・三輪先生の国際関係論 ㉙「改竄」-歴史研究に大切な文書類を日本人はどう扱ってきたか

  奄美群島出身の郷土史研究家によれば、流刑にされた西郷吉之助は決して英雄的ヒュウマニストではなく、植民地支配の小役人が考えそうな、島民の搾取で、薩摩の貧乏侍の生活の足しにすることを考えたりしていたことが、知られているという。

 そのような搾取の実態を示している当時の文書は、維新後の新日本発生と共に、跡形も無く破棄抹殺処分されてしまった、という。恥の文化が歴史の、言うならば、「改竄」に肩入れしている紛れも無い一例である。この一つの例を知るに及んで、世界の文明化社会のスタンダードと比較して、私は日本人とはいかにも矮小な国民ではないか、との想いを今更のように感じずにはいられない。

 世界の文明化社会のスタンダードといったが、その一例はフランスの場合である。以下の事は、ヴェトナム出身で、北海道大学で歴史研究で博士号を取得した人から学んだ事である。それは今から20年も昔のことになるだろうか、カナダのアルバータ大学で教授として日本史を講じていた彼から直接聞いた話である。彼は言った-「フランスは大帝国でした」と。

 「大帝国」の資格とは何か。彼は続けた。「フランスの仏領インドシナ支配の記録は、フランス本土の文書館に細大漏らさず、総て収められています。誰でもがそれを閲覧することが出来ます。其処にはフランスの植民地支配の良き事も悪しき事も、等しく記録として残されています。そうしようと思えば、『実証的』にフランスの名誉を貶めることが出来るわけです」と。

 これが、彼が言おうとした「大帝国」のいわれだった。

 その意味で、「西郷」にも「薩摩」にも、「大帝国」の属性から外れている点が見いだされる、と言うのが、この小論の一つの大切な結論である。(2018. 6 .5)

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所長)

・三輪先生の国際関係論 ㉘戦争が消し去ったもの

 浅田次郎『長い高い壁』を読了した。表紙にかけられた帯には、大きく「ここは戦場か、それとも殺人現場か」。そして細字で「浅田次郎初の戦場ミステリー」、「日中戦争下の万里の長城。探偵役を命じられた従軍作家が辿り着く驚愕の真相とは?」として太い字体で「この戦争に大義はあるのか―――」と問いかけている。そして読了してみれば、「大義」がなかったばかりか、一連の「殺人現場」だったことが知られるのである。

 この時、私は8歳、戦争は身近にあった。我が家に6名もの兵隊さんが臨時に宿泊していたのだ。松本の連隊の兵舎は平時の将兵で満杯であり、市内の余裕のある民家に宿泊したのだった。

 私の生家の洋品店の前で、記念写真が撮られていて、私は子供用の陸軍少尉の軍服を着ている。私が一番親しくなった東京は浅草で立派な家業を営んでいた、軍隊の位で下士官の曹長ではなかったかと思われる、凛々しくも穏やかな面差しで恰幅のいい軍服さえはち切れんばかりの堂々たる体躯の兵隊さんが、軍刀仕立てにした日本刀を椅子に座して携え、右隣に直立している小学2年生の私を抱き寄せるように腰に手をまわしている。

 私の子供の頃の写真帳には、その時この兵隊さんが私にくださった出征祝いのスナップ写真が何枚か張り付けられて残っている。出征祝いの幾条かの幟から、兵隊さんの姓名は「篠井儀徳」だとわかる。若妻と一緒に和服姿で寛いでいる写真、背後にはアメリカから輸入されていた子供の身丈は優に超える大きな電蓄ビィクトローラがでんとしている。二人にはまだ子供は無かったことが偲ばれる。だが「子ずき」の篠井さんは、僕をかわいがってくれたのだろう。僕が着ている軍服は七五三の衣装で、ズボンが短いのはゲートルを巻いておぎなっているが、両手は袖先を大きく越えて突出していた。

 大東亜戦争と呼称されていたあの「アジア太平洋戦争」で、最後はサイパンに向かうはずだった松本連隊は、戦況に応じて、テ二アンの守備についたが、米軍の猛攻を受け、上陸してきた米軍と激闘し、ついに残存兵1000名は敗戦の前年の1944年8月2日、玉砕して果てた。その時篠井さんはそこにいたのだろうか。東京のご自宅は45年3月10日の空爆で、潰えたのだろう。

 戦後も半世紀を過ぎた頃、ようよう私は、何とかこの兵隊さんの旧居を浅草に探り当て、頂いていた写真をお返ししたいと思った。でもそれは叶わなかった。

 戦争が消し去ったものは甚大だったのだ。(2018.5.28)

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所長)

・三輪先生の国際関係論 ㉗核兵器開発の効用  

 軍備は平和構築の手段になる。だから困るのだ。いやだから現実主義は核兵器廃絶絶対主義にまさるのだ。…等々、いろいろな想いが湧きだし交錯する。北朝鮮の金正恩委員長の核兵器、長距離弾道弾開発実用化への采配が昨日までに朝鮮半島にもたらした結果を見て、大した男だとその政治感覚に刮目せざるをえなかった。

 かたや、「ポピュリズム」に堕しがちなのに、「民主主義」「自由主義」万歳の、重箱の 隅をほじくるような野党与党の舌戦に呆れかえっている自分が空しくなる。東京市民「ファースト」と恥ずかしくもなく、小さなエゴ丸出しの旗印。

 謙虚、互譲の隣人愛を忘れ、捨て去ってしまったようで、年寄りには住みずらい世間様にはなりました。どうしてくれる、血の気だけはたっぷりらしい、若者気取りの今様の政治屋の皆さん。あなた方が泳いでいるポピュリズムの池が、突然戦前のような、集団的独裁、暴走の政治体制に発展してしまわないと保証できますか。

 先の戦争への社会的、政治的変遷の道程を痛い体験として記憶している年寄りがいなくなっていくとき、その歴史を学習し、夜警の足音として常時耳下に響かせていてほしいと思うこと切なりです。 (2018・4・30)

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所長)

・三輪先生の国際関係論 ㉖敗軍の将の責任の取り方 

 古くは乃木希介将軍の割腹自裁がある。日露戦争時に旅順港を俯瞰する203高地奪取の激戦にわが子まで含めて数多の将兵を失ったことへの責任の取り方であった。

 先のアジア太平洋戦争では、連合艦隊司令長官山本五十六の下で参謀長を務め、山本亡き後、艦隊司令長官を務めて終戦を迎えた阿部纏海軍中将は既に天皇の終戦の詔勅も出ているのに、八月一五日、自決するために特攻のように飛び立とうとする。すると、配下の部隊全員二十二名が断固として同行すると申し出た。

 かくて先立ったものを弔うが如くに、全員爆撃機十二機に分乗シ阿部纏に従って南海に向けて飛び立っていった。「敵空母見ゆ」「われ必中突入す」を最後に通信は途絶えた。時に八月一五日午後七時三十分であった1。

 本土決戦を主張してきた阿南惟幾陸軍大臣は詔勅を聞いた後、詔書必謹を命令し辞表を書いた。家人には静粛を護らせ一人腹を切った。そこへ児玉誉士夫がたまたま訪ねてきた。「お前がくれた刀は鈍刀だから、なかなか死ねん」と呟いた。遺書は陸軍大臣の署名で「一死モッテ大罪ヲ謝シ奉ル」とあった2。

 戦犯容疑で米軍憲兵が拘束に到着した時、陸軍大将東条英機は拳銃自殺をはかったが、死に損ない、武人の風上には置けない、と世人の失笑をかった。

 シヴィリアンでは近衛文麿は息子からナチの戦犯裁判の様子を聞いていて、とてもその屈辱に耐えられない、と思っていた。憲兵が到着した時、近衛は寝室に延べられた布団のなかで死に絶えていた。青酸カリ自殺であった。

 松岡洋右は極東軍事法廷の開廷にはA級戦犯容疑の一人として出廷したが、持病の肺結核が悪化していたため、東京帝国大学病院に移され、そこで息を引き取った。少年のころ移民のような身分で生活していたカリフォルニアのオークランドの新聞は、反逆罪を犯したアメリカ市民を断罪するが如くに他のA級戦犯容疑者に絞首刑などの判決が下された時、「もしまだ生命を保っていたら松岡も東條や板垣同様、絞首刑に処せられる事になっていたろう」と報じた。

 戦犯としてはもとよりのこと、証人としてさえ喚問されなかった天皇に似て、もう一人特別な処遇を受けた者がいた、陸軍中将石原莞爾である。満州事変をマスターマインドした軍事戦略家は、米軍がわざわざ山形県の田舎まで出張してきて、リヤカーで運ばれてきた石原から事情聴取をしたのみだった。

 それだけではない。彼は新日本の進路についての提言を草し、マッカーサー元帥におくっている。国土は神代の時代と同じ大きさになったが、天皇のみいつは輝き、ますます八紘一宇の実をあげるべきである、とした。

 切腹で責任を取る、という古式を守った者は軍人だけではなく、大東塾の男たちにも及んだ。彼等の政治責任とは、政府軍閥の思想と行動を結社として下支えしていたとすれば、それだけのことだったろう。ある種の潔癖さがある。日本の精神文化に流れる一本の伝統であろう。それは何処かで天皇信仰に結びついていよう。その意味では明治になってから発明された伝統であったかも知れない。(2018・3・28)

注:
1 文芸春秋編『完本・太平洋戦争』(下)(文芸春秋社、1991)、481-482頁。
2 半藤一利『日本のいちばん長い日』(文芸春秋社、1995)、202頁

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所長)

・三輪先生の国際関係論 ㉕大東亜共栄圏の亡霊

 歴史をやっていると、過去を美化するか、醜悪化しているかも知れない、という懸念にとらわれることがある。大東亜戦争という先の戦争は、そんな戸惑いを起こさせる研究対象の一つである。

 八紘一宇という大義を信じて、戦地に向かった若者は一人や二人ではない。彼らは現地で見た権力の横暴さと、初期の歓迎ムードが反発と抵抗、そしてゲリラへと漸次変化、崩壊していく様に驚愕しただろう。歴史家はこの事実にどう対峙し、どう記述できるだろう。

 こんな事を久しぶりに考えさせられたのは、『日本経済新聞』の記事に遭遇したからである。2018年3月6日の社会面にこんな大見出しがあった。

 除染作業に技能実習生 ベトナム男性「説明なかった」 専門家「制度の趣旨逸脱」 「知ってたら来なかった」 不安大きく昨年失踪 「日本人と同じ仕事」会社社長

 建設現場の仕事かと思い、渡航費に大枚をはたいて来てみれば、汚染表土の撤去作業と分かった。いやなら帰れと社長は言うが、借金の返済は、ベトナムの稼ぎでは10年はかかる。帰るに帰れない・・。

 この記事を読んで、私は日本人の良心の事を想った。

 大東亜戦争開始の日、藤山愛一郎の警告を新聞の第一面で読んだ。軍事占領したオランダ領インドネシアを、解放せず、もし日本の領土に編入したりするのなら、この戦争の意味はなくなる。道義国家日本の「八紘一宇」という大義は絵に描いた餅に過ぎず、道義的な戦争などと言うものは、現実にはありえないことの、もう一つの実証例を提供したに過ぎないことになる。

 私は大東亜戦争の事を「解放と侵略の両義性」においてとらえている。善と悪が表裏をなす典型的な後発植民地帝国国家の必然と考えている。

 かつて上智大学の国際関係研究所がメキシコの大学院大学との共同研究会議の成果を川田侃・西川潤編『太平洋地域協力の展望』(早稲田大学出版部、1981)として出版したことがある。私は「『アジア』における日本の位置―東南アジア諸民族の日本人観と『環太平洋連帯構想』に関係して―」と題する論稿を掲載した。

 すると本書の巻末に、コメントを寄せたメキシコの国会議員ヘスス・ブェンテ・レイバは最初に、私の論考に触れ、歴史研究の一つの傾向がここに示されている、として、「道義的な諸原則に対して好意的」姿勢を示している具体例である、と述べた。先進富裕ヘゲモニー国家と後発の貧困国家との関係に対して、この姿勢がいみじくも顕現しており、批判であると共に、的確に現実の歴史研究の位相を示している、としていた。

 私は上にあげた『日経』の記事を見た時、このコメントの事を思いおこし、忘れていた歴史の亡霊に出会ったような寒気をおぼえたのである。(2018.3.7)

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所長)

・三輪先生の国際関係論 ㉔相手を知らない戦争 

 高木八尺は、東京帝国大学法学部教授として、新渡戸稲造の意向を受けてアメリカ政治学などを担当した。日米戦争回避に向けて、近衛首相を動かし、アメリカ大統領との会談をセットアップしようともした。

 彼の著書は、アメリカ人の精神がアメリカ発展に及ぼした影響を説いて、余人の及ぶところではなかった。

 しかし、その物質力については読者が得心するほどには物語ってはいない。大和魂だけでアメリカの物質力に勝てる、と思っている日本人の習性に警鐘を鳴らすつもりだったのだろうか。それがもし対米開戦の愚かしさを伝えるつもりであったのなら、結果は全く裏目に出たといえそうである。

 普通の読者は、ヤンキー魂、開拓者精神に感心したとすれば、それを帳消ししてしまう自己補強を「大和魂」でやっていたのではないか。それが「皇紀2600年」と呼んでいた昭和15年の日本人の精神状況だったのではないか。世はまさに国粋主義、皇国至上主義の絶頂期に到達していたのである。西暦で1940年、その年は、ナチスドイツのべルリンオリンピックに続く、東京オリンピックが予定されていた年でもあった。ただ中国大陸における戦争に解決の見通しも無いなか、返上されていたのであった。

 対米戦争について、連合艦隊の山本五十六司令長官は「やれと言われれば、最初の半年か一年は暴れて見せます。しかしその先は分かりません」といっていた。そんな状況の中で、1941年12月8日払暁、対米戦争の幕は切って落とされたのである。国民はヤンキー魂に優る大和魂に賭けたことになるのだろう。

 その大和魂は、敗戦が色濃くなっても、一億一心、玉砕を覚悟した徹底抗戦の姿勢になって行った。そして勝利には至らなかったが、戦後の復興にその大和魂は貢献していた、と考えることが出来る。そして、戦前に返上していた東京オリンピックは1964年に開催され、戦争で倒れた人々の魂と共にことほぐ再生日本の象徴となったのである。

 2020年のオリンピックが近づいてきた。輝かしい未来のために東京の暗い歴史もさらってみる必要があるだろう。(2018・2・15)

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所長)

 三輪先生の国際関係論 ㉓トランプと教皇フランシスコ 

 売名だけが目的で選挙戦に出る人物はこの日本にもいる。目的がそれだから、間違って当選してしまうと当惑してしまう。そんな公職で人生の大事な時間を浪費するなどもっての外であった。

 トランプ・アメリカ大統領がそれだった。 アメリカの週刊誌『 タイム』が今月22日号を、この一年を総括する特集号としている。報道写真がまともな大統領たりえなかったトランプを雄弁につづっている。微笑んでいる写真もむろんあるが、と断りつつ、ヴァチカン訪問の写真は歯をむき出して微笑んでいるトランプの隣で、教皇フラシスコは苦虫を潰したような苦渋に満ちた表情をしてカメラに収まっている。

 教皇のお気持ちを忖度するとどうなるだろう。世界一の権力の座にある者への期待は大きい。その期待が半分でも報われたらと祈るばかりである。(2018年1月17日記)

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所長)

 三輪先生の国際関係論 ㉒清沢冽のこと 

 ドナルド・キーンに『日本人の戦争』という、日本人の文筆家が戦時中から終戦直後ぐらいまで記し続けていた日記を分析したものがある。数多の高名、ベテランの作家からまだ学生であった若手まで、永井荷風から山田風太郎までと幅は広い。その中で絶賛されているのは清沢冽であり、厳しく批判されているのは若輩の山田風太郎である。

 山田は医学生で徴兵を免れていた。ちょうどキーンと同年配で、キーンと同じ英米文学書を読んでいたことがわかる。文系、法系などの同僚学生たちが、ビルマ戦線で戦病死したり、特攻機に座乗してフィリピン、沖縄戦線で必死の使命に立ち向かっていた時に、理系の恩典で国土に安在しつつ、最後の一兵まで、必敗の対米戦を戦えと唱えたり、敗戦後は、戦勝国アメリカに向けて復讐戦を準備せよと唱えている、と言って最大の批判対象者になっている。

 人は読んだ書物の影響で人格、精神を形成していく筈なのに、山田をはじめ、伊藤整にしても、全くそんな痕跡がないことに驚嘆している。だまし討ちのように始まった大東亜戦争の正義を信じて疑わない様子に唖然としている。日本人のインテリの精神構造の奇怪さは、にわかには信じがたいほどである。その中で日米開戦決定の愚かさを真正面から書き立てた清沢冽と平和愛好家平林たい子が、例外中の例外として光っている。

 上智大学の国際関係研究所で私の同僚だった蝋山道雄教授が、清沢冽についてこんなことをおしえてくれたことがある。「三輪さんね、戦前の言論人で本物のリベラルは唯一清沢冽だけですよ」と話し始めた。そして対米英戦争が勃発してしまった昭和16年12月8日の朝、東京帝国大学で政治学の教鞭をとっておられた、道雄さんには父君にあたる蝋山政道さんのところへ、真珠湾奇襲攻撃の大戦果のニュースに舞い上がってしまった、大勢の友人、論客が大挙して押しかけてきて、玄関先を埋め尽くし、日本の前途を祝して大歓声で万歳万歳を叫んだ、というのだった。

 その時、清沢冽だけはその大歓声とは反対に、醒めた声で「蝋山君、これは大変なことになった。手に入る食品は何でも買いだめしておきたまえ。缶詰、瓶詰などなど」と電話して来たとの事だった。戦争に向けられる経済力が平時でも日本の10倍とされていたアメリカに最後の勝利があることは、アメリカ通の清沢冽には、明明白白であったのである。

 宰相近衛文麿にも意思の疎通が出来ていた清沢淸であり、『中央公論』などで親しい論客仲間でもあった蝋山政道教授は、清沢と同じ心境であったろう。日本軍により占領されたフィリピンの現状を視察調査した政道教授は、フィリピン人の家族文化は日本人の場合とは違っていて、その結果、大東亜共栄圏の建設を戦争目的として喧伝していた日本国家であったが、共栄圏の要の一国フィリピンに日本人が期待するような家族国家的国体の盟邦が生成するのは難しいだろう、としていた。

 清沢冽の戦中日記は戦後刊行されている。そしてそれを手にした知識人たちに深甚なる感銘を与えている。しかし残念なことに終戦真際に没しているので、さまざまなドラマがあった終戦前後の日本の国情についての清沢の省察を読むことはできない。マッカーサー総司令官の日本占領統治について、その功罪について清沢冽の鋭い語り口を聞けないのは、いかにも口惜しい。

(2017・12・27)(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所長)

 三輪先生の国際関係論㉑もう一つの特攻魂「新しき神話創造への殉死の今 」 

 前回の「諫死としての特攻と九回生きて帰還した特攻諫死としての特攻と九回生きて 帰還した特攻」に続けて・・。
私は旧制の松本高等学校を3学年までやって卒業できた旧制高校最後の卒業生の一人です。卒業は1950年3月のことでした。同窓会会報93号で「80周年記念祭特集」と銘打たれたものを見ていたら、姫路高校卒業生、鷲見昭彦氏の「特攻散華の友」と題する投稿が目に留まりました。

 敗戦真際の事、 ここにもう一人国の行く末を安じつつ特攻死した若者の姿がありました。昭和20(1945)年4月28日 、海軍神風特別攻撃隊第一正気隊の隊員として沖縄戦に散華した安達卓也という学徒兵の想いが「日誌」 からの抜書きで紹介されていました。

 「いかに特攻が続き出現しても、中核をなす政府が空虚であっては早晩亡国の運命が到来する であろう」、祖国の中核に「いかなる悲境にも泰然として揺るがず、身を鴻毛の軽きに比して潔癖な道義にのみ生きる大人物の出現」を信じ、自分はここに「爆発しその最後を飾り、一瞬の中に生を終えんとする」、そして「神国の新しき神話の世界創造の礎たらんとする」。
かくの如く、日誌に書き残していた学徒兵安達青年は、出撃に当り「後顧なし」 を最後の言葉とした。

 しかし、それからいく星霜、彼の想い描いた「神国の新しき神話の世界」はどうなったか、いやど うなろうとしているか。「戦争を放棄した平和国家」の「神話」はいまや潰えんばかりである。

 あの 敗戦の晩春特攻死した青年安達卓也は特攻死を平和立国への殉死と観念していたのだったが、歴史とはそのようなロマンとは無慈悲にも無縁であるのか。今我々は問われている。(2017・11・29 記)

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所長)

 三輪先生の国際関係論⑳諫死としての特攻死と九回生きて帰還した特攻兵士

 戦没学徒兵の遺書を集めた一書『きけわだつみの声』の突端を飾ったのは慶應義塾大学学生から応召した上原良司の遺書であった。

 「自分は自由主義者である」といい、「全体主義国家の日本は負ける。それは分っていても自分が死ななければ日本は変わらない」と観念して、特攻の使命達成に向けて飛び立った。「願わくば日本を偉大な国にして下さい」と日本国民に託して。

 あと3ヶ月余で日本が連合国に降伏して第二次日中戦争開始の1937年から数えれば8年の長きにわたった「一億一心火の玉だ」の 総力戦が終結するという、1945年の5月11日、沖縄戦の一閃光となって22歳の若き命をちらした。

 これは日本の負け戦だとわかっていても、「俺が死ななければ日本は変わらない」と覚悟した死であっ た。日本の国家、日本国民の運命を決める政策決定者等に向けた死による問いかけ、諫死であった。 それはあまたの特攻死のなかで、死の意味を明確にした一つの突出した事例であった。

 しかし死なずに敵の艦船撃沈、撃破の目的を達成した特攻兵士の事例もあった。死んで来いと命じられても、爆弾だけを敵艦船に投下して、見事目的を達成した、陸軍の第一回特攻隊のパイロットがいた。

 「死ななくてもいいと思います。死ぬまで何度でも行って、爆弾を命中させます」と言っていた 。その名を佐々木友次といい21歳であった。彼は終戦までに9回出撃し、目的を果たした上で、9回とも無事帰還した。此の異例な行動は賞賛されることは無く、かえって叱責された。「今度こそ死んで来い」と上官に叱責されるのであった。

 此の兵士は戦後を92歳まで生き、5回にわたり下記の著者のインタヴューに応じたが、呼吸不全のため2016年2月9日札幌の病院でその生涯を閉じた。そんな事もあったのだ、と吃驚する。鴻上尚史著『不死身の特攻兵―軍神は何故上官に反抗したか』(講談社現代新書 、2017)である。 (2017・11・20記)

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所長)