・三輪先生の国際関係論 ㉕大東亜共栄圏の亡霊

 歴史をやっていると、過去を美化するか、醜悪化しているかも知れない、という懸念にとらわれることがある。大東亜戦争という先の戦争は、そんな戸惑いを起こさせる研究対象の一つである。

 八紘一宇という大義を信じて、戦地に向かった若者は一人や二人ではない。彼らは現地で見た権力の横暴さと、初期の歓迎ムードが反発と抵抗、そしてゲリラへと漸次変化、崩壊していく様に驚愕しただろう。歴史家はこの事実にどう対峙し、どう記述できるだろう。

 こんな事を久しぶりに考えさせられたのは、『日本経済新聞』の記事に遭遇したからである。2018年3月6日の社会面にこんな大見出しがあった。

 除染作業に技能実習生 ベトナム男性「説明なかった」 専門家「制度の趣旨逸脱」 「知ってたら来なかった」 不安大きく昨年失踪 「日本人と同じ仕事」会社社長

 建設現場の仕事かと思い、渡航費に大枚をはたいて来てみれば、汚染表土の撤去作業と分かった。いやなら帰れと社長は言うが、借金の返済は、ベトナムの稼ぎでは10年はかかる。帰るに帰れない・・。

 この記事を読んで、私は日本人の良心の事を想った。

 大東亜戦争開始の日、藤山愛一郎の警告を新聞の第一面で読んだ。軍事占領したオランダ領インドネシアを、解放せず、もし日本の領土に編入したりするのなら、この戦争の意味はなくなる。道義国家日本の「八紘一宇」という大義は絵に描いた餅に過ぎず、道義的な戦争などと言うものは、現実にはありえないことの、もう一つの実証例を提供したに過ぎないことになる。

 私は大東亜戦争の事を「解放と侵略の両義性」においてとらえている。善と悪が表裏をなす典型的な後発植民地帝国国家の必然と考えている。

 かつて上智大学の国際関係研究所がメキシコの大学院大学との共同研究会議の成果を川田侃・西川潤編『太平洋地域協力の展望』(早稲田大学出版部、1981)として出版したことがある。私は「『アジア』における日本の位置―東南アジア諸民族の日本人観と『環太平洋連帯構想』に関係して―」と題する論稿を掲載した。

 すると本書の巻末に、コメントを寄せたメキシコの国会議員ヘスス・ブェンテ・レイバは最初に、私の論考に触れ、歴史研究の一つの傾向がここに示されている、として、「道義的な諸原則に対して好意的」姿勢を示している具体例である、と述べた。先進富裕ヘゲモニー国家と後発の貧困国家との関係に対して、この姿勢がいみじくも顕現しており、批判であると共に、的確に現実の歴史研究の位相を示している、としていた。

 私は上にあげた『日経』の記事を見た時、このコメントの事を思いおこし、忘れていた歴史の亡霊に出会ったような寒気をおぼえたのである。(2018.3.7)

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所長)

・三輪先生の国際関係論 ㉔相手を知らない戦争 

 高木八尺は、東京帝国大学法学部教授として、新渡戸稲造の意向を受けてアメリカ政治学などを担当した。日米戦争回避に向けて、近衛首相を動かし、アメリカ大統領との会談をセットアップしようともした。

 彼の著書は、アメリカ人の精神がアメリカ発展に及ぼした影響を説いて、余人の及ぶところではなかった。

 しかし、その物質力については読者が得心するほどには物語ってはいない。大和魂だけでアメリカの物質力に勝てる、と思っている日本人の習性に警鐘を鳴らすつもりだったのだろうか。それがもし対米開戦の愚かしさを伝えるつもりであったのなら、結果は全く裏目に出たといえそうである。

 普通の読者は、ヤンキー魂、開拓者精神に感心したとすれば、それを帳消ししてしまう自己補強を「大和魂」でやっていたのではないか。それが「皇紀2600年」と呼んでいた昭和15年の日本人の精神状況だったのではないか。世はまさに国粋主義、皇国至上主義の絶頂期に到達していたのである。西暦で1940年、その年は、ナチスドイツのべルリンオリンピックに続く、東京オリンピックが予定されていた年でもあった。ただ中国大陸における戦争に解決の見通しも無いなか、返上されていたのであった。

 対米戦争について、連合艦隊の山本五十六司令長官は「やれと言われれば、最初の半年か一年は暴れて見せます。しかしその先は分かりません」といっていた。そんな状況の中で、1941年12月8日払暁、対米戦争の幕は切って落とされたのである。国民はヤンキー魂に優る大和魂に賭けたことになるのだろう。

 その大和魂は、敗戦が色濃くなっても、一億一心、玉砕を覚悟した徹底抗戦の姿勢になって行った。そして勝利には至らなかったが、戦後の復興にその大和魂は貢献していた、と考えることが出来る。そして、戦前に返上していた東京オリンピックは1964年に開催され、戦争で倒れた人々の魂と共にことほぐ再生日本の象徴となったのである。

 2020年のオリンピックが近づいてきた。輝かしい未来のために東京の暗い歴史もさらってみる必要があるだろう。(2018・2・15)

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所長)

 三輪先生の国際関係論 ㉓トランプと教皇フランシスコ 

 売名だけが目的で選挙戦に出る人物はこの日本にもいる。目的がそれだから、間違って当選してしまうと当惑してしまう。そんな公職で人生の大事な時間を浪費するなどもっての外であった。

 トランプ・アメリカ大統領がそれだった。 アメリカの週刊誌『 タイム』が今月22日号を、この一年を総括する特集号としている。報道写真がまともな大統領たりえなかったトランプを雄弁につづっている。微笑んでいる写真もむろんあるが、と断りつつ、ヴァチカン訪問の写真は歯をむき出して微笑んでいるトランプの隣で、教皇フラシスコは苦虫を潰したような苦渋に満ちた表情をしてカメラに収まっている。

 教皇のお気持ちを忖度するとどうなるだろう。世界一の権力の座にある者への期待は大きい。その期待が半分でも報われたらと祈るばかりである。(2018年1月17日記)

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所長)

 三輪先生の国際関係論 ㉒清沢冽のこと 

 ドナルド・キーンに『日本人の戦争』という、日本人の文筆家が戦時中から終戦直後ぐらいまで記し続けていた日記を分析したものがある。数多の高名、ベテランの作家からまだ学生であった若手まで、永井荷風から山田風太郎までと幅は広い。その中で絶賛されているのは清沢冽であり、厳しく批判されているのは若輩の山田風太郎である。

 山田は医学生で徴兵を免れていた。ちょうどキーンと同年配で、キーンと同じ英米文学書を読んでいたことがわかる。文系、法系などの同僚学生たちが、ビルマ戦線で戦病死したり、特攻機に座乗してフィリピン、沖縄戦線で必死の使命に立ち向かっていた時に、理系の恩典で国土に安在しつつ、最後の一兵まで、必敗の対米戦を戦えと唱えたり、敗戦後は、戦勝国アメリカに向けて復讐戦を準備せよと唱えている、と言って最大の批判対象者になっている。

 人は読んだ書物の影響で人格、精神を形成していく筈なのに、山田をはじめ、伊藤整にしても、全くそんな痕跡がないことに驚嘆している。だまし討ちのように始まった大東亜戦争の正義を信じて疑わない様子に唖然としている。日本人のインテリの精神構造の奇怪さは、にわかには信じがたいほどである。その中で日米開戦決定の愚かさを真正面から書き立てた清沢冽と平和愛好家平林たい子が、例外中の例外として光っている。

 上智大学の国際関係研究所で私の同僚だった蝋山道雄教授が、清沢冽についてこんなことをおしえてくれたことがある。「三輪さんね、戦前の言論人で本物のリベラルは唯一清沢冽だけですよ」と話し始めた。そして対米英戦争が勃発してしまった昭和16年12月8日の朝、東京帝国大学で政治学の教鞭をとっておられた、道雄さんには父君にあたる蝋山政道さんのところへ、真珠湾奇襲攻撃の大戦果のニュースに舞い上がってしまった、大勢の友人、論客が大挙して押しかけてきて、玄関先を埋め尽くし、日本の前途を祝して大歓声で万歳万歳を叫んだ、というのだった。

 その時、清沢冽だけはその大歓声とは反対に、醒めた声で「蝋山君、これは大変なことになった。手に入る食品は何でも買いだめしておきたまえ。缶詰、瓶詰などなど」と電話して来たとの事だった。戦争に向けられる経済力が平時でも日本の10倍とされていたアメリカに最後の勝利があることは、アメリカ通の清沢冽には、明明白白であったのである。

 宰相近衛文麿にも意思の疎通が出来ていた清沢淸であり、『中央公論』などで親しい論客仲間でもあった蝋山政道教授は、清沢と同じ心境であったろう。日本軍により占領されたフィリピンの現状を視察調査した政道教授は、フィリピン人の家族文化は日本人の場合とは違っていて、その結果、大東亜共栄圏の建設を戦争目的として喧伝していた日本国家であったが、共栄圏の要の一国フィリピンに日本人が期待するような家族国家的国体の盟邦が生成するのは難しいだろう、としていた。

 清沢冽の戦中日記は戦後刊行されている。そしてそれを手にした知識人たちに深甚なる感銘を与えている。しかし残念なことに終戦真際に没しているので、さまざまなドラマがあった終戦前後の日本の国情についての清沢の省察を読むことはできない。マッカーサー総司令官の日本占領統治について、その功罪について清沢冽の鋭い語り口を聞けないのは、いかにも口惜しい。

(2017・12・27)(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所長)

 三輪先生の国際関係論㉑もう一つの特攻魂「新しき神話創造への殉死の今 」 

 前回の「諫死としての特攻と九回生きて帰還した特攻諫死としての特攻と九回生きて 帰還した特攻」に続けて・・。
私は旧制の松本高等学校を3学年までやって卒業できた旧制高校最後の卒業生の一人です。卒業は1950年3月のことでした。同窓会会報93号で「80周年記念祭特集」と銘打たれたものを見ていたら、姫路高校卒業生、鷲見昭彦氏の「特攻散華の友」と題する投稿が目に留まりました。

 敗戦真際の事、 ここにもう一人国の行く末を安じつつ特攻死した若者の姿がありました。昭和20(1945)年4月28日 、海軍神風特別攻撃隊第一正気隊の隊員として沖縄戦に散華した安達卓也という学徒兵の想いが「日誌」 からの抜書きで紹介されていました。

 「いかに特攻が続き出現しても、中核をなす政府が空虚であっては早晩亡国の運命が到来する であろう」、祖国の中核に「いかなる悲境にも泰然として揺るがず、身を鴻毛の軽きに比して潔癖な道義にのみ生きる大人物の出現」を信じ、自分はここに「爆発しその最後を飾り、一瞬の中に生を終えんとする」、そして「神国の新しき神話の世界創造の礎たらんとする」。
かくの如く、日誌に書き残していた学徒兵安達青年は、出撃に当り「後顧なし」 を最後の言葉とした。

 しかし、それからいく星霜、彼の想い描いた「神国の新しき神話の世界」はどうなったか、いやど うなろうとしているか。「戦争を放棄した平和国家」の「神話」はいまや潰えんばかりである。

 あの 敗戦の晩春特攻死した青年安達卓也は特攻死を平和立国への殉死と観念していたのだったが、歴史とはそのようなロマンとは無慈悲にも無縁であるのか。今我々は問われている。(2017・11・29 記)

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所長)

 三輪先生の国際関係論⑳諫死としての特攻死と九回生きて帰還した特攻兵士

 戦没学徒兵の遺書を集めた一書『きけわだつみの声』の突端を飾ったのは慶應義塾大学学生から応召した上原良司の遺書であった。

 「自分は自由主義者である」といい、「全体主義国家の日本は負ける。それは分っていても自分が死ななければ日本は変わらない」と観念して、特攻の使命達成に向けて飛び立った。「願わくば日本を偉大な国にして下さい」と日本国民に託して。

 あと3ヶ月余で日本が連合国に降伏して第二次日中戦争開始の1937年から数えれば8年の長きにわたった「一億一心火の玉だ」の 総力戦が終結するという、1945年の5月11日、沖縄戦の一閃光となって22歳の若き命をちらした。

 これは日本の負け戦だとわかっていても、「俺が死ななければ日本は変わらない」と覚悟した死であっ た。日本の国家、日本国民の運命を決める政策決定者等に向けた死による問いかけ、諫死であった。 それはあまたの特攻死のなかで、死の意味を明確にした一つの突出した事例であった。

 しかし死なずに敵の艦船撃沈、撃破の目的を達成した特攻兵士の事例もあった。死んで来いと命じられても、爆弾だけを敵艦船に投下して、見事目的を達成した、陸軍の第一回特攻隊のパイロットがいた。

 「死ななくてもいいと思います。死ぬまで何度でも行って、爆弾を命中させます」と言っていた 。その名を佐々木友次といい21歳であった。彼は終戦までに9回出撃し、目的を果たした上で、9回とも無事帰還した。此の異例な行動は賞賛されることは無く、かえって叱責された。「今度こそ死んで来い」と上官に叱責されるのであった。

 此の兵士は戦後を92歳まで生き、5回にわたり下記の著者のインタヴューに応じたが、呼吸不全のため2016年2月9日札幌の病院でその生涯を閉じた。そんな事もあったのだ、と吃驚する。鴻上尚史著『不死身の特攻兵―軍神は何故上官に反抗したか』(講談社現代新書 、2017)である。 (2017・11・20記)

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所長)

 三輪先生の国際関係論 ⑲歴史と小説のあいだ 

  作家が歴史物を手がける時、史料に依拠しつつ真逆の情景をえがくことがある。城山三郎の場合 :『落日燃ゆ』(新潮社、1974)で戦犯広田弘毅のことを、花山信勝教誨師の日誌を根拠としつつ、そこ に書いてあることの逆を歴史の真実として記述している。
A級戦犯7名が絞首刑にかけられる場面である。彼らは2群に分けられていた。第一群には東条英機 など4名、第二群は広田弘毅など3名であった。第二群が待機しているとき、刑場方面から、天皇陛下万 歳を三唱する絶叫が聞こえてきた。その時、広田が花山教誨師に「あれは何をしているのか」と聞き質した。
 花山は「天皇陛下万歳を三唱なさっているのですよ」と答え、広田に向かって「貴方がたもなさっ たらいかがですか」と勧めた。広田は先輩をたてる意味で元関東軍参謀長陸軍大将・板垣征四郎に「貴方どうぞ」と言った。それで 板垣の音頭とりで、広田を含み第二群全員が「天皇陛下万歳」、「大日本帝国万歳」を割れるような大声で三唱したのであった。
花山信勝の遺した巣鴨日記には、そのような情景描写がある。城山はその箇所から脚注を付して引用している。しかし城山は、広田が「何で私に『万歳』などやれましょうか」と拒否したことをもって、この物語のクライマックスとしたのである。

  城山は拙著『松岡洋右』も脚注に記したりして、歴史記述の体裁をとっていた。私は学術論文風 の体裁から、城山が語りかけるままに、広田の最後の情景を信じてしまった。そして、月刊誌『自由 』に広田の剛毅を讃える書評を書いた。後になって文庫本版が出版されるとき、出版社に請われるまま に、同様な解説を書いてしまった。
それまで私は花山信勝の巣鴨日記なる出版物を手にしたことがなかった。上智大学の図書館にもなかったので、国会図書館の蔵書を借り出してもらった。そして初めて花山の日記を紐解いた時、びっくり仰天してしまった。そこには城山の叙述とは真逆のことが記録されていたのである。

 それから10何年かたってからであったろうか、西日本新聞だったか、福岡の民放の企画であったか、私もビデオ撮りに応えて、外交官としての広田に批判的なコメントをしたことがある。その際、スタッフの人から、かなり老齢になられていた花山氏が話されたことを聞かされた。「東京軍事法廷で、死刑を宣告された時、広田は朦朧とした様子であった」というのであった。
 存命中であれば、城山氏は私の批判に対して「小説的真実というのですよ」とでも応ずるのであろうか。( 2017・10・2記)

 (三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所長)

 三輪先生の国際関係論・番外 夏が帰ってきたような日に

 体育の日の翌日である。東京都心の街路を行く。小春日和なんてもんじゃない。アッメリかじゃ、多少の軽侮を込めて「インディアン・サマー」といっていた。

 街路樹の根方に視線が行く。昭和天皇は「雑草という草はありません」と言われた。私は感動した。いまあの当時の感動をあらたにする。皆一生懸命に生きている。わたしはその証明を目の当たりにしている。

 ネコジャラシでもいいじゃないか。ちっちゃかった子供のころ馴染だ呼び名だ。すっかり実を結び、薄褐色して風になびいている。豊な秋だ。だが残念な事に、銀杏の実は捜すまでもない。見当たらない。

 昨年もその前の秋にも、それはそれはどっさりの実りだったのに。今年は確か春先に、此の道筋の両側のイチョウ並木はみんな刈り込まれてほっそりとしてしまっていたのだ。唐突な連想だが、戦前の壮丁が皆経験した徴兵検査の光景だ。フンドシ一丁にひん剥かれてしまった戸惑いがある。

 ここは地下鉄の泉岳寺駅前、品川駅に通じる大通りである。同じ情景は此の地下鉄浅草線の浅草駅前の隅田川より出口前の大通りもある。例年どっさり実をつけ歩道に散らしていた木々が、やはりやせ細って羞恥で頬を染めているようだ。

 それも無理ないことか。落ちた銀杏を拾う人がいないらしい。ここ浅草の場合街路樹に面した商店は、不動産業者、簡易食堂、コーモリ傘製造販売店、手ぬぐい小物店、ちょっと洒落たイタリア料理店などなど。銀杏はマーケットで購うものとしているのだろう。道端の秋は見捨てられているのだろう。

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所長)

 三輪先生の国際関係論⑱追想‐イエズス会士・門脇神父:天籟窟主人の「場所」の神学

 神学専攻の上智大学名誉教授、門脇佳吉神父が亡くなられたのは今年、2017年7月27日のこと。 それまで毎年夏、北軽井沢大学村池南に所在する私達家族の山荘「恵誠望楼」で過ごすわずか2週間の暑 中休暇の間に、必ず2回は門脇神父が「道の共同体」「天籟窟」と称する、門脇神父専用の教会堂で 日曜ミサにあずかってきた。

 いったい何年になるのだろうか。 「地元」群馬県長野原町北軽井沢で日曜ミサにあずかれる幸運はいつ始まったのだろうか。10年 にもなるのだろうか。それまでは、義母がまだ健在だったころには、日曜ミサを欠かすことなど想い もつかない私たちの生活習慣のままに、避暑客で渋滞しがちな山道を縫って旧軽井沢のセントポ-ル 教会までドライヴしたものだった。

 大学村で隣人の渋沢家の皆さんと連絡を取りながら、門脇神父があげられるミサの時間を確かめ たりしたものだ。大学村からはそのほかに信徒として集まり来る者は誰もいなかった。あとは長野原 町方面から車で昇ってこられるA夫人だった。

 一般信徒の常連はそれだけで、他には遠くスペインか ら毎年参加する修道士とか、お隣の韓国からは聖心会の修道女達が、日本の清泉の聖心侍女修道会の シスターなど長期修練のために滞在されていらっしゃるようであった。フィリピンからの滞在者もい らっした。昨年などはモスクワからキリル神父がみえていた。

 大きな2階建の不動産業者の賃貸ビルででもあったのだろうか。その一角に1,2階を使って本格的 に改装したところが、門脇神父の居宅と聖堂であった。京都の宮大工が仕上げたとか聞いた気がする 。立派な純和風の造りであった。

 それと不釣合いといえば言えないこともないのは、典礼に神父が使用した諸道具であった。台所にそなえつけの茶碗や皿類から選んできたのでもあったろうか、粗末なものといったら言いすぎだっ たろうか。聖水はウイスキーの空瓶にはいっていた。そして会衆を誘い一緒に、臍下丹田から絞り出 す「アバ、パパ」の絶叫で、ミサがはじまるのだった。

 東京都心の教区の教会で経験してきたことから言うと、此の異文化接触は衝撃的だった。 聖堂に宛てられていた床の間つきの部屋が8畳間で、襖で仕切ることの出来る玄関寄り付きの部屋 も8畳で、その鴨居にイエズス会創立者イグナチオの四つ切り相当の白黒写真が飾られていた。ローマの イエズス会本部にある大理石像の頭部であった

 廊下をはさんで6畳の客間があって、その床の間に は、禅の導師からいただいたものでもあったろうか、墨痕清々しい掛軸がさがっていた。 これが、門脇神父が「天籟窟」と名付け「道の共同体」と称していた施設に会衆として立ち入るこ との出来る一階部分のスケッチである。2階は神父自身や、その他滞在者の生活部分であった。

 北軽では天籟窟を名乗っていたが、門脇神父と同じイエズス会士で上智大学教授だったラサール・エノミヤ神父が東京の奥多摩に「神冥窟」と呼ばれている禅道場を開いていた。カトリック学校の生徒学生として、また一般の信徒として、 そこの活動に参加した経験のある人は結構いるはずだ。

 しかし天籟窟に集う人々はごく限られていた。別荘族にしてしかり。そもそも周辺の定住者が数 少ないせいもあったろうが、地元の人々にミサで御目にかかるという事は絶えてなかった。 毎年お会いしたのは遥か遠い異国からの参加者で、修道士、修道女など修練のため長期滞在する 人たちが数名はいた。

 それらの人たちは門脇神父の独創的というか、ひなびた感じの雰囲気を日本の 古い伝統に根ざした土着性とか、あるいは大都会の頽廃とは一線を画す革新性と捉えていただろうか 洋の東西を問わず普通の若者が侍、忍者などに興味を抱くように、カトリック教徒として生まれ ついているキリスト教文化圏の出身者が日本文化に抱く異国趣味は遅かれ早かれいずれは禅の門口に 至ることが多いだろう。

 門脇神父はそのニーズに応えてくれるのだ。 此の畳敷、障子、襖、それから特注と思われる、分厚く幅広な座布団の聖堂に、海外から参加している善男善女たちは、みなにこやかであった。

 門脇神父と禅との関係を日本人のためにカトリックの土着化をすすめる一つの小道ととらえる人は 多いかもしれない。確かに神父は、禅の修行をし、その霊性をカトリックの典礼に取り込んだ。曹洞 宗の開祖、鎌倉時代の道元の主著『正法眼蔵』を読み込んだにちがいない。道元の何に一番、惹きつけられたのだろうか。

 道元については、本物の仏教に到達しようとして、実はそれまでの仏教を破壊してしまったという評価がある。 門脇神父は神学者として日本人の素朴ながらしっかりした宗教心に西洋伝来のキリスト教、ロー マのカトリシズムの真髄にどうしたら引き付け得るものかと思考し続けてきていたのに違いない。独 特な典礼の様式もその結果として考案されてきていたのだろう。

 そんな夏も2013年の事、門脇神父から大きな仕事を託された。ちょうど岩波書店の月刊誌の一つ『思想』に二ヶ月連続で掲載されることになっていた書き上げたばかりの論考を英訳してほしいと言われた。うかがえばそれは日本を代表する哲学者西田幾多郎の「場所」の概念によってキリスト教の「 聖霊の を解明するものであった。

 2014年2月28日付けの門脇神父からのe-mailによると、不完全ではあったがスペイン語訳を急遽ロ ーマに送ったところ、Civilta Cattolica の編集長Antonio Spadaro S.J.がこれを高く評価し、「英訳が 出来れば、全世界で一番早く知られる事になるでしょう」と言い、英訳を進めるよう促してきたという のであった。そして私がすでに率先して英訳を進めていることを知って「先生が予想したことが、こんなに早く実現するとは、神の“はからい”としか言いようがありません」と結んでいた。

 門脇神父は西田哲学における「場所」の概念の特異性を次のように説明している。 「西洋哲学が有る(存在)から出発するのに対して、西田は、有るもの(存在者)が於いてある「場所」から出発します。存在から場所へのこの転換は、非常に簡単に見えますが、よく考え れば、思想史開闢以来初めての大転換なのです」。

 そして門脇神父が展開する論証の道筋は省くが、天地創造の経過を通して、神父は、聖霊 と西田の「場所」の機能が同じだ、と結論している。「無からの創造」はギリシャ哲学的発想から生まれたものであるが、「ヘブライ的思惟では、カオス・闇・死の世界・苦難・悲哀に満ちた世界から、コス モス・光・生命の世界、平和と幸いに満ちた世界への転換が最大の関心事なのです」という。

 そして 「世界とそこに於いてある万物を創造したのは母的な聖霊なのです」。 創世記の冒頭に以下のように書かれている事に読者の注意を喚起する 。「はじめに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ』。こうして、光があった」。門脇神父は言う、「光あれ」は、原語に即して翻訳すれば「光よ生じよ」。すると「光があった」は「光が生じた」となります。このくだりを読めば、聖霊が西田の「場所」に符合していることがわかります、と

 先を急ごう。門脇佳吉神父の最大の関心は、日本人のために西洋に発するキリスト教を土 着化するなどという狭小なものではなくて、衰弱している本場西洋のカトリック世界に西田哲学の「 場所」の概念から新たな聖霊の息吹を吹きかけ、活性化しようというものであったことがわかる。

 以上をもって門脇神父の神学の完成を英訳で寿ぐことの出来た望外の幸運に感謝しつつ、私の拙い思い出の記といたしたい。(2017年9月22日)

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所長)

 三輪先生の国際関係論 ⑰9.11に想うーデジャヴュのビル崩落・テロリズムの男性原理・国際テロリズムは地球化社会幕開けの「内戦」か

 デジャヴュのビル崩落

    2001年9月11日、ニューヨークの惨劇をテレビで始めてみたとき、それがテレビドラマの一シーンではなくて、現実に起こっていることだととっさに理解できた人はいなかったのではないか。 それほどそれは現実離れをしていた。それが現実に起こっていることと解ったとき、私はそれを過激 なアメリカ人の行為だと信じた。

  合衆国憲法によって作り上げられたアメリカという法律論的人工国家では、その憲法の理念に正統 性の根拠を置く諸々の政治行動が発生し続けてきた。

  1980年代に聞いた情報では、自分たちの憲法で保障された権利が侵害されているとして、それを民主政治の通常の手続きで回復できないと観念 した男たちが秘密結社に集い、暴力によりその目的を達成しようとしている。ある調査によればその 総数は6000名を超え、全国各地に点在し、それぞれの結社はインターネットで横の連携をはかっ ているというのである。 つまり国内の政治に対してアメリカ国民自身のテロリスト集団の一斉蜂起さえありうるのである。

   地下鉄サリン事件は1995年日本で起きたが、アメリカではこの日本の宗教法人オーム真理教 をかねてからお墨付きのテロリスト集団としてマークしていたのである。事件の結果日本では「安全 と空気はただ」という神話だけは一瞬砕けたかに見えたが、これを「テロリズム」とか「テロリスト」の一般的概念で捕らえ、対策を立てようとする発想にはまだ立ち至っていなかったようである。
そんなお国柄なので9.11から日本人が受けた衝撃は、「テロリズム」が多少なりとも情報化していた社会のアメリカ人とは違ったものだった。そのうえ日本政府はアメリカの同盟国として、国連 の決議が得られなかったイラク戦争に協力することに決めたとき、国民に対して「石油」については 一言もなく、当時国民の最大関心事だった日本国民の拉致という対北朝鮮問題解決にアメリカの協力 が必要だという理屈だけで押し切った経緯がある。

 いわば国民は小泉首相の「詭弁」に乗せられたのだ。そのわけの一端は国際テロリズムと無縁のよ うな国内平和を享受してきた日本人と、国民の教育を怠ってきた日本のジャーナリズムの見識不足にあった。
一般に言われる日本人の「平和ボケ」はテロリズムに及んでいたのである。

 テロリズムの男性原理

   私が9.11の映像をテレビで見たときすぐにこれは「国内」テロだと思ったのにはわけがあった。黒煙を上げ崩落してゆく二棟の高層ビルに人気俳優ブラッド・ピット主演のハリウッド映画「ファ イトクラブ」のラストシーンが重なったのである。

  90年代の作品「ファイトクラブ」は「女性化」する社会で、去勢されたような生活の憂さを晴らす ために、毎夜閉店後のバーの地下室をリングに変え、相手を叩きのめすまでパンチの応酬を続ける男たちの話である。それはやがて全国的組織となり、政治目的を金融資本主義の砦、クレディット会社 の本社ビルの爆破に設定する。そうすればクレディットカードで使いすぎて債権者に追い回されてい る貧者の解放、アメリカ資本主義に翻弄される弱者の救済になるという理屈である。

  ここに描かれているのはテロリストというよりはロビン・フードの伝承に連なる「義賊」の姿であ る。そのメッセージがあまりにも「反社会的」なので、商業映画として妥協し、登場人物の妄想とし てストーリーは完結する。ニューヨークの金融街の中心に聳え立つ超高層ビルが崩れ落ちるところで 大詰めとなるのである。それは人気俳優ブラッド・ピットの演ずる「社会正義派」の若者を中心にし て展開する。

 暴力と「正義」という近年まれな男性原理を体現しているこのブラッド・ピットに見出される世のいわゆる‶エリート青年〟がいる。この青年は父親の「成功」のイメージを具現しようとして、本来ある べき人格を喪失してしまっている。

  一流大学を出て一流企業に勤め、一流のアパートに住み、ブラン ド物の輸入家具をだんだんに買い足すという人生設計のこの青年をブラッド・ピットは揶揄し、自らのイメージの暴力的正義漢にこの青年を仕立て直していく。また中国系移民二世が店番をしている二流のスーパーに盗賊として忍び込みながら、その青年も本来、獣医学校に進みたいのに一声も親父に逆らえず、一流のビジネススクールに進学すべく浪人生活をしている。義賊ブラッド・ピットはその青年を縛りあげたうえで今度来たとき自分の希望どおりに獣医学校に行っていなければそのときは命は無いものと思えと威嚇して、何も盗らずに退散するのである。

  これはテロリストの顔をした世直し義賊に間違いない。そういうメッセージを発信していたハリ ウッド映画のイメージが現実に起こった貿易センタービルの崩落のテレビニュース映像に重なってい たのであった。

 

 国際テロリズムは地球化社会幕開けの「内戦」か

     9.11を真珠湾と同一視するアメリカン人は決して少なくないが、真珠湾の奇襲攻撃と貿易セン タービルの倒壊との違い、つまりアルカイダによるアメリカ攻撃と日本の対米開戦との違いはなにか。

  日本の場合は唯一軍事力の独占が許されている主権国家による、その限りにおいて、「合法的」軍 事行動であったのに対し、アルカイダの場合は没国家的無法者集団のまっさらな暴力行為であるとい う相違は明白である。

  ブッシュ大統領はこの無法者集団に対して直ちに「宣戦布告」をし、国民は熱狂的にこの「正義」 の「戦争」を支持した。しかし、それがこれまでの「戦争」と根本的に異なるのは明らかである。国家が脱国家的個人集団と国際法で言う「戦争」をするなどということはありえないことだからである。
ではいったい何なのか。地球化の進んだ現代の状況を積極的にとらえれば、テロリズムをアルカ イダという反体制派の暴力行為として、地球社会内の「内戦」とすることはできる。つまりアルカイ ダは「国際社会」形成過程において避けがたい「内戦」というべきか革命闘争の戦闘を開始していた といえるのだろう。
ところで、アメリカに対する国際的テロリズムは何もこのとき急に始まったわけではない。海外ではこれより以前からアメリカの公館が攻撃されていた。1972年にはニクソン政権によって、対テロ対策は国内の研究機関に委嘱されていた。国連の安保理事会に対しても対テロ対策を提案していた が、その度にソ連の拒否権行使で具体化することができなかった。

 そのソ連もレバノンで自国の外交官がテロに遭遇して死亡するにおよび、ようようアメリカに同調 するようになったのであった。

 (2017・9・11 記)

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所所長)

(9.11については私にも鮮烈な記憶がある。テロが起きたちょうどその時、私は読売新聞本社の論説委員室で副委員長としてデスク当番をしていた。貿易センタービルに旅客機が突っ込む瞬間をテレビで実況中継でリアルタイムで目にし、最初は何が起きているのが判断しかねた(NHKの映像では、カメラの位置のせいもあってか、旅客機がビルに突っ込んだのか、ビルの裏をすれすれに落ちて行ったのかが、よくわからなかった。CNNに切り替えてみたところ、ビルに突入して火災が発生しているのがよく分かった)が、間もなく直感で「これは大変なテロだ!」と判断。自宅にいた論説委員長に連絡(彼は事態の深刻さがなかなか理解できないようだったが!)、編集局の整理担当に、可及的速やかに社説を差し替える旨、連絡するとともに、国際政治担当の論説委員に執筆の準備を指示し、NHK, CNNなどの実況中継をフォロー。ペンタゴンにも旅客機が突っ込んで、二機目の”攻撃”を受けた貿易センタービルが崩壊するに至って、社説の見出しを「絶対に許せないテロ行為だ」と決めて、執筆を急がせた。翌日朝刊は各紙とも一面トップから始まって9.11テロ一色になったが、社説でこの問題を論じ、残虐なテロ攻撃を断罪するとともに、国際社会の再発防止への連帯を訴えたのは、わが読売新聞と、たまたま社内の夜の会議で論説のデスクが社にいた日経新聞の二紙のみ。朝日、毎日などは、事の重大性に論説委員の方々が気づくのに遅れたのか、一日遅れになったのだった。・・「カトリック・あい」南條俊二)

 三輪先生の国際関係論 ⑯歴史散策‐3 

 先月号で取り上げた二つの例は、アメリカの有名大学の場合であるが、博士論文審査の過程で見逃される例は、私が関知しているものに日本の有名大学の例がある。学位が授与された課程博士の論文で、中堅出版社から書籍として出版されている場合である。
審査した指導教授も出版社の編集者も見逃した「言語」の過ちである。アメリカのシオドア・ルーズベルト大統領の英文で書かれた信書が引用されているのだが、その翻訳が、おかしいのであった。謙譲語と尊敬語がごちゃごちゃに間違って使われているのである。「私が差し上げましたお手紙を拝見して頂けましたでしょうか」というように。
私自身が関わった研究で、第一級の史料集が収録している文書の中でも、わざわざ「信憑性あり」を示すマークを欄外余白部分に付けている文書を用いた論文で、それが後に「偽書」であると判明した経験をしている。他でもない、私にとっては大発見の大論文であり、「ペリーの『白旗』」という一大論争の一方の火付け役となったことは忘れようも無い大事件であった。

 もう一方の火付け役は松本健一であった。その事情は拙著『隠されたペリーの「白旗」-日米関係のイメージ論的・精神史的研究』(Sophia University Press, 1999 に詳しいのでここでは簡略にフォローするに止めるとしよう。それはこういう事である。東京帝国大学文化大学史料編纂掛編纂『大日本古文書・幕末外国関係文書之一』(1910年)の269‐270頁に「信憑性」ありの印を付して、英語文書の一部が以下のように示されていたのである。

 6月9日(?)米国使節ペリー書簡 我政府へ 白旗差出の件
〇町奉行書類ニハ、初メニ「亜美利加極内密書写」ト題ス 〇高麗環雑記ニハ・・・「艦ヲ退ケ和議可致旨申趣旨之和議二有之」トアリ

 続けてもう一つの翻訳文書では書簡と共に「白旗二流」が箱の中に収められていたと示されている。

 松本健一もこの文書に付された「信憑性」ありの印を信じて、ペリーの白旗に言及した論文「日米『次の一戦』はあるか」を『中央公論』1991年十一月号に発表していたのである。この論文に大きな衝撃を受けたのである。そのわけは、若くしてアメリカに二度までも留学して1950年代中期と60年代中期にジョウジタウン大学とプリンストン大学でそれぞれ、学士、修士と博士の学位を取得していたが、私が学んだアメリカ史のなかで、「ペリーの白旗」などということにはついぞお目にかかったことがなかったのである。
日本側の「第一級」の史料があるのに、アメリカ側には、調べてみても、その痕跡すらないのは一体どうした事か。私は早速電話してみた。相手はこの史料編纂所の元所長だった金井円さんである。金井さんは私と同じ旧制高校の先輩で、しかも同郷人である。ごく親しい研究者仲間であった。言下に金井先輩は「無論信憑性があります」といい、この文書が高麗環の手元に置かれた写し書きであるいわれにも触れてくれた。
オリジナルは江戸の大火で消失していたということだった。「史料編纂所の教授に採用された際に受けた試験ではまさにこの高麗環のことを習った」とさえコメントなさっていた。ここまで確かめても、私には何か胡散臭い感じが残っていた。だってそうではないか、アメリカ側には全くそんな気が発見できないからであった。
日本側でも不思議な現象があった、アメリカ批判の言論に使われてもよさそうなものを、実際使っている文書の筆者は歴史家には一人もいなくて、国際法専門家だけが、ペリーの「白旗」をひきあいに出すのであった。
しかし、ここに一つの驚嘆すべきケースがある。新渡戸稲造の場合である。それは彼にとっては英語でも日本語でも出版された書籍としては、全く第1号に当たるジョンズホプキンス大学の出版局から出されたHistory of Intercourse between Japan and the United States of Americaであった。彼は白旗が事実として記載されている文書を引用しながら、それをペリーが幕府に届けた白旗としてではなく、我が日本国の軍旗が海外で占領地にはためいたもの、に置き換えてしまっているのである。

 それは、この著書の前書きでわざわざ断っているように、日本と個人としての新渡戸自身がアメリカとアメリカ人に対して自覚していなければならない恩義に報いるために書かれたためであった。アメリカの名誉を守ろうとして、このような歴史の歪曲になったのである。
「恩義に報いるため」 として書かれたれ歴史が、結果として「虚偽の歴史」になったのが、日本で最もよく知られた国際人であり、教育者としては、第一高等学校、東京帝国大学で次代の日本を背負った指導者を多数送り出した人物の所業であったことを知って、真底、驚嘆した。

 この驚くべき事実を、彼の薫陶を受けた学者知識人が一言も明かさず世を去ってしまったことに、日本の学界もジャーナリズムも黙過してきたことに、戦慄を覚えた。日本の知的空間にはこのような大きなブラックホールがあるのだ、と。

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所所長)

 三輪先生の国際関係論 ⑮終戦特集3「勝つ確信」が無いのに対米開戦を決めた論理 

 戦わずしても亡国、戦っても勝ち目が無いという時にはどうするのがいいか、という二者択一を迫られた時、日本の政策決定者はどうしたか。彼らはこう議論した。

 戦って負けたほうがよい。正義に向かって立ち上がることのできた国民は、再度、三度でも立ち上がることができよう。しかし、立ち上がらずして亡国に至るときは、永遠の亡国であり、二度と再び国を興すことはできまい。

 こう対米開戦に決したのは1941年9月4日の御前会議でのことであった。

  この論理の組み立て方は、歴史研究に携わってきた私にとって、長く心に突き刺さっていた。戦後の復興のエネルギィーは確かにそこに発していたろう。しかしその蔭には250万人の戦没者がいる。特に敗戦が誰の目にもはっきりしていた最後の数ヶ月に飛び立った特別攻撃隊の戦士の若い命は痛ましい。

 彼らの、祖国へ、父母へ、恋人への想いが、生き残った我々の心を過ぎるとき、我々は奮起したのだ。彼らが果たせなかった夢を彼らに代わって、実現しなくてはならないと。世界の人々に尊敬される、偉大な祖国を創出するのだと。

 果たしてこの目標は何処まで達成できてきているのだろうか。敗戦記念日が近づく今日この頃、真摯にこの命題に向き合っていたい。

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所所長)

 三輪先生の国際関係論 ⑭終戦特集2 ボッブ・ディランの強靭なる魂から流れ出る華麗なる文言

 

  ボッブ・ディラン(Bob Dylan, May 24, 1941~)がノーベル文学賞にノミネートされた時、彼を音楽家として知っていた人は「へー!文学賞ね?」と驚きを隠さなかった。

 私はといえば、エルビスは知っていても、彼のことは誰のことか分らなかった。そこで好奇心から、アマゾンで中古のCDを取寄せ、同時に彼の自伝的叙述とされるChronicles (クロニクル=年代記)を発注した。CDはすぐ届いたので聴いてみたが、選んだ曲のせいか「ふーん、こんな暗いシンガーなのか!?」くらいの感想しかなかった。やがて届いた2004年出版の年代記的自伝、第一巻も、自慢話を聞かされているようで、「此のナルシストめ」といった感じで、読み進むのが苦痛になった。

 だがそれからだいぶたって再度手にしてみて「ここに偉大な現代の英雄がいる」と感動した。そして何よりも「文学賞」は当然だと確信した。「美文」などといったら、半分以上も当っていないかも知れない。自分を売り込むためのいやしさを想起させるためだけではない。

   いや、根本的に通常の誉め言葉としての「美文」はあたらない。美しくないかも知れないのだ。一語いちごが絢爛たる花のごとく咲き競っているが、無意味な羅列とは全く違うのが、読者を当惑させさえするだろう。メッセージは的確に伝わってくる。一点の疑義もはさませないように。

 強いインパクトがあるのだ。アッパーカットを食らったようだが、それが甘美で心地よい酩酊を誘いさえする。どんどん読み進んでしまうのだ。これだ、この一冊で文学賞に値すると思えてくるのだ。

 ところで、ボッブ・ディランをここで取り上げた本来の目的は、文学賞の妥当性をあげつらうためではなかった。それは、この自伝的叙述の闇に紛れ込んだ如くに飛び込んできた第二次大戦中の日本軍人の行為の一齣である。

  私は一度本欄で、米軍人が、日本兵(あるいはベトコン)の頭骨を従軍記念のトロフィーのように扱っていることに触れたことがある。そんなことは、日本の兵士に限ってありえないことだと推察した。

   ところが、トロフィーではないが、ボッブ・ディランの『年代記』に次のようなエピソードが紛れ込んでいるのを見て、「はっ」としたのである。日本の軍人が、敵の将兵を捕虜にしても裁判も無しに処刑したことが知られている。ボッブ・ディランが取り上げている場合は、斬首されるのだが、その切り落とされた生首を、日本兵は剣つき鉄砲で突き刺すのであった。

 昨日まで市井のひとであった一般兵士に「殺人」は簡単には出来ない。心理的な抵抗がある。その抵抗を打ち砕き、実戦で「殺人行為」がさっと出来るようにする訓練であった。

 ボッブ・ディランは「生首」が順番に日本兵によって、つぎつぎに銃剣で刺された、とだけ書いた。ただそれだけ。何のコメントもない。「ひどいな!」とか、なんとか・・・。

 一語一語が、宝石かなにかのようにきらきらと輝きちりばめられている華麗な綴れ織りのタペストリーに、何処からか、ふと落下した血痕のように。

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所所長)

017・7・18

 三輪先生の国際関係論 ⑬終戦特集1「孫子」が死んでいた「軍国日本」    

 イギリスの歴史家で日清戦争のことを「第一次日中戦争」とし、盧溝橋事件から始まった、当時日本政府が「日支事変」と呼んでいた日中間の軍事紛争を「第二次日中戦争」とする人がいる。日中間の戦争に限らず、戦争は呼び名によって見えてくるものの濃淡に微妙な差が生じものである。

 日中間の紛争史を「第一次」と「第二次」と呼び直すと何がより鮮明になるだろう。私にとっては、それは大日本帝国と言う多民族国家=植民地帝国の発祥をマークすると共に、その終焉、幕藩体制から近代の国民国家の主権線を外交交渉で固めた領土までも失う結果をもたらした「大東亜戦争=太平洋戦争」へと展開してしまった戦争、それが「第二次日中戦争」ということになるのである。

 大日本帝国の発祥と終焉で特徴づけられる二つにして、実は一連の国際紛争であったことがわかるのである。

 現代の戦略論家を一人挙げよと言われれば、白羽の矢まずイギリスのリデルハートにむかうだろう。その御大家が、日本人が「支那事変」と呼んでいた「第二次日中戦争」発端の1937のころ、最前線の中国国民党軍の将校に「『孫子の兵法』をどう使っていますか」と質問している。すると「いやあれは古いです、我々はリデルハート先生、貴方の著作を使わせてもらっています」と応えた。「そうですか、でも私は孫子の兵法を使わせてもらっているのです。いわば孫子の焼き直しです」とリデルハートと応じ。両者はほほえみあったという。

 今日本の出版業界では「子供のための」とかいう『孫子』が売り出されている。

 歴史的には、孫子は遣隋使だか、仏教の高僧がもたらしたと言われ、以降何遍にもわたって江戸時代から、明治の近代まで「再輸入」と言うか、読み継がれてきている。

 ヨーロッパのルネサンス期のマキアベリ、そしてドイツ帝国のクラウセビッツが、戦略論家と言えば思い出されるわけだが、マキアベリはいざ知らず、クラウセビッツはフランス人が翻訳した『孫子』を読んでいる。そしてついでに言えば、クラウセビッツを仏語訳から転訳した人には森鴎外がいる。

 それほどの厚みを持った知的遺産なのだが、実際日本の近代戦争でどれだけの痕跡を残しているのだろうか。興味深々である。『孫子』は敵の軍勢が味方よりまさっている時には、迂回して遁走せよとしているはずである。第二次日中戦争で、この訓えにしたがって最後に笑ったのは国民党政府の中国であり、このアドバイスを忘れたように日米戦にまで猪突したのは大日本帝国軍部を中心にした政策形成者等であった。

 試みに、どんなことが記録に残っているものかと、昭和37年に財団法人偕行社が復刻発行した『統帥綱領・統帥参考』をみてみる。「統帥綱領」は「軍事機密」と銘打って、昭和3年3月20日、参謀総長陸軍大将鈴木荘六の名のもとに、「統帥参考」は昭和7年7月、陸軍大学校幹事陸軍少将今井清の名のもとに発行されたものである。さてその何処に『孫子』はいるのか。

 確かに『孫子』はいた。「統帥要綱」の83頁に、以下のように引用されていた。

 「新なる作戦上の大企画を遂行せんとする場合に於ては特に統帥者は被統帥者の精神を準備し之に「不可不必勝」の信念を与ふる如く努めさるへからす孫子曰く「上下同欲者勝」と味はさるへけんや」(原文はカタカナ表記)

 必ず勝つのだとの信念を部下に徹底し、指揮官として自らが欲するものを部下にも徹底共有させることが出来れば、勝利を手にすることができる。こういう意味深長なる教えである。この他には何が、と、眼を皿のようにしてねめつくしたが、全編を通して『孫子』はこれだけのようであった。これをもって日本軍の究極的敗因としてもいいだろうか。いやリデルハートは読んでいた。孫子の焼き直しだと著者自身が公言していたイギリス人戦略論学者を。

 いやいや敗因はやっぱりたったこれだけの『孫子』をさえ、拳拳服膺していなかったからといえるかもしれない。日本陸海軍将校は、捕虜の待遇に関するジュネーブ条約は知っていたが、「被統帥者」である部下の兵卒はそれを教えられていなかった。それどころか、真逆の事が、東条英機制定の『戦陣訓』で脳裏に叩き込まれていたのである。

 虜囚の辱めを避けるために、自害が、そして集団としては「玉砕」こそが大和魂の真髄であり、名誉ある武人の有終の美と讃えられていたのである。

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所所長)

 三輪先生の国際関係論 ⑫アメリカで学んだこと(2)1960年代  

  アメリカは移民の国である。アメリカ建国を先導し、それを担った人々も元をただせば移民である。「ピューリタン」からしてそうである。「サンクスギビング」という国民的祝祭日の発端は、原住民であるいわゆるアメリカインディアンに助けられたことへの感謝に発していた。

 それは綿々として実行されている。先に来た者が、後から来た者に恩返しをしているのである。それは留学生に対して端的に示されている。

 私や私の家族がその恩を受けた。まず1952年9月、初めてアメリカの土を踏んだ私は、留学先のワシントンのジョージタウン大学でそれを受けた。大学生活にまだなじみ切れない頃、ポーランドから移民してきて2,3年と言う若い夫婦に招待を受けた。「サンクスギビングのディナーにいらっしゃい」と言ってくれたのだった。私と同じ奨学金で一緒にジョージタウンに来たY君と2人だった。

 自家用車で迎えに来てくれた。この休暇に寮生たちもそれぞれ全国の自宅に帰省していて、寮生の為の大食堂は閉鎖されていた。寮に残っていたのは我々2人だけだったのである。招待してくれた若夫婦は、たどたどしい英語で、我々より下手だった。案内してくれた彼らの家は、なにか薄暗く貧しい感じで、晩餐そのものも貧しく感じられた。

 日本人だったらこんな状態ならお客などしないのではないか、と経験不足の日本の若者は偏見丸出しの反応を示していた。そんな我々の態度に対して、彼らはこう説明してくれた、と記憶する。「移民の国アメリカでは、少しでも先に来た者が、後から来た者に手を差し伸べるのです」と。

 それからもう一つ。これは2度目の留学、1964年から66年の家族を伴ったプリンストン大学での体験である。家族とは妻と3人の娘―64年当時、生後3か月の3女、年子の次女、そして4歳の長女―であった。66年の6月、妻の父が危篤、と連絡が入った。すぐ帰国しようとしたが、持ち合わせが無い。普段から為替制限のため蓄えが無いのであった。帰国するにも航空券を買う資金が無い。

 そのピンチの時に、指導教授が差し向けてくれた大学の事務局員が、私の手の上にポンと$1000を渡してくれた。「借用書を書きましょうか」と聞くと、「その必要はありません」。「では何時までに返金すればいいのですか」と問うと、「いつか返せるようになったらで良いのです」との返事。「だってそうでしょう。私たちは貴方がたに、学びに来てもらっているのですから」と言うのだった。

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所所長)