・三輪先生の国際関係論㉛フランスは「大帝国 」であった

 過日このコラムで、ヴェトナム出身でカナダの大学教授の証言として、ヴェトナムなどいわゆる「仏領インドシナ」を植民地支配したフランス国家は「偉大な大帝国」でありましたといい、その規範として、植民地支配の公文書を細大漏らさず、フランス本国の公文書館に収蔵保管公開しているという主旨のことを書いた。

   その証言にいささかの間違いも無いことを、7月6日の『日本経済新聞』が主要6カ国の歴史と現状を図式化して比較掲載しているのを見て、あらためて確認することが出来た。
日米英仏独韓のうちで、フランスは公文書館の設立においてダントツの1790年と最古であり、収蔵品のうちでも、「植民地資料」を項目立てしている国として唯一である。

   フランスに続いて古いのはイギリスの1838年であるが、かって地表の4分の1を支配した大植民地帝国であった大英帝国時代があったにもかかわらず、フランスと同じく「政府機関公文書」という項目立てはあっても、フランスのような「植民地資料」という項目立てはない。

 設立順位において第3位以下は1919年のドイツ、1934年の米国、1969年の韓国と続き、日本はドンジリの1971年である それも国際政治学者、外交史研究者、各種学会など国の内外からの長年にわたる日本政府への要望の積み重ねの結果といえた。

  所蔵量ではアメリカが1400キロメートルと1位である。韓国が366.5キロメートルで第2位であり、第3位のフランスの350キロメートルを越えている。それは「大統領記録」という韓国にあって、フランスに無い項目立てのためでもあろうか。

   それにしても、日本は収蔵量が62キロメートルといかにも僅少であり最下位というのは、文明国としての資格にかけるところ大とせざるを得まい。

   その原因を忖度してみれば、「有能な官僚で日本の政治は動いている」という伝説に行き着く。官僚側から「公文書館の設立を」という提言があったということを聞いたためしがない。

   じっさいこの一年間に国会で起ったことを思い出してみれば、まさにその「有能な官僚」こそが、公文書の「保全」よりも「破棄」の方向に傾きがちであることが分かる。責任の所在を明示できないようにする方向で業務を遂行しているということになる。 つまり「有能なる官僚」とはそうゆう事だったのかな、と考えてしまうことになる。

 それが日本の政官関係であり、一般社会と国民の平穏無事な印象に貢献してきたのであろう。しかしこの日本にも、怪しげなポピュリズムで政治を壟断しようと画策しているように見える人物がいないわけでもない昨今の事、ご用心ごようじんと警告しておくのもいいだろう。

(2018 7 10記)

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所長)

・三輪先生の国際関係論 ㉚「クローデルの日本愛」

 ポール・クローデルは、大東亜会議の共同宣言を、日本民族の精神の高貴さの証として 評価したのではないか。

 かつて、大正から昭和にかけて駐日フランス大使を務めたことのある詩人外交官Paul Claudel (1868-1955)は、日本人について、次のように語ったことがある。

 「大東亜戦争」中の事で、1943年11月23日の事であっ た。この月の6日には、日本軍が占領「解放」した諸民族の国家代表を東京に集めて開催した「大東亜会議」は、共同宣言を発していた。それはチャーチルとローズヴェルトの1940年8月にはっした「大西洋憲章」 を超える理念を盛り込んだ戦争目的の表明であった。23日のクローデルの語りは、この共同宣言を評価しての言葉であっ たのではないか。

 彼はこう言っていたのである。「もし、この戦争に生き残る価値のある 民族があるとすれば、それは日本民族である。彼らは物質的には貧しいが、高貴な精神の持ち主である・・・」。

 この発言は、1943年11月23日、つまり東京の「大東亜宣言」から2週間余たってのことだったのである。それはPrincesse Helene Shakowskoyの家で、クローデルとポール・ヴァレリー(詩人でアカ デミー会員、クローデルも1946年4月4日には、アカデミー会員に選出されている)が話した内容の一部である。記録に残っているところから原文で示せば、以下のとおりである。

 Un peuple pour lequel je souhaite qu’il ne soit jamais ecrase,c’est le peuple japonais. Il ne faut pas que disparaisse une antique civilisation si interessante. Nul peuple ne merite mieux sa prodigieuse expansion. Ils sont pauvre, mais nobles, quoique si nombreux.(アクサンは省略)

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所長)

・三輪先生の国際関係論 ㉙「改竄」-歴史研究に大切な文書類を日本人はどう扱ってきたか

  奄美群島出身の郷土史研究家によれば、流刑にされた西郷吉之助は決して英雄的ヒュウマニストではなく、植民地支配の小役人が考えそうな、島民の搾取で、薩摩の貧乏侍の生活の足しにすることを考えたりしていたことが、知られているという。

 そのような搾取の実態を示している当時の文書は、維新後の新日本発生と共に、跡形も無く破棄抹殺処分されてしまった、という。恥の文化が歴史の、言うならば、「改竄」に肩入れしている紛れも無い一例である。この一つの例を知るに及んで、世界の文明化社会のスタンダードと比較して、私は日本人とはいかにも矮小な国民ではないか、との想いを今更のように感じずにはいられない。

 世界の文明化社会のスタンダードといったが、その一例はフランスの場合である。以下の事は、ヴェトナム出身で、北海道大学で歴史研究で博士号を取得した人から学んだ事である。それは今から20年も昔のことになるだろうか、カナダのアルバータ大学で教授として日本史を講じていた彼から直接聞いた話である。彼は言った-「フランスは大帝国でした」と。

 「大帝国」の資格とは何か。彼は続けた。「フランスの仏領インドシナ支配の記録は、フランス本土の文書館に細大漏らさず、総て収められています。誰でもがそれを閲覧することが出来ます。其処にはフランスの植民地支配の良き事も悪しき事も、等しく記録として残されています。そうしようと思えば、『実証的』にフランスの名誉を貶めることが出来るわけです」と。

 これが、彼が言おうとした「大帝国」のいわれだった。

 その意味で、「西郷」にも「薩摩」にも、「大帝国」の属性から外れている点が見いだされる、と言うのが、この小論の一つの大切な結論である。(2018. 6 .5)

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所長)

・三輪先生の国際関係論 ㉘戦争が消し去ったもの

 浅田次郎『長い高い壁』を読了した。表紙にかけられた帯には、大きく「ここは戦場か、それとも殺人現場か」。そして細字で「浅田次郎初の戦場ミステリー」、「日中戦争下の万里の長城。探偵役を命じられた従軍作家が辿り着く驚愕の真相とは?」として太い字体で「この戦争に大義はあるのか―――」と問いかけている。そして読了してみれば、「大義」がなかったばかりか、一連の「殺人現場」だったことが知られるのである。

 この時、私は8歳、戦争は身近にあった。我が家に6名もの兵隊さんが臨時に宿泊していたのだ。松本の連隊の兵舎は平時の将兵で満杯であり、市内の余裕のある民家に宿泊したのだった。

 私の生家の洋品店の前で、記念写真が撮られていて、私は子供用の陸軍少尉の軍服を着ている。私が一番親しくなった東京は浅草で立派な家業を営んでいた、軍隊の位で下士官の曹長ではなかったかと思われる、凛々しくも穏やかな面差しで恰幅のいい軍服さえはち切れんばかりの堂々たる体躯の兵隊さんが、軍刀仕立てにした日本刀を椅子に座して携え、右隣に直立している小学2年生の私を抱き寄せるように腰に手をまわしている。

 私の子供の頃の写真帳には、その時この兵隊さんが私にくださった出征祝いのスナップ写真が何枚か張り付けられて残っている。出征祝いの幾条かの幟から、兵隊さんの姓名は「篠井儀徳」だとわかる。若妻と一緒に和服姿で寛いでいる写真、背後にはアメリカから輸入されていた子供の身丈は優に超える大きな電蓄ビィクトローラがでんとしている。二人にはまだ子供は無かったことが偲ばれる。だが「子ずき」の篠井さんは、僕をかわいがってくれたのだろう。僕が着ている軍服は七五三の衣装で、ズボンが短いのはゲートルを巻いておぎなっているが、両手は袖先を大きく越えて突出していた。

 大東亜戦争と呼称されていたあの「アジア太平洋戦争」で、最後はサイパンに向かうはずだった松本連隊は、戦況に応じて、テ二アンの守備についたが、米軍の猛攻を受け、上陸してきた米軍と激闘し、ついに残存兵1000名は敗戦の前年の1944年8月2日、玉砕して果てた。その時篠井さんはそこにいたのだろうか。東京のご自宅は45年3月10日の空爆で、潰えたのだろう。

 戦後も半世紀を過ぎた頃、ようよう私は、何とかこの兵隊さんの旧居を浅草に探り当て、頂いていた写真をお返ししたいと思った。でもそれは叶わなかった。

 戦争が消し去ったものは甚大だったのだ。(2018.5.28)

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所長)

・三輪先生の国際関係論 ㉗核兵器開発の効用  

 軍備は平和構築の手段になる。だから困るのだ。いやだから現実主義は核兵器廃絶絶対主義にまさるのだ。…等々、いろいろな想いが湧きだし交錯する。北朝鮮の金正恩委員長の核兵器、長距離弾道弾開発実用化への采配が昨日までに朝鮮半島にもたらした結果を見て、大した男だとその政治感覚に刮目せざるをえなかった。

 かたや、「ポピュリズム」に堕しがちなのに、「民主主義」「自由主義」万歳の、重箱の 隅をほじくるような野党与党の舌戦に呆れかえっている自分が空しくなる。東京市民「ファースト」と恥ずかしくもなく、小さなエゴ丸出しの旗印。

 謙虚、互譲の隣人愛を忘れ、捨て去ってしまったようで、年寄りには住みずらい世間様にはなりました。どうしてくれる、血の気だけはたっぷりらしい、若者気取りの今様の政治屋の皆さん。あなた方が泳いでいるポピュリズムの池が、突然戦前のような、集団的独裁、暴走の政治体制に発展してしまわないと保証できますか。

 先の戦争への社会的、政治的変遷の道程を痛い体験として記憶している年寄りがいなくなっていくとき、その歴史を学習し、夜警の足音として常時耳下に響かせていてほしいと思うこと切なりです。 (2018・4・30)

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所長)

・三輪先生の国際関係論 ㉖敗軍の将の責任の取り方 

 古くは乃木希介将軍の割腹自裁がある。日露戦争時に旅順港を俯瞰する203高地奪取の激戦にわが子まで含めて数多の将兵を失ったことへの責任の取り方であった。

 先のアジア太平洋戦争では、連合艦隊司令長官山本五十六の下で参謀長を務め、山本亡き後、艦隊司令長官を務めて終戦を迎えた阿部纏海軍中将は既に天皇の終戦の詔勅も出ているのに、八月一五日、自決するために特攻のように飛び立とうとする。すると、配下の部隊全員二十二名が断固として同行すると申し出た。

 かくて先立ったものを弔うが如くに、全員爆撃機十二機に分乗シ阿部纏に従って南海に向けて飛び立っていった。「敵空母見ゆ」「われ必中突入す」を最後に通信は途絶えた。時に八月一五日午後七時三十分であった1。

 本土決戦を主張してきた阿南惟幾陸軍大臣は詔勅を聞いた後、詔書必謹を命令し辞表を書いた。家人には静粛を護らせ一人腹を切った。そこへ児玉誉士夫がたまたま訪ねてきた。「お前がくれた刀は鈍刀だから、なかなか死ねん」と呟いた。遺書は陸軍大臣の署名で「一死モッテ大罪ヲ謝シ奉ル」とあった2。

 戦犯容疑で米軍憲兵が拘束に到着した時、陸軍大将東条英機は拳銃自殺をはかったが、死に損ない、武人の風上には置けない、と世人の失笑をかった。

 シヴィリアンでは近衛文麿は息子からナチの戦犯裁判の様子を聞いていて、とてもその屈辱に耐えられない、と思っていた。憲兵が到着した時、近衛は寝室に延べられた布団のなかで死に絶えていた。青酸カリ自殺であった。

 松岡洋右は極東軍事法廷の開廷にはA級戦犯容疑の一人として出廷したが、持病の肺結核が悪化していたため、東京帝国大学病院に移され、そこで息を引き取った。少年のころ移民のような身分で生活していたカリフォルニアのオークランドの新聞は、反逆罪を犯したアメリカ市民を断罪するが如くに他のA級戦犯容疑者に絞首刑などの判決が下された時、「もしまだ生命を保っていたら松岡も東條や板垣同様、絞首刑に処せられる事になっていたろう」と報じた。

 戦犯としてはもとよりのこと、証人としてさえ喚問されなかった天皇に似て、もう一人特別な処遇を受けた者がいた、陸軍中将石原莞爾である。満州事変をマスターマインドした軍事戦略家は、米軍がわざわざ山形県の田舎まで出張してきて、リヤカーで運ばれてきた石原から事情聴取をしたのみだった。

 それだけではない。彼は新日本の進路についての提言を草し、マッカーサー元帥におくっている。国土は神代の時代と同じ大きさになったが、天皇のみいつは輝き、ますます八紘一宇の実をあげるべきである、とした。

 切腹で責任を取る、という古式を守った者は軍人だけではなく、大東塾の男たちにも及んだ。彼等の政治責任とは、政府軍閥の思想と行動を結社として下支えしていたとすれば、それだけのことだったろう。ある種の潔癖さがある。日本の精神文化に流れる一本の伝統であろう。それは何処かで天皇信仰に結びついていよう。その意味では明治になってから発明された伝統であったかも知れない。(2018・3・28)

注:
1 文芸春秋編『完本・太平洋戦争』(下)(文芸春秋社、1991)、481-482頁。
2 半藤一利『日本のいちばん長い日』(文芸春秋社、1995)、202頁

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所長)

・三輪先生の国際関係論 ㉕大東亜共栄圏の亡霊

 歴史をやっていると、過去を美化するか、醜悪化しているかも知れない、という懸念にとらわれることがある。大東亜戦争という先の戦争は、そんな戸惑いを起こさせる研究対象の一つである。

 八紘一宇という大義を信じて、戦地に向かった若者は一人や二人ではない。彼らは現地で見た権力の横暴さと、初期の歓迎ムードが反発と抵抗、そしてゲリラへと漸次変化、崩壊していく様に驚愕しただろう。歴史家はこの事実にどう対峙し、どう記述できるだろう。

 こんな事を久しぶりに考えさせられたのは、『日本経済新聞』の記事に遭遇したからである。2018年3月6日の社会面にこんな大見出しがあった。

 除染作業に技能実習生 ベトナム男性「説明なかった」 専門家「制度の趣旨逸脱」 「知ってたら来なかった」 不安大きく昨年失踪 「日本人と同じ仕事」会社社長

 建設現場の仕事かと思い、渡航費に大枚をはたいて来てみれば、汚染表土の撤去作業と分かった。いやなら帰れと社長は言うが、借金の返済は、ベトナムの稼ぎでは10年はかかる。帰るに帰れない・・。

 この記事を読んで、私は日本人の良心の事を想った。

 大東亜戦争開始の日、藤山愛一郎の警告を新聞の第一面で読んだ。軍事占領したオランダ領インドネシアを、解放せず、もし日本の領土に編入したりするのなら、この戦争の意味はなくなる。道義国家日本の「八紘一宇」という大義は絵に描いた餅に過ぎず、道義的な戦争などと言うものは、現実にはありえないことの、もう一つの実証例を提供したに過ぎないことになる。

 私は大東亜戦争の事を「解放と侵略の両義性」においてとらえている。善と悪が表裏をなす典型的な後発植民地帝国国家の必然と考えている。

 かつて上智大学の国際関係研究所がメキシコの大学院大学との共同研究会議の成果を川田侃・西川潤編『太平洋地域協力の展望』(早稲田大学出版部、1981)として出版したことがある。私は「『アジア』における日本の位置―東南アジア諸民族の日本人観と『環太平洋連帯構想』に関係して―」と題する論稿を掲載した。

 すると本書の巻末に、コメントを寄せたメキシコの国会議員ヘスス・ブェンテ・レイバは最初に、私の論考に触れ、歴史研究の一つの傾向がここに示されている、として、「道義的な諸原則に対して好意的」姿勢を示している具体例である、と述べた。先進富裕ヘゲモニー国家と後発の貧困国家との関係に対して、この姿勢がいみじくも顕現しており、批判であると共に、的確に現実の歴史研究の位相を示している、としていた。

 私は上にあげた『日経』の記事を見た時、このコメントの事を思いおこし、忘れていた歴史の亡霊に出会ったような寒気をおぼえたのである。(2018.3.7)

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所長)

・三輪先生の国際関係論 ㉔相手を知らない戦争 

 高木八尺は、東京帝国大学法学部教授として、新渡戸稲造の意向を受けてアメリカ政治学などを担当した。日米戦争回避に向けて、近衛首相を動かし、アメリカ大統領との会談をセットアップしようともした。

 彼の著書は、アメリカ人の精神がアメリカ発展に及ぼした影響を説いて、余人の及ぶところではなかった。

 しかし、その物質力については読者が得心するほどには物語ってはいない。大和魂だけでアメリカの物質力に勝てる、と思っている日本人の習性に警鐘を鳴らすつもりだったのだろうか。それがもし対米開戦の愚かしさを伝えるつもりであったのなら、結果は全く裏目に出たといえそうである。

 普通の読者は、ヤンキー魂、開拓者精神に感心したとすれば、それを帳消ししてしまう自己補強を「大和魂」でやっていたのではないか。それが「皇紀2600年」と呼んでいた昭和15年の日本人の精神状況だったのではないか。世はまさに国粋主義、皇国至上主義の絶頂期に到達していたのである。西暦で1940年、その年は、ナチスドイツのべルリンオリンピックに続く、東京オリンピックが予定されていた年でもあった。ただ中国大陸における戦争に解決の見通しも無いなか、返上されていたのであった。

 対米戦争について、連合艦隊の山本五十六司令長官は「やれと言われれば、最初の半年か一年は暴れて見せます。しかしその先は分かりません」といっていた。そんな状況の中で、1941年12月8日払暁、対米戦争の幕は切って落とされたのである。国民はヤンキー魂に優る大和魂に賭けたことになるのだろう。

 その大和魂は、敗戦が色濃くなっても、一億一心、玉砕を覚悟した徹底抗戦の姿勢になって行った。そして勝利には至らなかったが、戦後の復興にその大和魂は貢献していた、と考えることが出来る。そして、戦前に返上していた東京オリンピックは1964年に開催され、戦争で倒れた人々の魂と共にことほぐ再生日本の象徴となったのである。

 2020年のオリンピックが近づいてきた。輝かしい未来のために東京の暗い歴史もさらってみる必要があるだろう。(2018・2・15)

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所長)

 三輪先生の国際関係論 ㉓トランプと教皇フランシスコ 

 売名だけが目的で選挙戦に出る人物はこの日本にもいる。目的がそれだから、間違って当選してしまうと当惑してしまう。そんな公職で人生の大事な時間を浪費するなどもっての外であった。

 トランプ・アメリカ大統領がそれだった。 アメリカの週刊誌『 タイム』が今月22日号を、この一年を総括する特集号としている。報道写真がまともな大統領たりえなかったトランプを雄弁につづっている。微笑んでいる写真もむろんあるが、と断りつつ、ヴァチカン訪問の写真は歯をむき出して微笑んでいるトランプの隣で、教皇フラシスコは苦虫を潰したような苦渋に満ちた表情をしてカメラに収まっている。

 教皇のお気持ちを忖度するとどうなるだろう。世界一の権力の座にある者への期待は大きい。その期待が半分でも報われたらと祈るばかりである。(2018年1月17日記)

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所長)

 三輪先生の国際関係論 ㉒清沢冽のこと 

 ドナルド・キーンに『日本人の戦争』という、日本人の文筆家が戦時中から終戦直後ぐらいまで記し続けていた日記を分析したものがある。数多の高名、ベテランの作家からまだ学生であった若手まで、永井荷風から山田風太郎までと幅は広い。その中で絶賛されているのは清沢冽であり、厳しく批判されているのは若輩の山田風太郎である。

 山田は医学生で徴兵を免れていた。ちょうどキーンと同年配で、キーンと同じ英米文学書を読んでいたことがわかる。文系、法系などの同僚学生たちが、ビルマ戦線で戦病死したり、特攻機に座乗してフィリピン、沖縄戦線で必死の使命に立ち向かっていた時に、理系の恩典で国土に安在しつつ、最後の一兵まで、必敗の対米戦を戦えと唱えたり、敗戦後は、戦勝国アメリカに向けて復讐戦を準備せよと唱えている、と言って最大の批判対象者になっている。

 人は読んだ書物の影響で人格、精神を形成していく筈なのに、山田をはじめ、伊藤整にしても、全くそんな痕跡がないことに驚嘆している。だまし討ちのように始まった大東亜戦争の正義を信じて疑わない様子に唖然としている。日本人のインテリの精神構造の奇怪さは、にわかには信じがたいほどである。その中で日米開戦決定の愚かさを真正面から書き立てた清沢冽と平和愛好家平林たい子が、例外中の例外として光っている。

 上智大学の国際関係研究所で私の同僚だった蝋山道雄教授が、清沢冽についてこんなことをおしえてくれたことがある。「三輪さんね、戦前の言論人で本物のリベラルは唯一清沢冽だけですよ」と話し始めた。そして対米英戦争が勃発してしまった昭和16年12月8日の朝、東京帝国大学で政治学の教鞭をとっておられた、道雄さんには父君にあたる蝋山政道さんのところへ、真珠湾奇襲攻撃の大戦果のニュースに舞い上がってしまった、大勢の友人、論客が大挙して押しかけてきて、玄関先を埋め尽くし、日本の前途を祝して大歓声で万歳万歳を叫んだ、というのだった。

 その時、清沢冽だけはその大歓声とは反対に、醒めた声で「蝋山君、これは大変なことになった。手に入る食品は何でも買いだめしておきたまえ。缶詰、瓶詰などなど」と電話して来たとの事だった。戦争に向けられる経済力が平時でも日本の10倍とされていたアメリカに最後の勝利があることは、アメリカ通の清沢冽には、明明白白であったのである。

 宰相近衛文麿にも意思の疎通が出来ていた清沢淸であり、『中央公論』などで親しい論客仲間でもあった蝋山政道教授は、清沢と同じ心境であったろう。日本軍により占領されたフィリピンの現状を視察調査した政道教授は、フィリピン人の家族文化は日本人の場合とは違っていて、その結果、大東亜共栄圏の建設を戦争目的として喧伝していた日本国家であったが、共栄圏の要の一国フィリピンに日本人が期待するような家族国家的国体の盟邦が生成するのは難しいだろう、としていた。

 清沢冽の戦中日記は戦後刊行されている。そしてそれを手にした知識人たちに深甚なる感銘を与えている。しかし残念なことに終戦真際に没しているので、さまざまなドラマがあった終戦前後の日本の国情についての清沢の省察を読むことはできない。マッカーサー総司令官の日本占領統治について、その功罪について清沢冽の鋭い語り口を聞けないのは、いかにも口惜しい。

(2017・12・27)(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所長)