教会

  「強迫観念や手順に縛られ、閉じたまま死んでしまう教会」

  「偽りの安心を与える構造

  「冷酷な裁判官であることを強いる規則

  「安心出来る習慣に閉じこもったままでいる教会」

 もし,私のような者が、同じような言葉を口にして、教会を批判しようものなら、司教仲間や司祭たちさらにはまじめな信徒たちから総スカンを食らってしまうことにもなりかねない。それほど教皇の言葉は、手厳しく辛辣である。

 教皇の言葉をどう受け取るか、人によってさまざまだろう。教会のありように何の疑いも抱かずに、教会に完全な信頼を寄せている者や善意な心で教会に奉仕している信者たちにとっては、ショックかもしれない。しかし、教会の現状に心を痛めながら、しかし、声をあげることさえできずに堪え続けてきた人たちにとっては、歓迎すべき言葉である。「よくぞ言ってくれた」と喜び躍るに違いない。

 教皇が教会の現状をこれほど手厳しく批判するのは、恐らく、教皇自身がそれまでに、神の憐れみにはほど遠い、むしろ神の憐れみに背くような教会の冷たさや固さに幾度となく直面し、心を痛め続けてきていたからに違いないのである。

 教皇の教会の現状に対する認識を共有し、教会を教皇が願い求める姿に改革していくこと、それが私たちに課せられた課題でもある。

(森一弘=もり・かずひろ=司教・真生会館理事長)

2017年3月28日 | カテゴリー :

森司教のことば ⑧日本社会の隠れた悲惨さ

 日本を訪れる宣教師や修道者たちは,異口同音に、日本は、他の宣教地と比較して、素晴らしい国だ、と賛美する。表面的にみれば、その通りかもしれない。

 経済的には豊か、食べ物は豊富、そして生活は便利で快適である。人々の資質も、温厚で、礼儀正しく、勤勉である。また幼い頃から集団生活に馴らされて育ってきているため、我慢強く、自分の権利・主義主張をあまり表に表さない。デモなどは極めて稀である。また子供たちは、18歳まで法律で守られており、義務教育は徹底し,大半が高等学校や大学に進む。貧困のため幼い頃から働かざるをえない発展途上国の子どもたちと比べれば,遥かに幸せである。さらにまた乳幼児の死亡は少なく、平均寿命は世界一である。それは、経済の向上、治安の安定、医療技術の発展、生活環境の整備、社会福祉の浸透等々によってもたらされたものである。

 こんな日本社会を見て、宣教師たちが日本社会を肯定的に評価するのは、当然である。しかし、日本社会は、その内に深い闇を抱えてしまっているのである。それは、外部の者にはなかなか分かるものではない。

 その一つの証しが、鬱に覆われる人と自殺者の数である。

 鬱に覆われる人は、6人に一人とも言われてしまっている。また自らいのちを絶ってしまう人は、一時期より減少はしたが、自殺率(人口10万単位)の国際比較をみると、旧ソ連邦の国々を除くと、日本は、あいかわらず、先進国の中では上位にある。

 この数字を2003年以降のイラクの民間人の犠牲者の数と比較してみれば、日本の悲惨さがさらにはっきりと見えてくる。

 民間調査団IBC〈Iraq Body Count〉によると、イラク攻撃が始まった2003年から2010年までの7年間の民間人の犠牲者つまり死者の数は10万人近くになるという。ところが、その7年の間では、日本では30万近くの人々が自ら命を絶ってしまっているということになるのである。つまり、混乱するイラクを悲惨な社会というならば,日本は、それ以上に悲惨な国ということになるのではなかろうか。

 日本社会をそのような状態に追いやってしまった元凶は、経済的な発展と利益を最優先にしてしまう価値観とその論理にある。それをそのまま受入れて走り出し,国全体が、その論理にそって社会全体を組織化し、〈日本株式会社〉と揶揄されるほどに、一つにまとめてしまったことにあるのである。それが、人の心を蝕み、日本社会に大きな歪みをもたらしたのである。

 家庭も学校も地域社会も、本来は、人間一人ひとりを支え助ける役割を負っているものである。ところが、それが、利益と効率を目指す競争の論理に蝕まれて、本来の機能を果たせなくなってしまったのである。

 そのため、家族の絆は希薄になり、地域社会での人と人とのつながりも弱まり、弱者は、軽視されたり無視されたりして片隅に追いやられるようになってしまったのである。すべての自殺者の背後に見えてくるものは、人間としての尊厳を無視された絶望と支えを見失った人間の孤独である。

 今の日本社会が必要としている福音は、「天の父は、一人でも滅びることは望まれない」という人間の尊さを訴える愛の福音と柔和なキリストとの出会いである。

(森一弘=もり・かずひろ=司教・真生会館理事長)

2017年2月24日 | カテゴリー :